フェンスの向こうに |
3 告白 |
その夜,一本の電話があった。 母に呼ばれ,一階の廊下まで行って受話器を耳に当てると,そこから聞こえてきたのは思いも寄らぬ人の声だった。 「……夕日?」 低く,抑揚のないその声。 「篤志……!」 僕はびっくりした。彼から電話をもらうのは、これが初めてだったからだ。 お互い電話番号を交換し合ってはいたけれど,僕も彼の携帯に電話したことはなかったし,ましてや今時携帯も持ってない僕の、家の電話にまで彼がかけてくるなんて、これまで一度もなかったのだ。 「どうしたの,急に?」 僕が戸惑いながらそう聞くと,彼は一瞬口ごもり、そして低い声でぼそりと言った。 「今日……どうしてあんなこと、したんだ?」 口調がなんだか怒っていた。明かに不機嫌そうな声だ。僕は驚きと不安にすぐにはなにも思い当たらず,おずおずと問い返した。 「あんな……ことって?」 「電車で……帰るなんて、一人で勝手に言い出しやがって……」 ドクンと心臓が震えた。 そのことなのか。 ……そうか,彼はやっぱり怒ってるんだ。あの時,バイクで走り去る間際に僕に向けた鋭い瞳は、そういうものだったのだ。篤志は僕が彼の気づかいを無にし、あっさり逃げ出してしまったことに腹を立てている。 わかってはいたけれど、わざわざこうして電話までして直接つきつけられると,不安と心細さに胸が震えてしまう。僕は消え入りそうな声でつぶやいた。 「……ごめん」 だが篤志は容赦することはなかった。逆にいっそう苛立たしそうに言った。 「なんで謝る? おまえいったい、誰に対して謝ってるんだ?」 「誰にって……」 「俺は聞いてるんだ。いったいどういうつもりであんなことを言ったのか,おまえの気持ちを聞いてるだけだ。謝れなんて言ってない」 彼にしては珍しく口調が荒かった。声こそ荒げてはいないが,いつもよりもずっとずっと激しい話し方だ。それは怒鳴りつけられるよりも僕の心に強く響いて,僕をすっかりおじけづかせた。 僕は思わず返す言葉をなくし,そのまま黙り込んだ。篤志もまた、それっきり口を結んだ。 気まずい沈黙がその場を支配した。身を切り刻まれそうな痛くて辛い時間が過ぎる。ぴりぴりした緊張感が、互いの無言の上に圧力をかける。 押しつぶされそうな苦しさに絶えきれず,僕は今にも泣き出してしまうそうな情けない声でつぶやいた。 「ごめん……篤志」 謝るしか能の無い,愚かな僕。受話器の向こうで、大きくため息をつく音が聞こえた。きっと呆れてるんだろう。謝れなんて言ってないって言われたその瞬間から,同じ間違いを繰り返してるんだから。 だが彼はそれ以上責めることはなく,怒った声を抑えるようにして,そっけなく応えた。 「もういい」 そしてまたしばしの沈黙が訪れた。 どうにもいたたまれない無言の会話だった。重苦しい静寂が僕たちを包み込んだ。 僕はなにか言わなきゃいけないと焦ったけど、焦れば焦るほど頭は空回りするばかりで、ちっとも言葉なんて浮かんではこなかった。ましてや、言い訳も釈明もできるはずはない。自分自身ですら,どうしてあの時彼女に篤志のバイクの背をあっさりと明け渡してしまったのか,説明がつかないのだから。 長い沈黙の後、やがて彼があきらめたかのようにぽつりと言った。 「じゃあ、また明日な」 あっさりとした別れの挨拶だった。それでも、「また明日」という一言がわずかに希望を残している気がして,僕は震えながらも,おずおずと小さく返答した。 「……うん。じゃあね」 プツっと小さな音がして,ツーッツーッとすぐに冷たい電子音が響いた。 僕は受話器を戻し,そのまましばらくその場に立ち尽くしていた。やるせない痛みが全身を包みこむ。 激しい後悔が襲った。 僕はバカだ。 とんでもない大バカ野郎だ! せっかく初めてもらった彼からの電話を,こんな辛い思い出にしてしまうなんて。喜びにわきたつはずのところを、後悔と不安でいっぱいになってるなんて。 いったい僕は,なにをやってるんだ? 目頭がじわりと熱くなって、受話器を握ったままの手にぽとりと冷たい滴が落ちた。 僕はごしごしと手の甲で目をこすった。あまりに情けなくて、泣く事も許されない気がした。