ケンブリッジの午後 |
3 懺悔と裏切りと…… |
クリスマスの季節がきた。 いつもは静かなこの街も、この時ばかりはうるさいくらいににぎやかになる。 あちこちにもみの木が飾られ、肉屋ではターキー予約受付の看板が下がり、教会は献金を声高に叫ぶ。 扉には緑のリース、ラジオからは賛美歌、子供たちは靴下の穴を繕う。みながジングルベルに浮かれている。 俺はといえば、この時期あちこちで人手が足りないのか、いつにもまして忙しく、下宿に戻るのはいつも深夜だった。 学校なんかしばらく行ってない。学生であることすら忘れてる。 たいていは先に帰っているアルバートの部屋のドアを、俺は静かに開けた。 彼は眠っていた。 こいつも疲れているんだろう。 これまでとはうって変わった日々の連続。それにこいつは仕事の合間にちゃんと学校に通ってる。りっぱなものだ。 それでも半年前に会った時より、手が荒れ頬がすっかりこけているのは、ひとりで生きている証拠だ。 俺は彼の頬に手をあてようと腕をのばし、冷たいかな、と考えてひっこめた。その時アルバートの手が伸びてきて、俺の手をとらえた。 俺はちょっとびっくりし、微笑んだ。 「起きてた? いや、俺が起こしたのかな」 「そろそろきみが帰ってくる頃だと思って。おかえり。寒かったろう、お入りよ」 彼は布団の口を開け、俺を誘った。 「コートを着たままだ」 「脱げよ」 「ジーンズが汚れてる」 「脱げよ」 「体が冷えてるんだ」 「だから僕があっためてやるよ。早く入れってば」 俺はTシャツ一枚になって奴のベッドにもぐり込んだ。 中は暖かかった。暖房のスチームはとうに切れていたけれど、そこだけは天国だった。 アルバートの熱い素肌が優しく俺をつつみこむ。あまりの気持ち良さに、疲れが急に襲ってきて、俺はやたらと眠くなった。 カーテンのない窓からは、向こうの通りの飾りつけがよく見えた。 まるで夜空にきらめく星のようだ。 こんな真夜中なのに、どこからかクリスマスソングが聞こえてくる。 陽気なベルの音。浮かれたメロディー。それがいつしか賛美歌に変わり、やがて女声のアベマリアが流れてきた。 シューベルト、いや、グノーだったかな? どっちだったか忘れちまった。 一週間はやい、俺たちのクリスマス。 暗い部屋の中で、抱きあって、無言でそれを聞いていた。 とても寒い夜だった。 イブ。 その目の回るような忙しさ! ディスコでは夜どおしのどんちゃん騒ぎで、誰もクリスマス礼拝になんかいかない。華やかに着飾って、大声あげて踊りまくる。 プディングやらクリームの残骸があちこちに散らばって、汚いことこの上ない。それでも気にせず騒いでいる。あとかたづけするものの身にもなれってんだ。 おまけにエンドレステープのように次から次へと持ちこまれる皿の山。 俺もアルバートもひとっことも喋らずひたすら働き続けて、最後の一枚を仕上げた時には、ほとんど夜明けに近かった。 「ごくろうさん。あとは明日にして、今日はもう帰んな。こいつはみやげだ。メリー・クリスマス!」 俺たちは残り物のチキンとチップスをもらって、店を出た。 外は霧が出ていてひどく寒かった。 さすがに人けのなくなった大通りを、ぴったりとくっついて歩いた。行き交う車もほとんどなく、ふたりきりの街のようだった。 教会の前を通りかかった時、アルバートが急にお祈りをしようと言いだした。 「あいてるのか?」 「あいてるさ、一晩中。ジーザスにハッピィバースディを唄ってあげよう」 彼の言った通り扉はまだあいていて、たくさんの蝋燭に火がともっていた。 オレンジの光の中、薄汚れた祭壇が厳粛な美しさを見せている。 中央に置かれた十字架のまわりに、真っ白な花が飾られていた。 