痕(あと)
    
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5 日溜り



 部屋はとても静かだった。
 外の喧騒も、閉ざした窓の向こうからは響いてくることはない。
 今この部屋にあるのは電気製品の微かなモーター音と、目覚し時計の時を刻む小さな鼓動だけ。
 そして……ふたつの魂の命の音。
 唇から漏れるかすれた呼吸、己の胸の奥に流れる血のささやき。 
 自分を見つめる者の、小さなため息。衣擦れ、足音、生きているの人間の、生きている音。
 朔哉は目を閉じながら、じっとそんなものを聞いていた。

 俊はベッドのふちに軽く腰掛け、そこに横たわる者に顔を寄せて、そっと話しかけた。
「だいじょうぶ?」
 朔哉は閉じていた瞳をあけると、口元に力なく笑みを浮かべた。
「ああ」
「なんかいる? 喉乾いてない?」
 朔哉はわずかに首を振った。
 横たわる彼の顔は蒼白く、ぐったりとして生気がなかった。いつにも増して無気力な厭世観が漂っている。俊はそんな朔哉の顔を、無言でじっと見つめていた。
 先ほどあの部屋で見せつけられたおぞましい光景が、まざまざと脳裏によみがえった。
 背筋の凍りつくような異様なシーン。部屋中に渦巻いていた異常な空気の中で、目に見えぬ何かに抱かれていた彼。貫かれ、恍惚とした表情を浮かべて悶え狂っていた姿態。それは今まで俊が一度として見たことのない、朔哉の顔だった。醒めた仮面をかなぐり捨てた、真実の素顔だった。
 今こうして、生きていることになんの意味も感じられずに息をしているような彼とは違う。熱く身も心も燃やして、すべての細胞を快楽に浸し、狂喜していた朔哉。俊ではない、どんな人間でもない、あの目に見えぬ存在を相手に……。
 どうしようもない敗北感や嫉妬が押し寄せ、俊は胸に痛みを感じて、朔哉の上に覆いかぶさりその体を抱きしめた。朔哉が戸惑ったようにつぶやいた。
「……俊?」
 俊は無言のまま、いっそう抱く手に力を込めた。離すと、彼がどこかに行ってしまいそうな気がした。手の届かぬ世界に、何かが連れ去ってしまいそうな気がした。
 朔哉は抵抗することもなく、なされるがままにその腕の中にいた。俊は彼を抱きしめながら思った。
 そうだ、朔哉はいつだって優しい。いつだってワガママを聞いてくれて、望むことはなんでもしてくれる。でもそれは、本当の優しさゆえの事なのか。彼はただ、何も望まず何も考えることなく、他人の言葉に従っていただけなのではないか。そこにほんの少しでも、熱い想いがあったのだろうか……。
 俊は顔をあげると、じっと朔哉を見つめた。
 彼が不思議そうに見返してくる。熱のない眼差しだ。人形のように美しい、けれど輝きのない瞳。それでも今は俊だけを見つめている。
 俊はそっとささやきかけた。
「朔哉……」
「ん?」
「ねえ、俺のこと……愛してる?」
 朔哉はちょっと意外そうな表情を見せ、呆れたように笑った。
「なんだよ、急に。おまえらしくもないな」
「聞きたいんだよ。なあ、言えよ。朔哉」
 朔哉はしばし沈黙した。奔放で、ワガママで、いつも気まぐれに求めてきて、子猫みたいに擦り寄っては、プイとどこかに行ってしまう自分勝手な俊。そんな彼と半年つきあって、お互いただの一度だってそんな言葉を交し合った事はなかった。必要と思ったこともないし、望まれたこともない。愛なんて、考えた事もない。
 朔哉はゆっくりと腕をあげると、俊の小柄な体を自分から抱きしめた。力の入らぬ手で優しく胸の中にかきいだき、柔らかな茶色の髪に顔をうずめ、そっとささやいた。
「ああ、……愛してる」
 朔哉はまるで、自分自身に言い聞かせるようにその言葉を口にした
「……愛してるよ、俊」
 俊はぎゅっとしがみついた。初めての言葉。それは今の二人にとって、互いを繋ぐ何よりも強い鎖のように感じられた。たとえそれが、本心ではないとしても。
 俊は力一杯彼を抱きしめながら、胸の中から叫んだ。
「なら……、ならもう、あんなところ行かないよな? ずっと俺のそばに居るよな? なあ朔哉?」
 答えはなかった。だが力強く抱擁が返ってきた。俊は力の限り抱き返しながら、必死に言った。
「俺やだからな。あんな、わけのわかんない奴におまえとられるの、絶対やだ! 絶対渡さないんだから!」
 唇から嗚咽が漏れた
.