一滴逃れて流れ落ちた涙が唇を濡らす。それはこの上もなく苦い味がした。 翌日の電車に、篤志の姿はなかった。 また明日と言ったのに、彼は乗ってはこなかった。 だけどそれを責める気になんて毛頭ならない。責められるわけがない。だってなにもかも僕がいけないんだもの。僕がバカで弱虫の臆病者だから、彼を怒らせてしまったんだ。篤志はあんなに僕を気遣ってくれていたというのに、精一杯の優しさを見せてくれたのに、なにもかも無駄にしてしまった。僕のせいで……。 学校について、その日一日僕はぼんやりとすごしていた。放課後になって悟に誘われ、僕たちはマックでハンバーガーを食べていた。とは言っても、勢いよくぱくついてるのは悟だけだ。僕は半分ほど飲み残したアイスコーヒーの器を、ぼーっとしながら弄んでいた。 悟がいろいろと楽しそうに笑いながら話しかけてくれる。僕は唇に無理矢理笑みを浮かべ、ただ相槌を打つだけだった。 そのうち、ふと悟は真面目な顔になって、それまでとは違って抑えた声で話しかけてきた。 「なあ夕日? 聞いてもいい?」 「なに? なんだよ、改まって?」 僕が不思議な顔で問い返すと、彼は真正面からじっと僕をとらえて、真剣な口調で言った。 「あのさ、おまえ、好きな奴いるんだろ?」 「え?」 突然の問いに茫然としていると、彼はさらに言葉を続けた。 「その相手ってさ、この前映画館で会った奴なんだよな? あの時のカップルだろ?」 「……」 「でもって、違ってたら怒ってもいいぜ。――おまえの好きなやつって、もしかして男のほうか?」 僕はビックリして声も出なかった。 確かにいずれ彼には本当のことを話そうとは思ってはいたものの、こうも突然に、しかも彼の方から気づいて問いただされる羽目になろうとは考えてもいなかったのだ。 僕はしばし返す言葉をなくし、やがてゆっくりとうなづいた。 「うん」 「そうか、やっぱりな」 悟は僕が当惑するほどあっさりと納得した。いやな顔を見せるでもなく、平然としている。逆に僕の方が気後れして、おずおずと尋ねかけた。 「……悟、気持ち……悪いとか、思った?」 僕がそう聞くと、彼はちょっと困ったように頭をかき、しばらくの間悩んでみせた。そのうち、ふいに妙なことを聞き返してきた。 「あのさぁ……、おまえ、俺の初恋の相手って誰だか知ってるか?」 あまりにも唐突な質問に、僕は素直に首を横に振った。 「ううん、知らない」 「だよな。おまえ鈍いもん。……それって、おまえのことだぜ、夕日」 「えっ!」 僕はビックリして声をあげた。唐突な質問の答えは、それ以上に唐突で、思いもよらなかった内容であった。 一瞬なにかの冗談で、からかわれているのかとも思ったが、僕を見る悟の目は、そんなんじゃないことを語っていた。表情はいつも通りで態度もケロリとしていたけれど、瞳だけは真面目な色をしていたから。 「やっぱなーんにも気づいてなかったんだよな。まあ、そうだろうなあとは思ってたけど」 呆然として言葉もない僕に、彼はそんな風に言ってため息とも笑いともつかぬ吐息をついた。飲み終わって空っぽになった空のコップを弄びながら、彼は話した。 「おばさんの入院でおまえが初めて俺のうちに泊まりに来た時からさ、……あれ、七歳の時だったっけ? あの頃から、俺たちずーっと仲良かったよな。兄弟みたいだって言われて、休みのたびにお互いのうちに行ったり来たりして、実際毎日顔あわせてるわけじゃないのに、俺たちすごくお互いが身近だった。他のどんな友達よりも大好きだった。おまえだって、そうだったろ?」 悟はいったん言葉をとぎって、同意を求めるように僕をちらりとうかがい見た。 「でもよ、中学くらいの頃、俺、結構真剣におまえのこと好きだったんだ。その……友達っていう範囲を越えてさ……。家に二人きりでいる時なんか、押し倒そうかなーなんて考えた事もあったんだぜ。ま、さすがにそこまでの勇気もなかったんだけどさ。なんたって親戚関係って奴だろ? 下手なことして気まずくなったら、あとが大変だもんなぁ。おふくろの怒り狂う顔を考えたらやる気も失せるってもんだぜ」 悟は冗談めかしてハハッと軽い笑い声をあげた。