ケンブリッジの午後

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4    天使を抱いた日……                      
 
 俺の生まれたところは、ケンブリッジから汽車で三十分くらいの、エリィというちっぽけな田舎町だった。
 観光になるものなんかなにひとつないから、旅行客もこない。静かでつまらない町。あるのは古くて倒れかけてる家々と、数件のドラッグストア、細い道。
 おふくろの葬式の日、珍しく雪が降った。
 薄汚れた町並みが一瞬の間だけ白く染まる。あいつにはもったいないような、天からの贈物だ。
 それとも、やっとあいつも許されたのだろうか。その命とひきかえに。
 医者は睡眠薬の飲み過ぎだと言った。酒に酔い、もうろうとしたまま量を間違えたのだろうと判断した。
 おかげでちゃんと教会で式をあげてもらえたし、墓地の片隅にも埋めてくれた。
 そう、あいつは自殺なんかする気もなかったに違いない。死ぬ気なら、もうずっと前にそうしていたろう。俺が生まれる、その前に。
 あいつが土に帰った翌日、俺は始発に乗り込むために朝早くグランパの家を出た。
 まだ夜中のように暗くて寒い。うっすらと霧がかかり、道には霜がおりていて、歩くたびに靴の下でかさかさと音がした。
 ずっとうつむいて歩いていた。
 悲しくもうれしくもなかった。
 決してあいつが好きだったわけじゃない。だが、その死を聞いて涙ひとつこぼれないほど嫌っていたわけでもなかった。
 俺はただ、逃れたかっただけなのだ。あいつから。
 俺を縛りつけるのはあいつだと、それが俺の鎖なのだと、心のどこかで信じていた。なにもかもがあいつのせいだと、ずっとその罪をかぶせてきた。
 なのに、あいつが死んだいま、俺は前にもまして重く苦しい。地獄の底を歩いているみたいに。
 なぜ?
 やっと自由になれたはずなのに。やっとひとりになれたのに!
 二十分ほど歩くと、小さな教会が見えてきた。
 おふくろの眠る場所。俺がこの町で唯一愛したところ。
 教会の壁にあるステンドグラスの天使が好きで、しょっちゅう遊びにきては、飽きることなく何時間も眺めていた。
 だがそれももう何年も見てはいない。葬式の間も、俺はずっと下ばかりにらんでいたから。
 通りすぎようとしたとき、朝っぱらから庭の掃除をしていた仕事熱心な神父さんが、俺を見つけて呼び止めた。
「ケイン、もう帰るのかね。葬式が終わったばかりなのに」
「学校があるから。バイトも休めないし」
「そうか。おまえも大変だな。始発に乗るのかね?」
「そのつもりです」
「じゃあまだ時間はあるな。中へお入り。お茶でも飲んでおゆき」
 気がすすまなかったが、世話になった神父さんの誘いを断わるわけにもいかず、しかたなく中に入った。
 礼拝堂はひんやりと静かだった。
「ちょっと待っておいで」
 神父さんはそういって、奥の部屋に消えていった。
 俺は一番後ろの椅子に腰掛け、顔をあげて左の壁を見た。すぐになつかしい絵が目に入ってきた。
 輝くような清らかな姿。白い衣をまとった金色の髪の天使。緑の目。
 両腕をまっすぐに前に伸ばし、誘いかけるように優しい眼差しをそそいでいる。以前と少しも変わらずそこにいる。
 俺が愛し、憧れた、汚れないもの。
「待たせたね。ほら、お飲み。体が温まる」
 戻ってきた神父さんは俺にティーカップを渡すと、並んで横に座った。十字をきってお茶を飲み始める。俺も一緒にすすった。
お茶は暖かく、おいしかった。
 彼は満足げにほうっと息をつくと、前を見ながら話し始めた。
「お母さんは気の毒だったね。まだ若かったのに。三十五だったか? ずいぶん早く神様に呼ばれたものだ。まあ、熱心な信者とはいえなかったが、私にはとてもよくしてくれたよ。アンとの別れは私も寂しい」
 俺は黙って聞いていた。この老いた優しいものは、誰が死んでも、悲しんでくれるに違いない。
「この世の中は、すこうしあの子には冷たくあたりすぎていたようだね。いまさら言ってもしようのないことだが、誰もあの子を救うことはできなかった。私もね。あんなふうに死なせてしまって、とても残念だ」
 神父さんは少しの間沈黙し、目を閉じ口の中でお祈りの言葉を唱えた。
「アンがおまえを連れてきた日の笑顔を、私ははっきりと覚えているよ。真新しい産着に包まれたおまえを、それは大事そうにかかえてね、誇らしげに顔をあげ、日曜礼拝の人の中をまっすぐに歩いてきた。父親のわからぬおまえのことを、いろいろとりざたする者も少なくなかったが、アンは笑って私にこう言った。この子の父親は神様だ。だからこの子は私の天使なのだ、馬鹿な私を救うために生まれたきたのだとね。確かに汚れない赤子のおまえは、天使のように安らかな顔で眠っていたよ」
「……そんなこと、知らない……」
 手の中のコップが震え、ティーの上に小さなさざなみがたった。瞬きひとつできず、俺はそれを見つめていた。
 神父さんは俺のそんな様子にも気づかず、穏やかに話し続けた。
「あの子はいつも人生に絶望し、酒に溺れ、自堕落に生きていた。だがおまえの話をするときだけは、瞳が輝いていたよ。私と違って頭がいいから、大学にいって学者にだってなれる、弁護士にだってなれる、それがあの子の口癖だった。きっとおまえに希望のすべてをたくしていたのだろう。世間にも自分にも失ってしまった夢を、おまえにだけは見ることができたのだろう。そう、アンにとって、おまえは神の国へ導いてくれる天使だったのだよ、ケイン」
 礼拝堂の扉がかたかた鳴った。風が吹きこみ、祭壇の蝋燭が消える。神父さんはあわてて立ちあがると、マッチをとりに走っていった。
 俺はカップを椅子に置き、別れの挨拶もせず黙って教会をあとにした。
 それ以上そこにいるのが耐えられなかった。聞きたくなかった。そんな話は……。
 俺が天使だなんて、そんなくだらない夢は……もう……。
教会から駅までは目と鼻の先にある。俺はいたたまれなくて夢中で駆けた。
 早くこの町を出たかった。ケンブリッジに帰りたかった。
 いや、違う。俺が帰りたいのはあの街じゃない。どこなんだ? どこでもない。この世の中のどこにもない。
 俺は、生まれる前に帰りたいのかもしれない。楡の木の上の、あの国へ。
 駅に着くと、人けは全然なかった。たったひとりの駅員がほうきで狭い構内を掃いている。
 俺はオレンジ色のベンチに座り、ロンドン行きの始発を待った。いかれたスチームはなんの役にもたってはいず、身が切られるほどに寒かった。   
 ホームに上りの汽車が着き、ひとりの客が降りる。こんな朝早く、この町によそ者がくるなんて珍しい。
 薄闇の中、シルエットが改札口を通り抜ける。その客はしばしその場にたたずみ、そしてそれからまっすぐ俺の前に歩いてきた。
 俺は顔をあげ、そいつを見、かすかに微笑んで挨拶した。
「やあ」
 そいつも答えた。
「やあ」
 そいつは薄手のシャツにジャケットを羽織っただけの、見るからに寒そうな出で立ちで立っていた。
 背中を丸め、おびえたような目で俺を見ている。言いつけをやぶってついてきてしまった小犬のような顔。
 俺は手を伸ばし、そいつを誘った。彼は身をかがめ、俺の腕の中に入ってきた。
「帰ろうか?」
「……うん」
 俺たちは肩を寄せあったままホームに入った。駅員がライトを振って、汽車の到着をつげている。
 アルバートが俺の肩にもたれ、すすり泣いた。
 また雪が降りだしていた。


