フェンスの向こうに

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1 新しい道                       
 
 駅のホームに滑りこんできた電車は相変わらず混雑していて、すでにほぼ満員状態だった。
 僕、相原夕日は、ここから駅六つほど先の私立旭ヶ丘学園男子高等学校に、この春から通っている。のんびりした校風の学校はとても気にいっていて楽しいけれど、この毎朝のラッシュだけは目にするたびにゲッソリだ。だからついこの間までは、やってきた電車を前にホウッと密かにため息をついたりしたものだけど、でもほんの少し前からは、ため息の代わりに胸のドキドキをいだいて僕はその訪れを待つようになっていた。
 僕は目の前で開いたドアから中へと入ると、かなり無理矢理人ごみを掻き分けていつもの場所へと向かった。三両目の車両の、前側のドアの横。それが僕の定位置だ。そこで僕は今日もひとりの見知った顔を見つけて、安堵の笑みを浮かべた。
 僕を待っていてくれたその人。森川篤志。京成高校の二年生。バイクが好きで、アマチュアだけどレースライダーで、そして……僕の一番大切な存在で、大好きな人……。
 彼が不器用そうな笑顔を返しながら、ぽつりと言った。
「おはよう」
「おはよう、篤志」
 そう口にするのはやはりまだくすぐったかった。僕が彼の名前を知ってから、まだほんの二週間ほどなのだ。僕たちはずっと名前を名乗りあうこともなく(彼のほうは一方的に僕の名を知ってはいたけれど……)、誰よりも近くて誰よりも遠いつきあいを続けていたのだった。
 それがようやく一歩前に進んで、僕らはちゃんと向きあって歩き始めた。ほんの少しだけ、しかしそれでも確かに以前とは違う道を歩いているのを僕らは感じていた。
 僕は篤志の立っている横に滑りこむと、彼の胸の中に包まれるようにして収まった。篤志もそれほど体格がいいというわけではなかったけれど、小柄な僕よりは遥かにがっしりしていて、満員電車の混雑の中でも、人に揉まれてフラフラよろけるようなことはなかった。僕たちがちゃんと付き合い始めたあの時から、彼は朝、こんな風に僕を守ってくれるようになっていた。
 押し寄せる人波と、そしていつも僕を煩わせていたうっとおしい痴漢から、しっかりガードしてくれる。だから僕は、これまでのように必死になって冷たい銀色の手すりにしがみついていなくても、人の流れに押されてとんでもない駅で降りる羽目にならずに済んだし、毎朝毎朝襲ってきた見知らぬ者の手に嫌悪を感じて胸が悪くなることもなくなったのだ。
 その日も彼は、さりげなく周りから僕を覆うように身をずらしてくれた。
 僕は彼の胸の中から、そっとその顔を見つめた。
 綺麗な顔だ。すっと通った細い鼻筋と、形の良い唇。そしてキツイ印象を与える、切れ長の瞳。なにもかも僕の心を震わせる。無愛想で、めったに笑ったりしないところも。
 僕がすっかり見とれていると、篤志が気づいて、なに、というように小首をかしげた。僕は声を潜めてささやきかけた。
「あの、さ……今日、逢えるの?」
 彼は目元に柔らかな笑みをたたえて、うなづいた。
「ああ、いつものところで待ってろよ」
「わかった」
 そう応えながら、僕は頬が熱く燃えるのを感じた。照れくさいのと嬉しいのとで胸がドキドキしてしまう。
 僕たちは週に二回デートする。火曜と金曜の放課後に、いつも使う沿線の途中の駅で待ちあわせて、二人だけで会う。それは僕たちが最初に出会った頃からの約束のようなものだった。
 それ以外の日の彼はもっぱらバイトで、週末はバイクのレースにほとんどの時間を費やしているのだと知ったのは、つい最近のことだけど。
 彼と毎朝顔をあわせるようになってから、デートの日はこんな風に確認を取るようにしていた。すると篤志はきちんと応え返してくれる。OKならOK、ダメならダメとはっきりと口にする。彼は中途半端に言葉を濁したりはしないんだ。そしてそれは僕を心からホッとさせた。
 何故なら、以前のように来るか来ないかを待ちわびて、駅のトイレの前の廊下で何度も時計と通路の向こうとを交互に見てかえす必要はないのだから。立っている姿を見つけて、ホッとすると同時に胸が痛くなることだってない。
 そう、これが本当の約束というものだ。もう果たされるかどうかを思い悩む必要はないんだ。
 やがて電車は僕の降りる駅へと到着する。ブレーキの反作用を踏ん張って耐えていた僕の耳元に、篤志が小さくささやいた。
「あとでな、夕日」
 甘い声だ。心臓がきゅっとしめつけられる。僕は頬を染めてうなづいた。
 開いたドアから、僕は慌ててホームへと飛び出した。振り向いた後ろでまたドアが閉まる。中では人ごみの向こうから僕を見送ってる篤志がいる。僕は小さく手を振った。
 これが僕の日常。毎朝の風景。
 こんな幸福な時間を持つことができるなんて、考えてもいなかった。だけど確かにそれは今、僕の手の中にある。
 そして僕は、その幸せがどれほどもろくて壊れやすいものであるのかも、ちゃんとわかっていたのだ。


 教室はいつもどおり、にぎやかな喧騒に包まれていた。
 授業までのわずかな時間を、皆が楽しそうに享受している。男子校なんで女の子の甲高いお喋り声はなかったけれど、かわりに野太い笑い声やら、子供みたいに騒いでいる腕白坊主の姿がそこかしこにあった。
 僕が席につくと、すく゜さま親友の悟がやってきた。
「おっはよっ、夕日」
 その屈託のない笑顔につられて、僕も笑って挨拶を返した。
「おはよう、悟」
「なに、朝からなんだか嬉しそうな顔してるじゃん。いいことあったのか、夕日?」
「え? ベ、別にないよ、そんなの。いつもと同じだよ」
 僕は焦って否定した。だけど顔が真っ赤になって、如実に言葉と真実とのギャップを現している。悟は意味深にニヤニヤと笑った。
 悟は僕の遠い親戚で幼なじみ。でもって、一番の親友だ。僕たちは昔からすごく気があって、なんでも隠しだてすることなく話してきた。とはいえ、さすがに篤志のことは言えなくて、ずっと内緒にしているのだ。だっていくらなんでも、男の恋人ができたなんて平気で告白できるもんじゃないだろう?
 そりゃあ悟のことだから、それで僕を嫌いになったりバカにしたりすることはないと信じてはいるけれど、でも絶対ショックは受けるだろうなあ、なんて考えたら、なかなかカミングアウトする気にはなれなかった。
 僕はふとあることを思い出して、悟に尋ねた。
「ねえ、悟? あのさ、バイクのメットって、いくらぐらいするの?」
「はあ? メットォ? なんだよ、いきなり」
 悟は突然妙なことを聞かれたので、目を丸くして僕を見た。それでも、バイク好きでいろいろと詳しい彼は、ちゃんと答えてくれた。
「まあ値段って言ってもピンキリだけどさ。どんなやつ? デザインによってだいぶ違うぜ」
「どんなって……形とか色はどうでもいいんだけど、とりあえずフルフェイスのやつ」
 僕は頭に浮かんだ篤志のメットを思い浮かべながら説明した。
「ふうん。まあ三・四万ってところかなぁ?」
「そんなにするんだ」
「型落ちなら二万もあれば買えるかな? もっと安いのもあるだろうけど、あんまり安いのだと耐久性とかなんとかいろいろ問題あるしなぁ。――だけどまた、なんでメット? おまえ、バイクになんかぜんぜん興味なかったくせに?」
「え? う、うん。ちょっとね、へへへ」
 僕は慌てて笑ってごまかした。悟はいぶかしげに眉をひそめた。
 なんで急にそんなことを聞いたかというと、つまりことの発端はこうだ。
 前回僕と篤志が会った時、いつものように僕は例の駅で降り、駐車場で彼を待っていた。そしていつも通り篤志はバイクに乗って迎えに来てくれた。それから彼のバイクに二人乗りして篤志のお兄さんのものであるマンションにまで行ったのだけれど、その途中で運悪く僕らはお巡りさんに捕まってしまったのだ。
 理由は明解。篤志がノーヘルだったから。
 篤志はいつも自分のメットを僕に貸して、自分はノーヘルなのだ。どんなに辞退しても、絶対に譲らない。バイクで事故った時は、後ろに乗ってる者のほうが吹っ飛ばされて大怪我をする確率が高いから……なんてもっともらしいことを言ってるが、理由はともかくとして彼は道交法違反をしている訳で、とうとうこの間その報いを受けてしまったというわけなのだ。
 篤志はなんにも言わないけれど、あれが彼にとって痛手なんだってことは察しがついた。だってレーサーをしている篤志には免許は必需品なわけで、万が一免停だの取り消しだのになったら、それだけで自分にもチーム皆にも迷惑がかかっちゃうからだ。
 確かに一度のノーヘルぐらいだとすぐに免停にはならないかもしれない。だけどこの先、いつまたあんな風に捕まるかはわからないし、積もり積もればやっぱりその先には大きな報いが待っているだろう。
 もちろん篤志は僕を責めたりはしない。愚痴も言わなきゃ八つあたりだってしない。僕が謝ったら、気にすることはないって気軽に返してくれた。だけど、その規則違反の元々の原因は僕なのだって、僕自身いやというほどわかってるんだから、どうしたって自己嫌悪に陥ってしまうんだ。僕が自分用のメットを用意すれば、それでなにもかも解決する問題なんだと知っているから、尚の事にだ。
 ……そうなんだ。僕がメットを買いさえすれば、それで済む話なんだよな。
 だけど僕は、なかなかその踏ん切りがつかなかった。四万という金額は、確かに高校生にとっては決して安いものじゃない。だけど、まるっきり手が出ないというわけでもない。その気になれば、貯金をおろして買うことはできるのだ。
 でも僕は、自分のメットを買うのが怖かった。いつかそれがまるで必要のないものになって、それでも僕の手元にあって、目にするたびに涙を流すことになるんじゃないかと考えるのが恐ろしかった。
 僕は、いまだに篤志とのつきあいを信じきれていない。いつか別れることになるんじゃないかって、そんな心配をずっと心の奥に抱いている。彼に愛され、彼の腕の中に抱かれながらも、いつも不安に震えている。それってやっぱり……彼に対する裏切りなんだろうか? どうしてなにもかも信じることができないんだろう? こんなに篤志が好きなのに。
 そんなことを考えていると、予鈴が鳴って僕を現実に引き戻した。僕はふうとひとつため息をついて、心の惑いを否定した。今日は金曜日。篤志と会える日。それだけ考えて幸せでいよう。余計なことは考えないようにしよう。
 やがて教師が来て一日の授業が始まる。僕は放課後のことを思いながら、机の上のシャープを手に取った。


 腕時計をちらりと見る。
 時間は4時55分。
 もうそろそろ来るかな……なんて期待を胸に抱きながら、僕はいつも彼がやってくる方向に目を向けた。
 篤志は時間には正確だ。早く来ることはあっても、遅れることはめったにない。そして今では僕も、遅れて彼を待たせることはなくなっていた。だってそんな必要ないんだもん。僕は迷うことなく、ためらうことなく彼に会いに来れるんだ。そして会えるものならば1分だって長く会っていたいって思うのが、恋する人間の気持ちってもんだろう。
 ほどなく遠くにバイクの姿が現れて、すぐにそれは僕にほうめがけて近寄ってきた。僕は思わず口元をほころばせた。
 すっかり聞きなれたエンジン音を響かせて、彼が走ってくる。篤志は僕の目の前ぴったりに車体を止めると、フルフェイスのメットからわずかにのぞく涼しい目元に、ちょっとだけ笑みを浮かべてみせた。
 僕も笑みを返しながら、ふと彼の持っている物に視線を向けた。それはもうひとつのヘルメットだった。
 彼も僕の視線に気づいて、すかさずそれを差し出した。僕は戸惑いながらそれを受け取った。
「……これ?」
 篤志はどこか言いにくそうに、くちごもりながら言った。
「ちょっと……借りてきた。少し小さめだけど、おまえ、顔小さいから入ると思って……」
 そう話しながら、ふいと視線をそらす。僕はそんな彼の態度を不思議に思いながら、改めて手の中のメットを見た。
 確かに篤志がかぶってるいつものやつよりも、少しだけ小ぶりだった。ピンクがかった紫にシルバーの雷みたいなラインが入ってる。篤志のメットよりかなり派手目。
 いったい誰から借りてきたのだろう、なんて思いながら僕はそれをかぶった。そして、すぐにその答えを見つけた。
 中からかすかに化粧品の甘い匂いがただよってくる。このメットの持ち主は女の子。……これは多分、理香さんのものなんだ……。
(あ……)
 僕はちょっと衝撃を受けた。いや、ちょっとなんて嘘だ。かなりショックだった。
 僕のために借りたものが、理香さんのものだっていうこと。彼女が当たり前のように自分のメットを持っているっていう事実。そしてそれを僕に差し出した篤志……。それってなんて残酷な優しさなんだろう……。
 そんな僕の心情を察したのか、篤志が申し訳なさそうにつぶやいた。
「ごめん、それ……俺にはきついんだ」
 辛そうにそう言って下を向く。……ああ、そうか。彼にもちゃんとわかっていたのだ。それがきっと僕を傷つける行為だっていうことを。だけどそうするしかなかったんだ。理香さんのメットは篤志には小さくて、彼が使うわけにはいかなかったのだから。
 僕は甘い匂いのメットの中でひとつ深く息をつくと、努めて明るい声で言った。
「ありがとう。これで捕まらなくってすむね」
 僕は篤志が辛い返答をかえす前に、さっさと後ろにまたがってギュッと腰にしがみついた。いつもよりほんの少し力を込めて。
 篤志が応えるみたいに僕の手に自分の手を重ね、そしていつものように低くつぶやいた。
「行くぞ」
 その声を合図にバイクが発進した。僕たちはひとつになって、風を切って街を走り抜けていった。


 マンションに入ると、部屋は普段よりも乱れていた。ソファの背に洗濯行きらしき着古したТシャツがかけてあったり、床に雑誌が何冊も散らばっていたり、見るとキッチンには洗いものが山のように積まれている。
 僕が驚いて辺りを見回していると、篤志が照れくさそうに言い訳した。
「ここしばらく泊まりこんでたんだ。ちょっとバイトやらなんやらで忙しくって」
 篤志は結構几帳面な男だ。小さい時にお母さんを亡くしたとかで、掃除やら洗濯やら、自分のことは自分で済ませるってのが身についてるらしく、だいたいいつ来ても部屋はきちんと整理されている。そんな彼の性格をわかっているからこそ、お兄さんという人も彼に部屋の管理を任せたのかも知れない。だけど今日の様子は、明かに管理不行き届きってやつだ。
 僕はくすっと小さく笑って言った。
「まず片付けようか?」
 篤志はぶっきらぼうに答えた。
「いいよ、そんなの。俺があとでやるから」
「でも僕も気になるんだ。一緒にやろうよ。僕、洗いものするからさ。篤志は部屋を片付けて」
 僕が有無を言わさず指図をすると、篤志は仕方なさそうに渋々ながらも従った。こういうところが結構可愛い。篤志は人の要求とかワガママとか、そんなものには基本的に弱いみたいだ。よっぽどでなけりゃ、たいていのことは聞いてくれる。そのくせ自分の思うところはほとんど口にしないんだから、それって本当に損な性格だ。
 僕は狭い台所に立って、コーヒーカップやらお皿やらを洗い始めた。僕は一人っ子だけれど、母が体の弱い人で寝こむのなんてしょっちゅうだったから、こういった家事はお手のものなんだ。特に苦とも思わないし。
 洗いものの最中、僕はふと思った。
(理香さんとか……来て手伝ったりしないのかな?)
 普通女の子って、彼氏の世話って焼きたがるよな。一人暮しではないにしたって、こんな風に篤志がお兄さんのマンションで寝泊りするってのはきっと知ってるんだろうし、来てお掃除したり料理作ってあげたり、そういうことしないんだろうか? この部屋で逢ったりしないのかな?
 そう考えていて、ふいに胸が痛くなった。
 いつもはあまり考えないようにしていることが、頭の中によみがえる。篤志と理香さんの関係について……。
(バカ、なにを今更……)
 僕が茶碗を洗う手を止めてぼんやりとしていると、ふいに横から声をかけられた。
「夕日?」
 僕はビックリして、あやうく手の中のお皿を落とすところだった。ドキドキしながら、彼のほうに顔を向けた。
「なに?」
 僕の笑顔を見て、彼は戸惑ったような笑みを浮かべた。
「いや……」
「お掃除終わった?」
「まあ一応。掃除機は……あー、後からかける」
「ほんとう?」
「ちゃんとやるって」
 子供みたいに口を尖らせる彼を見て、僕は明るく笑った。
 それから篤志は僕のためにコーヒーを入れてくれて、とりあえず一仕事終えた僕たちは、ソファに腰掛けてゆっくりとそれを飲んだ。暖かな湯気が立ち昇るコーヒーは、とても美味しかった。
 ティータイムの間中、僕は一人でいろいろとお喋りしていた。内容はまあ、他愛のない世間話だ。学校で何があったとか、教師にやな奴がいるんだとか、そんなこと。そして僕は時々自分のことを話す。趣味や、好きな映画や音楽、家族の話、そんなものを彼に聞かせる。
 彼は黙って聞いている。暖かな瞳をじっと僕に向けながら。
 こんなひとときが僕は好きだった。体だけのつながりだった僕たちの間に、少しづつ別の道がついていくみたいで、心がホッと和んでいく。
 もっとも、篤志のほうは相変わらずほとんど自分から喋ることはなかった。あとで気がついたことだけど、名前も知らずに付き合っていたあの頃も、篤志は特に僕に対して無愛想だった訳ではないようだった。ようはそれが地なのだ。聞けばちゃんと答えてくれるのだけど、自分からは話すことはない。そういう男なのだ。
 ふと会話が途切れて、僕たちは黙り込んだ。ほんの少しの穏やかな沈黙のあと、篤志の手が伸びてきて、僕の肩を引き寄せた。
 僕は素直にその手に身をゆだねた。そして甘いキス……。
 何気ない日常から、熱い時間へと移行するその一瞬のまぎわが、僕をなによりもドキドキさせた。
 篤志の唇が柔らかく押しつけられ、やがて舌が優しく押し入ってくる。僕はそれに応えて、自分の舌を絡ませた。とろけるように甘い唾液が、お互いの口の中に広がって僕たちを燃えあがらせた。最初はソフトだった彼の舌が、だんだん激しさをもって僕の口の中をまさぐる。それにつれて、僕はすぐに興奮し、熱い息を漏らした。
 そのうち彼の唇が僕のそれから離れて、頬をつたい、首筋へと移っていった。耳の下の柔らかい部分をついばまれると、僕は耐えきれずに声をあげた。
「あ……、ん……篤志」
 すでに体中が熱くしびれて、息が荒くなっていた。彼の手が服の上から僕の体の上を這い、胸や脇腹や、腰から足にかけて撫でさすられると、それだけで感じてピクンピクンと震えてしまう。もどかしい愛撫に、僕はせつなく身悶えした。
「ん……ん……」
 ねだるように鼻を鳴らすと、彼はそっと唇を離し、耳元にささやいた。
「どこでする? ここ? それともベッドに行くか?」
 僕はギュッと彼にしがみついて、消え入りそうな声で応えた。
「……ベッドまで待てないよ」
 篤志はくすりと笑って、そのまま僕をソファに押し倒した。あまり大きくないソファだから、二人で寝転がるには無理がある。はっきり言って狭い。小柄な僕ですら足を伸ばしきれなくて、膝を折って立てると、その足と足の間に篤志は自分の片膝をつき、もう一方は床に下ろして僕の上にのしかかってきた。
 狭っ苦しいところに無理矢理二人はまりこんで、いやがおうにも固く抱き合わねばのっかってなんていられない。そのまま篤志はもう一度僕にキスをした。
 そして上半身を起こすと、僕の制服のシャツの前をゆっくりと開けて、胸をさらけだした。小さく波打っているそこに唇を押し当て、舌先で柔らかく舐めた。彼が触れた瞬間、僕はヒクッと息を飲んだ。
 舌が僕の乳首をとらえる。僕は小さくつぶやいた。
「やだ……」
 でもそんな言葉とは裏腹に、そこはすぐに固くなって篤志の舌をねだるように押し返す。ちろちろと先端をくすぐられると、僕は耐えきれずに声をあげた。
「あん……! ん……や……。いや……」
 僕は胸に弱いんだ。篤志にそうされるまで自分の体にそんな感覚があるなんて思ってもみなかったけど、そこを愛撫されると耳の奥がざわざわっとして、どうにも我慢できなくなる。体の中心がいっぺんに熱くなって、どこもかしこも敏感になってしまう。そのくせじれったくて、苦しくて、爆発できない快感が体中に溜まっていく。
「篤志、篤志……、や、やだ……だめ」
 篤志はちょっとだけ唇を浮かせて、呆れるように鼻で笑った。
「感じてんだろ?」
「や……胸、やなんだ。苦しい……」
 そう言ってるのに、篤志はわざとまた口をつけて、強く吸い上げた。
「あっ!」
 体が大きくのけぞった。と同時に目頭が熱く潤んで、涙が溢れた。慌てて押し隠そうと手の甲で覆ったけれど、それは一筋のしずくとなって頬をつたって流れ落ちた。
 篤志は満足げにそれを見ながら、おかしそうに言った。
「一度胸だけでいかせてみようか?」
 僕は真っ赤になりながら口を尖らせた。
「……バカ」
「夕日ならいきそう……」
 憎らしい言葉を吐きながら、彼は執拗に胸への愛撫を続けた。僕は篤志の柔らかな長い髪に手を突っ込み、応えるようにまさぐった。
「篤志……あ、うん……う」
 声が押しとどめようもなく唇からこぼれ出た。
 僕はこんな時に彼の名を口にできる幸せを感じた。少し前まで、呼びたくても呼びようがなかった愛しい者の名。それを言えるってのがこんなにも素晴らしいことだったなんて。
「ね……やだ、もうだめ……篤志、変になりそ……ああ……」
 僕がいよいよもって音を上げると、ようやく彼は唇を離して、上から僕を見下ろした。
 キツイ瞳。それが食い入るように見つめている。その眼差しの中にいると、僕は魅入られたようにしびれてしまって、身動きひとつできなくなる。だから彼の指が僕のズボンのベルトを外し、チャックを下げて、ゆっくりと下着ごと体から奪っていくのを、従順に許していた。
 シャツも脱がされて素っ裸にされた僕を、篤志が表情ひとつ変えずに見下ろしている。僕は羞恥に身が細る思いがした。
 彼の前でこんな姿をさらけ出すのは今更のことだけど、何度体験しても慣れることはなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、耳たぶまで赤くなって、僕は視線から逃れるように顔を背けた。どうしてなんだろう? きっと、あの瞳のせいだ。なにもかも見透かしてくるような、鋭い篤志の目のせいだ。あの瞳が、最初っから僕を狂わせたのだから。
 篤志は自分も素早く服を脱ぐと、また僕の上にのしかかってきた。素肌の触れ合いが気持ちいい。ひやりと冷たい彼の体が、火照った僕の体を心地良く冷やしてくれる。だけどすぐに彼の唇が僕の上を這って、肉体はまた熱く燃え上がった。
 すでにあさましいほど固くなっている僕のものに、篤志の唇がそっと触れた。僕は瞬間電気が走ったような感覚に襲われて、全身をひきつらせた。
「……!」
 舌が優しく舐め上げる。涙がじわりと溢れ出た。
「ああ……」
 ため息みたいな僕の声。唇を強く噛んで、溢れる声と涙を必死でこらえた。
 その快感は抑えようがなかった。まるで沸きあがる泉のように、どんどん身の内から膨れあがってくる。僕は彼の愛撫を受けながら、ソファのヘリをギュッと握って、叫び出しそうになってしまう自分と懸命に戦っていた。
「んん……! くぅ……ああ、篤志ぃ……あああっ」
 と、ふいに彼が僕を見放し、身を離した。僕は突然放り出された驚きと不快さに、閉じていた目を開けて彼を見た。
 篤志は茫然としている僕の腕をつかんで引き起こすと、するりと体を入れ換え、今度は自分がソファに座った。足を投げ出すようにかなり浅く腰掛けている。固く立った彼のものが僕の目に飛び込んできて、僕が思わずそれに釘付けになると、彼は僕の腕をひいて優しく誘った。
「来いよ、夕日」
「え……?」
「おまえが上」
 僕は驚きと戸惑いに返す言葉をなくした。
 僕が上って、……それって、騎乗位ってやつ? でも男同士でそんなことできるわけ? ほんとに?
 ビックリしてためらっていると、篤志がじれったそうにもう一度声をかけた。
「夕日。さあ」
 さあ……って言われても……。
 初めてのことに、僕はどうしても不安を隠せなかった。だけどいやとも言えなくて、とっさの時間稼ぎに、僕は彼の前に膝をついて顔を寄せた。そして照れくさそうに少し笑って、彼のものに唇を寄せた。
「待ってて。少しだけ」
 僕はそう言うと、彼のものを口に含んだ。ピクンと篤志が体を震わせたけど、だめだとは言わなかった。
 口の奥までくわえこんで、ゆっくりと舌を這わせて、そしてまたゆっくりと引き抜く。でも最後まで離すことなく、また同じことをくり返す。僕は何度もそれを続けた。固い彼のものがいっそう固く張り詰めていくのがわかる。篤志の手が僕の髪の中にもぐりこんできて、優しく髪を乱した。
(篤志……好き……)
 僕は心の中で幾度もそうつぶやきながら、愛しい者の体を貪った。
 そうしているうちに、自分の体の奥にも、いったん薄れかけていた火がまた燃え上がり始めるのを感じた。彼を愛撫しているのに、自分までもが心地よく酔っていく。ひとつになりたいと、体が欲する。
 やがて篤志がせかすように僕の頭を軽く引っ張った。僕は唇を離すと、立ちあがってゆっくりと彼の上にまたがった。
 まだ少し怖かったけど、でももう惑いはなかった。僕自身が、彼とつながりたい、彼をこの身に受け入れたいと切望していたから。
 彼に導かれて、僕はおずおずと腰を下ろした。先端が僕に触れた時一瞬驚いて身を引いてしまったけれど、またもう一度試みた。
 篤志のものの先から透明な滴が溢れていて、僕はそれを潤滑油代わりにして少しづつ少しづつ身を埋めていった。
「はぅ……!」
 彼が入ってきて、僕は大きく息を飲んだ。いつも彼を受け入れるのとはまた全然違った、不思議な感覚だった。それは自分の意思を持って彼に身を許しているのだという強い屈服感のようでもあり、また逆に彼を飲み込んでいる支配感のようでもあり、なんとも表現のしようがなかった。
 彼のすべてを受け入れた時、僕はいつにない緊張の為か、ハアハアと荒く肩で息をしていた。