「……きみを初めて見た日のことを覚えてる」 アルバートが唐突に話しだした。 「去年のイブだ。僕は祖母の形見のクロスを落としたのに気づいて、真夜中だったけど、ここに探しにきていた」 彼は、祭壇に向かってゆっくりと歩きながら語った。 「誰もいなかった。僕ひとりで……。やってきたきみは、ベンチの間でかがんでいた僕に気づかず、正面のドアからまっすぐに歩いてきた」 蝋燭の炎が搖れる。アルバートの顔にかかる影も搖れる。 「きみは祭壇の前で止まり、じっと見つめていた。なにかを祈っているのかと思った。それくらい真摯な眼差しだったから。ーーそしてきみは……、きみは祭壇に上がると、十字架に近寄ってひざまづき、その裾に……くちづけした。僕は、声をかけることすらできなかった。あまりにも神聖で。僕はその場に居合わせたことを神に感謝した。それは僕にとってほとんど神の啓示に近かったんだ。見ているだけで……涙が溢れた」 彼は目を閉じ、話し続けた。 「僕はずっと悩んでいた。僕のまわりの虚構について。ーー僕の父は敬謙なクリスチャンで、毎年たくさんの寄付と献金を欠かしたことがなかった。イブには家族揃って礼拝にゆき、そのあとはディナーとお祈り。祝福のキス、ツリーの下のプレゼント。そんなものを疑ったことはなかった。ずっとそれが真実だと、僕は信じていたのだ。ーー十三の歳、母が別居を決め、出ていった。その時僕は初めて知った。僕をとりかこんでいた偽りの世界を。若い女をかこっていた父。あっさりと子供を捨てていった母。何年も子供の前でしか会話をしていなかった夫婦。そして脱税の格好のカムフラージュだった寄付金。かたちだけの信仰、かたちだけの家族。僕の真実は全部嘘だった」 語るアルバートの横顔は、苦悶に歪んでいるのに見とれるほど美しかった。 「ひととき両親を憎んだ。だが、それもまた虚しかった。僕は自分が何を望んでいるのかわからなかった。なにが必要なのかもわからなかった。ーーそんな時、きみを見た。そして知ったんだ。僕が望んでいたのは、毎年欠かさず礼拝で賛美歌を唄うことでも、真面目な顔で神父の説教に耳をかたむけることでも、家族でイブを祝うことでもなかった。僕はーーそう、くちづけをしたかったんだ。きみのように。キリストの足元にひざまづいて、他の誰のためでもなく自分のために、生きる喜びに胸を震わせ、ここにいることを感謝したかった」 アルバートは一歩一歩、ゆっくりと祭壇を上がっていった。階段を登りきって顔をあげると、つぶやいた。 「そう。ずっと……こうしたかった」 彼はひざまづいて十字架のすそにくちづけした。 「いまの僕にはなにもない。でもすべてがある。やっと心から、この世に生まれたことを感謝することができる」 そしてアルバートは祭壇を降りてくると、俺の前にきてひざまづき、かがんで俺の足先にキスをした。 俺は黙ってそれを見ていた。なにも言えなかった。 彼は立ちあがると、俺の肩に頭をのせ、ささやいた。 「愛してるよ、ケイン。あの晩から、ずっときみを想っていた。そして……ずっときみを愛する」 俺たちは神様の前でくちづけした。永遠のように長い時間を。 苦くて、つらいーーキスだった。 「ケイン」 オースティンが通路のむこうで俺を呼んでいる。 俺はちらりとアルバートを見てから、彼のもとへと走っていった。 「なに?」 「今夜、バイトどう?」 背中にアルバートの視線を感じる。俺は小さくうなづいた。 「ああ、いいよ」 「ほんとに?」 オースティンはあごでうしろを指し示しながら、疑いぶかく聞いた。俺は上目使いににらみつけた。 「気になるなら誘うなよ」 「ふふん」 彼は鼻で笑って、ホールに戻っていった。 俺はまた洗い場に戻って、アルバートの横に並び、皿を洗い始めた。 アルバートはなにも聞かなかった。だがときおりむける眼差しが語っていた。 なぜ、と。裏切るのか、と。 だが俺はなにも答えず、なにも話さず、ひとっことも会話もしないまま、ひたすら作業を続けていた。 仕事が終わったあと、俺はアルバートには目もくれず、身をひるがえして下宿とは反対方向のオースティンのフラットへと駆けていった。 フラットはグリーンパークの向こう側にあった。 ドアの鍵はあいていて、俺は声もかけずに勝手に入った。 オースティンはシャワーを浴びてる最中で、俺は服を脱ぎ捨てさっさとひとりベッドにもぐり込んだ。 枕元の小さなテーブルの上に、銀色のシガレットケースが置いてあった。手に取って開くと、つんと甘い匂いがした。 「先週ロンドンで手にいれた。上物だぜ」 シャワーから出たオースティンが、この寒いのに素っ裸で出てきて、ベッドの縁に腰掛けた。 俺は奴の手からタオルを取って、彼の肩にかかる柔らかな黒い髪を拭いてやった。 「まだ、やってるのか?」 「いつもじゃない。セックスの時だけさ。ーーああ、今日はしないよ。おまえは嫌いだものな」 オースティンは首を傾けてキスをねだる。軽く耳たぶを咬んでやると、深く熱い息をはいた。 俺はその耳もとでささやいた。 「……もらってもいいかな、それ」 「どうぞ。でも珍しいな、ケイン。おまえが自分からやりたいとはね」 俺はケースから一本とりだし、マッチを擦って火をつけた。二・三度吸い込むと、頭の芯がくらくらした。 オースティンが俺の指から抜き取って同じように吸う。ゆっくりと交替しながらそれをくりかえす。そのうち、彼は俺からそれをとりあげ、灰皿に押しつけた。 「あんまり急にやりすぎると吐くぜ。もう充分だ」 火は消えず、灰皿の中でいつまでも煙がたちのぼった。 「ああ、気が遠くなるな。いい気持ちだ」 「ひとりでいくなよ。俺も一緒につれていってくれなきゃな。じらすなよ、ケイン」 オースティンが優しく俺の首にからみついてくる。 紫色の煙の中、俺たちは溶けたアイスクリームのようになって抱きあった。 俺は酔っぱらった頭で、なぜここにいるのか、ひどく不思議に感じていた。 アルバートの顔が何度も浮かび、そして消えていった。 オースティンが台所でコーヒーをいれていた。 彼のいれるコーヒーは最高に旨い。部屋中に苦い香が充満する。 時計は朝の三時をまわっていた。 カップを受け取り、ベッドの中で並んで座ってそれを飲んだ。マリファナをやった後はたいてい頭痛がしたが、今はとても気分がいい。かわりにひどく眠かった。 肩にもたれてうとうとしている俺に、オースティンが優しくささやいた。 「泊まっていけよ。もう遅い」 「そうだね。いまから帰る元気はさすがにないな」 「でも……ぼうやが待ってるかもな、寝ないでさ」 そうかもしれない。きっと一晩中あいつは窓の外を眺め、階段の足音に耳をそばだてているだろう。 オースティンが俺の肩を抱きながらつぶやいた。 「ケイン、一緒に暮らさないか?」 「俺と? ふふ、冗談だろ。誘う相手を間違ってるぜ、あんたほどの男が」 「そんなことはないさ。だが……断わられるとは思ってたよ。あのぼうやがいる限りね」 俺は返答できなかった。 しばらく沈黙し、そして言った。 「一度も寝てないんだ、あいつと」 オースティンは驚いて目をむいた。 「嘘だろ。そんなにお堅い子なのか?」 「奴が堅いんじゃないよ。俺がだめなのさ。あいつの前じゃ、こいつも哀れな役たたずだ」 俺は笑いながらペニスを指で弾いた。オースティンがそっと手にとって、くちづけしてくれた。 「いじめるなよ。俺のかわいいハニーだぜ。ーーうまくいってないのか、おまえたち?」 「よくわかんないよ」 「なら俺と暮らせよ」 「……だめだ。