「俊……」
 俊の声はしっかりと朔哉の耳に届いた。しかし、そんな言葉の向こうに、かすれた風のうめく声があるのも、彼はまた感じていた。
 あの、背筋を震わすような、恐ろしくて甘いささやき。闇の向こうから聞こえてくる誘惑の声。
 ――サクヤ…… 
 どこかで、誰かが、朔哉を呼んでいた。


 その頃、杉宮は独り学校に戻っていた。
 俊とともに朔哉を彼の部屋まで送り届け、あとの世話を俊に任せて、もう一度あの不気味な現象がなんだったのかを見確かめる為にやってきたのだ。
 腕時計を見ると、時刻はもう夜の八時近かった。
 表玄関はすでにしっかりと施錠され、灯りも落とされて、校内中が暗く静かだった。所々に灯った非常灯だけが、うっすらと照らしている。
 夜の学校には確か年老いた守衛が独りいるはずだが、それほど頻繁に巡回にくることはないだろう。ましてや、旧校舎などは一晩に一回見回るぐらいのものに違いない。
 杉宮は旧校舎の裏手に回ると、非常口に取り付けられていた古い南京錠を持っていた棒で叩き壊し、中へと入った。
 校内はひっそりと暗かった。すでに訪れている闇に加え、数少ない窓からは外からの光もあまり射し込んではこない。杉宮はポケットから懐中電灯を取り出すと、それで足元を照らしながら奥へと進んだ。
 闇に支配されたそこは、昼にもまして薄気味悪く不気味な空間だった。きしんでうなる廊下の床板は、まるで何か見知らぬ生き物の、怪しい鳴き声のようにも聞こえた。
 怖気だつような恐怖を感じつつも、萎えそうになる気を奮い立たせて杉宮は進んだ。とにかく、もう一度あの部屋へ行ってみるつもりだった。
 信じられないような光景を目の当たりにした旧美術室のあの部屋。あれからとりあえず朔哉を連れて急いであの場を離れ、戻った部屋で徐々に正気を取り戻した彼にいろいろと話しをさせた。不気味な声のこと、胸に浮かび上がる赤い痕、そして……触れてきた何か……。
 それは話として聞いただけでは、とても信じられないようなことばかりだった。多分いつもの杉宮なら、一笑に伏していた事だろう。しかし実際に目の前に見せつけられた今となっては、まるっきり嘘だ幻覚だと決めつける事は出来なかった。
 現実主義者の杉宮には、素直にすべてを納得するには、あまりにも異常過ぎた。しかしまた、ただの夢でない事もよくわかっていた。だからこそ、恐怖におののきながらも、もう一度見確かめる為にこうして独りやってきたのだ。朔哉の話では、直接何かが仕掛けてくるのは、あの部屋の中だけだという。ならば何かの正体を知る手がかりが、あの部屋の中にあるもかしれない。もっとも、それがわかったからとて、ただの高校生にすぎない杉宮には、どうすれば良いのかもわからないのだが。
 時々あちこちから聞こえてくる家鳴りにびくつきながらも、杉宮は旧美術室までたどり着いた。一度大きく深呼吸し、ゆっくりと中へと入った。
 部屋はひっそりと息を潜めていた。さきほど俊が飛ばされてぶつかったせいで、乱雑におかれていたガラクタがいっそう乱れて転がっている。床に散らばった物をよけながら、杉宮は部屋の奥の、準備室の方へと向かった。
 扉は、あの時飛び出したそのままに、大きく開け放たれていた。
 杉宮は緊張しながらそこに近づき、まず入り口近くに立って中を見た。当然かもしれないが、そこは真っ暗で、何もかもが闇に閉ざされていた。物音ひとつない。あの時の異様な気配も渦巻いていた不気味な空気も、なにもなかった。
 杉宮はコクンと唾を飲み、額に冷たい汗を浮かべながら、ゆっくりと一歩足を踏み入れた。