 その日、俺たちは学校へも行かず、バイトもさぼって、一日中部屋にいた。一言も喋らなかった。
 夕方、もう暗いグリーンパークにゆき、冷たい風の吹きつける川沿いの道をずっと歩いた。寒そうに身を縮めるアルバートを、引き寄せて抱いて歩いた。
 黒い大きな犬が足元に寄ってきて、うさんくさそうに俺たちをにらむ。森のむこうから口笛がなったら、うれしそうに尾を振って駆けていった。
 自転車に乗った十三・四の餓鬼が、すれ違いざまにひやかしの罵声をはいてゆく。
 前には大学生らしい男たちがふたり、山ほどの本をかかえて歩いていた。
 なにか熱心に口論していたが、そのうち言い争いになって、ひとりが持っていた本を片方に押しつけ、走り去っていった。
 残された奴はぶつぶつ文句をいいながら落ちた本を広い集めている。俺たちが手をかしたら、笑って青い目でダンケと言った。
 公園はすっかり暗闇、水銀灯が寂しい光を落としている。
 ぐるっと一回りして、俺はアルバートの肩を離し、じゃあなと言った。奴はなにも言わず、素直に帰っていった。
 俺は見えなくなるまでそのうしろ姿を見送り、そしてオースティンのフラットにむかった。
 彼はいず、俺は彼が帰ってくるまで、ずっと部屋の前に座って待っていた。
 どうしようもなく寒かった。体も、心も。


