堕ちないで、BOY!

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 『五万ください! 急を要す!
   明日1日限り。誰でも可。相手選ばず。
   1回こっきり。秘密厳守! 
   当方19歳、ぴちぴち新鮮ボーイ』


 まるで電報と不動産の売り文句と三流キャバレーの呼び込みチラシのコピーが一緒になったようなカキコを掲示板に書き終え、夏哉(かや)は即座に湧き起こってきた激しい後悔の念にガックリと落ち込んだ。
(ああ、やっちゃった……サイテー)
 自らの決意でした筈のその行為なのに、目の前のモニターに形として現れると、どうしようもないほど打ちのめされた。まさにそれは踏み込んではならない一線、堕ちる所まで堕ちた、地獄の底のように感じられた。
 夏哉はすでに真っ白になりかけている頭で、必死に自分を取り戻そうと努力した。
(……今なら、今ならまだ引き返せるんだぞ? 今すぐ削除しちまえば……)
 キ―ボードの上で宙に止まった指先がぶるぶると震えていた。4桁の数字を押して削除ボタンをポチッと押せば、まだ戻れる、まだどうにかなる。人間として男として、最低限のことをしなくて済む……。
 迷いためらい、決めあぐねて、やはり消してしまおうとキ―に指を触れかけたそんな矢先に、ポーンと軽い音がして1通のメールが飛び込んできた。
『明日Aビルの前で。21時に。OKなら、目印だけ書いてそのまま返信されたし』
 これまた素っ気無いことこの上もないメールを見て、夏哉はパソコンの前で固まった。
「おい、本当に来ちまったよ……。どうしよう……」
 思わず独り言を口にし、しばし愕然としてモニターをにらみつけた。
 確かに書き込みした内容には、これっぽっちも嘘はなかった。冗談や冷やかしでもなんでもない。
 夏哉は金に窮していた。
 早急にまとまった金が必要で、友人知人に泣いて頼み込み、唯一の財産とも言えるビンテージ物のジーンズも泣く泣く売り払って、なんとか掻き集めたそれは目標額にあと少しだけ足りなかった。
 期限はもう目の前に迫っていて、今更バイトをするのも追いつかず、困りに困って辿りついたのが古今東西遥か昔から存在する最も手っ取り早い金の入手方法――つまるところ「売春」だったのである。
 とはいえ、売る相手は女性ではない。男だ。同性相手のSEX……つまりはゲイに体を売るのである。
 それは以前ネットサーフィン中に偶然に入り込んでしまったゲイサイトでの、出会いの掲示板で目にした書き込みだった。
 ――金に困ってます。援助してください。
 ――お小遣い貰えると嬉しいなァ。
 そんな文章があちこちに書かれていて、そうか、男が男に体を売る時代になったんだなぁ、などとまるっきりの他人事で妙な感心をして見ていたものであった。それがまさか、自分自身が同じ真似をする羽目になろうとは……。
 夏哉はしばらくの間、微動だにせずじっと考え込んでいた。
 はっきりいって後悔している。そんなものは富士山よりも高々とそびえたっている。しかし、明後日には渡さなければならない金を作るのに、どう頭をひねってみても他に良い方法など思いつかないのだ。そりゃあ親に頭を下げればどうにかなるかもしれないが、その為には理由も明かさねばならず、それがまた説教ぐらいでは収まりそうもない事情だったから手におえなかった。
(やっぱりこれしかないんだよな……)
 行きつく結論はつまるところそこだけ。
 夏哉はハアアと大きなため息をつき、机の上に突っ伏した。
(一回だけ……。そんだけ我慢すれば何もかも終るんだ……)
 そう自分に無理矢理言い聞かせて、それでも押し寄せる不安と自己嫌悪に、夏哉はいつまでもため息ばかりつきまくっていた。




 その女は、最初から遊びなれてるなぁと言う感じはしていたのだ。
 だが一晩限りの相手となれば、むしろそんなタイプの方が後腐れがなくていいもんだ。だから夏哉は躊躇せず彼女をホテルに誘ったし、女も迷う素振りすら見せずについてきた。
 一回限りのSEXで終る相手のはずだった。