 おそるおそる懐中電灯で部屋の中を照らしてみた。そこには隣の美術室と同じく、様々なガラクタが所狭しと置かれているだけだった
.。とりわけ絵画が一番多く、壁に掛けられているものの他にも、床の上に何枚も重ねてじかに積まれた物や、無造作に隅に押しこまれている物やらで溢れていた。
 多少重たく淀んだ雰囲気はあるものの、特に異様な気配は感じない。杉宮はびくつきながらも少しづつ奥へと進んでみた。中央まで行き、あちこちに光をあて、いろいろと探ってみる。だがやはり異常なものや怪しいものの影は見当たらなかった。
 少しホッとし、杉宮は踵を返して部屋を出ていこうとした。
 その時、背後でカタンと小さな音がした。緊張している体がぴくんと震えた。おずおずと振りかえり、小刻みに震える手で音の方向に懐中電灯を向けてみたが、別段変わったところはなにもなかった。乱雑に置かれた物が、なにかの拍子に偶然動いただけらしい。
 杉宮は小さく息をつき、もう一度背を向けかけたその時、ふと懐中電灯の光があたった一枚の絵が視線の端に入った。
 それはかなり大きなサイズの、古いキャンバスだった。重厚な額縁に入れられ、画面一面が真っ黒な色で塗りつぶされている。
 そこに……赤い模様を浮かび上がらせて。
 杉宮はその絵を目にした途端、全身硬直し、蒼白になって立ち尽くした。
 闇のような黒い油絵の具を荒々しく塗りつけた画面には、中央に爪で引っかいて削ったような跡があった。下に塗られていたらしい真紅の色彩が、そこだけ闇の中から浮かび上がっている。それは、まるで血を流している傷痕のように見えた。
 そして、その傷痕はこうささやいていた。
 サ・ク・ヤ……と。
「…………」
 杉宮は言葉もなく、その絵を凝視していた。体中が、凍りつくような悪寒に包まれ、懐中電灯を握る手が汗で濡れた。
 絵は、そんな杉宮をせせら笑うように、じっと彼を見返していた。
  


 翌日の昼休み、屋上に出る階段の途中の踊り場で、杉宮と俊は向かいあっていた。
 杉宮は昨夜の絵のことを、俊に話して聞かせた。俊は蒼ざめた顔で無言のまま聞いていたが、やがて低く声を潜めるようにしてつぶやいた。
「……じゃあ、その絵が朔哉にとりついてるって言うのか?」
 杉宮は難しい顔でにらみ返した。
「知るかよ、そんなの。俺はその手の話には興味ないんだ。ただ……」
 彼は一度ごくりと唾を飲んだ。
「俺が見ても、あれは尋常じゃなかった。なんていうか、不気味で……誰かがイタズラでやったようなもんじゃないぜ。人が……やれるような仕業じゃない……」
 改めて思い出したのか、表情を強張らせて口をつぐんだ。強面の顔が蒼ざめている。
 俊は黙って床をにらみつけていたが、やがて上目使いに杉宮を見やると、ぽそリと尋ねた。
「で、その絵のこと、何かわかった?」
 杉宮はちらりと俊に視線を向け,また目を逸らして言い難そうに答えた。
「それが……昨日、前の部長や先輩に電話して聞いてみたんだが、誰もそんなもの知らなかった」
「知らない……? 誰が書いたかとか,なんで黒く塗りつぶされてるのかとか,わかんないのか?」
 俊が眉をひそめて問い返すと,杉宮は困ったように首を振った。
「顧問や……念の為に一番古い教師にも聞いてみたけど、答えは同じだった。誰もそんな絵のことなんか知らない」
「なんだよ! じゃあ結局なんにもわかんないんじゃねーか! それでどうするっていうんだ!」
 二人は苛立ちをぶつけ合うように激しく言いあった。
「仕方ないだろ! そんな旧美のガラクタのことなんて、知ってる奴なんかいるか!」
「仕方ないですむかよ! 調べろよ,必死に。部長なんだから、どうにかしろ!」
「ムチャクチャ言うな! だいたい、十年以上もろくに使われてない場所で、来年には取り壊すかって言われてんだぞ。そんな所に突っ込まれてる古ぼけた絵の一枚、調べろって言うほうが無理だろうが!」
 杉宮がむきになって言い返すと,突然俊ががばっと飛びついてきて,杉宮の制服の胸元を掴み,ねじりあげた。そしてすさまじい剣幕で迫った。
「それじゃ、どうしたら朔哉を救えるんだよ? どうすれば、あの訳のわかんねー化物から助けられるんだ? いったい何なんだよ、あれは!」
「わかるか! そんなもの!」
「わからないじゃないだろうが? どうすんだよ?」
「俺にだってわからん!」
「教えろよ! いったい、どうすればいいんだ? 俺は何をすればいいんだよ?」
「だから、そんなこと俺に聞かれたって……!」
 杉宮は声を荒げ,しがみついてくる俊を引き離そうとしてその顔を見、ハッとして手を止めた。必死の形相で迫ってくる俊の瞳に、今にもこぼれそうなほどの一杯の涙が溢れていたから。
「長尾……」
 胸元をつかんだ手が,小刻みに震えていた。杉宮が声もなく見つめていると,俊はこらえきれぬように唇を噛み、かすれた声を絞り出した。
「……やだよ、やだよ俺……。朔哉があんな奴にとられるの、やだ……」
 俊はそのまま彼の胸に額を押しつけ、小さくすすり泣き始めた。
 杉宮は子供のようにしゃくりあげるその姿を,困惑した表情で黙って見守っていた。大きな手でそっと頭に触れ,なだめるように髪を撫でた。
「泣くな」
 それでも俊の涙は止まらなかった。しばらく杉宮はそれを許し,胸を貸していたが,やがてしっかりとした口調でぽつりと言った。
「どうにかする。あいつは,絶対に助ける」
 俊が顔を上げると、彼は言った。
「長尾、夜になったら藤城を連れてこい。学校まで」
「……どうする気?」
 俊が不安げに尋ねると,杉宮はきっぱりと答えた。
「絵を処分する」
「絵を?」
「そうだ」
「それでどうにかなるの?」
「わからん。だがそれしか思いつかない」
 俊は無言のまま杉宮を見つめた。杉宮もまた、堅く口をむすぴ、見返した。その目はしごく真剣だった。
 彼が提案したのはなんの根拠もない、果たして効果があるのかどうかも疑わしい手段だったが、かといって他に有効なてだてがある訳ではなかった。原因がわからないこともさることながら、ふたりとも、ただの高校生なのだ。超常現象に対処できる特別な能力などあるわけもない。
 俊はこくんと神妙にうなづいた。
「……わかった」
 明確なてだてがない以上、少しでも思いつくことをやってみるしかない。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。俊は杉宮を残して階段を降りかけ、途中でくるりと振り向いて力なくつぶやいた。
「部長……」
 杉宮が顔を上げると、彼は不安そうな口調で尋ねた。
「あいつ、帰ってくるよな? 俺たちのところに、帰ってくるよな、絶対?」
 杉宮はうなづいた。確かなことは何もなかった。しかし気持ちだけは確かだった。朔哉を取り戻す、得体の知れぬ魔のものに憑りつかれている朔哉を、現実の世界に引き戻すと。
「取り戻してみせる」
 俊は力ない笑みを浮かべた。まるでその言葉に、すがるように。


 ――サクヤ……
 朔哉はコーヒーを入れていた手をとめ、宙を見上げた。