 それから俺はずっと下宿に戻らなかった。
 いろんな男や女のところを泊まり歩き、半分はオースティンの所にいた。
 彼は優しく、なにも聞かず、俺たちはセックスもしないですごした。
 一度だけ裸で抱きあって、彼は俺の全身をなめた。
 怪我をした子猫をなめる母猫のように。

 
 一週間もすぎた頃、俺は日の高い午後、久々に下宿に帰った。
 部屋には誰もいなかった。くしゃくしゃだった俺のベッドがきれいにかたづけられている。俺は小さく鼻で笑って、ごろりとそこに寝転がった。
 あいつの匂いがするような気がした。
 アルバートに会いたい。心がずっと叫んでいる。
 会いたくて、会いたくて、そしてその半分で、俺は奴を恐れていた。
 しばらくぼんやりしていて、それから起きて服を着替え始めた。部屋を出ようとした時、ちょうどノックの音がして、開けると、そこにグランパが立っていた。
「グランパ! どうしたの? 入ってよ」
 グランパはゆっくりと入ってきて、ぐるりと部屋を見渡し、大きなため息をついた。手に小さな箱を持っている。どこかでみたことのある木彫りの模様だ。
 彼はベッドに腰掛けると、じっと俺を見つめ、静かに言った。
「学校にいってると思ってたよ。どうしたんだ、こんな時間に?」
「ああ。え、と、夕べ徹夜のバイトがあったんだ。これから午後の授業に出ようかと思ってた」
 俺のあからさまな嘘を、グランパは責めもせず、小さくうなづいただけだった。
「まあ、いい。おまえにはおまえの生活ってもんがある。私が口をだすことではないさ。それよりな、今日は小言をいいにきたんじゃないんだ。これを渡そうと思ってな」
 彼は手にした箱を差し出した。それは小さなオルゴールだった。俺はそれを受け取り、怪訝な目で見、たずねた。
「なんだい、これ?」
「昨日、アンの部屋を片付けていたら、ベッドの下から出てきたのさ。あけてごらん」
 蓋をあけた。ぜんまいが巻いてないのか、なんの音楽もならなかったが、かわりにたくさんの紙幣が飛びだしてきた。
 五ポンド札やら十ポンド札やら、どれも神経質なほどきっちりと四つ折りにされ、たたまれている。
「なん、だよ。これ……こんなにいっぱい、どうしたんだ?」
「一緒におまえの写真と、大学の案内書が置いてあった。きっとおまえを進学させたくてアンが貯めていたんだろう。全部で四百と二十三ポンドある。おまえのものだよ、ケイン」
 オルゴールを持つ手が震え、蓋がかたかたと鳴った。
「……そんな、……こんなもの、いらない。受け取れないよ。……俺はいやだ」
「そう言わずに受け取っておやり。あんな、その日暮しの生活から、それだけ貯めるのは大変だったろうさ。下のほうは古い札ばかりだ。長いことかかって貯めたんだろう。……だらしのないろくでもない娘で、さんざ遊びまわった末に、父親が誰かもわからない子どもをつくってしまうような馬鹿な子だったが、おまえにとって決していい母親ではなかったが、それでも……おまえだけは本当に愛していたんだよ。あの子の愛の証だ。頼む、頼むよ、ケイン……。アンを……許してやってくれ。どうか、あの子を……」
 言いながらグランパは額を押さえ、うつむいてすすり泣いた。
 しわだらけの頬を涙がつたい落ちる。俺は返す言葉もなく、黙ってその姿を見つめていた。
頭の中が真っ白で、なにも考えられなかった。
 やがてグランパは顔をふき、立ちあがった。
「用はそれだけだ。帰るよ。ーーケイン、そいつをなんに使うかは、おまえの自由だ。おまえの思うとおりにするといい。それじゃあな」
そう言い残して、グランパは帰っていった。
 グランパの帰った後、俺はずっと長い間、その箱をつかんでつったっていた。
なにをどう考えたらいいのかわからない。ただもう、押さえきれないような感情がこみあげ、体の中で爆発しそうなほど膨れあがって、そしてそれを放つすべを知らなかった。
俺は呆然とオルゴールを見つめ、立ちつくしていた。
 どのくらい時間がたったのだろうか。小さなノックの音が響き、そしてすぐにドアが開いた。
 アルバートだった。
 彼は俺がいたことに驚いて立ち止まり、意外そうにつぶやいた。
「ケイン、帰ってたのか」
 俺はなにも答えなかった。
 彼は俺の様子がおかしいのに気づき、いぶかしげな顔で近寄ってきた。
「ケイン? どうかしたのか? ケイン」
 彼の手が肩に触れた。その瞬間、俺はこらえていたなにかが弾けたのを感じた。
 俺は、手の中の箱を壁にむかって投げつけた。
 箱は、大きな音をたてて壊れた。
 きちょうめんなほどていねいに折られた紙幣が、雪のように舞い、床に散った。
五ポンドが、十ポンドが、あいつが気の遠くなるような時間をかけてつむいだ俺をつなぐ鎖が、ばらばらになって砕け散った。
 俺には見える。
 それは鎖だ。まぎれもなく。
 だがつながれていたのは俺じゃない。
あいつだ。あいつ自身だ。
俺は叫んだ。
「もうたくさんだ!」
「ケイン!」
  俺は絶叫した。
「もうやめろ! もうよせ! おまえはずっと俺を縛り続け、そして死んでまでも、まだそうしようとするのか! 俺を愛するな! 俺を求めるな! 俺は天使じゃない、おまえの天使なんかじゃないんだ!」
 駆け寄ると、散らばった金を握って、むちゃくちゃに壁をたたいた。
「もういいよ! やめてくれよ! わかってくれよ、かあさん。天使なんていないんだ、誰も誰かの天使になんか、なれはしないんだよ! 俺は天使じゃない、……あんたを助けてなんてやれない……。ステンドグラスの中の天使と同じなんだ……。手を伸ばし、微笑んでも、なにもしちゃくれない。黙って座って見ているだけじゃ、どこにも行けないんだよ、俺たちは!」
「ケイン、やめろ! 血が!」
「かあさん……、あんたは馬鹿だよ。それに気づかないまま死んじまって……。どうして……どうして俺を捨てなかった? 俺なんかほうっておいて、ひとりでゆけばよかったんだ。勝手に生きればよかったんだ! 俺なんか……夢みなきゃよかったのに……。かあさん……」
 涙が流れた。
 あとからあとから溢れ、子どものように声をあげて泣いた。
 俺は初めてあいつを哀れんだ。初めてその死を悼んだ。
 俺たちは同じもの。
同じように傷つき、同じように苦しみ、恐れ、逃げ、同じものに憧れた。決して得られぬものを夢みて、自分自身を縛り閉じこめたのだ。
かなえられぬ夢の世界へ。
馬鹿な人、馬鹿なかあさん。なぜ死んでしまったんだ。
いや、死ぬことで初めて俺をつかまえたのか。俺の心を、俺の愛を。
あなたの死は俺を目覚めさせる。俺は初めてーー悲しかった。すべてのことに。
 泣き続ける俺を、アルバートが優しく抱きしめ、子供をあやすように髪を撫でた。いつまでもそうしてくれた。
 そして俺は知った。
 アルバートは俺の天使だった。俺が夢み、求めていた天使だった。
 俺はずっと待っていたのだ。
 彼が現れ、そして俺を救ってくれるのを。
 彼は俺の夢、そしてーー鎖だったのだ。
俺がようやく泣きやんだ頃、アルバートは俺の顔をのぞきこみ、そっとたずねかけた。
「どうしたの? なにがあったんだ、ケイン」
 美しい目。緑の瞳だった。
 そうだ。どうしていままで気づかなかったのだろう。
 彼はあのステンドグラスの天使によく似ている。そっくりだ。ーーなにもかも。
 俺は答えず、じっと見返し、そして彼の肩をつかんだ。背中を抱き、体を引き寄せ、そのままゆっくりと床に押し倒した。
「ケイン?」
 唇をよせ、くちづけする。
 くちづけしながら、手を伸ばし、シャツのボタンをはずした。
さらけだされた白い胸に、俺は唇を押しつけた。
「ケイン……」
 アルバートがとまどったようにつぶやく。 

 その夜俺はーー天使を犯した。


 目が覚めると、部屋の中は真っ暗だった。
 かたわらでアルバートが眠っていた。
ぐっすりと、安らかな寝息をたて、子供のような無垢な顔をして寝入っていた。
 俺は彼を起こさぬよう静かに立ちあがって、窓ぎわに寄って時計を見た。もう朝の五時も近かった。
 思わずぶるっと身震いする。
 体が冷えきってる。無理もない。俺たちは全裸のまま、たった毛布一枚で床の上に寝ていたのだから。
 俺はベッドからありったけの寝具をはぎとって、眠っているアルバートにかけてやった。
 アルバートは小さくうなって寝返りをうつ。だが目は覚まさない。穏やかな寝息がする。
 俺は服を着ると、音をたてぬようにして散らばった金を拾い集めた。
 少し残した。先週と今週の分の家賃だ。
 そしてコートを羽織り、靴を履き、眠るアルバートの頬にそっとキスして部屋を出た。
 街は、ひっそりと静まり返っていた。
 誰もいない通りを、肩をすくめて足早に歩く。
 教会の前を通り、グリーンパークを横切って、オースティンのフラットへ行った。
 ドアをノックしたら、五回目くらいにやっと彼は起きてきて、びっくりしたように眠そうな目をこすった。
「どうしたんだ、ケイン。こんな時間に」
俺はかすかに笑って答えた。
「ごめん。起こしちまって」
 彼は真面目な眼差しで俺を見つめ、それから優しく微笑んだ。
「入れよ。コーヒーでもいれよう」
「いいよ。すぐにいくから」
「こんな早くに?」
「うん」
 オースティンはなにもかもわかっているような目で俺を見、そしてなにひとつ聞かなかった。
 俺は言った。
「昨日、天使を抱いたんだ」
「そうか」
「この街を出る」
「そうか」
「あんたにだけは、さよならを言いたくてきた。さよなら、オーズィ」
 彼は少しだけ悲しそうにうつむき、そして手を伸ばして俺の肩をひきよせた。
 耳もとで彼の甘い声がした。
「どこに行くんだ?」
「わからない。決めてないよ」
「また帰ってくるのか? この街へ」
 俺は無言のまま首を振った。
「おまえがいなくなったら寂しくなるな。俺は泣くぜ、ケイン」
 オースティンは体を離すと俺の唇にキスして、優しくささやいた。
「愛してたぜ、ケイン。元気でな」
「あんたもね、オーズィ」 
 そして俺達はもう一度キスして別れた。
 階段を降りる俺のうしろで、ばたんと戸の閉まる音がした。
 そうだ。オースティンは俺を見送ったりしない。
 彼は大人だ。彼は優しい。
 彼は夢なんか見ないのだ。
 

 俺は駅までの道をゆっくりと歩いた。
 ポケットに金、荷物はそれだけだった。
 教会の鐘が、まだ暗い朝もやの中、遠慮がちに時を告げる。
 駅に続くまっすぐな道を、俺だけが歩いていた。
 歩きながら、アルバートを想った。
 彼はまだ眠っているだろう。
 もう少し時がすぎ、日が登ってあたりを明るく照らしだし、あの部屋にもまばゆく朝の光が射し込む頃、あいつはようやく目を覚まし、そしてーー俺がいないことを知って泣くのだろう。
もう二度と俺が帰らぬことをさとり、悲しみ、嘆き、熱い涙を流すだろう。
 だが、それでもあいつはいつか立ちあがって、俺の部屋を出てゆくに違いない。
 身支度を整えて、いつものように学校にゆく。
 泣きながら歩きだす。

 俺は知っている。
 あいつは俺を忘れない。
 俺もあいつを忘れない。
 俺たちは違う誰かと寝るときさえ、互いのことを想うのだ。
 それでいい。それだけで充分だ。
 俺はもう、失うものはなにもない。すべてをなくし、そして手にいれたのだから。
 鎖をはなつ鍵を。夢を、天使を。歩くーー道を。
 駅からかすれた汽笛がした。霧で煙った街に、遠くまでそれは響いて消えた。
 俺は歩きだした。
 俺はこの街を出てゆく。
 だが決して忘れない。
 俺たちが出会い、俺たちが別れた、静かなるこの街を。
 ケンブリッジの、午後の日差しを。 
 
     
                                            ≪終≫
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