だが、さすがに僕は一緒になって笑う余裕もなく、呆然として顔を強張らせていると、悟は慌ててフォローするように付け足した。 「あ、今はもう友達感覚に戻っちまってるから、変な心配するなよな。おまえのことヤバイ目で見てるわけじゃないんだから。ほら、なんつーの? 青春の一過性の擬似恋愛感情ってやつ? いや、真剣じゃなかったわけじゃあないんだよな。あの時はそれなりにマジで……うーん、だからつまりー、今はそんなものも全部ひっくるめておまえが大切って感じなんだ。友達以上で恋人以上なんだ。わかるか?」 必死になって説明する悟を、僕は黙って見つめていた。 彼の言う通り、僕たちは本当に仲が良かった。兄弟だってこうはあるまい、親友なんて言葉でつなぐのすら物足りないと感じるほど、いつだって心がつながっている感じだった。だけど、それは恋ではなくて、僕が篤志に感じてるような熱くてせつない想いではなくて、もっと別の優しい綿菓子みたいな感情だったんだ。だから、突然の彼の告白に、僕は驚き戸惑うしかなかった。 それでも、少しづつ最初の困惑がおさまってくると、いろいろな思いが湧きあがってきた。 悟がそんな目で僕を見ていたこと……僕は全然気づいてやれなかった。彼のことだから、きっと細心の注意を払って気づかせないようこらえていたのだとは思うけれど、それでもいったいどんな気持ちで僕と接していたのか、僕が今篤志に対していだく燃えあがるような熱い感情を、悟はどれだけの優しさとせつなさで耐えていたのだろう、そんなことを考えたら、胸が苦しくなるばかりだった。 申し訳なかったと思う。だけど同時に、そんな同情は彼にとってなんの慰めにも安らぎにもならなかっただろうとも思った。 僕は彼が好きだ。昔から、そして今もずっと、大切な大切な存在だと思ってる。だけど……愛してるんじゃない。それはいつの時も同じ感情だった。僕は彼に対して、友達以上の思いを抱いたことはなかった。だからたとえ打ち明けられていたとしても、それに応えることはきっとできなかっただろう。 悟も、それはわかっていたはず。だからこそ、今までなにも言わなかったのだ。苦しく思い悩んでいた時も、それが時間の流れの中で優しい感情にすりかわっていった時も、彼は黙っていてくれたのだ、僕のために。 そんな彼が、どうして今になってわざわざ言葉に出したのか。それを考え、頭の中で答えが出た時、僕は再び彼の優しさを、どれだけ僕を大事に思ってくれているのかを感じずにはいられなかった。 彼は僕の苦しみを気づかってくれたのだ。同性を愛し、その中で普通ならば抱かずにすんだかもしれない様々な苦しみを、そしてそれを誰にも告白できない辛さを、理解して受けとめようとしてくれた。 悟はこう言ってくれてるのだ。独りで思い悩むことはない、苦しかったらいつでも相談にのるぞ、話してみろよと。 僕はしばらく無言のまま自分の組んだ手を見つめていたが、やがてぽつりと言った。 「……森川篤志っていうんだ、彼……」 悟はなんでもないことのように相槌を打った。 「ふうん。高校生?」 「うん。京成高校の二年だって」 「京成かぁ。ま、俺たちの学校と似たようなレベルってところだな。特に頭はいい訳じゃない、と」 悟が軽口をたたく。僕は小さく笑った。 少し気持ちがほぐれたのを察してか、彼はもう一歩踏みこんだ質問をしてきた。 「で、あの男と上手くいってるわけ?」 「今……つきあってる……。けど……」 「けど?」 まっすぐに見つめてくる悟を控えめに見返しながら、僕は言った。 「彼、別に彼女がいるんだ」 すぐに悟が、怒ったような声で問い返してきた。 「なんだよ、二股かけてんか、そいつ?」 「そうじゃないんだ。そういう二股って言うんじゃなくって、その……ぼ、僕のほうが、あとから割りこんだんだし」 「だけど女がいるのにおまえともつきあってるんだろ? そういうの二股って言うんじゃないのか?」 憮然とする悟に、僕は一から説明した。さすがに体の関係のことははしょったけれど、彼とどんな風につきあって何を苦しんだか、互いの誤解を解きあってもう一度最初から始めたいきさつ、彼がバイクのレーサーだってこと、理香さんとの関係、この間の一件のことなどを隠すことなく話して聞かせた。 