 部屋の中は静かだった。自分以外には誰もいない。夕べ一晩中付き添っていた俊は、朝様子を見に来た杉宮に引っ張られて、渋々ながら学校に行った。朔哉は独り部屋に残って、終わり次第飛んで帰ってくると言い残していった俊の帰りを、なにをするでもなく待っていた。
 淋しいとか不安だとか、そういう感覚はなかった。独りでいる事など、昔から慣れきっている。それにどうこうする感情も、いつの頃からかなくしてしまった。彼は冷たく静かな部屋の中で、もうずっと長い間独りだった。
 ――サクヤ……
 またあのかわいた声が朔哉を呼んだ。
 朔哉は自分の心に聞こえないふりをして、コーヒーを入れ続けた。かぐわしい香りが立ち昇り、部屋中を柔らかに満たしていった。
 時刻は夕方。その言葉通りなら、もうすぐ俊が帰ってくるだろう。朔哉は少しだけ不思議な気持ちになった。誰かが帰ってくるのをコーヒーを入れて待つなんて、今まで何度あったことだろう? まるで覚えてない。初めてのことかもしれない。
(きっと俊はのやつ、びっくりするだろうな)
 そう考えると、かすかに口元が緩んだ。
 ――サクヤ……
「うるさい」
 朔哉は誰に応えるともなく、小さくつぶやいた。
 白い陶磁の器から、ペーパーフィルターを通してぽとりぽとりと闇色の液体が滴っていた。それは俊が以前買ってきておいていったドリッパーだった。
 食に興味のない朔哉は、自分独りならコーヒーを落として飲むような面倒な真似はしない。喉が乾いたら、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲めばそれですむ。そんな朔哉を、俊はいつも呆れていた。美味しい物を食べて、それを美味しいと感じることが生きることの基本なのだと、わかったようなことを偉そうに話していた。
 そして、二人で食事をした後は、コーヒーを入れるのだけは上手いんだと、得意満面に笑いながら丁寧に落としていた。朔哉はいつもそんな彼を目の前で見、なんとなく安堵を覚えたのだ。美味しい入れ方講座を何十回となく聞かされたのには閉口したけれど。
「そう言えばあいつ、砂糖山盛りだったな」
 何気なく独り言をこぼして、普段は使わないスティックシュガーを取りに備え付けの棚へと足を向けた。そして、ガラスの扉に映った自分の姿を目にして、ハッとして動きを止めた。
 ぼんやりと映ったその影には、はだけたシャツの下からのぞく白い胸がうっすらと浮かび上がり、そして……そこに残る痕が見えた。 朔哉は我知らず視線を己の胸に向けた。
 胸には、赤い痕が幾重にも絡まって浮き出ていた。まるで真紅の細い蛇のように、悩ましげに身をくねらせて笑っていた。
 ――サクヤ……
 耳元で声がする。甘く、妖しく、ささやくように、誘うように彼を呼ぶ。
 朔哉は震える手をそっと上げて、胸の痕におずおずと触れた。ためらいがちに指先でなぞる。全身にしびれるような感覚が走った。
 あの部屋で、目に見えぬ何かによってされた行為が思い出された。
 それは少しづつ少しづつ触れてきた。唇を、首筋を、胸を肩を、体中を、そして……一番敏感な部分を、ゆっくりと執拗に弄んだ。優しくなぞり、時には強く痛いほどに舐め、柔らかに含んで甘美な喜びを与えてくれた。
 きつく押し入ってきた時にさえ、苦痛は微塵にも感じなかった。ただただ深い快感が全身を押し包んだだけ。
 ――サクヤ……
「く……」
 朔哉は眉をひそめ、素早く痕から手を引っ込めて、はだけた胸元を隠すようにシャツを手繰り寄せた。冷たい汗が額をつたった。