あんたを愛してない」 「ひどいな」 「愛してないから、ほっとする。愛してない分、あんたが好きだ」 俺はオースティンの胸に頬を寄せ、子供のように腕の中に身を預けた。 オースティンは呆れたように微笑み、少し悲しげにつぶやいた。 「ばかだな、おまえ」 それはとても優しい言葉だった。 俺は彼の胸の中でぐっすりと眠った。何日ぶりかの、安らかな眠りだった。 彼のフラットを出たのはもう昼近かった。 下宿の部屋のドアをあけると、俺のベッドの上にアルバートが眠っていた。 服を着たままだ。待ちこがれて、知らないうちに眠ってしまったというみたいに。 俺は肩を揺さぶり、声をかけた。 「起きろよ、アルバート」 彼はびっくり箱のようにはじけて起き、俺を見て泣きそうな顔になった。 俺は冷たく見おろしたまま冷やかに言った。 「寝るなら自分のベッドで寝ろよ。俺も少し休みたいんだ。バイトの時間まで」 アルバートは唇を咬み、青い顔をしてじっと俺を見返した。 「……一緒に寝ようとは、言ってくれないんだね」 「疲れてるんだ。ひとりで寝たい」 「そう。そんなに一晩中楽しんだわけか。いい夜だったろう。どんなふうに楽しんだのか聞かせてよ、ケイン」 俺は奴をひっぱたいた。 ぱしりと高い音が響く。 アルバートは頬を押さえながら、やけっぱちな笑みを見せた。 「愛してるよ、ケイン。僕はきみを愛してる」 声が震えていた。 「……よせ」 「きみが誰を愛しても、誰となにをしようと、きみが好きだ。きみだけだ」 「やめろ、アルバート!」 「なぜだ、ケイン!」 アルバートは飛びかかってきて、俺の胸ぐらをつかみ、しめあげた。 「どうして僕じゃだめなんだ! 愛してるといっておきながら、僕だけだと言いながら、僕から逃げる、他の男と寝る! なぜ! 僕のなにがいけないんだ。教えてくれよ、ケイン!」 緑の目からぽろぽろと涙がこぼれた。 「ケイン……、こんなの、つらいよ。たまらない……。僕を抱いてくれ。お願いだから。一度だけでもいい。そうしたらもう、なにもいわない……」 彼は俺にすがったまま、泣き崩れた。 なにもできなかった。黙ってつったって見おろしていた。 俺になにができるだろう。謝罪して、抱きしめて、キスして、それがなんになる。彼の望みをかなえてやれない俺に、いったいどんな慰めの方法があるというのだ。 俺は血がにじむほどに唇を噛みしめた。 アルバートの苦痛は俺の苦痛。いや、それ以上だ。何倍もだ。すでにもう、涙すらもがでない。 その時ーー突然ノックの音がした。 「ケイン、いるんだろう、ケイン」 大家のばあさんの声だ。 「あんたのじいさんから電話だよ。急ぎの用だってさ。早くでな」 俺は戸惑いながらアルバートの体をふりほどき、彼を残して階段下の電話置き場にむかった。 一度大きく深呼吸し、受話器を取った。 「もしもし、俺だよ」 久しぶりに聞くグランパの声は、低くしわがれていた。 「ケインか? おまえな、すぐに帰ってくるんだ。汽車はまだあるだろう?」 「なんだよ、急に。なにかあったの?」 「……アンがな、おまえのかあさんが……死んだんだよ。だから帰ってこい」 俺はしばし返す言葉を忘れ、そして小さく返答した。 「……わかった。帰るよ」 静かに受話器を戻し、少しの間その場に立っていた。 それから手擦りにもたれ、ゆっくりと階段を登り、のろのろと廊下を歩いた。 部屋にはまだアルバートがいた。 俺は無言で彼の横をすり抜け、ベッドの下からぼろぼろのバッグを取りだし、何枚かのシャツや下着をつめこみ始めた。 アルバートが不安そうにたずねた。 「ケイン、どこに……行くの? まさか」 「家へ帰る。二・三日戻らない。ーーおふくろが死んだんだ。葬式にでなきゃ」 ≪続く≫ |