 つながった部分から熱い快感が広がっていき、じっとしていても体の奥でぐんぐんと炎が膨れ上がっていく。僕は眉をひそめ、体を倒して篤志の肩にすがりついた。
「……あっ」
 ちょっと身を動かしただけで、全身にしびれるような快感がかけ抜けた。
 すごい。僕の中に、篤志がいる。僕の中がすべて篤志で埋まっている。なにもかも彼に支配されている……。
「あ、篤志……」
 せつなげに声を漏らすと、彼が応えて、両手で僕の頬を挟んで真正面から見つめた。汗で額にはりついた髪を、指で優しくかきあげてくれる。そしてそっとキスをした。
 それと同時に、下からぐんと突き上げられて、僕は大きくのけぞった。
「ああうっ!」
 思わず悲鳴をあげた。だけどそれは快楽の叫びだ。歓喜に酔った淫らな悲鳴だ。
 何度も何度も突き上げられて、僕は篤志の体の上であられもなく乱れまくった。
「あっ、ああっ、うあ、は……はあっ!」
 髪を振り乱し、羞恥も忘れて激しくあえいだ。
 初めての行為はたまらなく淫らで刺激的だった。僕というもののなにもかもが消えうせ、ただただ快感を貪るだけの肉体になってしまったような感じがして、沸きあがる欲情を抑えることができない。
 僕はなかば朦朧としながら、それでも快楽を現す声だけは、ほとばしるように唇から溢れだした。
「篤志、篤志! いやぁ、うあ……あああぁ、ふ、うあぁ」
 途中から叫んでるんだか泣いてるんだかわけがわからなかった。ほとんど号泣に近いような声をあげながら、僕は快楽に溺れ、狂った。いったい、いつ極みまでかけのぼり、いつ自分が絶頂を迎えたのかもわからないほど、すべてを忘れて溺れまくった。
 そして……気がついたら、僕は彼を受け入れたまま、ぐったりとその胸に抱かれていた。全身から力の抜けた僕の体を、篤志がたくましい腕でしっかりと抱きとめてくれている。僕は大きく息をついた。
 耳元で篤志の声がした。
「気がついた? 夕日」
 僕はいまだ朦朧としたまま応えた。
「……うん」
「腰、ちょっと浮かせられるか?」
 僕がなんとか少し腰を上げると、そこからスルリと彼が離れていくのを感じた。快楽の余韻に一瞬ざわりと全身が震えたけれど、すぐにまた脱力感が襲ってくる。篤志は僕を横抱きにして膝の上に乗せると、子供を抱くように胸の中にかかえてくれた。
 僕は彼に抱かれながら、夢の中を漂うような心地よい気だるさを感じていた。
 篤志がそっとささやいた。
「ごめん。きつかったか?」
 僕はうっすらと瞳を開けて彼を見た。
「……ん、なんか……よくわかんなかった。感じすぎて……」
「気持ち良かったか?」
「死ぬかと思ったよ……」
 篤志がおかしそうにくすくすと笑った。こんな風に笑う彼なんて珍しい。僕、そんなに変なこと言ったのかな?
 またもや珍しく饒舌に、彼は上機嫌で話しだした。
「夕日って、めちゃくちゃ感度いいよな。こんなに感じまくる奴って初めてだ」
 僕は彼の言葉を聞きながら、内心ちょっとむっとした。篤志ったら、機嫌がいいのはかまわないけど、自分が墓穴掘ってることに全然気がついてない。僕はしらっとして尋ねた。
「ふうん。そうなの?」
「ああ。女だって、こんなに感じる奴はそうそういないんじゃないかな」
 墓穴の上塗り。僕は冷ややかな声で意地悪く問いかけた。
「それって、何人くらいと比べてるわけ? 篤志ってそんなにいろいろやってるんだ」
「え?」
 今更ながらに自分の言った言葉の意味を悟ったのか、篤志は思いっきりうろたえてみせた。
「あ、いや、その……そんなにやったわけじゃ……いや、えーと」
 いつものクールさをどこかに置き忘れたみたいに、篤志ったら目を白黒させてうつむいた。僕はなんだか少し可哀相になってしまって、早々に助け舟を出してやった。
「いいよ、別に。前のことなんか、どうだっていいもん」
 そう言いつつも、僕はそっと彼の頬に手を触れ、ねだるように瞳を向けた。
「でも……今は僕だけだよね?」
 すぐさま篤志がぎゅっと強く抱きしめて応えた。
「当たり前だ」
 少し怒ったような、ぶっきらぼうな答え方。それは彼らしい実直でストレートで、そしてどうしようもなく不器用な愛情表現だ。僕は彼の体を抱き返した。
 彼を愛してる。
 篤志も、僕を好きでいてくれる。
 僕はそれを心から信じてる。だけどその心のもう一方で、どうしても消えない別の思いが存在しているんだ。
(理香さんのことも……こんな風に抱きしめたのかな……?)
 僕はあいつの胸の中で、そんなことを考えていた。そして、そんなことを考えてる自分が、どうしようもなくいやだった。


 先にシャワーを浴び終えて支度を済ませていた僕は、篤志が長い髪を濡らしたままやって来て、しずくをぽたぽたと肩に落としながら服を着るのを、黙って見つめていた。
 相変わらず体のあちこちに痣がいっぱいついていた。少し前のものから、ついたばっかりのようなものまでいろいろだ。見てると痛々しくって思わず眉をしかめてしまう。もっとも本人は慣れっこらしくて、全然気にしちゃあいないようだけど。
 僕は彼を見ながら、おずおずと話しかけた。
「あの、さ……」
 篤志は顔を上げ、なんだと言うように僕を見た。僕はためらいがちに言葉を続けた。
「あの……今度の日曜さ、あいて……ない、よね?」
 彼がちょっと意外そうに目を見開く。こんな風に約束の日以外を誘うのは初めてだったから、びっくりしたのだろう。だけどすぐに申し訳なさそうな表情がその顔に浮かんだ。僕は慌てて否定するように手を振ってみせた。
「あ、いいんだ。ちょっと聞いてみただけだから。篤志が忙しいのわかってるし」
 篤志は形良い眉をしかめて、すまなそうに言い訳した。
「ごめん……。週末はマシンのセッティングがあって……。来月でかいレースがあるんだ。それに向けて今、調整中で」
「うん、本当にいいんだってば。僕のほうこそごめん。わかってるのにワガママ言っちゃって。それに、別に用事がある訳じゃないんだ。ただなんとなく聞いてみただけ……。も、もし暇なら映画でもって思ったんだけど、でも特に観たいものがあるわけでもないし、それに考えてみたらお小遣いだって今月ちょっとピンチだったしさ……」
 僕が焦ってくだらない言い訳を言い連ねていると、篤志が近寄ってきて、ついと僕の肩を引き寄せた。
 ふわりと長い髪が頬をくすぐり、そっと胸に抱き入れられる。
 優しい声が耳元で聞こえた。
「ごめんな」
 その声を聞いた途端、僕は胸がきゅんとした。なんて強烈な殺し文句だろう。一言で世界中のなにもかもを許せる気分になっちまう。
 僕は彼の背中に手を回して、無言のまま、ぎゅっと抱きしめた。
 篤志……大好き。
 どうしてこんなに好きなんだろうって思えるくらい、愛してる。
 だから一秒でも長く一緒にいたいと思って口にしてしまったワガママなのに、きみはちゃんと受けとめて応えてくれた。
 そして僕はいっそうきみに惹かれていく。僕の心がきみに埋まっていくんだ、篤志……。
 ふと篤志が僕の体を引き離して、正面から顔を見て言った。
「夕日……。おまえ、一緒に行くか、セッティング?」
 思いもがけない言葉に、僕はしばし面食らって目を丸くして彼を見返した。そしておずおずと聞き返した。
「……って、いいの? ついていっても?」
「別にかまわないとは思うけど……でもきっと、つまんないぜ。今週は走るわけじゃないし、ただガレージで作業するだけだから。見てても退屈なだけだ」
「ううん、そんなことない。見てみたいよ、僕」
 僕が身を乗り出してそう言うと、彼は少し疑わしそうに小首を傾げた。
「でも夕日、バイクに興味ないんだろ? 暇だぜ。いいのか?」
「うん、僕行きたい。本当に一緒に行っていいの? 連れて行ってくれる?」
 僕があんまり目を輝かせて彼に迫ったものだから、篤志は口元にちょっぴり面食らったような微笑を浮かべてみせた。
「ああ、いいぜ」
 僕は嬉しくって、彼の首に飛びついた。
 本当に嬉しかったんだ。だって、僕はずっとレースの世界の中の彼には、踏み入ることは許されないって思いこんでいたのだ。僕に許されているのは朝の電車の中でのひとときと、このマンションで逢う週に二回の時間だけ。それ以外の彼は、僕を欲してはいない、彼の世界の中にむやみに立ち入っては行けないのだと思っていたのだから。
 だから彼自身が扉の向こうに誘ってくれて、僕もその世界に入ることが許されて、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
 篤志は、何故僕がそんなに喜んでるのかわけがわからない様子だったが、それでも笑顔を返してくれた。
「じゃあ、日曜日十時にあの駅で待ってるから」
「わかった」
 僕は満面に笑みを浮かべてうなづいた。篤志はまだなんとなく不思議そうだったが、それでも僕が喜んでいるのを見て、彼もまた嬉しそうに微笑んだ。
 節の太い大きな手で、僕の髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。きついけれど優しい瞳が、じっと僕を見つめていた。
 そんな彼を見つめ返しながら、僕はまたもうひとつ僕たちの間に新しい道がつながったのを感じていた。
 だけどそれは、とても細くて、曲がりくねった、先の見えない道であった。

 
     
                                            ≪続く≫
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