 その時、玄関のチャイムの音が甲高く鳴り響いた。朔哉が足早に駆けつけてドアを開けると、そこには俊が息を切らしながら立っていた。
「ただいま、朔哉」
 俊は可愛らしい顔をニッコリとほころばせて笑った。
「駅から走って来ちゃったぜ。ああ疲れた」
 朔哉は黙って彼を見つめた。
 俊の周りだけ、空気の色が違って見えた。暖かく、柔らかく、明るい日差しのようにきらめいている。朔哉は手を伸ばし、彼の体を抱きしめた。そして驚き戸惑っている俊の耳元に、そっとつぶやいた。
「おかえり」
「うん、ただいま」
 もう一度挨拶を返して、俊もまた朔哉の体を抱き返した。触れ合うそこは暖かかった。生きている人の熱が存在していた。
 しばらくそうしていると、胸の中から俊がぼそりとつぶやいた。
「朔哉……あちい……」
 身を離して彼を見ると、額に一杯汗が浮かんでいた。
「あちー、走ってきたから、尚更……。夏のこの季節は、いちゃつくには地獄だな」
 ゲッソリした顔で大きく喘いでいる俊を見て、朔哉は一瞬言葉をなくし、そして呆れて笑った。
「それじゃ、アイスにしようか? コーヒー」
 俊はカウンターの上に用意されたコーヒーを見て、ビックリした声をあげた。
「え、なに? 朔哉が入れたの、これ?」
「ああ」
「もしかして俺のために?」
「まあ、俺も少し喉が乾いてたからな」
 朔哉が照れくさそうに応えると、俊は満面に笑みを浮かべ、飛んできてもう一度抱きついた。
「すっげぇ嬉しい。サンキュー!」
 これ以上はないというほど嬉しそうに破顔し、そしてふと真剣な瞳を向けて、ためらいがちにつぶやいた。
「朔哉……?」
「ん?」
「なあ、一緒に暮らそうか?」
 朔哉は驚いて俊を見た。彼はちょっとだけ不安そうな笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「俺、ここに来てもいい? 一緒に住んじゃだめ? 俺、料理全部してやるからさ。掃除も洗濯も、ちゃんと半分するよ」
「俊……」
「だめか? 俺と暮らすの、やだ?」
 朔哉は無言のまま俊を見つめた。まっすぐな瞳を正面から向けてくる彼。朔哉は小さく鼻で笑った。
「浮気しずらくなるぜ。一緒だと」
「しねえよ。おまえだけでいい」
「あてにならんな」
「なあ……朔哉? イイって言えよ」
 俊が甘えるように鼻を鳴らした。朔哉は小さく笑った。
「考えとくよ」
「本当?」
「ああ。だからシャワー浴びてこい。汗臭いぜ、おまえ」
 俊はニッコリと笑って、それからちょっと口を尖らせてすねた表情を見せると、素直に言われたとおり風呂場へと飛んでいった。
 朔哉はその後ろ姿を見ながら、思った。
 そう、あの俊の日溜りのような明るさで部屋を照らせば、この冷たく無機質な空間も、少しは暖かくなるのかもしれない。二人で、喧嘩しながら、ご機嫌を取り合いながら、ままごとみたいに暮らすのも悪くないだろう。きっと彼のワガママや気まぐれには、今以上に手を焼かされるだろうけれど。
 ――サクヤ……
「……ろ」
 ――サクヤ……
「やめろ!」
 脱衣場の向こうで俊が叫んだ。
「なに? 何か言ったか、朔哉?」
 朔哉はぎゅっと唇を噛み締め、自分の体を抱きしめた。
 やがて、耳元で聞こえていた声は、シャワーの水音に消されていつしか聞こえなくなっていった。

                                                    ≪続く≫
 

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