僕の話がすべて終わったところで、悟は少しの間なにかを考え込んでいたが、やがてしっかりとした口調で言った。 「やっぱりさ、それって不自然だと俺は思うぜ」 悟は真剣な口調で真剣に考えて話してくれた。 「おまえがその女の子に遠慮する気持ちってのはわからないでもないし、その男が先輩や仲間の手前、つい曖昧な態度をとっちまうって状況もわかるけど……でもやっぱり、そんなの変だ。正しくないよ。お互いに好きなのなら、形だけだって三角関係してて気持ちいいわけがない。はっきりさせるべきだと思うぜ」 僕は黙ってうつむいた。 その通りかもしれない。だけど、はっきりさせた答えの中に僕が存在しなかったら、僕はどうしたらいいんだろう? そして僕は、なにもかも押しのけてそこに居残ろうとできるほど、すべてのことに対して自信がもてなかった。 無言でテーブルをにらみ続けている僕に、悟は小さくため息をついて、すぐに慰めるよう明るく言った。 「でもまあ、とりあえずはおまえたち両思いってやつなんだろ? ならあまり余計なこと考えないで楽しくつきあってればさ、また状況は変わるかもしれないぜ。勝手に独りで思い悩まない方がいいかもな」 それはなんの根拠もない脳天気な慰めだったけれど、その時の僕を心からホッとさせてくれた。 僕はトレイを持ってゴミ箱に向かう悟を見ながら、本当に彼の友達で良かったと思ったのだった。 火曜日の朝が来た。火曜と金曜――それは僕と篤志が二人きりで会える日。 だけどこの間のこともあって、僕はその日あまり期待しないで電車に乗った。もしかしたら、朝のひとときですら、またすっぽかされてるかもしれないな、などと思いつつ。 だがそんな僕の気弱な危惧はまったくの無駄なものであった。僕が乗ったいつもの時間の電車には、いつもの場所にちゃんと篤志が待っていてくれたから。無表情で無愛想だけれど優しくて、やっぱりどうしようもなく愛してる大切な人が。 「……おはよ」 僕が小さく挨拶をつぶやくと、篤志はちょっとてれたみたいに返事を返した。 「おはよう」 それからしばらくの沈黙がある。やがて電車の騒音を逃れるように、篤志が僕の耳元に口を寄せてぼそりと言った。 「昨日、ごめん。寝坊した……」 僕はちらりと彼を見た。相変わらずクールにそっぽを向いてるけれど、なんとなく僕の反応をうかがってるような感じがした。僕は微笑んで話しかけた。 「学校、遅刻しなかった?」 「一時限目はあきらめて、ニ時限目から出た」 僕が呆れた顔でくすりと笑うと、篤志は遠慮がちに僕を見、そして僕が怒ってないのを知ったからか、それとも心がほぐれたのを見て安心したのか、少しホッとしたような表情を浮かべた。もしかしたら彼なりに気にしていたのかもしれない。あんな出来事、あんな電話の後だっただけになおのこと。 僕は僕で、意識的に避けられていたわけじゃなかったのだと知って、心からホッとしていた。 寝坊で破られた約束なら、そんなものどうってことはなくつぐなえる。彼を変わらずに信じていられる。だけど、「また……」と口にして彼がそれを承知しながら破ったのならば、僕は何を信じればよいのかわからなくなってしまうから。 そしてまた少しの間僕たちは黙り込んだ。やがてもう二つ先の駅で僕の降りる所に着くといった頃、彼がぼそぼそと低く喋った。 「俺、今日バイトに振り替えた。……練習走行の都合で」 突然の言葉に、僕は驚いて彼を見た。だけど文句ひとつ口にすることもできず、すぐにまたうつむいた。仕方のないことだって思うし、言い返せるほどの強いなにかが僕にあるわけではない。バイクの世界が彼にとってなによりも大事だってことは承知してる。そして、そんな世界から僕のワガママで彼を引きずり出せるほど、僕は自分に自信がないのだ。 誰かに甘えるってのは、それがその人に受け入れてもらえるっていう自信がなければできないことだ。さもなきゃ、拒まれても跳ね返すぐらいの強い意志。だけどその両方を僕は持ってない。僕はなんでもすぐにあきらめてしまう。 (こんな時、あの子なら甘えた声でワガママを押しとおすのかな? そんなのやだ、会いたいって……素直に言えるんだろうか?) ふとそんなことを思って、僕はなおさら自己嫌悪に陥った。 他の誰かが問題なわけじゃない。理香さんと篤志の関係がどんなものだって、それは僕が羨むようなものじゃない。これは、僕と篤志の問題なのに……。 僕は密かにひとつ深呼吸して、できるだけ普通の声で応えた。 「じゃ今日は会えないんだね……。うん、わかった」 唇に無理矢理笑みをつくって笑いかけた。篤志はなんだか困ったような眼差しで僕を見ていたが、少しためらったあとで、ふいに尋ねてきた。 「夕日,おまえ独りであのマンションに行けるか?」 「え? ……そりゃ,行けるとは思うけど……なんで?」 「おまえ、行って待ってろよ。遅くなるけど必ず行くから」 突然の彼の言葉に、僕は驚いて声もなく凝視した。こんな要求は初めてだ。僕たちはこれまで、わりとお互いあっさりと相手の欲求を受け入れてつきあってきた。会えない時には、それ以上無理を通すようなことはしないであきらめたし、彼だって自分の気持ちを強く押してくるようなことはなかった。 でもこの時の彼は、有無を言わせぬ強引さのようなものを感じさせた。 「でも……」 僕がためらいつつつぶやくと、篤志はキツイ瞳でにらみつけるように見つめた。 「いいから待ってろ。ほら」 そう言って僕に鍵を手渡す。それはあのマンションの鍵だった。 どう応えてよいのかわからず黙って受け取ると、篤志が少し満足そうにうなづき、ツンと僕の肩をこづいた。 「ほら、もう駅着くぞ」 その言葉通り、いつのまにか電車は僕が降りる駅に到着するところで、僕は慌てて扉へと向かった。 ほどなく到着し、シュンと音がしてドアが開く。僕はぴょんと飛び降りて、すぐに振りかえって篤志を見た。だけど別の人波が車内で動いて、彼を僕の視界から覆い隠した。 僕は手の中にたった今受け取った鍵をしっかりとにぎりしめながら、見えない篤志の姿を追って、電車が再び走り出して行ってしまうまで、じっとその場で見送っていたのだった。 部屋の時計が、もうすぐ9時になろうとしていた。 僕はその夜何度目かのため息をついてそれを見上げ、またテレビへと目をやった。なにかのバラエティ番組がやっていたけど、内容なんかあまり頭に入ってはこなかった。その時の僕はただもう、篤志がいつ来るのかってことだけでいっぱいだったから。 半ば強引に鍵を手渡され、僕は素直に従がってここにやってきた。だけど、独りでここに来て独りで彼を待ってるなんて初めてのことで、なんだかいつもと勝手が違う。なんとなく落ちつかなくて、ドキドキソワソワするみたいで、嬉しいのだか心細いのだかわからないような、それは不思議な気持ちだった。 もう一度時計を見る。さっきからいったい何度この行為を繰り返しただろう。 篤志が約束をすっぽかすようなことは絶対ないとは思うけど、いつ帰ってくるのかはまるで見当がつかなかった。遅くなると彼は言っていたが、それってどのくらいの時間のことを言ってるんだろうか。 ここに来る前に、僕は一応家に電話をし、悟にも口裏を合わせてもらって遅くなる旨は伝えておいた。だけどそれだって限度がある。それに、ひとりでこんな風に待っている時間はとても長くて、まるで永遠みたいに感じられた。 ため息ばかりが唇をついて出る。テレビがまた新しい番組に変わり、面白くもないドラマを報じはじめた。リモコンを手にし、退屈を持て余すようにパチパチとチャンネルを変えていたその時、玄関からピンポンと高いチャイムの音がして、僕はビックリして飛びあがった。 篤志……だろうか。 もともとのここの住人であるというお兄さんは、1年以上前から海外に行ってるそうだから、そっち関係の人がたずねて来ることはまずあるまい。なにかのセールスが来るにしては遅すぎる時間だ。僕は少しビクビクしながら、玄関まで行ってドア越しに恐る恐る声をかけた。 「はい?」 すぐに低い声が帰って来た。 「夕日? 俺」 「篤志? あ、待って。今開ける」 僕は慌てて鍵を外してドアを開けた。そこには待ちわびた人の姿があった。 篤志は脇にメットを抱え、いつもの皮ジャン姿をしていた。ライダー用の長いブーツを脱ぎながら、抑揚のない声で話しかけてきた。 「悪い、遅くなって」 ぶっきらぼうな謝罪の言葉。だけどその一言で,それまでの不安や心細さがすべて吹っ飛んでいく。僕は首を横に振り、そして慌てて言うべき言葉を返した。 「ううん、……あの、……おかえり」 口にして、妙に照れくささがわきあがる。ぽっと頬が熱くなった。 篤志は僕を見て、微かに口元に笑みを浮かべて応えてくれた。 「ただいま」 なんだか妙な気持ちだった。ずっとずっと待ちわびてて、早く会いたくてたまらなかったのに、いざ目の前にすると恥ずかしいような照れくさいような、いつもと違った雰囲気があった。僕はそんな心情を押し隠すように、彼に話しかけた。 「篤志……夕食は? まだなの?」 「ああ、俺はバイト先で食った。おまえは?」 「あ、僕もさっきお腹すいてお握り食べちゃった。一応篤志の分も買っておいたんだけど……」 篤志はテーブルの上にあるコンビニの袋を見て、フッと小さく笑った。 「じゃ、それ朝飯にする」 「うん」 僕がうなづくと、篤志は待ちきれないと言うように僕の背中に手を回して、ぐいと体を引き寄せた。たった今外を走ってきた冷たい指で、優しく僕の顎を持ち上げ、そして指と同じくらいに冷たくなっている唇をそっと押し当ててきた。 ヒヤリと一瞬冷たい感触があり、だがすぐに熱を持って熱くなる。柔らかでふわりとしたそれはゆっくりとうごめき、そして甘く濡れた舌が押しいってきた。 僕もまた彼の背に手を回し、その抱擁に応えた。 とろけるような長いキス。 そう……初めての僕たちの関係も、思いもがけぬほど優しいキスで始まったのだ。 それは僕のすべてを溶かす。不安も心配も、胸の中に残るわだかまりも、なにもかもが消えていく。手や指や、体が、髪の毛の一本までもが、身の内でトロトロになって形を失う。時が止まったように感じられ、だけど自分の心臓の音だけがトクトクと時を刻むのが聞こえてきた。 篤志の手が僕の髪をかきあげ、唇が頬を這い、むきだしになった耳をゆっくりとなぞっていった。耳たぶをついぱむように甘噛みされ、体がピクンと震えた。 我知らず吐息が漏れる。鼓動はさっきから高鳴りっぱなしだ。半開きの唇がジーンとしびれたようになって、閉じた瞳の裏がしっとりと潤っていくのを感じた。 (篤志……) 僕の耳元で、柔らかに唇が触れたまま声がした。 「シャンプーの匂いがする……」 ちょっと笑ってるみたいにささやく声。僕は真っ赤になって慌てて言い訳した。 「あ、さっきシャワー借りたんだ。汗……かいてたから」 説明しながら、なんだかそれってそういう意味で彼を待ちわびてたって言ってるみたい聞こえて、僕はいっそう赤くなった。まるで、やりたくてやりたくて待ちきれなかったみたいじゃないか。 だけど篤志は変に受け取ることもなく、しばらく香りを楽しむように僕の髪に顔をうずめ、やがてぽつりと言った。 「俺も浴びてくる。向こうで待ってて」 (向こうって……やっぱ、寝室のこと、かな?) 僕がひとりで赤面してる中、彼はバスルームへと歩いていった。 僕はしばらくその場に立って、何度か深呼吸した。なんだかいつもと違って、胸がドキドキしていた。 言われた通り寝室のベッドの上で、どうにもソワソワしながら座っていると、ほどなくして彼が戻ってきた。長い髪を濡らし、それをタオルで拭きながらなにげなくやってきた体は素っ裸。まあ、シャワー浴びたあとだから当然かもしれないけど……。 僕が思わずその引き締まった体に魅入っていると、彼が不思議そうに言った。 「なに?」 僕は無言のまま、ぶんぶんと首を振った。耳たぶまで熱くなる。篤志はそんな僕の隣に腰をおろすと、ちょっとからかうみたいに言った。 「裸になって待っててくれてるのかと思ったぜ」 僕は思わず言い返した。 「だ、だって……!」 赤かった顔がいっそう紅に染まる。篤志は悪戯っぽく口元に笑みを浮かべて、さらに追い討ちをかけるように言った。 「たまには、おまえのほうから誘ってくれてもいいと思うけど?」 「そんな……」 返す言葉もなくうつむき、やがて蚊の鳴くような声で応えた。 「……ごめん。今度……そうする」 そう言った途端、ぷっと篤志が吹きだし、さもおかしそうに声をあげて笑った。 こんな風に笑う篤志なんて珍しい。ひとしきり笑ったあと、まだくすくすと含み笑いを漏らしながら、手を伸ばして僕の髪をぐしゃぐしゃと乱した。 「おまえって、ほんと素直。上にバカがつくぐらいだ」 僕はちょっと唇を尖らせてすねてみせた。 「どうせ……バカだよ」 それを聞いて、また彼はくすくすと笑う。そして、やがて僕の肩に手を回して、力強く抱きしめた。そのまま背中を支え、ゆっくりとベッドへと横たえると、柔らかく覆い被さってきた。 深いキスをし、そして僕の制服のシャツのボタンを順番に外していく。すぐに僕の胸がさらけ出されて、そこに彼の長い髪から滴った水滴がぽつんとこぼれ落ちた。ひやっと冷たい感触に一瞬背筋が震える。ぴくりとうごめいた僕を見つめながら、篤志は一枚一枚僕の体から衣服を取り去って、まっさらなものにしていく。二人の間にあるものを、なにもかも取り払うみたいに。 そして僕たちは裸になって抱き合った。 互いの背に手を回し、強く強く、精一杯の想いを込めて抱きしめる。篤志の手が、高ぶる感情を抑えきれぬように僕の髪を荒々しくまさぐった。 「夕日……」 彼が僕の名前をつぶやいた。それってすごく珍しい。いつもなら、狂ったように名前を叫ぶのは僕のほうだというのに。 僕はそれに応えるように、自分から彼の唇を探り、探し当ててくちづけた。すぐに舌が熱く激しく絡み合う。すでに荒くなった息が、出口を求めて胸の中で騒いだ。 今夜の篤志はいつになく早急に僕を求めた。ハアハアと荒く呼吸する僕の体の上をずり下がって、全身にキスの雨を降らす。大きな広い手が体中をまさぐり、熱っぽく胸に頬をすりよせた。 頬が乳首の上を何度もこすってうごめく。ときおり柔らかな唇が焦らすように触れ、ついばんでは離れていった。その度に、僕は全身がビクンビクンと痙攣した。 「あ……、んんっ、あ……」 たまらず声が漏れた。今更それを隠すのもなんだけど、やっぱり自分の敏感過ぎる肉体が恥ずかしい。特に女の子みたいに胸に反応して悶える姿を見られるのは、どうしようもなく苦しかった。 だけどそんな僕の心を裏切って、体は悔しいほど素直に快楽を受け入れる。乳首はすぐに固く尖って、いっそう敏感にさらなる快感を求めた。 篤志は口に含んで、舌先でそれをつんつんとくすぐった。そしてもう一方は指で優しくつまみ、揉むように愛撫してくる。僕は大きくのけぞった。 「はぁっ、いやっ!」 両方の胸から体の中心に向かって、電気みたいに快感が走りぬけた。全身が一瞬にして熱く燃える。下半身がしびれ、あそこが固くなるのがわかった。 篤志の胸の下で、催促するように彼の体を押しかえす。当然篤志にもそれはわかっているだろうに、彼はそちらには見向きもせず、ひたすら胸への愛撫を続けた。 僕は力の入らぬ手で彼の頭をとらえ、必死になって嘆願した。 「い、いやっ、篤志、やだ。そこいや……やめて」 だけど彼はその願いをあっさりと無視した。まるで残酷に弄ぶみたいに、しつこく胸を攻め続ける。強く吸われたり軽く甘噛みされたり、時には強く歯をあてられて、ツンと鋭い痛みが駆け抜けた。 「あっ、くぅっ……!」 噛み締めた歯の奥から、くぐもった悲鳴が漏れた。同時に、じわっと目頭が熱くなって、いっぱいに涙が溢れた。耐えきれぬ快感が襲ってきて、しゃくりあげるみたいに僕は喘いだ。 「うあ、くっ、ひっく……あ、やぁ……んぁ」 いつもならある程度で解放してくれる篤志が、今日は違っていた。僕がせつなく乱れるのを見て、いっそう執拗に舐めしゃぶる。両方を交互に、そして空いているほうには、休む間も与えないみたいに必ず指が攻める。僕は頭の中が真っ白になるほど感じて、乱れまくった。 「あっあっ! いや! うああ、あうっ……やだぁ、やめ……て、篤志……、ひっく、んふっ、ひっく……う、うう」 ほとんど泣きじゃくるように僕は声をあげた。いや、本当に泣いていたのかもしれない。涙があとからあとからポロポロとこぼれ落ちて、頬をつたい髪を濡らした。