 だから一ヶ月ほど後になって、ほとんど社交辞令で教えた携帯の番号に電話をかけてこられた時は、正直すぐには思い出せなかった。そして、俺の身体が忘れられなかったのかな、なんて多少いい気になっていた夏哉を、その後の言葉が地獄に突き落した。
「アタシねぇ、妊娠しちゃったぁ。堕ろすからお金ちょうだい」
 それは後悔も後ろめたさも罪の意識も、なんにも感じていないようなあっけらかんとした口調だった。だが流れ出る言葉だけは淀みなく、これが初めてとは思えない要領の良さである。
「堕ろす費用と慰謝料合わせて二十万ね。それだけでいいから。しつこく強請ったりしないからー、それだけは安心してよね。あ、でもバックレるのはなしだからね。そんなことしたら知り合いのヤーサンに頼んでコワーイ目に会わせちゃうから。じゃ、来週の土曜の夜に前に会った店で待ってる。必ず来てねー。来ないと知らないよぉ、あはははっ」
 それだけ勝手に言って女は電話を切ってしまった。夏哉は携帯を握り締めたまま、一人茫然と部屋の真ん中に座り込んで、宙を見つめていた。
 寝耳に水、青天の霹靂、降って涌いたような災難。いや、一応自分の巻いた種なんだから、降ってきた災難とはいえないかもしれないが。
 その日から夏哉の金策地獄の日々が始まった。そして最終的に行きついたところが、更に深い深い地獄の底だったのである。




 Aビルの前には、夏哉の他にも待ち合わせをしているのであろう人の姿が何人か存在していた。たいていは友人か恋人か、会って楽しい時間を迎えようとしているのだろう、皆それぞれに期待した顔をして相手の訪れを待ちわびている。間違っても金の繋がりで誰かを待っている者なんか一人もいないに違いない。
 隣りのビルの電光掲示板に、九時を知らせる表示が浮かび上がった。夏哉はちらりと見上げて、ふうとため息をついた。
(まだかな……?)
 ビルの隙間を抜けて吹きつける夜風が、薄いジャンパーの身に沁みる。夏哉の柔らかくウェーブした髪がふわふわと風になびいた。
 ブルブルっと寒気が走って、夏哉は思わず手にしていた黄色いピカチューの人形を抱きしめた。斜め横にいる女の子がくすくすっと小さく笑っている。夏哉はぽっと頬を赤らめ、罰悪そうに下を向いた。
 あの時目印を……と言われて、とっさにパソコンの横に立てかけてあった縫いぐるみに目が行き、それを書いてしまった。よほど動転していたのだろうと今になるとしみじみ思う。大学生にもなろう男の目印がピカチューでは、カッコ悪くて恥ずかしいったらありゃしない。ちなみに、その人形はサークルのクリスマスパーティの際にビンゴゲームで当たった賞品であった。
 夏哉はイライラとドキドキが一緒になった複雑な気持ちで、約束の男を待っていた。顔も知らない、歳も知らない。住んでる所も、当然名前だって知りはしない。そんな相手……。
 そして、そんな男に身体を許さなければならない……。
(男同士って……いったい何をどうするんだろ?)
 夏哉は足元をにらみつけながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
 男同士の関係などそれまで考えたこともなかった。男性に欲情したことだって勿論ないし、ほのかな憧れすら抱いたこともない。仲のいい友達はいっぱいいるし、そんな奴らとひとつのベッドで共に寝たことだってあるが、それはただの「寝る」であって、「抱き合う」でも「Hする」でもない。そんなの当たり前のことだ。
 だが、今日これからする「寝る」は、今までのものとはまるで意味が違うのだ。それは夏哉にとって、想像外の、未知の世界だった。
 いろいろ考えていると不安ばかりが湧いてきて、居ても立ってもいられなくなる。いっそすっぽかしてしまおうかと顔を上げかけたその時、ふいにポンと肩を叩かれて、夏哉は飛びあがらんばかりに驚いた。
「わあっ」
 思わず悲鳴をあげて反射的に振り返った彼が目にしたのは、スーツ姿の一人の男だった。
 年の頃なら三十代前半といったところだろうか。老けた感じはまるでしなかったが、大人の男の落ちつきがあって、夏哉の周りにいる脳天気な学生たちとは明らかに違う雰囲気である。着ている物もかなり高級そうな仕立ての良いスーツで、上に羽織ったコートも安手のバーゲン品とは異なり、一見してブランドものとわかる品物だ。
 その男は、かなりの高給取りのエリートに見えた。
 そんないでたちだけでも目を引くのだが、すらりと背が高くて均整がとれ、更に役者ばりの整った顔がてっぺんについているときては、男に興味のない夏哉ですら見つめずにはいられない。夏哉はしばしの間、ものも言えずにじっとその男を凝視していた。
 と、男の方が焦れたように口を開いた。
「おい、ピカチュー男。おまえだろう? カースケなんてとぼけたハンドルネームの奴は?」
 カースケは夏哉が小さい頃兄にそう呼ばれて大嫌いだったニックネームだった。そんなものを咄嗟に思いついて使うなんて、人の心の潜在意識って不思議なものだ。
 夏哉はコクンと無言のままうなづいた。すると男はくいと顎でしゃくって、後をついてくるよう促した。
「こっちだ」
 スタスタと勝手に一人歩き出す。夏哉は慌ててその後を追いかけた。
 しばらく歩くと立体駐車場があり、そこから一台の車を出してきて乗るように勧められる。一瞬躊躇したが、それでも今更ためらってもしょうがないので、素直に助手席に座った。
(すげ……。ポルシェじゃん……)
 初めて乗る高級車に、いっそう胸がドキドキした。
 男はずっと無言のまま運転していた。夏哉もまた、無言だった。何を言えばいいのかもわからなかったし、なにより頭の中で脳味噌がグルグル渦巻いていて、会話することすらままならなかったのだ。
 しばらく走り、繁華街を離れ、高速を飛ばして街を抜ける。いつのまにやら辺りにラブホテルのネオンがチラホラと見え隠れし出していた。その中のひとつ、かなり高そうな一軒に男は車を乗りいれた。そこは駐車場のひとつひとつがしっかりと区切られていて、そのまま真っ直ぐ部屋に入れるよう工夫された、機密性の高いホテルだった。
 夏哉は有無も言わされぬまま一室ヘと連れていかれた。連れていかれたと言う表現は正しくないかもしれない。一応それは夏哉の意志であったのだから。
 だが、だだっ広くて豪華絢爛、ラブホにしては品の良い内装の、しかしいたるところに淫靡な香りがするその部屋で男と向きあった時、夏哉は自分はなんてことをしているんだろうと改めてショックを受けた。
 こんな所にまで来てしまっては、逃げる訳にもいかないではないか。……いや、逃げる気があるわけではない。だが、見知らぬ男といけない目的でラブホに二人っきりだなんて、怖くて怖くてやってられない。今すぐにでもここから飛び出してしまいたい。
 噛みしめた口の中で、奥歯がカチカチと音をたてていた。
 当の男はそんな夏哉の様子など気にもとめぬのか、スーツの内ポケットから財布を取り出すと、5枚の紙幣を取り出してグイと前につきつけた。
「ほら、金だ。先に渡しておく。あとでごちゃごちゃ言われるのは面倒だからな」
 あくまでもビジネスライクな冷たい口調。優しさの欠片も感じられない。もっとも、一晩限りのSEXの相手になんて、優しさをかける必要すらないのかもしれない。
 夏哉は金を目にして、多少なりとも自分を取り戻した。
 そう、金だ。金が欲しいのだ。その為に今こうしているのだ。これから何時間かだけ我慢すれば、全ての苦労から解き放たれる。それを思えば、きっと耐えられる……。
 夏哉は引っ手繰るようにそれを受け取ると、ペコッと小さく頭を下げた。
「ど、ども……」
 かすれた声が咽の奥から微かに漏れた。震える手で大事そうに自分の財布にしまいこむ姿に、男は少しだけ不審な眼差しを向けた。 
 男はコートを脱いでソファに放り投げると、ネクタイを緩めながら言った。
「おい、風呂に湯を張ってくれ」
 突然申しつけられ、夏哉は戸惑って聞き返した。
「え? あ、あの、俺? 俺に言ってんの?」
「他に誰がいるんだ? 相場より高く払ってるんだ。そのぐらい働け」
 男はクールビューティな顔に不満げな表情を浮かべ、夏哉を見た。
「わ、わかった。待ってて」
 夏哉は慌ててうなずくと、急いでバスルームに飛んで行って立派なバスタブに熱い湯を入れ始めた。当たり前のことだが、こんな状況など一度も経験したことはない。だから何をどうすれば良いのかなんて、まるっきりわからない。こんな誰でもできる雑事を命じられるのは、今の彼にはまだありがたいことだった。
 もわもわと白い湯気が立ち昇って、広い浴室内に広がっていく。そのさまをぼんやりと眺めながら、豪勢な風呂場だなぁ、なんて呑気に思った。
 夏哉だって元気いっぱいの青少年である。ラブホテルの一度や二度は入った経験はある。だがいつだって財布と相談のその行為は、当然入る部屋もリーズナブルで内装もお値段に見合ったほどほどの代物だった。
 だから、今いるこの部屋の価値が、逆によくわかるというもの。別に夏哉を連れてきたから気張って、という雰囲気ではなかったから、多分男がいつも使っている場所なのだろう。
 ――相場より高く払ってるんだ。
 ふと男の言葉を思い出し、夏哉は考え込んだ。
(高……かったのか。知らなかったな、そんなの)
 男同士の援助交際。相場なんて知る由もない。五万と言う金額は、それだけあればなんとかというギリギリの金額だった。そんな高すぎた商談がすばやく決まったのは、夏哉にとってラッキーなことだったのかもしれない。買ってくれた男には感謝すべきだろう。
 それに……男は、少なくとも脂ぎって見るからに厭らしそうな中年男なんかではなかった。むしろ探すのが難しいほどハンサムでかっこいい人物だ。多少酷薄な印象はあるが、ニヤニヤ笑いながらネチネチとご機嫌窺いされるよりはよっぽどましな気がする。
(あいつに……犯られるのかぁ……)
 漠然と想像し、耳の先まで真っ赤に染まった。
(男と犯る……。男にほられる……。うわぁ、マジかぁ? ほんとにいいのかよー、おい?)
 今更ながらに不安が押し寄せきて、全身に汗がにじんでくる。そんな所に突然バスルームのガラス戸が開いて、夏哉はビックリして腰掛けていたバスタブの縁から飛び上がった。
 見ると、男が素っ裸になって入って来たところだった。
 風呂なのだから裸なのは当たり前だし、普段なら同性の裸体を見たところで何も感じるものなどない。
 だが今は状況が状況。おまけに、スーツ姿ではわからなかった意外なほど逞しい男の体つきに、夏哉は思わず目を奪われた。そして自然と視線はあの辺りにも向かってしまう……。
(どわあぁぁっ、どうしようっ! いよいよじゃん! いきなりじゃんかよーっ! でけぇぇ!)
 夏哉は真っ赤になって慌てふためいた。未知なる展開に思考がついていかず、すっかりパニックである。
「あ、あのあの、あう、あふぅ〜」
 まるで日本語になってない言葉を漏らしてアタフタしている夏哉に、男は平然と尋ねた。
「もう湯は入ったのか?」
 そう言いながら自分で浴槽を覗きこんで、手を突っ込んでは、文句をつぶやいた。
「ぬるいな」
「あ……ごめ。今熱くする」
 夏哉が慌てて蛇口に手を伸ばそうとすると、それを止めるように言った。
「まあいい」
 男はぶっきらぼうに応え、シャワーに手をかけながら、ちらりと夏哉を見た。
「服を着たままそんな所にいたら、濡れるぞ」
「あっ、うん」
 夏哉が急いで出ていこうとすると、背後から声をかけられた。
「おい、一緒に入るか? それとも一人で入るか?」
 夏哉は振り返って、震える声で聞き返した。
「それって……ど……どっちがいいの?」
 男は冷たい瞳で夏哉を見、ぷいと顔を背けてそっけなく言った。
「どっちでもいい。好きにしろ」
「……じゃ、一人で、一人で入る……」
 そう答えると、男は良いとも悪いとも言わずに、シャワーを浴び始めた。夏哉はその様子を見ながらしばらく立ちつくしていたが、やがておずおずとつぶやいた。
「……や、やっぱり、入るよ。一緒に」
 男は振り向いて、つっけんどんに言った。
「なら早く来い」
 ニコリともしなかった。何を考えているのかわからない冷淡そうな無表情。ただ瞳だけが鋭い。切れ長のきつい目で、少し小馬鹿にしたように見つめてくる。
 夏哉は背筋にぞくりと冷たいものを感じながら、ゆっくりとそのままあとずさって、脱衣所へと戻っていった。
  
     
                                              ≪続く≫

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