フェンスの向こうに

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2 交錯の時                       
 
  そこは、『オートショップ・Lightning』という名前のバイクショップの裏側にある、かなり広いガレージだった。
 僕が篤志に連れられてそこに着いた時には、もうすでに何人かの人たちが集まっていて、バイクを囲んでいろいろと作業をしている真っ最中であった。
 中の一人が、篤志に気づいて顔を上げ、声をかけた。
「よお、遅かったな、篤志」
 篤志は申し訳なさそうに小さく会釈をして挨拶を返した。
「すみません。ちょっと道が混んじゃって」
 そんなやり取りに、その場にいた全員が手を止めてこちらを見る。皆、僕たちよりもずっと大人の男の人たちばっかりだった。全員が油まみれの作業着を着て、手も顔も黒く汚しながら仕事をしていた。
 篤志に向けられた彼らの視線は、当然のごとく、すぐに彼のうしろにいた見慣れぬ客である僕に集まった。しかし、その瞳に警戒心や悪意といったものは感じられなく、ひとりが興味津々といった様子で尋ねてきた。
「おい、そのうしろの可愛いのは誰だ? 友達か?」
 篤志はちらりと僕を見ると、平然とした態度で紹介した。
「ああ、そうです。セッティングするところが見たいって言うもんで」
「ふうん、珍しいな、おまえが友達連れてくるなんてよ」
 僕は慌ててペコリと頭を下げて挨拶した。
「あ、あの、僕、相原夕日といいます。すみません、突然お邪魔してしまって」
 バイクの横で寝転がって作業をしていた男の人が、にこやかに笑って応えてくれた。
「ああ、別にかまわんぜ。適当にその辺に座って見てなよ……って、ごちゃごちゃしてて座るところもないか。しまった、こんな美人が来るなら、ちゃんと掃除しておくべきだったぜ」
 その人は緊張している僕の心を解きほぐしてくれるかのように、気さくに冗談を言って皆を笑わせる。僕は初めて出会う人たちのそんな優しさに触れ、ちょっぴり肩の力が抜けた気がした。
 篤志は僕の背をそっと手で押しやると、古いタイヤが積まれた壁ぎわの一箇所に連れていき、タイヤの上に腰を下ろせるような場所を作って促した。
「ここに座ってろよ」
 僕は小さく笑顔を返した。
「うん、ありがと」
「オイルの匂いとか、気持ち悪くなったら外に出てろよな。慣れないと酔って、むかついたりすることがあるから」
「うん、わかった」
 僕は素直にうなずいた。こういう時の篤志って、すごく優しくて安心するんだ。いつもはそっけなくて無愛想だけど、こっちが不安に思ってることとかを驚くほど敏感に察知して、細かく気を配ってくれる。それって天性の優しさなんだろうな。
 だけどいつもがいつもだから、やっぱりそんな姿は目を引くらしくて、髭を生やした男の人がイタズラっぽくニヤニヤと笑いながら言った。
「なんだ、篤志。やけに優しいじゃないか。そんなおまえ初めて見たぜ」
「なに言ってんです、勝田さん。からかわないでください」
 篤志は少し頬を赤らめながら言い返した。勝田という人は、いっそう面白そうに言葉を続けた。 
「いやあ、マジでさ、今の態度を理香ちゃんが見たら、きっと焼きもちやくぜぇ。理香ちゃん、おまえはいっつもそっけないってこぼしてたからなぁ」
 僕はドキンと胸が鳴った。
 ひとつの名前がなにげなくその場に現れたことに、驚き、また戸惑いを感じてしまう。その名があまりにも自然にその人の口からこぼれたという事実が、それが特別なことではなく、いつもいつもこの場この人達に、そして篤志にとって、日常のように慣れ親しんだものなのだと言うことが察せられて、痛みを感じずにはいられなかった。
 篤志もまた気まずさを感じたのか、話題をそらすように言った。
「もういいですって。それより、俺、なにしたらいいですか?」