満足に息もできぬほど、嗚咽が胸のうちから湧き上がってくる。それは快感というより、苦痛に近い感覚だった。 どれだけそこに弱くて、どれだけ感じまくっても、胸を攻められただけでは決してイクことはない。ただどうにもならない快感が溜まっていくだけ。このまま攻められ続けたら本当にどうにかなってしまいそうで、恐ろしくすらあった。 あまりの激しさに半分力が抜け、呆けたみたいに泣いている僕を、ようやく篤志は許してくれた。汗と涙でぐちゃぐちゃに乱れた僕の顔を、いつになく燃えるような瞳をして食い入るように見つめている。ペッタリと額に張りついた髪をそっとかきあげ、顔を寄せ、また強く抱きしめた。 耳元にせつなそうにささやく声が響いた。 「夕日……好きだ」 僕は荒い息の下でそれを聞いた。 「篤志……」 篤志は何度も何度も僕にキスをし、まるで食べ尽くそうとするがごとく唇をついばんだ。逃げることを許さないとでも言うように、両手でガッチリと僕の頭を挟んで押さえつけている。唇だけではなく、顔中に激しい愛撫を受けて、僕は朦朧と意識が浮遊するのを感じた。 今夜の篤志は少し変だ。いつもと違う。なんだかおかしい。だって、篤志の全身から僕は感じる。僕を愛していると、誰よりも愛しいと、叫んでいるみたいに思えてしまう。僕が彼を愛しているのと同じくらい,いや、もっともっと、ずっと激しく! 「篤志、篤志……」 僕はぐったりした腕を必死に伸ばして、彼の体を抱きしめた。彼の告白を、この身で受けとめたかった。 ふいに腕がふりはらわれ、篤志は僕の両足を持ち上げると、ぐっと高く上に押しあげた。そして何かと思う間もなく、彼が押し入ってこようとした。 あまりにも突然な行為に、僕は無意識に全身を固くした。後ろにも思わず力が入って、拒絶するように彼を押し返す。だが篤志は逆に、怒ったように強引に挿入してきた。 「くぅっ!」 僕は思わず悲鳴をあげた。普段は必ず篤志が何らかの方法で優しくもみほぐしてくれていたから、最近では痛みなんて感じることはほとんどなかった。だけど今日はさすがに痛くて、苦痛に顔がゆがんでしまう。 それでも僕は必死に耐えた。篤志が激しく僕を求めているのがわかったから。 顔をしかめて唇を噛みしめる僕を見て、篤志は一瞬ためらうように身動きを止めたが、僕が誘うように彼の二の腕をぎゅっとつかむと、再び深く奥へ奥へと押し入ってきた。 「あああっ!」 悲鳴のような叫びが漏れる。痛みを感じつつも同時にものすごい快感が襲ってきて、全身が跳ねあがるみたいにそりかえった。 篤志は容赦なく攻めてきた。彼自身もその快楽の虜になったかのように、僕の乱れる様を見守る余裕すらなく、ただもうずんずんと激しくつきまくってくる。その荒々しさに、僕はあっという間に絶頂に引き上げられて、あっけなく暴発した。 「い……やっ!」 悲鳴は声にならず、喉の奥に張りついて呼吸を止めた。白い閃光が頭の中に爆発する。一瞬確かに意識が途切れ、世界のなにもかもが遠くかすんでいくのを感じた。 だが、それはすぐに更なる激しい攻撃によって引き戻された。 イッたばかりの僕の体に、篤志が関係なく攻め続けていた。いまだ余韻が強く残って朦朧としている肉体を、強すぎる快感が容赦なく襲いくる。それは最後まで行き着いたはずの記憶をぐちゃぐちゃに混乱させ、再びその間際にいるような錯覚を起こさせた。 萎えたものがすぐにまた固くなる。だけどそれは無理矢理引きずり出された快感だ。僕は壮絶なまでに全身を包み込むその感覚が恐ろしくて、悲鳴をあげた。 「いやぁ、篤志! やめて! もういや! やだぁぁ!」 その声は彼に届いていたのか……僕にはわからない。 篤志はそんな叫びに応えることなく、激しく律動した。胸の下でのたうちまわる僕を食い入るように見つめながら、絶え間ない動きでつきまくる。まるで大声をあげている僕などその瞳にうつっていないみたいに。 一瞬、またくるって感じた直後に、体の中に篤志の熱いものが解き放たれたのを感じた。と同時に、僕にも再び絶頂がやってきた。それは今度こそ確実に、僕を世界から切り離した。 篤志が強く抱きしめるのを感じながら、意識が遠く消えていった。 ≪続く≫ |