痕(あと)
    
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4 蹂躙


 パサリ……と耳元でかすかな音がした。
 朔哉は閉じていた瞳を開き、音の方向に視線を向けた。そこには真っ黒に塗りつぶされた大きなキャンバスが、沢山の絵と共に壁にたてかけられていた。音は被さっていた白い布が、滑って床に落ちたものだった。
 朔哉は埃に埋もれた準備室の床に横たわったまま、真横に立て掛けられたその絵を見つめた。広いキャンパスの一面に、黒い油絵の具が分厚く塗りつめられている。なにを思って塗られたのか、筆使いの荒々しさが表面にも現れていて、どこか荒んだ不気味な雰囲気をかもし出していた。
 じっとその絵を見つめていると、なにかがするりと首筋を伝っていった。朔哉はかすかに眉をひそめた。ぞくりと背筋が快感に震える。そして今度はシャツの下で、胸元を柔らかな感触が這いまわり、それが時折乳首をかすめて、ぬるりと滑ったなにかで舐めあげた。
「……う……んぁ」
 朔哉は小さくうめいた。端正な顔にうっとりとした表情が浮かんでいた。紅を差したように赤く火照った唇は、かすかな笑みをたたえ、うっすらと開いている。その奥から、真っ赤な舌先がちろちろとのぞいた。
 なにかは、ゆっくりと朔哉の体を征服しつつあった。
 指がなぞるように、胸の上を感触が這っていく。上から下へ、下から上へ、時間をかけて何度も何度も、それはゆるゆるとうごめいた。と同時に、強く乳首を吸い上げられ、かすかな痛みをともなって噛みしだかれた。チリチリした苦痛が走るたびに、全身にしびれるような快感が駆けぬけた。
 朔哉は再び目を閉じた。息が荒く唇から漏れ、悩ましげな吐息が部屋に響く。快感に打ち震えるように身をよじると、はだけたシャツの胸元が大きく開き、一面に広がった赤い痣がくっきりと白い光の中に浮かびあがった。
「あ、ああ……」
 かわいた声が耳元でかすれて聞こえた。
 ――サクヤ……
 甘くて妖しい,魔性のささやき。
 朔哉はその声を応えるように、両腕を宙に向かって伸ばした。なにかがそれを捕らえる。そして頭の上に引き上げ、手首を揃えて冷たい床に押しつけた。
 強い力で押さえつけられて身動きも叶わず、朔哉は為されるがままにその身を委ねた。
 裸の胸の上をなにかが動く。濡れて絡みつくような柔らかな感触が、尖った小さな突起を執拗にねぶりまわす。甘い喘ぎが開いた唇から絶え間なくこぼれた。
 やがて目に見えぬ気配が全身にのしかかってきた。微かな圧迫感を感じる。だがそれすらもが期待を高め、快感をもたらす。朔哉はこの後に訪れる行為を思って,美しい顔に淫らな笑みを浮かべた。
 ゆっくりと制服のズボンの前が開かれ、現れた下着のきわから、なにかが中へと潜り込んだ。すでに固く張り詰めて窮屈に身悶えするものを、するすると柔らかく撫でさすっていく。朔哉は自由にならぬ体をよじって、その悦びに震えた。
「ん……ああっ、はぁ……」
 ねっとりと滑った、だが火のように熱い何かが朔哉のそれを包み込んだ。
 それは丁寧に残酷に弄び、乱暴に刺激してきたかと思うと、時に信じられぬほど優しく含み,そしてじらすように動きを止めて朔哉の反応を楽しんでいた。朔哉は形良い眉をしかめ、沸きあがる悦楽に苦しげな表情を浮かべながら、悶え続けた。
 やがてなにかはするりと後ろに這いつたい、そして……ゆっくりと進入してきた。
 閉ざした蕾を押し開き、ゆるゆると、とろとろと、奥へ奥へと進んでくる。何かが朔哉を犯していく。内側から食らい、蹂躙していく。すべてを支配し、食いつくす。
 冷たい魂を熱く変えていく……。
 朔哉は恍惚としてその感触を受け入れた。
「……もっと……、もっと熱く……して……ああ」
 なにかは体の奥で、ゆっくりとその身を動かし始めた。
 それは大きく膨れ上がり、体一杯に広がり、朔哉の内部を埋め尽くして最も快感を生み出す部分を、強く激しく突き上げた。
 狭い部屋の中に、朔哉の悲鳴のような声が響いた。だがそれは……限りない悦びに歓喜する、淫らで狂った嬌声だった。
 

 昼休みも半分を過ぎたかという頃、三年の杉宮の教室に一人の訪問者がやって来た。
 友人たちと談笑していた杉宮は、突然呼び出されて廊下まで出ていくと、そこにいた生徒の顔を見て、かすかに眉をひそめた。
 俊が可愛らしい顔にニコニコと愛想笑いを浮かべて、一人彼を待っていた。
 杉宮は仏頂面のまま、そっけなく声をかけた。
「なんだ、おまえか。なんの用だ?」
 どちらかというと強面の杉宮だ。体格もいいし、キツイ目でにらまれるとそれなりに迫力がある。だが俊はそれに臆することなく、親しげに話しかけた。
「ちょっとさ、部長に話があるんだけど、いい?」
「なんだ?」
「ここじゃちょっとね。一緒に来てくんない? ね?」
 そう言って媚びるように小首を傾げる。杉宮はいっそう難しく顔をしかめ、それでも仕方なさそうに俊と共に歩き出した。
 生徒たちがたくさんいる廊下を抜け、人の来ない屋上への階段を登っていく。最後の踊り場までたどり着くと、俊はクルリと向きを変え、杉宮へと向き直った。そして先程までの軽薄そうな笑みを引っ込め、一転して真剣な表情を浮かべた。
 杉宮がその変わりように戸惑っていると、俊は低い声で話し始めた。
「ね、部長。朔哉さ……、なにか部長に話した?」
 杉宮は怪訝そうに眉をしかめた。
「なんの話だ? あいつがどうかしたのか?」
「そうか……。やっぱりなにも知らないんだな」
 俊はつぶやくと、なにかを考え込むようにきゅっと口を結び、うつむいた。杉宮は見えない話に、少し苛立った口調で尋ねた。
「おい、いったいなんの話をしてるんだ?」
 俊はちらりと彼を見上げ、言いにくそうな様子で重たげに口を開いた。
「……朔哉さ、なんか……変なんだ。あいつ、近頃おかしいよ」
 杉宮はドキンと胸が鳴った。
 それは、確かに杉宮も気づいていたことだった。だがまた、気づかないでおこうとしていたことでもあった。
 杉宮は内心では動揺しながらも、いっそう難しく顔をしかめ、低く聞き返した。
「おかしいって……なにがだ?」
 俊は一瞬躊躇し、やがて声を潜めて、ささやくように言った。
「あいつの胸、見た?」
 杉宮が訝しげに首を振ると、俊は綺麗な顔を蒼くこわばらせて、ぽつぽつと語った。
「胸にさ……いっぱい傷あんだ。なんか……ヘンな傷。……誰かに、鞭かなんかで……引っぱたかれみたいな傷……」
「……まさか」
 杉宮は思わず否定した。確かに朔哉が普通とは少し違った感覚の男であることは知っている。だが、いくらなんでも鞭で叩かれるようなアブノーマルな行為をするとは思えなかった。極めて正常な生き方をしてきた杉宮には、そんなものは思いもつかぬ世界の出来事だったから。
 しかし俊は、そんな彼の困惑までも察したように、同情するような口調で話した。
「部長、朔哉のことあんまり知らないだろ? あいつ……あれで結構節操ないんだぜ。男も女も関係ないし、その気になったらわりと誰にでもついていっちまうし。……前なんかサドの男に犯られたって言ってた。縛られて、突っ込まれながら首絞められたって……」
「……」
「そういうの、平気で話すような奴なんだ。でも変態とか、そういうのとは別なんだ。あいつ……ちょっとずれてるからさ、どっか……」
 俊はまるで、朔哉を弁解するように話した。決して非難している訳ではない。むしろ深い慈愛を抱いているかのような,優しくそして悲しげな口調だった。
 杉宮は無言のままうつむいた。どう応えて返せばよいのかわからない。彼は少なからず今聞いた話に衝撃を受けていた。朔哉のそんな一面を知らされたということよりも、むしろ今まで自分は、彼についてなにも理解してなかったのだという事実がショックだった。
 親友と呼べるほどの間柄ではなかったかもしれないが、それでも他の誰よりも彼をわかっているつもりだった。真剣にその孤独を案じてやっているとも思っていた。だが実際には、本当に彼をわかっていたのは、この年下の軽薄な男、俊だけだった。自分が気づかないふりをして目をつぶっていた朔哉の異変を、しっかりと受けとめたのも彼だったではないか。いつもその関係を否定し続けていたのに……。
 黙りこむ杉宮に、俊は相談するように言った。 
「ねえ部長、あいつ、もしかしたらタチの悪い奴にひっかかってんじゃないのかな?」
「悪い奴?」
「うん。前みたいに、サディストの男とか……」
 杉宮が返答に窮して沈黙していると、俊は身を乗り出して訴えた。
「だってさ、あの傷痕、尋常じゃないぜ! こう……胸一面に、真っ赤な痣がさ……。いったい誰がどうしてあんなことを……」
 俊の顔が苦痛に歪んだ。杉宮はしばらく考えこんでいたが、やがて静かに言った。
「とにかく、放課後にでもあいつを捕まえて、話を聞こう。今ここで憶測していたって始まらない。どうするかはそれからだ」
 力強い杉宮の言葉に,俊は少しだけ安堵を覚えて、こくんと素直にうなづいた。だが放課後に待ちうけていたことがどれほどに予想を越えたものであったかは,その時の二人には知る由もなかったのだった。


 放課後、美術室で杉宮と俊は朔哉を待っていた。
 だが、その日も彼は現れなかった。製作に熱中している部員達を教室に残し、二人は並んで廊下に立ち、訪れぬ者を待ちわびていた。授業が終わってからすでに30分ほどたっている。来る気があるのなら、もうとっくにやってきていてもおかしくない時間だった。
「もう帰ってしまったんじゃないか?」
 杉宮が苛立たしげにつぶやくと,俊はちらりと視線を向け,小さく首を振った。
「いると思うよ。だってまだ玄関に靴あったし」
 そう言って,また固く口を結び,朔哉の身を案じるように廊下を向こうを見つめている。杉宮はふうと荒く鼻息をついた。
 ふと,彼は六時限目の授業中、理科室から何気なく廊下を見やった時,朔哉に似た後姿が歩いていくのを見かけたことを思い出し、ぽつりとつぶやいた。
「そういえば……さっき旧校舎に向かう廊下を歩いていった奴、あいつに似てたような……」
 俊はその一言を聞くなり,猛然と食って掛かった。
「なんだよ! どうして止めねえんだよ!」
「む、無茶言うな。こっちは授業中だったんだぞ。それにはっきり藤城だとわかってたわけじゃないし」
 杉宮は困惑しながら言い訳した。それはほんのちらりとだったし、まさかあの朔哉が授業中にフラフラと出歩いてるとも思わなかったので、その時は気にもかけなかったのだ。
 俊も今更責めても仕方ないと思ったのか、不満ありげな様子ながら口を結んだ。二人はしばし黙り込んだ。やがて杉宮が一度小さくため息をつき,冷静な口調で言った。
「ここで待ってても,もうあいつは来ないだろう。とりあえず、旧校舎に行ってみようぜ。今更かもしれないがな」
 そう言うと彼は、決断即行動といった様子で、旧校舎の方へと歩き出した。
 杉宮が見たという時から随分時間が経っているし、朔哉がそこに向かったという確信もないのだが、かといって他に探すあてがあるわけでもなく、俊も渋々ながら杉宮の後についていった。
 旧校舎は、ひっそりと静まり返っていた。北側の新校舎の端から、仮仕立てのような貧相な渡り廊下をすぎて灰色の古い建物に足を一歩踏み入れると、辺りは途端に陰鬱とした雰囲気に変わり、生徒たちの姿もまるでなくなった。
 生徒も教師も立ち入らぬようなこの場所は、普通ならば授業をサボったり良からