堕ちないで、BOY!

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--act  2                       


 脱衣場でノロノロと服を脱ぎながら、夏哉はたった今自分が口にした言葉にひどく後悔していた。
(一緒に入るなんて言わなきゃよかった……)
 相場より高い、という一言が頭にこびりついていて、なんだか余計にサービスしなければ申し訳ないような気持ちになっていた。だからついそんなことを言ってしまったのだが、考えてみれば、一緒に入るということは裸の肌をあわせるということなのだ。それはつまり、その場を早々に迎えてしまうということで、自分から進んで棺桶に足を突っ込んでしまうことで、まるっきり墓穴を掘ってしまったようなもので……。
(いや、ほるのは墓穴じゃなくて俺のけつか……って、自分でツッコミ入れてどうするんだよ? このバカ……。 ……いやいや、つっこまれるのは俺自身……だーかーらー、違う〜っ!) 
「はあぁぁ」
 思わず大きなため息が漏れ、夏哉は頭を抱えた。
 それでも自分から口にした以上は逃げる訳にはいかない。夏哉は素っ裸になると、そろそろとバスルームの中へと戻った。
 男はすでにたっぷりと湯の張ったバスタブの中で、のんびりと体を伸ばしていた。洋風の広い広いバスタブは、男の大きな体もすっぽりと抱き込んでまだ充分に余裕がある。
 夏哉は恐る恐る近づくと、消え入りそうな声で話しかけた。
「あ、あの……来た……けど」
 男は顔だけ向けると、相変わらずの冷たい口調で、ぶっきらぼうに言った。
「じゃ入れ。あ、先にちゃんと洗えよ。前も後ろも」
(ま、前に後ろ……ひゃあ……)
 なんだか露骨にそこだけが必要だと言われたみたいで、夏哉は頭がグルグルと回った。震える手にボディソープをつけて、おずおずと自分に触れる。そこは不安と動揺ですっかり情けなく萎れていた。
 夏哉はちらりと男を見た。男はなんだかまるで関心がないように、優雅に目を閉じて湯船に浸かっていた。そんな様子に夏哉はちょっとだけホッとした。ふぬけたモノを見られるのも恥ずかしかったし、何より自分でゴシゴシ前も後ろも洗ってる姿が、これからの行為を心待ちにしているようで、酷くいやらしく思えたのだ。
 視線を向けられぬうちに素早く洗い終えると、今度は顔色を窺うように男を見た。男はそれを感じたのか、薄目を開き、少しじれったそうに眉をひそめた。
「終ったら早く入れ」
「う、うん」
 夏哉は小さくうなづくと、そろそろとバスタブを跨いだ。が、緊張のためか体が思ったように動かなかった。膝が震え力が入らず、バスタブの縁に置いている手もがくがくと揺れている。
 ハッとした瞬間、手が浴槽の縁から滑り落ちた。
「あっ!」
 ほとんど腕だけを頼りにしていた体は、支えを失って思いっきり湯の中めがけて倒れ込んだ。
 ザブンと大きな音がして、湯が激しく辺りに飛び散った。
 気がつくと、男の大きな胸の中に全身を預けていた。思わず差し出した手がしっかりと男の首に絡んで抱きついている。唇が男の首筋にあたっているのを感じる。素肌の胸が、男の熱を持った肌にピッタリ合わさっている……。
 かあああっと顔が燃えるように熱くなった。
 背中には抱きとめてくれた男の両の手があって、それがひどくがっしりと捕らえていた。
「あ……う」
 我知らず漏らした声に、男が呆れたような返事を返した。
「おまえ、何やってんだ? 頭から湯をかぶっちまっただろうが、馬鹿野郎」
「ご、ごめ……」
「なんだ、緊張してるのか?」
 男は初めてほんの少しだけ気遣うような口調で尋ねてきた。夏哉はこくんと素直に頭をさげた。
「ウリは初めてなのか?」
 こくこくと何度もうなずいて、付けすようにつぶやいた。
「は、初めてだ……。なんもかんも……」
「なにもかも?」
 男は訝しげに眉をひそめ、冷ややかな口調で言った。
「まさかおまえ、男と寝たこともないって言うんじゃないだろうな?」
 再び夏哉がこくこくと力一杯頭を振ると、男は思いっきり不機嫌そうに顔をしかめた。
「おい、冗談じゃないぞ。俺はバージンは嫌いなんだよ。勘弁してくれ」
 男の意外な言葉と態度に、夏哉は戸惑ってつぶやいた。
「か、勘弁ったって……だって、初めては初めてで……」
「初めての奴を相手にすると、痛いだのなんだのギャアギャア煩いからいやなんだよ、俺は。……ったく、そうと知ってりゃ最初っから買わなかったのに……」
 男は吐き捨てるようにそう言うと、いかにもげっそりとした表情を浮かべ、後悔するように顔を背けた。夏哉は慌てて身を乗り出し、叫んだ。
「さ、騒がないから! 俺我慢するからっ!」
 苦々しげに冷たい視線を向ける男に鼻先が振れるほど迫って、必死の形相で懇願した。
「お、お、俺、ちゃんとするから。声、ださないようにするから……。痛いとも言わないし、煩くもしない。だから……金返せって言わないで」
 大きな目を見開き、すがるように彼を見つめた。
 男は黙ったまま、しばらくの間じっと夏哉を見返していた。微かにひそめた眉がまだ多少不満げである。それでも瞳の色だけは、少しだけ柔らいだように感じた。長い沈黙の後、やがて静かな声で言った。
「まずは座れ。ちゃんと。そんな中途半端な恰好してると、またひっくり返るぞ」
 そうして膝立ち中腰姿勢の夏哉の腰をポンポンと軽く叩く。そんな男の動作に、夏哉はそれまで張り詰めていた気がふっと抜けて、大きく息をついた。
 我に帰ると、改めて今の自分の位置しているところの物凄さを思い知った。
(座れ? 座れって……このままか? 嘘っ……)
 夏哉は自分の体の下を見て、ぎょっとした。
 広いとは言ってもバスタブの中である。長々と寝そべった男に上から覆い被さっている形の夏哉は、自然と男の身体を跨ぐような格好になっていた。
 つまり、今このまま座るということは、彼の上に座るということだ。
 おまけに場所的に言ってちょうど腰の下辺りに、男の同じ部分が位置している。それはつまり……腰を下ろしたところにアレが触れると言うことで……。
(ひ、ひぇーーっ、いきなり騎乗位ぃーっ? いやあぁ!)
 夏哉は心の中で悲鳴をあげた。一度は引いていた動揺が倍になって戻ってくる。あんぐりと開いた口が、パクパクと餌をねだる金魚のように開いたり閉じたりした。
 男はそんな夏哉の肩をつかんで、グイとじれったそうに引き下ろした。突然の行為に、抵抗する暇もなく、夏哉はぺたりと男の上に座り込んだ。密やかな部分の肌が密着する。思っていた通り、夏哉は自分の尻の下に男のモノの存在を感じとった。
(だあああああっ! これーっ! どうしよーっ! うっわああぁっ!)
 まったく、さほど敏感とも思えないその場所なのに、こんな時ばかりは全神経が集まったかのように過敏に感じられる。男のモノのディティールまでもが触れた部分を通して感知できるのではないかと思えるほど、その感覚は極めてクリアだった。
 心臓がぶっ壊れそうなほど激しく高鳴っていた。ドキドキを通り越してバクバクである。体中の血管が、いや細胞までもが脈打ってるような感じがする。もう目の前がグルグル回っていて、思考回路は真っ白だった。
 男はそんなパニック状態の彼をよそに、呆れるくらい平然とした表情で夏哉を見つめた。
 勿論、夏哉にはそんな眼差しなど目にも入らなかった。ペタツと座ったその場所から、1ミリだって体を動かせない。何故なら、動かせば動かすほど大変なことになりそうな確信があったから。
 だから夏哉は、男がゆっくりと首筋に伸ばした手に静かに引き寄せられ、男の顔が間近に迫ったその時になって、初めてそれに気づいたのであった。
「え、え……? ……ん」
 男の唇が自分の上に重なってきた。
 キス――。
 男と交わす初めてのキス――。
 しかもそれは、いきなりディープ……。
 熱くて柔らかくて、しっとりと潤んでいて、そして意外なほど優しかった。深く奥へ奥へと進入してきた舌は、濃厚なわりにはがっつくような性急さはなく、静かに穏やかに隅々まで入り込んできた。されっぱなしで返す術もない夏哉の舌の上に絡んで、包み込むようにまとわりつく。
 不思議なことに、これっぽっちも気持ち悪いとは思わなかった。
 ただ驚きとショックだけが頭の中で大爆発していた。脳味噌の中心で、ドカンドカンと盛大に花火が打ちあがってる感じがした。
 そのうち、新たな展開が訪れた。
(……え? お……おい、なんだよ……。手ぇ……)
 背中に回されていた男の右手がするりと動いて、ゆっくりと下方向へと進んでいった。腰の辺りまで降りた手はやがて前へと移動し、またするすると上がって、今度は胸の辺りをまさぐり始める。男の手は大きかったが、その動きは決して武骨ではなかった。
(だあああ、なにやってんだよ、手ぇ! バカ、そんなとこ触るな……。あっやだ! それ乳首だっつーの!)
 男の指が夏哉の小さなそれを器用に探り当てて、指の腹で優しく撫でこすった。つうんと不思議な感覚が微かに体の芯を震わせる。今まで感じたことのない体験に戸惑いつつ、甘い疼きに我知らず身を預けた。やがて男の指先できゅっと強くつままれ、瞬間的に電気が走り抜けたような衝撃に襲われた時、夏哉は初めて自分の体の反応を確信した。
(や、どうして……? 俺……気持ち……いいの? 嘘……)
 胸への愛撫なんて生まれて初めてのことだった。今まで付き合ったガールフレンドにそんなことしてくるような積極的な娘はいなかったし、勿論自分でだってしたこともない。胸も乳首も、そんな器官は女のためにあるものだと思っていた。
 だけど今感じている感覚は紛れもない快感……。しかもなにやら抑制のきかない、未知なる感覚なのだ。
(や……やば……。やばい、やばいってば、それ。もうやめ……くううぅぅっ!)
 重ねられた唇の奥で声にならない声をあげて、夏哉は男の背中をとんとんと手で叩いた。男はようやく顔を離し、訝しげに眉をひそめた。
「なんだ?」
「……だ、だめ……。それ……。や……」
「まだ何もしてないぞ?」
「だめ……俺、もう……ふうぅっ」
「あ、おい、坊主! こら、カースケ! 何目ぇ回してんだ! こんな所でぶっ倒れるな――っ!」
 男の声が浴室の中でこだました。そんな叫び声とガクガクと揺すられる己の体を、夏哉はすっかりのぼせがって朦朧とした頭で感じた。
 男の声が遠いところで聞こえていた。




 気がつくと、ベッドの上だった。
 天井は一面ガラス張りで、妖しげなピンク色のルームライトに照らされた、とてつもなく大きなベッドの真ん中に、だらしなく寝転がっている自分の姿が映っていた。
 素っ裸の肢体を無抵抗に投げだしているわりには、あまり色っぽい光景には見えない。どちらかというと情けなくってみっともなくて、見ていると別の羞恥が湧き上がってくる。
 と、ふいに視界の中央に男の顔が現れた。
「おい、坊主。目が覚めたか?」
「ふにゃ?」
「起きあがれるか? 起きられるようなら、これを飲め」
 見ると男の手にはスポーツ飲料の缶が握られていた。夏哉は力の入らぬ体を起こすと、それを受け取ってゴクゴクと音を立てて飲んだ。よく冷えた液体が、乾いた咽に泣けるほど美味しかった。
 いっきに飲み干し、ようやく人心地ついてハアと大きなため息をつく。気がつくと、男が呆れたように小馬鹿にした瞳を向けて見下ろしていた。
 夏哉はちらりと見上げ、すぐに顔を伏せた。がっくりと肩を落とし、蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……ごめんなさい」
 もう1度おずおずと視線を向けると、男は何も言わぬまま、じっと夏哉を見つめていた。そのうち、素っ気無い口調で応えて返した。
「世話のかける奴だ」
 夏哉はいっそう背を丸めて縮こまった。
「……ごめんなさい。すみません……」
 しばしの沈黙がある。夏哉は、男がさぞかし呆れ、また怒っているのだろうなと思うと、なんだか己がこれ以上もなく情けなく思えた。自分から望んで作り出した状況なのに、これでは相手に迷惑をかけてばかりで、ちっとも何も出来てない。受け取った金の分だけの働きなんて、これっぽっちもしちゃいない。
 空になった缶をぎゅっと両手で握りしめ、その手を見つめながら震える声で言った。
「あの……、俺、もう大丈夫だから……。平気、だから……その……、やれるから……」
 恐る恐る顔を上げて、見下ろす男と視線をあわせる。男の瞳は冷たくて、鋭くて、だけど心臓に突き刺さるほど綺麗だった。夏哉はぽつりとつぶやいた。
「やって……いいです。……つーか、お待たせしました。どうぞ」
 ペコリと小さく頭を下げた。
 またしばらくの静寂があり、やがて男はふうと深く嘆息すると、ベッドの上にどっしりと腰を下ろした。 くわえていた煙草をニ、三度吸い、ぶっきらぼうに言った。
「灰皿」
 夏哉は慌ててサイドテーブルの上にあった灰皿を取ってきて、男に差し出した。男はそれを受け取ると、少しの間無言で喫煙していたが、そのうち冷ややかな声で尋ねてきた。
「おい。おまえ、ゲイかバイかヘテロか、どれだ?」
 いきなりの問いに、夏哉はきょとんとして聞き返した。
「は? ゲ、ゲイに……バ、ヘテ? なに?」
「ゲイなのか、バイなのか、へテロなのか、どれなんだと聞いてるんだ」
「……へ、ヘテロってなに?」
 男は思いっきり眉をひそめて、呆れたように額を抱えた。
「男に興味はあるのか? 少しでも」
 夏哉はちょっとためらい、だが素直に答えた。
「全然……」
「なら、どうしてあんなサイトにウリの書き込みなんてしたんだ?」
 夏哉が答えに迷っていると、男が代わりに口にした。
「金が欲しくて……か?」
「……うん」
 夏哉は力なくうなだれた。改めて、しかも他人の口からそう言いきられると、いっそうその行為の愚かさが身に沁みる。情けなくて恥ずかしくて、返す言葉もない。うつむいたまま沈黙していると、男が静かに聞いてきた。
「なんでそんなに金に困ってるんだ? 急を要することなんだろ?」
 夏哉はちらりと彼を見、素直に言った。
「うん。全部で二十万。十五万まではなんとか集めたけど、足りなくて……明日までにあと五万いる」
「いったい何やらかした?」
 夏哉は躊躇し、だが答えた。
「女……妊娠させちゃった」
「彼女か?」
「ううん。遊び。一回こっきりの」
「一回でヒットしたのか? めでたい奴だな、おまえ」
 男の、説教するでも哀れむでもないあっけらかんとした態度に、夏哉はなんだかふいに何もかも話してしまいたい衝動に刈られた。
 考えてみれば、それはここ一週間一番頭を悩ませた人生最大の悩みだったのに、まだ誰にも話してはいなかった。仲のいい友達はたくさん居るけど、同じ学生の彼らに話したところで、単に同情されるかビビって敬遠されるかのどちらかで、意味がないことのように感じられたのだ。
 しかし今目の前にいるこの男なら、なんだか受けとめてくれそうな気がした。いや、たとえ嘲られ馬鹿にされるだけだとしとも、それだけで少しは荷が軽くなるように思えたのだ。
 夏哉はおずおずと顔を上げると、ためらいがちに口を開いた。
「あのさ……、話してもいい? 聞いてくれるだけでいいから」
「話したいなら勝手に話せ」
 相変わらず冷たくて投げやりな言い方だったが、それでも言外に大人の包容力みたいなものを感じさせた。夏哉は発端から今までの過程を、包み隠さず話した。
 何もかも言い終えて、ふうと息をついてから男を見ると、男は二本目の煙草を吸い終えるところだった。小さくなったそれを灰皿で揉み消しながら、男は素っ気無く言った。
「自業自得だな」
 夏哉はコクンと頭を下げた。
「うん。わかってる」
「金が必要な理由はわかった。で、なんでわざわざ男に体売る気になったんだ? ゲイでもないのに」
「だって……女相手にそんなことするサイト知らなかったし、それに……男の方がそういう金払いっていいだろ? 女だと、書き込んで明日ってわけにはいかないかと思って」
「ふふん。ボケっとした脳天気ボウズだと思ったが、一応それぐらいの事にまわす脳味噌は持ってるってわけだ」
 男はイヤミたっぷりに冷笑した。
 その笑みが悔しいくらいに余裕たっぷりでかっこいい。きつい瞳が、バーカと呆れて笑っている。それは大人ぶって訳知り顔で慰められるよりも、数倍夏哉の心をホッとさせた。
 男は夏哉にビールを取ってこさせると、一人でそれを飲み始めた。相変わらずの無愛想で、夏哉のことなどまるで眼中になさそうな顔をして黙って座ったままである。時計の音すら聞こえてこない部屋には、ただ時折男がビールをすする音だけが、やけに大きく響いていた。
 随分長い間そんな静寂が続いた。刻一刻と流れる時間の中で、夏哉の方が焦りを感じて、恐る恐る尋ねかけた。
「あの……やらないの? ニ時間過ぎちゃうよ?」
 男はちらりと冷たい眼差しを向けると、突き放すように言った。
「すっかり萎えちまったよ。そんな話聞かされたんじゃな」
「……ご、ごめん」
 夏哉はカッと顔を赤く染めてうつむいた。しばし沈黙していたが、やがてやっと決心がついたかのように顔を上げ、真剣な瞳を向けて話しかけた。
「俺……金、返すよ、やっぱり。なんかアンタには迷惑ばかりかけちゃったし、五万ももらえるようなことできそうもないし……。せっかく連れて来てもらって悪いけどさ……」
 そう言うと、ベッドを立って自分の服を置いてあったソファへと歩いていった。ジーンズを取って財布を取り出そうとポケットを探っていると、男が声をかけてきた。
「金はどうするんだ? 明日までなんだろ、期限?」
「ん……しゃーないから、足りない分はもう少し待ってもらえるよう頼んでみるよ。それでダメなら……いよいよサラ金かな? それだけは避けたかったんだけどさ……。前に従兄弟がサラ金で酷い目にあって、ほとんど家庭崩壊しちゃってさ、それ見てるから、あれだけは手を出したくなくって……。なーんて、またつまんない話聞かせちゃって、悪い、へへ」
 自嘲しながら言い訳していると、急に鼻の奥がツンと痛んで目頭が熱くなった。苦しい思いを口にする毎に、男に心が開いてどんどん気持ちが緩んでしまう。一週間貯め込んでいた不安と緊張が、男の前で行き場を求めて爆発しそうになっていく。
 夏哉は零れ落ちそうな涙を必死で堪えて鼻をすすると、ようやく取り出せた財布の口に指をかけた。
 と、ふいに男の言葉に遮られた。
「カースケ。こっち来い」
「へ?」
 男がじっと見つめて呼んでいる。夏哉が素直に傍に行くと、ベッドの自分の横を指差してぽつりと言った。
「座れ」
 言われるまま、夏哉はぺたんと座った。男は白い煙をふうっと吐いて何本目かの煙草を灰皿に押しつけると、冷ややかに話しだした。
「あのな、俺も男だし、一度他人の財布にしまわれた金を戻してもらうってのは、なんとも後味が悪くて気に食わん。だからその金はやる。持ってけ」
「え? ……で、でも」
「ただし、只でやると思ったら大間違いだ。俺はおまえを買ったんだ。五万円分は遊ばせてもらうぞ」
 そう言うと、突然体を向けて夏哉に覆い被さり、そのままベッドの上に押し倒した。あまりに急な展開に、夏哉は驚いて声をあげた。
「わっ! ちょっ、ちょっと!」
 男は夏哉の上に広い胸をかぶせ、両手首を捕らえて身動きできぬよう押さえつけた。形の良い唇でちょっとだけ冷ややかに微笑し、耳元に寄せてささやいた。
「大体な、こういう場所に来て何もしないで帰るなんてのは、礼儀に反するってもんだ」
 唇がそのまま耳に押しつけられた。
「わ、待って、そんな! ちょっ……!」
 熱い舌がちろりと耳朶を舐めあげ、そして絶妙の力加減で甘く噛みしだかれた。夏哉は背筋にぞくぞくっとした震えを感じて、思わず男の体を手で押し返した。すかさず、耳の傍で意地悪い囁きが聞こえた。
「なんだ? 騒がないで我慢するんじゃなかったのか?」
「う……」
 弱みも何もかもしっかりと握られて、返す言葉もない。一瞬ひるんで抵抗を忘れた夏哉に、男はどんどん攻め進んできた。耳の上にあった唇は首筋へと移行し、そのすぐ下からゆっくりと咽元へと這わせていく。湿った舌が、まるで生き物のように肌の上を蠢いた。
(つうぅ――っ……!)
 夏哉は息を止め、一度力を込めて男の体を押し戻すと、肩肘を立ててほんの少し後ずさり、目を真ん丸く開いて彼を凝視した。そして平然と見返す男をてのひらで制して、必死の形相で言った。
「わ、わかった。わかったから、ちょっと待って。心の準備させて」
 夏哉は目をぎゅっと閉じ、スーハーと何度か大きく深呼吸して息を整えた。最後に気合いを入れるようにフンっと一回荒く鼻息をつき、覚悟を決めて、くるんと目を見開いた。
「よ、よし。OK。覚悟はできた。やってくれ。どーんと」
「どーんとって……、とことん色気のない奴だな、……ったく」
 男は呆れたように呟きつつ、それでもまた夏哉の上に覆いかぶさってきた。大きなてのひらが頬にあてられ、優しく乱れた髪をかきあげて汗の浮き出た額をゆっくりと撫でる。唇が口のすぐ傍に降りてきて、まるでキスを焦らすように幾度も幾度もついばんだ。
 夏哉は成されるがままに身を委ねながら、そっとつぶやいた。
「……あ、あのさ」
「なんだ? まだ何かあるのか?」
 男が不満そうに聞き返す。夏哉はかすれた声で、おずおずとささやいた。
「あの……アンタ……、アンタの名前、なんての? あ、いや、嘘の名前でもいいんだけど」
 ちょっと惑うような間があり、やがて男が言った。
「貴彦だ」
「タカヒコ……?」
 それはきっと本名だ、と訳もわからぬまま夏哉は確信した。恐る恐る彼の背中に手を回すと、いっそうかすれて消え入りそうな声で、震えながら告げた。
「タ、タカヒコさん……や、優しくして、ね……」
 耳元でふふんと小さく笑う声が聞こえた気がした。

     
                                              ≪続く≫

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