「ああ、じゃ、そっちのマシンのキャブレター掃除してくれよ」
 篤志は素直に従い、彼らが囲んでいるのとは別の、もう一台のバイクの前に座って仕事を始めた。一度始めてしまったら、あとはもう僕のことなんか忘れたみたいに、真剣な顔で黙々と作業に励んでいた。
 篤志はもうすぐ大きなレースを控えているから、結構作業も切羽詰ってるのだと言ってたけれど、そのわりにはガレージでの作業と言うことで、それほど緊迫感と言うものは感じられなかった。なんとなくのんびりした空気が漂っている。だけど、お喋りしながら和気あいあいって感じでもなく、皆が真剣で、口数は少なかった。必要最小限の言葉を交し合うだけで、あとは各々の持分をそれぞれがひたすらにこなしている。もちろん篤志も一言も喋らずにやっていた。
 そんな中では、とてもじゃないけれど篤志とお喋りするわけにもいかず、僕はじっと黙って彼らのすることを眺めていた。
 時々広いガレージの中を見わたしてみる。そこには普段目にしたことのない珍しいものが、いっぱいに溢れていた。
 壁ぎわには、今僕が椅子代わりにしているようなタイヤがたくさん積まれていて、壁にもいろいろな道具がぶらさがっていた。レンチやスパナぐらいなら僕にもわかるけれど、いったいなんに使うんだろう、なんて工具も山ほどあった。
 幾種類もの鉄のワイヤーや、ひょろりと曲がりくねった不思議な形のパイプ。オートバイの外側についてるプラスチックのカバーだけとか、小さい部品の詰まった箱やら棚やら、とにかく辺りは物だらけで、座るところもないという先ほどの人の言葉はあながち大袈裟ではなかった。
 そしてガレージの中には不思議な匂いが充満していた。オイルの匂いって篤志は言ってたけど、それだけじゃない。他にもいろんなものが混ざり合っている。オイルやらシンナーやら、それに僕の知らない何かやら。確かにそれは強烈で、慣れないと頭が痛くなりそうだったけど、不思議と僕にとってはそれほど不快ではなかった。それは時折篤志の髪や体から匂っていたのと同じ匂いなんだって気づいたのは、しばらくたってからのことだった。
 篤志は僕の目の前で、手を真っ黒にオイルで汚しながら、キャブレターといわれた部分らしきところを掃除していた。きりっとした綺麗な横顔だ。でもその瞳はいつになくキラキラしていて、まるで大好きなおもちゃで遊んでる子供みたいに楽しそうだった。
 きっとほっておいたら何時間でもバイクの前から離れないんだろうな、なんて考えながら、僕はずっと彼を見つめていた。ときおり長い髪がしだれ落ちて、頬や額にかかる。篤志はその度に、邪魔そうにそれを手の甲でかきあげた。
 何度か繰り返しているうちに、手についた汚れが額や頬の端にくっついて、端正な顔を汚した。まるで泥んこ遊びの末に真っ黒になってしまったわんぱく坊主みたいだ。僕が心の中で密かにくすくす笑っていると、ふいに篤志が顔を上げ、こっちを向いた。
「夕日」
 急に呼びかけられ、僕はビックリして返事をかえした。
「な、なに?」
 動揺している僕とは対照的に、篤志は平然とした口調で言った。
「俺のジーンズの尻ポケットにゴムが入ってるからさ、ちょっと髪結んで」
「え? 髪を?」
「ああ。邪魔でやってられん」
 僕はぴょんとタイヤの椅子から飛び降りると、ガレージの床に座ってる篤志のところまで行って、彼が顎で指し示した後ろの右側のポケットを探った。くすぐったそうな彼を見ながら、ごそごそとまさぐっていると、中から二本ほどゴムが出てきた。だけどそれは髪止め用なんかではない、普通の輪ゴムだった。
 僕は思わずいぶかしげにそれを見ながら尋ねた。
「これ? これってただの輪ゴムだよ?」
「ああ」
「これで縛るの?」
「いいだろ、別に?」
 ちょっと不服そうに口を尖らせる。僕はしかたなく、言われたままに彼の髪を手に取り、ひとつにまとめて縛ってあげた。女の子じゃないんだし、髪を縛るのなんて初めてだ。しかも人の髪と言うことで、なんだか勝手がわからず、出来上がりはひどいものだった。彼の柔らかで綺麗な髪がボサボサにひきつれてる。だけど、とうの篤志はすごく満足げに、口の端に小さく笑みを浮かべて礼を言った。
「サンキュー」
 その優しい瞳につられて、僕も思わずニッコリと微笑み返した。
 ふと気づくと、何故だか皆が手を止め、じっとこちらを見つめていた。不思議そうな彼らの視線の中、僕は耳まで赤くなってうつむいた。篤志もちょっと照れくさそうに、怒ったような顔をして皆に問いかけた。
「なんです?」
 最初に僕に応対してくれた人が、意外そうな口調で応えた。
「いやあ、おまえが他人に体触れさせるなんて、珍しいなって思ってな」
 その一言に、僕は心臓が破裂しそうなほど驚いた。なんだか僕らの関係を見透かされたみたいな気がしたのだ。まさかわかるわけないとは思いつつ、顔から火が出るほど恥ずかしくて、僕はそれを押し隠すように、慌ててその場を離れてタイヤの椅子へと戻った。
 篤志も多少動揺してるみたいだったけど、そこはそれ、いつもの無愛想さで隠して、不満げな口調で言い返した。
「そうですか? そんなことないですよ、別に」
「でもおまえ、レースの時以外は触られるのいやがるだろう? 俺が頭撫でたら、すぐ逃げるじゃないか」
「そりゃあ、店長。ガキじゃないんだから……」
 篤志は呆れた眼差しを向け、冷たく応えた。
「今時頭撫でられて喜ぶ高校生がどこにいんですか? 普通は逃げますって」
 突き放すみたいにそっけなく言いきる。どうやらこの店の店長さんらしいその人は、そんな篤志の無礼な物言いにも慣れっこみたいで、平然としてきり返した。
「そうかぁ? おまえが可愛げないだけじゃないのか?」
「……すみませんね、可愛げなくて」
 話はいつしか真剣みが薄れて、なんとなく漫才みたいな雰囲気になっていた。
 僕は話題がそれた事に安堵しつつ、心の中でくすくすと笑いながら、僕は篤志に頭撫でられるの好きだけどなぁ……、なんてのん気なことを考えて、二人のやり取りを聞いていた。それがきっかけとなって、それまで無言で作業していた人たちが、ひとやすみとばかりに手を止めて会話に参加し始めた。
「まあ、篤志にそんなもの期待しても無駄だってのは、みんなよーくわかってるよな」
「そうそう。こいつの笑った顔なんざ、レースで勝った時ぐらいしか見たことないぜ」
「だから尚更かまいたくなるんだよなぁ」
 篤志のいちばん近くにいた人が、手を伸ばして頭を撫でようとする。篤志は慌てて体をのけぞらせて逃げた。
「やめてくださいってば、永友さん! その手!」
「あ、わかった?」
 真っ黒に汚れた手をヒラヒラさせてその人は笑う。皆も一緒になって笑った。
 先ほどまでのしんとした空間が、一気にアットホームな温かい雰囲気に変わる。僕は横で見ながら、不思議な感動みたいなものを感じていた。
 どうやらこの人たちの間では篤志は1番歳下で、その分可愛がられているみたいだった。その中で子供扱いされてすねたみたいに仏頂面してる篤志は、僕がこれまで知っていたどの彼とも違っていて、新しい顔をしていた。
 そうか。こんな篤志もいるんだ。
 僕の前で見せる、大人っぽくて無口でクールな彼とはまた別の篤志。
 ちょっと可愛い……なんて思ってしまう。そんなこと口にしたら、絶対彼は怒るだろうけど。
 そうなんだ。彼には僕の知らない部分がまだまだいっぱいあって、僕はそれをひとつひとつ発見して、もっと彼が好きになる。僕の中の篤志がどんどん大きくなっていく。
 篤志がいっぱいになっていく……。
 それじゃ、篤志の中で、僕はどんな風に変わっていってるんだろう? 篤志は、最初に会った頃よりも僕に好きになってくれてるんだろうか? 僕はきみの中で、いったいどのくらいの存在なの?
「篤志、そんなに髪が邪魔なら切りゃあいいのに」
 ひとりの人がふとそんなことを言った。別の誰かが笑って応える。
「ああ、だめだめ。こいつ、長髪ヒラヒラさせて女の子に注目されながら走るのが好きなんだと」
 篤志は冷たく横目でにらんで言い返した。
「俺、そんなこと、ひとっ言も言ってませんけど、北さん」
「んじゃ、なんで切らないんだよ。いっつも邪魔そうにしてるくせに」
 その時、先ほど篤志をからかった勝田という人が、面白そうに口を挟んだ。
「そりゃあほら、理香ちゃんのリクエストじゃないの? 理香ちゃん、ノリックのファンだからさ。メットの下からなびく髪がカッコイイって言ってたもんな。なあ、篤志?」
 篤志の表情がきゅっと固くこわばったのを感じた。彼はむっとしたように口を曲げて、低い声でぼそりと言った。
「……知りませんよ、俺。……俺のはただ無精なだけです」
彼の口調の不機嫌さを感じたのか、皆が急にしんと静まった。それまでの冗談めいたやり取りを超えてしまった気まずさが場を支配し、なんだかピリッとした空気が漂う。からかった勝田さん自身も、やり過ぎたかなって感じで、とても罰悪そうな顔をしていた。
 そんな中、篤志がちらりと僕のほうを伺うように視線を向けた。
 ……そっか。彼、僕のことを気にしてるんだ。再三理香さんの話が出てるから、僕が気にしてるんじゃないかって思ってる。篤志の怒りは、僕に対しての心遣いからだったのだ。
 僕が彼に気をつかわせている……。
 僕は場の緊張をやぶって、恐る恐る話しかけた。
「あの……ノリックって誰ですか? げ、芸能人?」
 皆がいっせいに僕のほうを向く。皆、驚いたように目を丸くし、そしてすぐにどっと笑った。ちょっと呆れた顔をしてる。バイクに興味を持ってついてきたわりには、余りにも初歩的な質問、しかも変なことまで言い足してしまったらしくて、店長さんがおかしそうに笑いながら、それでも優しく説明してくれた。
「ノリックってのはね、ロードレースのワールドグランプリに参戦してるライダーの名前だよ。阿部典史って言う日本人なんだけどね。ノリックって愛称で呼ばれてて、その彼が篤志みたいに髪が長いんだよ」
「じゃなくって、篤志が真似して伸ばしてるんだよな」
 別の人がすかさず口を挟んだ。篤志がぎろりとにらみつける。
「違うって言ってるでしょ?」
 そう言い返した篤志は、もういつもの彼だった。妙に張り詰めていた空気は消え、場は和やかな空間に戻ってる。皆が続けて談笑している中で、僕はことが収まったことにちょっとホッとしていた。
「さて、昼飯までもう一仕事片付けようぜ」
 店長さんの一言で皆はお喋りをやめて、また各々の仕事をしはじめた。穏やかな静寂がその場を支配する。
 ふと気づくと、篤志がじっと僕を見つめていた。なんだか不思議な眼差しだ。物言いたげな、なにかを伝えたがってる瞳。だけど何を言おうとしてるのかわからなくて、僕が小首を傾げながら笑みを返すと、彼はちょっと照れたみたいに目を逸らし、そのまま作業を始めた。横を向いた頬が少しだけ赤く染まってるみたいに見えた。
 それから小一時間もたったかという頃、誰かの「腹減った」の一言で昼食タイムとなった。皆が伸びをしたり、肩をコキコキ動かしたりしてる中、いまだ座って作業を続けている篤志に、店長さんが声をかけた。
「おい、篤志、飯にしようぜ」
 篤志は顔をあげ、応えた。
「あ、俺、こいつとどっか出て食いますから」
「そうか。じゃあ、俺たちショップのほうで食ってるから。お先にな」
 そう言うと、彼らは連れ立ってどやどやとガレージから出ていった。僕はそんな光景を見ながら、ちょっと申し訳ない気がしてしまった。きっと篤志は、いつもは彼らと一緒になってバイクやレースの話をしながらご飯食べるんだろうな。なのに今日は僕がいるから、わざわざ別行動とってくれたんだ。また彼に気を使わせているわけか。
「ご、ごめんね、篤志……」
 僕がおずおずと話しかけると、篤志は不思議そうに問い返した。
「なにが?」
「その……気を使わせちゃって。いつもは皆と食べるんだろ?」
「別に決まってるわけじゃないから」
 篤志はなんの頓着もないと言った感じで応えた。だけどやっぱりすまない気がして僕がうつむいてると、彼は僕の目の前までやってきて、汚れた手の代わりに肘を使って優しく僕の顔を上向かせた。額を軽く押されて顔を上げると、そこに彼の額がこんとぶつかってくる。お互いの鼻の頭が触れそうなほど間近に彼の顔があって、それが優しく僕を見つめていた。
「なんでそんなこと謝るんだ? おかしな奴だな」
 そのまま唇が近づいて、そっと僕の口に触れた。羽が触れ合うようなキスだったけど、心臓の音が聞こえてきそうなほどドキドキしてしまった。
 二人だけになってしまったガレージでの、ひそやかなキス。友達じゃなく、恋人同志になって触れあう一瞬の時。
 ボーッとしてる僕を他所に、篤志はオイルに汚れた手やら顔やらを布で拭って大雑把に綺麗にすると、大きく伸びをして言った。
「さて、飯にするか。腹減ったな。夕日、何食う?」
 僕はいまだぼうっとしながら、応えた。
「なんでもいいよ」
「この近くってったら、ラーメン屋と寿司屋と、あとは小汚い居酒屋くらいしかないんだよな。昼から居酒屋ってわけにもいかねーし、寿司食うほど金もないし。ラーメンでいい?」
「うん」
 それじゃ、と行きかけた僕たちだったけど、僕は篤志の横に立って歩き出し、思わず歩を止めてつぶやいた。
「篤志……オイル臭い……」
 彼はちょっと眉をしかめてみせた。
「そりゃしゃーねーよ。ずっと作業してたんだし。おまえだってきっと、結構匂い移ってるぜ」
「こんな匂いさせて食堂に行ったら、僕たち、すごい迷惑かもね……」
 篤志は困ったみたいに難しい顔をして黙り込んだ。いつもは皆とショップで食べてるらしいから、そこまで気をまわしたことがなかったのだろう。僕は遠慮がちに言った。
「あ、あのさ、角にコンビニあったよね? そこで何か買って食べない?」
「そんなんでいいのか?」
「うん。そのほうが気楽だから。あ、僕が買ってこようか? なにがいい、篤志?」
 篤志はしばらく黙って僕を見つめていた。またあの不思議な瞳だ。物言いだけな、どこかもどかしそうな、だけど暖かい眼差し。彼は何を伝えたがっているんだろう?
 やがて篤志は口元に照れくさそうな笑みを浮かべて、ぽそりとつぶやいた。
「一緒に行こうぜ」
「……うん!」
 僕はにっこりと笑ってうなづいた。


 それから僕たちは、パンとおにぎりと飲み物を買って、ガレージの外の古タイヤの上に座って食事を取った。良く晴れた午後の日差しがまぶしくて、僕たちを明るく照らした。なんだかとっても幸せな気分だった。
 見知らぬ所に僕を連れてきた責任感からか、それとも大好きなバイクの世界なのでくつろいでいたのか、その日の篤志はいつになくご機嫌で、雄弁だった。
 レースのいろんな話、彼がいつも走るコースのこととか、他のライダーたちの話とか、前回はゴール直前にミスって三位になり悔しい思いをしたんだっていうことなんかを、彼は楽しそうにいろいろと聞かせてくれた。時折挟む僕の初歩的な質問にも丁寧に答えてくれ、以前の失敗談を笑いながら教えてくれたりもした。
 そしてその中で、彼は夢を語った。今はまだ駆け出しだけど、将来はもっと上のクラスに進んで、ゆくゆくは全日本のレースに参戦してみたいのだと。その先にはもちろん世界があって、そこに行きつくまでにはまだまだ遠いけど、あきらめずに頑張りたい。そしてそのためにも、今はひとつでも多くのレースで勝って、自分という存在をアピールする事が大切なんだと、瞳を輝かせながら話してくれた。
 僕はただ、熱い目をして語る篤志をじっと横で見つめていた。
 こんな風に彼が自分から自分のことを話すなんて、めったにないことだ。しかもその内容が将来の夢の話だなんて、聞いてるだけで胸が熱くなってくる。
 ねえ、篤志。それって、誰にでも気軽に話すわけじゃない、特別に聞かせてくれてるんだよね?
 それって、僕に心を許してる証拠かな? それ……僕がきみの特別ってこと? 僕は少しは自惚れてもいいのかな? 
 僕はきみにとって、バイクの次ぐらいには大切な位置にいるんだと、そう信じることが許されるんだろうか? 
 ねえ、篤志……・。
 そんなことを想いながら、僕は彼の話に熱心に耳を傾けていた。篤志が楽しそうだったから、僕も一緒になって心浮かれていた。なんて素敵な日曜日だろう、一緒についてきて良かったって、その時は思ってた。心から……。
 やがて皆がショップから戻ってきて、また作業が始まった。
 午後に入り、また一時間ほど静かな作業が続いたあとに、それまでじっと息を潜めていたバイクにエンジンがかけられ、物凄い音がガレージいっぱいに広がった。普通のバイクのエンジン音なんか比べ物にならないくらいの迫力だ。それに独特の鼻をつく匂いが漂う。オイルの焼ける匂いなんだと、篤志が教えてくれた。
 僕はなんだかワクワクした。バイクに興味はなかったけれど、やっぱり本物のレース用のマシンとなると、その迫力に圧倒されドキドキする。これに篤志が乗って走るんだなと考えると、いっそうその魅力に惹きつけられた。
 とうの篤志は、店長さんや他の人たちと額を寄せ合って真剣に話をしていた。すごい騒音の中だから、皆自然と大声でがなるように会話してる。
「来週あたりコースに出て走って、細かいチェックが必要だな」
「そうですねぇ。新しく入れ換えたキャブの具合とかサスの微調整とか、まだかなり手を入れないと」
「タイヤも新しいタイプのが届いてますからね。ちょっとグリップの程度も調べたいし」
「北ちゃん、サーキットの使用許可とっといてよ。できるだけ時間長めに」
 騒音の中から聞こえてくる話は、僕にはわからない専門的な内容ばかりだった。口調も先ほどののんびりした感じとは全然違って、みんな真剣で緊張感に溢れてる。とてもじゃないけれど僕が口を挟めるような雰囲気ではなくって、僕はすみのほうで邪魔にならないよう話を聞いていた。
「あ、でも店長、来週末は確か販売店主催の小さいレースが入ってますから、コース使えないですよ、きっと」
「ああ、そういえばなんか連絡が来てたな。うーん……篤志、平日は走れるのか?」
 篤志はちょっと眉をひそめて考える様子をみせた。
「まあ……曜日によっては。バイトも、頼めば休めると思うし」
 僕は横で聞きながら、ふと彼といつも会う火曜と金曜の日のことを考えた。週に二日だけ、しかもほんのニ・三時間のデートなんて僕にとっては物足りないあっという間のひとときだったんだけど、もしかしたら篤志にとっては、忙しい日々の中無理矢理裂いたものだったのかもしれない。
 それって、嬉しいような申し訳ないような、複雑な気持ちだった。だって僕は、できるだけ彼の負担にはなりたくないんだ。なんだか重荷になったら、彼が僕から離れていってしまう気がして。
「とりあえず平日に練習走行の予定組む方向で動いてみて、それからだな。なんなら別サーキットでやってもいいし」
「そうですね。まあ、まだ時間はありますから」
 そんな真剣なやり取りがなされている中、ふいに緊張感を一挙にくだくような出来事が訪れた。
 バイクのそばに立っていた篤志の後ろから白くて細い手が伸びて、彼の目を覆い隠し、同時に高い声が響いた。
「だーれだ?」
 鈴を転がすような可愛い声。女の子の声だ。
 篤志がすかさず不機嫌そうに応えた。
「やめろ、理香。ふざけるな」
 目にかぶさった華奢な手をつかんで外し、怒ったような顔を後ろに向ける。そこにいたのは、僕が前に一度だけ会ったことがある、ショートカットの可愛い少女だった。
 くるんとおっきな目をした、小柄で朗らかそうな女の子。楽しそうな笑顔がとても印象的で、きっと誰からも好かれるだろう、そんなチャーミングな子。
 篤志の、彼女……。
 理香さんは篤志がにらんでも全然平気な様子で、ぽっちゃりした唇をツンと尖らせて文句を言った。
「つまんないの。すーぐわかっちゃうんだから。ちょっとは考えるフリぐらいすればぁ?」
「ばか、こんなくだらねーことするの、おまえぐらいしかいないだろ?」
「くだらなくって悪かったわねーだ、あっちゃんのバカ」
 二人の他愛のない会話が目の前で繰り広げられる。僕はその光景に釘づけになった。
 周りの人たちが親しげに理香さんに声をかける。
「や、いらっしゃい、理香ちゃん」
「よう、理香ちゃん、久しぶりー。元気?」
「うん、勝田さんも元気してた?」
「元気元気……と言いたいところだけど、最近理香ちゃん顔見せなくて、寂しくて落ちこんでたぜ」
「まあたぁ、勝田さんったらー。口だけは調子いいんだからぁ」
 突然現れたその少女は、まるでずーっと前からここに皆と一緒にいたように、なんの屈託もなくすぐに場に溶け込んでみせた。
 久しぶり、なんて言われてるから、もしかしたら理香さんはそれほど頻繁に訪れているわけではないのかもしれない。だけどそのわりに熱く歓迎されているその雰囲気は、彼女が彼らにとってどれだけ大きな存在感を持っていて、愛情を込めて受け入れられているのかと言うことがおのずとうかがえるというものだ。
 実際、彼女が現れただけで場が華やぎ、皆の表情が明るくなった気がした。
 そんな中で、篤志だけがいつもの無愛想さに輪をかけたみたいな苦い顔をしていた。
 それは多分、僕の気持ちを思いやってのことなのだろう。彼は不機嫌そうな口調で冷たく尋ねた。
「おまえ、なんで来たんだ?」
 理香さんは薄く色付いた唇を突き出して、不満そうに応えた。
「ひっど―い、なんでってことないじゃない? 来ちゃ行けなかったぁ?」
「ていうか……ここは油臭くていやだって、いつもは寄りつかないくせに……」
 篤志は目線を落とし、言いにくそうにつぶやいた。僕にも彼女にも目をあわせようとはしなかった。
 まあ、当然かもしれないな。今ここで、一番いずらい気分でいるのは篤志なのかもしれない。まさか彼だって、彼女が来ることがわかっていたら僕を誘ったりはしなかっただろう。
 でも、僕だって、この場にいることへのいたたまれないような苦しさを感じていたんだ。
 それは彼女と篤志のツーショットを目にしたからなわけじゃない。僕は……彼と理香さんが交わす会話に中にある、特別なつながりのようなものを感じとって苦しかったのだ。
 それは多分篤志自身にも気づいていないもの……。
 篤志は、理香さんとはなんとなくつきあってるように周りからは思われているけれど、でも本当はそういうわけじゃない、ただ尊敬する先輩ライダーの妹で、昔からの顔なじみで、妙に懐かれてるだけなのだと話してくれていた。別に特別な関係でもなんでもないんだと。
 だけど、ぽんぽんと遠慮なく言いあうその互いの口調の中には、間違いなくただの友達以上のつながりが存在していた。篤志にとって、理香さんはやっぱり特別な女の子なんだ。それがどこまでの感情なのかは別にしてもだ。
 横で聞いていて、僕はそれを肌で感じた。多分、周りにいる皆もそうなのだろう。だからこそ、二人を恋人同志だと認めて考えている。それをわかってないのは、篤志だけなのかもしれない。
 僕は二人から目をそらし、うつむいた。
 胸がドキドキする。高揚して高鳴ってるんじゃない。どうしたらいいのかわからなくて、気持ちがひどく動揺していた。
 僕は、いちゃいけないんだって気持ちに苛まれた。この場に、二人の前に、彼らの世界に、……篤志の心の中に存在してはいけないのだと、そう感じてしまった。
 篤志が真剣に僕を好きで、特別なんだと言ってくれてるのはわかってた。
 僕たちはもう名前も知らない関係ではなく、ちゃんと向き合ってつき合い始めてる恋人同志なのだということさえ理解していた。なのに……僕は、彼と理香さんの前にいることに、どうしようもない罪の意識と敗北感を感じていた。
 どうして……どうして僕は、「理香さん」という存在に勝てないんだろう? どうしてこの二人に負けそうなのか?
 何故僕は、こんなにもここから逃げ出したい気持ちになってるんだ……?
 落ちこんでる僕をよそに、皆はマスコットを囲むみたいに理香さんをとりまいて、楽しそうに談笑を続けていた。
 理香さんはちょっと得意そうに顎をあげ、篤志を見やった。
「あのねぇ、今日はほんとにちゃんと用事があってきたのよ。お兄ちゃんのおつかいで」
 篤志の表情が一転し、それまでの不機嫌な瞳に光が戻った。どうやら彼女のお兄さんって人に、心底入れこんでるらしい。その瞬間僕のことなんてすっかり忘れた目をして、彼は彼女に視線を向けた。
「新城さんから?」
「うん、今日ね、焼き肉パーティするから皆を呼びに来たの。買い物がてらに」
 すかさず周りが反応する。
「なんだ、あいつ日本に帰ってきてるのか」
「すぐまた行っちゃうそうだけどね。久しぶりだから皆に会いたいって。今頃庭でお肉用意して待ってるわよ、きっと」
 理香さんがそういうと、皆が嬉しそうに顔をほころばせた。
「いいねぇ、焼き肉かぁ。食いてぇ食いてぇ」
「なんだよ、おまえ、さっき飯食ったばっかのくせして」
「ラーメン一杯じゃ腹の足しにもなんねーよ。ねえ、店長、今日はこの辺にして、さっさと呼ばれましょうよ?」
 彼らが嘆願するように提案すると、店長さんは一応しぶしぶそうな態度を示しながらも、あっさりそのお誘いを受け入れた。
「しょうがないなぁ。じゃ、さっさと片付けろ。俺は店のほう任してくるから」
 皆が口々に喜びあって片付けを始めた。僕は途端にいる場所を失って、所在無さげに情けなく突っ立っていると、店長さんが親切に声をかけてくれた。
「ああ、きみも行かない? 仲間うちの宴会だからさ」
 僕は慌てて両手を振って断った。
「いえ、僕はもう帰ります」
「そう? 別に気をつかわなくてもいいんだぜ?」
「いいえ、あの……今日はありがとうございました。すごく面白かったです」
 僕がそう言って挨拶すると、それまで黙って横で聞いていた篤志が、ここぞとばかりに口を挟んだ。
「じゃ、俺、ちょっとこいつ……」
 送っていくから……って、言おうとしたのだろう。だがその言葉はあっけなく途中で遮られた。
「ねぇねぇ、あっちゃん。久しぶりだからうちまでバイクに乗せてってよ。今日も乗ってきてるんでしょ?」
 理香さんが細い腕を篤志の手に絡ませて、屈託なくねだった。あまりにも慣れて自然なその行為。きっといつも当たり前のように繰り広げられている光景なのだろう。
 篤志は彼女の要求には戸惑いつつも、その行為自体には焦った様子を見せるわけでもなく、ただ難しい顔でつぶやいた。
「そうだけど……、でも俺、友達送ってくから」
「お友達ぃ?」
 理香さんの視線がはじめて正面から僕に向けられる。ドキンと大きく胸が鳴った。
 その時僕が思ったのは、彼女に対する怒りでも嫉妬でもなく、もちろんライバル意識なんかでも全然なく、ただひたすら、逃げたい、逃げなけりゃっていう思いだけだった。
 そして僕の口からこぼれ出たのは、自分でも情けなくなるくらい弱い、あっさり負けを認めた者の答えだった。
「あ……い、いいよ、篤志。僕、電車で帰る」
 篤志がきゅっと眉をひそめた。瞳が、何言ってんだ……って言っている。驚きと怒りのこもったキツイ眼差しを向けてくる。
 僕は彼の目が怖くてうつむいた。
 するとそんな僕たちに、一人の人が声をかけてくれた。
「ああ、じゃあ俺がこの子、駅まで車で送ってくからさ。篤志はそのまま理香ちゃんといけよ」
 それは純粋に親切心からだったのだろう。だけどその言葉は、決定的に篤志からその後の選択権を奪ってしまった。篤志は自分の意思を無視して決まってしまった予定に不快そうな表情を浮かべ、無言のまま僕をにらみつけた。
 僕はいたたまれない気持ちで、そんな彼の視線から逃れるように、先ほどまで座っていたタイヤの所まで行ってひとつの物を取って戻った。
 そして、おずおずとそれを理香さんに差し出した。
「あの……これ」
 彼女は大きくて丸い目をいっそう丸く見開き、驚いた顔でそれを見た。
「あれ? これ、理香のメット……?」
 不思議そうにそれを見つめ、そして次に篤志の顔をうかがう。やがて満面に笑みを浮かべ、コロコロと笑った。
「なあんだ、この間うちから持ってったのって、この人に貸してあげるためだったんだ。私てっきり、よその女の子にでも貸すのかと思って、あっちゃんの浮気者―って怒っちゃったー」
 ちらりと申し訳なさそうに篤志を見、小さくペロリと舌を出してみせる。
 なんて可愛い反応だろう。
 全然何かを勘繰るでもなく、いかにも少女らしい純粋な文句と言い訳を屈託なく口にする。
 僕はその言葉が胸に突き刺さった。
 彼女をだましてるんだという呵責。それに……彼女のなにも疑うことのない、羨ましいほどの自信を堂々と見せつけられて、身を引き裂かれるような惨めさを感じた。
 僕はひきつった笑みを小さく口元に浮かべて、つぶやいた。
「あ、ありがとう……」
 そう言ってメットを差し出すと、理香さんはどういたしましてって言うみたいに、ニッコリと笑って受け取った。
 可愛い笑顔。ほんとに性格いいんだな、この子。
 これがとんでもなく性格悪くて、呆れるくらいにイヤな子だったら、きっとこんなにも苦しくなんかなかっただろうに。
 やがて篤志は、まだ片付けてる人たちよりも一足先に、うしろに理香さんを乗せてバイクにまたがった。
 僕を送ってくと言ってくれた人にちょっと挨拶をすると、そのまま僕にはなにも言わずに走り去っていった。出発ぎわに、ものすごいキツイ瞳を僕になげかけて。
 それは僕を、そのあとずーっと深い後悔の海の中に沈めたのだった。彼の心を踏みにじってしまったこと、あっさり苦痛から逃げ出してしまったことに、僕はどうしようもなく悔やんだ。
 帰り道、独り電車に乗ってる間中、ずうっと汚れた床ばかり見つめていた。まぶしく窓から照らす夕やけに、目を向けることができなくって……。
 
     
                                            ≪続く≫
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