痕(あと)
    
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6 



 夜の学校は、いつもひっそりと沈黙している。
 まるで無言のお喋りを楽しむように……。


 朔哉は俊に手を引かれて歩きながら、怪訝そうな口調で尋ねた。
「俊、いったいどこに行く気なんだ? こんな時間に」
「部長がさ、連れて来いって言ったんだ、学校におまえを」
「杉宮が? なんで?」
「……いいから」
 俊ははっきり答えようとしなかった。的を得ない応えにいぶかしみながらも、朔哉は黙って引っ張られるままついていった。
 宮の森高校は大きな公園の裏手に位置していた。正門は店や住宅が立ち並ぶ比較的大きな通りに面しているが、裏に回ると公園の森にぐるりと囲まれ、自然環境は悪くない。もっとも夜にもなると鬱蒼とした森は怪しい輩の出没する危険な場所へと変わるため、そこを道として通る者はほとんどいなかった。
 二人は人目を隠れるようにして、公園内を通りぬけて学校にやってきた。正門は堅く閉ざされているので、裏の通用門の方に回る。そこにも鎖が張られ入り口を塞いでいたが、それは簡単にくぐれてしまうような、飾りだけの代物だった。
 二人は身を潜めながら中へと入った。
(どこかな、部長?)
 俊は旧校舎の建物にそって歩きながら、キョロキョロと辺りを見まわした。
 街灯や店屋の灯りに照らされている表通りに面した正門側とは異なって、裏手は灯りのもととなるものがなく、たいそう暗かった。後者の裏に続く森が、その闇の深さをいっそう濃く彩っていた。
 俊と朔哉があてもなくウロウロと歩いていると、突然かすれた声で呼び止められた。
「藤城、長尾、こっちだ」
「部長」
「杉宮……」
 杉宮が体育館の横で、手を振って招いていた。朔哉と俊が寄っていくと、静かにと言うように唇に指を立て、そのまま二人をグランドの方へと連れていった。
 宮の森高校のグランドは、公園の森と体育館に挟まれるようにして設置されているので、表の通りからはほとんどその影を見ることは出来ない。杉宮は無言でそこに向かって歩いた。
 グランドには夜の練習に備えて大きな夜間灯が常備されていたが、当然今はそんなものは付いているわけはなかった。だから大きく広がったその空間は、不気味なほどに暗かった。曇り空で月も星すらもがベールの中に身を潜め、かたくなに自然の恵みを拒んでいた。 
 その広い深淵の真ん中に、なにかがぽつんと置かれていた。
 深い闇のため、遠目にはほとんどわからなかったが、杉宮に導かれて近づくにつれ、少しづつその姿形がはっきりと見えてくる。やがてその物は1枚のキャンバスであることがわかった。
 それは、あの黒く塗りつぶされた大きな絵だった。
 あの絵がぽつんとひとつ、グランドの中央に無造作に置かれていた。
 三人は傍まで来ると、足を止めて無言のまま見入った。黒い絵は闇に囲まれたその場所ですら更に黒く、どこか遠い異空へとつながっているように思えて、見つめていると底知れぬ恐怖を感じさせた。
 朔哉は眉をひそめ、ゆっくりと杉宮に顔を向け、重たい口調でつぶやいた。
「杉宮……?」
 絵がそこにある意味を問い掛けるように、不安げな眼差しを向ける。杉宮はしっかりとその視線を受けとめて、きっぱりと答えた。
「燃やすんだ。この絵を」
 朔哉は力なく聞き返した。
「燃やす……? これ……をか?」
「そうだ」
 朔哉は当惑して表情を強張らせ、地面に捨てられた絵に視線を戻した。
 そこにはもう、杉宮が美術室で目にした赤く浮き出た血文字はなく、朔哉を呼ぶ甘いささやきは消えていた。だが分厚く塗りつめられた闇色の画面は、その深淵に誘うように今も無気味に笑っている。朔哉は見入られたようにじっと凝視しながら、震える声でつぶやいた。
「この絵を燃やして……どうするんだ?」
 杉宮はつきはなすように言った。
「わからん」
 じゃあ何故……と問いたげな朔哉の眼差しに、杉宮はがんとした態度で話を続けた。
「わからんが……その絵はおかしい。俺が見ても……どこか変だ。だから処分する」
 朔哉はその答えを聞き、心臓がキリキリと痛むような不可思議な感覚を覚えた。
 心が騒ぐ。戸惑い、乱れる。何かがその行為をいやがるかのように、胸の奥で否定する。ドクドクと不安に高鳴る鼓動を感じながら、朔哉はかすれた声でつぶやいた。
「処分すれば……あいつは消えるのか?」
 杉宮はちらりと横目で朔哉を見、少しだけ不安げな顔を見せた。だがすぐにまた堅い意志を露わにし、強い口調で答えた。
「わからん。俺たちには何もわからん。が、他に方法を思いつかない以上、ひとつづつ片付けていくしか手はない。今俺が思いつくのは、これしかないんだ」
 そう言うと、手に持っていた空き瓶を差し出し、中に入っていた液体をその絵の上にぶちまけた。ツンと強い刺激臭が鼻をつく。どうやらそれはガソリンのようだった。
 そして彼はジーンズのポケットからライターを取り出すと、それを朔哉に差し出した。
「藤城。おまえが火をつけろ」
 朔哉は驚いて彼を見返した。杉宮は真剣な顔でまっすぐに朔哉を見つめ、命じた。
「おまえが、おまえの手でそいつを断ち切れ。生きることを望むのなら」
 有無を言わさぬ、力強い口調だった。朔哉は茫然としながら、ライターを受け取った。
 手が震えていた。先ほどから高鳴り続ける鼓動はいっそう激しさを増し、額に冷たい汗が噴き出した。
 夜目にもわかるほど真っ青になって立ち尽くす朔哉に、俊が心配そうに声をかけた。
「朔哉」
 俊は奮える朔哉の手をしっかりと己の両手で掴んでくるみこみ、顔を寄せ、励ますように言った。
「朔哉。やれよ、さあ」
 朔哉は横に立つ俊に眼差しを向けた。熱い瞳が一心に見つめている。不安げな瞳だ。だがまた、未来を信じて疑わない瞳だ。生きることに魂を燃やしている目だ。その熱い意志に促されて、朔哉はゆっくりと一歩絵に近づいた。銀のライターの蓋を開け、指をかける。だが、なかなか火をつける決心はつかなかった。
 杉宮が口にしたとおり、その絵がどこか妙であることは朔哉にも気づいていた。まるで何かを封印するように、荒々しく乱暴に塗り込められた絵。古いキャンバス。いったいその下に何が潜んでいるのか、知るよしもない。だが、それはきっと普通の絵であるはずはない。だって、こんなにも胸が騒ぐのだから。やめろ、やめろと、声なき声が頭の中でわめいているのだから。
 ライターを持つ手がぶるぶると震えた。今一度朔哉は振りかえって、すがるように二人を見た。
「朔哉」
 俊が力づけるようにもう一度名を呼んだ。朔哉はコクンと唾を飲み、ライターを持つ手をゆっくりと前に差し出した。
 その時――突然足元から突風が吹きだし、三人を襲った。
「うわっ!」
 俊と杉宮はあやうく飛ばされそうになって、数メートルほど後方によろけた所で慌てて大地に膝をつき、その風に抵抗した。
 物凄い力だった。地面に手をつけふんばっていなければ、今にも紙屑のように吹き飛ばされてしまいそうなほどである。
 杉宮は地面の底から吹き上げてくるような異様な大風に対抗しながら、必死の思いで顔を上げ、朔哉を見た。そして一瞬、息が止まった。喉の奥で、ヒクッと引きつったような声が漏れた。
 朔哉は……一人、風の中に立っていた。
 その彼の周りに十重二十重に絡みつく何かの気配があった。
 まるで巨大な大蛇が巻きつくように、何かが、目には見えないけれども確かに何かが、彼をその腕に怪しく抱き込んでいた。
 朔哉の髪が、ゆらゆらと陽炎のように揺れている。その顔に見る間に恍惚の表情が浮かんでいく。心を惑わされ、狂喜の世界に引きずり込まれようとしている、孤独な男がそこにいる。
 杉宮は大声で叫んだ。
「藤城! 火をつけろ! 早く!」
 しかしその言葉は空しく風のうねりにかき消された。
 朔哉は悦楽に酔いしれるように口元に薄く笑みを浮かべ、独り言のようにつぶやいた。
「……して……くれるんだ」
「何だって……?」
「熱く……してくれる。俺の、身体も、魂も……熱く燃やしてくれる。こいつは……」
 何かが喜びさざめくように笑った。その場を支配する空気が、ざわざわと震える。吹き荒れる強い風が耳障りに甲高く叫び、狂喜した。
 目に見えぬ手が朔哉の体を抱きしめ、はだけたシャツの襟元から中へと入りこみ、白い胸を撫でまわす。甘い快感が全身をしびれさせる。その感覚こそが朔哉を狂わせるものだ。冷たく凪いだ魂を、熱く激しく燃えあがらせる。
 朔哉は朦朧とし、己を包む存在にその身を委ねた。もう何も考えられなかった。
 その時、俊の高い声が響いた。
「朔哉!」
 その声は意識を失いかけた朔哉を、瞬時にこの世に引き戻した。朔哉はゆっくりと目を開け、目の前を見た。
 そこでは、容赦なく吹きつける風の中、俊が必死の形相で大地にしがみついていた。そして少しづつ、少しづつ、這いずるようにして朔哉の元へと近寄ろうとしていた。薄茶の髪をぐちゃぐちゃに乱し、汗と埃にまみれながら、彼は大声で叫んだ。
「朔哉っ! 俺を愛してるって言っただろ? なら、そんな奴ふっきれ! そんな奴にだまされるな! 行っちゃだめだ!」
「俊……」。
「俺と一緒に生きよう。俺といよう、この世界に! 俺がいっぱい愛してやるから、俺がおまえを熱くしてやるから! だから行くな。ここにいろよ、俺の傍に! 朔哉っ!」
 それは俊の魂の言葉だった。その言葉は朔哉の心を揺り動かした。彼は手の中にあるライターをもう一度握り締め、唇を震わせながら前を見つめた。俊が、杉宮が、荒れ狂う風に必死に抵抗しながら、一心に朔哉を見つめていた。
 頭の中でかすれた風のうめきのような声がした。
 ――サクヤ……
「……やめ……ろ」
 朔哉は全身に冷たい汗をまといながら、力なく首を左右に振った。
 ――サクヤ……
「いやだ……いや……」
 ――サクヤ……
 声なき声は執拗に朔哉を呼び続けた。甘く、優しく、だが切羽詰ったような緊迫感を秘めて、彼の名をささやき続けた。
 ライターを握る手がブルブルと震える。一度戻りかけた魂がそのささやきに引っ張られる。立ちきろうとする心が萎え、抵抗する気持ちがひるみかけたその時、ハッと気づくと、何かが脚に触れていた。
 目を見開いて見下ろすと、そこに俊がいた。
 ぶざまに地べたに這いつくばったまま、足元までずり寄ってきていて、細い腕で朔哉の足首を捕らえていた。
「俊……」
「行くな」
 俊はきっぱりと言った。
「朔哉。俺はここだから、ここに……いるから」
 ――ココニイル
 朔哉はライターを持つ手をあげ、指先に力を込めた。ガシュッと石のこすれる鈍い音がして、それと同時に真っ赤な炎が出現した。
 朔哉はそれを目の前に差し伸べて、それからゆっくりと黒い絵に視線を移した。そして、火のついたライターをキャンバスに向けて放り投げた。
 ボウッと大きな音がし、一瞬にしてその絵は激しく燃えあがった。
 暗い深淵を引き裂くように、紅蓮の炎が高々と立ち昇って当たりを照らし出す。
 その時、三人はこの世のものとも思えぬような、声なき悲鳴を耳にした。
 魂を引き裂くような、鋭い叫び。耳ではなく、脳髄に直接突き刺さってくるなにものかの悲鳴。
 吹き荒れていた風がいっそう強くなり、また朔哉を包んでいた何かの気配がザアッと音を立てるようにして霧散した。突然放り出された朔哉は、風に吹き飛ばされて激しく大地に叩きつけられた。
「朔哉!」
 俊は地面に転がっている朔哉にずりよっていって、その体を抱き起こした。
「朔哉、しっかりしろ!」
 朔哉は俊の腕の中でゆっくりと目を開け、彼を見返した。
「俊……」
「大丈夫か?」
 朔哉はコクンとうなづき、半身を起こすと、よりそう俊とともに燃える炎を見た。
 絵は、たった1枚のそのキャンバスは、真っ赤な炎をあげて信じられぬほどの火勢の中、吹き荒れる風に舞い立つ大地のほこりを巻き込みながら、すさまじい様相で燃え続けていた。
 声が叫んでいた。苦痛の叫びを発していた。
 人の悲鳴のような、また獣の咆哮のごとき恐ろしい声が、風のうねりとともに、断末魔のとどろきをあげていた。
 暗闇を引き裂いて……。
 それが結末だった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが、涼やかに鳴りわたった。ひとときの自由を思い思いにすごしていた生徒達が、それぞれの教室へと戻っていく。穏やかな喧騒が校内に満ちていた。
「それじゃ、終わったら一緒に帰るんだからな。絶対独りで先にふけるなよ」
 俊は先ほどから何度も口にした言葉を、念を押すように再び言った。朔哉は少しだけ呆れたように笑みを返した。
「わかったわかった。だから早く行け。午後の授業が始まるぜ」
「うん。じゃあな」
 俊はニコニコと笑いながら、踵を返して廊下を走っていった。途中幾度も朔哉の存在を確かめるように、振り返り、振り返りしながら駆けていく。朔哉はその後ろ姿をずっと見送っていた。
 戻ってきた現実はあまりいつもと代わりばえはしなかったけれど、それでも確かに変わったのは俊との関係だった。
 それまでどこか醒めた風につきあっていたのだが、あの事件からはっきりと愛情というものが形となって存在していた。
 特に俊にいたっては、周囲のことなどお構いなしにベタベタと甘えて、朔哉のそばを離れようとしなかった。当然周りからは奇異な目で見られたが、そんなことはてんで気になどしていない。まるでほんの一瞬ですらその魂を離すまいとするように、愛してるを連発し、腕に身を絡め体を寄せてくっついてきた。
 朔哉もまた、そんな彼を享受した。まるでままごとのような夢の戯れの趣もあったけれど、それでも俊の手は暖かく、瞳はきらきらしてまぶしかった。聞き慣れぬ愛の言葉は、くすぐったくて楽しかった。
(まあ、いつまで続くのかって感じだけどな。あいつ、あきっぽいし)
 朔哉はもう見えなくなった俊を思い出しながら、独り小さく笑った。
 あの夜、燃えて塵となったあの黒い絵とともに、朔哉を惑わす声も気配も綺麗に消えてなくなった。まるで夢の世界の出来事のように一瞬にして過ぎていった。
 あの後、信じがたい状況の中、しばしの間茫然として地面に座りこんでいた三人だったが、炎の明かりに気づいてやってきた守衛の老人に見咎められ、しこたま怒鳴られて現実に引き戻された。
 杉宮がなんとか守衛を言いくるめてごまかし、結局説教は食らったものの特別な処罰を受けることもなかった。もっとも、真実を話したところで誰も信じはしないだろう。とうの三人ですら、跡形もなく消え去ってしまった今、夢か現実かの判断さえあやふやなのだ。
 そして唐突に現実が戻って来た。
 朔哉を誘惑したかすれた声は消え、胸にあった赤い痣も嘘のようになくなった。三人で恐る恐る訪れた旧美術室のあの部屋には、もう怪しい気配はなにも感じなかった。
 すべては平穏なそれまでの世界に戻っていた。ただ三人の記憶の中にだけ、恐怖の爪あとを確かに残して。
 しかし、そんな恐怖すらもがいつかは薄れてしまうのかもしれない。信じがたい思い出は、いつか遠い日の夢となって、記憶の向こうに風化していくのかもしれない。その時には……またあの、冷たく醒めた日々が始まるのだろうか。冷たい魂を抱いて、とこしえに凪いだ海のような毎日を、ただなんとなく過ごす事になるのだろうか。
 朔哉はプルンと頭を振った。そんな事を考えてはいけないのだ。今はただ生きることを、現実のことを考えていかなければ。俊や杉宮があんなに必死になって、この世界に結び付けてくれたのだから。
 朔哉はふうと大きな吐息をついて、教室へと入ろうとしたその時……。
 ――サク……ヤ……
 ふと、どこかからかすかに呼ばれた気がして、彼は後ろを振り返った。

 
 気だるい午後の退屈な授業を、俊はまるっきり上の空で聞いていた。
 頭の中には朔哉の家にいつ押しかけようか、そればかりを考えていた。今度の週末にでも引っ越そうか。それとも、手荷物ひとつ下げて今夜からでも居座ってしまおうか。
 そうだ、それもいいかもしれない。そして一緒に暮らそう。あいつに現実の楽しさを教えてやろう。食べて、寝て、笑って、怒って、そんな何気ない喜びを部屋に満たそう。あのモデルルームみたいな冷たく無機質な部屋を、生きる暖かさでいっぱいにしてやろう。
 俊はそんなことを思って、ひとり口元を緩めた。
 その時――突然頭の中に真っ白な閃光がきらめいた。
 バシッと音がきこえそうなほど激しい光が走り、そしてそれと同時にひとつの映像が脳裏に浮かんだ。
 それは、どこかの景色だった。
 ほんの一瞬であった為に、すぐにはそれがなんの映像なのかわからない。
(え……? な、なに……?)
 戸惑う俊の頭の中に、再び映像がきらめいた。
「わ……!」
 突然の事態にふらりと眩暈がして、思わずぎゅっと目を閉じた。そして三度目の映像が脳裏をよぎる。それはどこかの教室のドアだった。くすんだ水色をした、古ぼけて汚れた扉。確かどこかで目にしたことがある……。
 バシッ!――
 四度目の映像がきらめいた時、俊は頭がぐるぐると回って、机にがっくりと両肘をついた。教師がそんな彼の異常に気づき、声をかけた。
「どうした、長尾? 気分でも悪いのか?」
 俊には応えることが出来なかった。何度も何度も目まぐるしく蘇る映像に、くらくらと眩暈に襲われてしまう。それはまるで映画の1シーンを切り取って、真っ白なフラッシュとともに脳髄に直接貼りつけられているような感覚だった。
 ――シュン……
 その時、映像に混じってひとつの声が聞こえた気がした。
「朔哉……?」
 俊はハッとして身を強張らせた。それは間違いなく朔哉の声だった。彼が呼ぶ声、彼が呼んでいる声だ。自分を……呼んでいる。
 俊は蒼白になって席を立った。止める教師をあとに教室を飛び出し、一目散に三年のいる三階へと向かって走りだした。
 激しく胸騒ぎがした。何かがおきているのだ。何かかが、得体の知れない何かが、朔哉の身におきている。そして彼は呼んでいるのだ。誰かの救いを、……俊を。
 途中何度もどこかの光景がフラッシュバックした。だがあまりにも一瞬で目まぐるしく移り変わる為に、それがどこだかわからない。ただチカチカと景色が過ぎていくだけ。
(朔哉!)
 不安と焦りで、全身に冷たい汗がふきだした。胸がドクドクと鳴っている。階段を駆け上がりながら、奥歯がガチガチと小さく鳴り続けていた。
 最後の階段を上がったところで、思わぬ人物と出くわした。
「長尾!」
 杉宮だった。
 彼もまた真っ青な顔をし、不安と当惑に表情をひきつらせていた。杉宮は緊迫した声で叫んだ。
「おい、なんなんだ、これは? いったい何がおきてるんだ?」
 俊はブルブルと顔を振った。
「わ、わかんねー。でも、朔哉が呼んでる。朔哉が……」
「あいつなら教室にはいない。今見てきた」
「いない? どこへ?」
 杉宮は無言のまま表情を強張らせた。わからないのだ。彼が同じような感覚に襲われ、不安に苛まれて朔哉の所在を確かめにいったが、そこにはもう彼の姿はなかった。教師も同級生たちも、昼休みの終わりから彼を見た者は誰一人としていなかった。
 二人はしばし途方にくれ、廊下で立ち尽くした。
 どうしようもなく心が騒いだ。不安ばかりがどんどん膨れ上がって、俊はぎゅっと唇を噛み締めた。
(朔哉、おまえ、どこ行ったんだよ? いったいどこに……)
「……あ」
 俊はフッと思い出した。先ほど見えたあの扉、あの汚れた水色の古いドアは、旧美術室のドアの映像だ。初めて朔哉と二人で訪れた時、固く口を閉ざして人の侵入を拒んでいたあの部屋だ。薄気味悪い、薄暗い部屋……。その奥に魔の空間を潜めていた場所。
「旧校舎だ。あいつ、旧校舎にいる、部長!」
 杉宮はそれを聞くと、ガシッと俊の腕を掴んで、旧校舎に向かって走り出した。 
 途中、また幾度かどこかの映像が頭をよぎった。それは、確かに旧校舎の中のどこかの映像のようだったが、はっきりとした場所はわからなかった。ただ暗く陰鬱な古ぼけた建物ということがうかがえるだけ。
 物も言わずにひたすら廊下を駆けて、二人が旧美術室に着いた時には、もうそこには誰もいなかった。ただ扉が大きく開け放たれていた。
 杉宮は躊躇せずに中へと入って、まっすぐにあの奥の準備室へと向かった。しかしそこにも朔哉の姿はなく、いつからそうだったのか、ドアが中途半端に開いたままだった。
「部長、朔哉は?」
 独り出てきた杉宮に俊が恐る恐る尋ねた。だが杉宮は難しい顔で首を振った。
 重苦しい絶望がただよいかけたその時、俊はまたどこかの景色を頭の中に受け取った。
 ――シュン……
「朔哉……!」
 突然パアッと広がった空の映像。それまでの暗く重い校内から一変した外の風景だった。視界の端に、錆びて赤茶けた金網のフェンスが映っている。しかもところどころ破れて、視界はまっすぐ空へと続いている……。
 俊は傍らの杉宮の腕を掴んで、震える声でつぶやいた。
「屋上……。ここの、旧校舎の屋上に……あいつ、いるかもしれない……」
「行ってみよう!」
 杉宮は一瞬たりとて迷わなかった。先程のように俊の腕をとると、屋上へと向かった。
 きしむ階段を走って三階まで駆けのぼり、更に踊り場を超えて上へと進むと、屋上へつながる扉が洗われた。ヒビの入ったガラスにテープを張って補強してあるその古い扉は、パタパタと吹きこむ風に揺れていた。
 もう使わなくなって久しい旧校舎は、あちこちが老朽化して危険な場所が多くある。屋上もフェンスが破れていて危ないので、いつもはしっかりと施錠されているはずなのだが、何故か鍵が外されていた。
 俊と杉宮は扉を乱暴に開けて、屋上へと踊り出た。
 そこには、確かに朔哉の姿があった。
 しかし探していた人物を見つけた彼らに、安堵の余裕はなかった。何故なら、朔哉のいた場所は破れて途切れたフェンスの向こう、屋上のギリギリの縁のところに立っていたからである。
「……!」
 二人は同時に息を飲んだ。
 少しでもバランスを崩したなら、一瞬にして落ちていってしまいそうな場所に彼は立っていた。サラサラと髪をなびかせ、少し曇った夏の空を背にして、ぼんやりと宙を見ていた。
 焦った俊が叫ぼうとするのを慌てて押しとどめて、代わりに杉宮は静かに彼の名を呼んだ。
「藤城」
 朔哉はゆっくりと顔を向けた。
 なんの表情も浮かんでいない、人形のような顔だった。
 美しい顔だ。だが生きる活力のない顔だ。何も感じていない、何にもときめかない、氷のような顔だった。
 俊と杉宮の姿を見ても、顔色ひとつ変えない。ただぼんやりとこちらを見ているだけだ。杉宮は動揺を押し隠して、できるだけ平静な口調で話しかけた。
「藤城、なにやってるんだ、そんなとこで?」
 だが朔哉はなにも答えなかった。黙ってこちらを見返していた。
 俊はコクンと一度息を飲むと、一歩彼のほうへと足を踏み出した。引きとめようとする杉宮に大丈夫だと言うようにうなづき、ゆっくりゆっくりと近づいていった。
 そしてあと二・三メートルというところまで来た時、俊はギクリとして足を止めた。
 じっと無表情にこちらを見ている朔哉の周りに、あの、何かの気配を感じたのだ。あの夜燃えた絵とともに消えてしまったはずの、得体の知れない存在。朔哉を暗い深淵に中へと引きずり込もうとする、魔のものの見えない影を感じたのだ。
 すーっと額を汗が伝った。心臓がドクドクと早鐘のように打っていた。俊は走り出して飛びつきたい衝動を必死にこらえて、そっと声をかけた。
「朔哉……?」
 彼の瞳が、俊をとらえていた。返事こそしないものの、その視線は確かに俊を見つめている。そこに一縷の望みを託して、俊は穏やかに話しかけた。
「朔哉、なあ、そこ危ないぜ。こっちこいよ」
 しかし相変わらず返事はなかった。俊はもう一歩傍によって、ひきつった顔に無理矢理笑みを浮かべた。
「朔哉、さあ、一緒に戻ろうぜ。な?」
 夏の風がサアッと吹いて、端正な朔哉の顔の上に柔らかな髪をしだれかけた。白いシャツの襟が、小さく揺らいだ。
 朔哉はうっすらと唇を開き、か細い声でつぶやいた。
「……呼ぶんだよ」
「え? なに?」
 俊が問い返すと、彼はゆっくりと独り言のように話した。
「あいつが……呼ぶんだ。俺の、名前を……。ずっと、ずっと、呼んでるんだ……俺を……」
「朔哉……?」
 朔哉はぼんやりと視線を宙にただよわせて、喋り続けた。
「こっちに来いって……ずっと呼んでる。一緒に、一緒にいようって……あいつは言ってる」
「違う!」
 俊は叫んだ。
「違う違う! そう言ったのは俺だ! 俺がおまえに言ったんだ。一緒にいよう、一緒に生きようって俺が言ったんだ! そんな化物じゃない!」
「俊……」
 ほんのかすかだが朔哉の顔に表情がともった。俊は必死になって話し続けた。
「おまえだって言ったじゃないか! 俺を愛してるって、一緒に暮らしてもいいって言ったじゃないか! 俺と生きる為におまえはそいつを振りきったんだろ? おまえ、俺を選んだんだろう あの時? なら、こっちに来い。俺の傍に来いよ、朔哉! 戻って来い!」
 朔哉の表情に、明らかに迷いが浮かんだ。俊の言葉に揺り動かされ、こちら側に帰ってこようとする意志が見られた。それでも動かないのは、ためらっているからじゃない。きっと何かが押しとどめているのだ。あの場所に。
 朔哉は、生きようとしている。
(朔哉!)
 俊はもう一歩踏み出した。
 その時だった。一陣の風とともに、何かが朔哉の体を包み込んだ。
 引き込まれるようにふらりと彼の体が揺れ、そのまま屋上の床を離れ、何もない空中に向かってゆっくりと傾いでいった。俊は走り寄って手を差し出しながら叫んだ。
「朔哉っ!」
 その声に応えるように、朔哉もまた手を伸ばした。いっぱいに指先を広げ、目を大きく見開いて俊を見つめながら宙をかいた。
 彼の手が俊の手を捕らえる。一瞬二人は堅くその手を握りあった。しかしすぐにほどけて、するすると非情にも離れていった。
 それはまるで、スローモーションフィルムのように俊の目に映った。
 すがりつかんとするがごとく、俊の甲に爪を立てて、だがゆっくりと離れていく朔哉の手。目の前をゆっくりと倒れ、空に落ちていく彼の体。
 風がさわさわと髪を躍らせ、額を隠し、美しい顔を覆った。
 その隠れた髪の隙間からちらりとのぞいた彼の唇……それがかすかに笑っていた。 
「朔哉ああぁぁっ!」
 それが、俊と杉宮が見た、最後の朔哉の姿だった。


 誰も来ない階段の踊り場で、俊と杉宮は会っていた。
 二人の間には重苦しい空気があった。どちらも絶望と苦渋に満ちた、悲壮な顔をしていた。特に俊は、まるで笑みなど忘れてしまったかのように、一心に床をにらみつけながら、じっと何かを考えていた。杉宮はそんな彼に、慰めるように言った。
「もう気にするな、長尾。仕方がなかったんだ」 
 俊はちらりと杉宮を見、だがすぐにまた床に視線を戻した。
 沈黙が語っている。どうして朔哉を助けられなかったのか、どうして彼を失ってしまったのか、そんな深い後悔が見て取れた。
 朔哉は、見つからなかった。
 屋上から落ちたはずの彼の体はどこにもなく、その下の地面にも痕跡はなにひとつなかった。落ちたと言う俊と杉宮の証言に、警察もやってきて懸命に捜索したが、結局旧校舎にも新校舎にもどこにもその姿を発見することは出来なかった。
 その後捜索は校内以外にも広げられ、事件か事故かと熱心に捜査がされたが、そのどちらとも決めつけられないまま、いつしか世間はその事件をあきらめた。結局、家出であろうと判断され、捜索は打ちきられた。
 しかし真実を知っている者が二人いた。その二人にとっては、その事件は簡単にあきらめられるものでも忘れられるものでもなかった。
 杉宮は少し苛立った声で、諭すように言った。
「仕方がなかった。どうしようもなかった。俺たちは精一杯やったんだ。あいつの為に、あいつを助けようと思って、出来る限りのことはした。だけど……連れ戻せなかった。……結局、あいつは負けたんだ。あの化物に……。いや、違う。自分自身にだ。あいつは、生きるということに負けたんだ。あいつは自分から死を選んだんだ」
 彼の話をさえぎって、俊が悲鳴のようにヒステリックに叫んだ。
「違う! そうじゃない!」
 俊は驚き目をむいている杉宮に、猛然として食って掛かった。
「朔哉は死のうなんて思ってなかった! あいつは生きようとしてたんだ! あの時、こっちに……俺のいる元に帰ってこようとしていた。だけど何かが……何かがあいつを……」
 見開いた大きな瞳に、みるみるうちに涙が溢れる。だがそれをこらえるように、俊はぎゅっと固く唇を噛み締めた。丸めた背中が小さく小刻みに震えている。彼は必死に耐えていた。
 杉宮はしばらく無言でその姿を見守っていたが、やがて大きくひとつため息をつくと、傍によってぽんぽんと軽く肩を叩いた。
「真実がどうあれ、あいつはもういない。おまえももう忘れろ、長尾」
 慰めようとする暖かい響きを持った言葉だった。しかし俊は背を向けたまま、冷たく返した。
「忘れられる訳なんかない。絶対に……」
「長尾……」
 杉宮は困ったような表情を浮かべ見つめていたが、そのうちあきらめたように吐息をつき、俊を残して階段を降りていった。 
 俊は独りその場に立っていた。昼休みの終わりを告げるチャイムがなる。それでもかまわず、ずっと独りで立ち尽くしていた。
 が、ふと顔を上げると、片手をズボンのポケットの中にさしこんで中を探った。やがて引き出した手には、小さな銀色のひとつの鍵が握られていた。
 それはあの、旧美術室の合鍵だった。朔哉の部屋にあったのを、俊が見つけて持ってきたのだ。
 俊はしばらくその鍵を凝視し、そのうちその場を離れ、旧校舎に向けて歩き出した。午後の授業が始まっている校舎は、とても静かだった。
 ときおり教室の中から教師の声が響いてくる。穏やかで平穏な日常と言う現実。そんな中を歩き続け、貧相な渡り廊下を通り、彼は旧美術室の前までやってきた。
 汚れてくすんだ扉に鍵を刺しこみ、きしんだ音を立ててドアを開ける。中はひっそりと暗く沈黙していた。
 俊は足を踏み入れると、迷わず奥の準備室へと進んだ。
 ギイッと耳障りな音とともに扉は開き、部屋は来訪者を無言で迎え入れた。
 そこはよどんでいた。重く湿った空気が辺りを支配し、部屋のあちこちに闇がひそんでいた。
 俊は部屋の真ん中に立ち、ぐるりと中を見渡した。どこにもあの不気味な気配はなかった。朔哉を誘惑し、深淵へと引きずり込んだ得体の知れぬものの気配は、残ってはいなかった。
 たくさんのガラクタ。価値のない古いキャンバスの山。壊れた彫像に埃だらけのダンボール箱。そんなものが積まれているだけ。あの時朔哉を襲った化物はもういない。
 俊は目を閉じ、膝をついた。そしてそのまま、汚れた床の上に長々と横たわった。唇から震える声が漏れた。
「朔哉、朔哉……どこなんだ、朔哉……」
 幾ら呼んでも、その応えはなかった。彼はそれでももういない者に向かってささやき続けた。
「朔哉、俺あきらめないから。きっとおまえが帰ってくるって信じてるから。待ってるから。ずっと……」
 薄闇はくすくすと笑うようにそのつぶやきを包み込んだ。
「おまえは俺のもとに帰ってくる……。俺は信じない。あんな奴に負けたなんて、絶対に認めない。だって……それなら、どうしてあの時、おまえは俺の手をとった? どうしてこんな傷をつけていったんだ? 朔哉……」
 俊は瞳を開けて、自分の右手の甲を見た。そこには真っ赤な痕が三本、くっきりと浮かんでいた。
 それはあの最後の瞬間、朔哉が残していった爪痕だ。懸命にすがった手が必死につけていった生の証しだ。俊はその傷をじっと見つめた。
 ふと、何かか呼ぶ声がした。
 ――シュン……
 俊はぼんやりとその声を聞いた。
「朔……哉……・?」
 それは、かすれた風のうなりのような、甘く妖しいささやきだった。
 俊は準備室の床に横たわったまま、その声を聞いていた。右手がかすかに疼いた気がして、彼は視線をそこに向けた。
 俊の白く華奢な手の甲に、真っ赤な三本の痕があった。
 そして、それがゆっくりとうねって、生きた細い蛇のように身をくねらせ、やがてひとつの言葉をささやいた。
 シ・ュ・ン……と。

 
 どこかで誰かが笑った気がした。


                                          ≪終≫
後書き



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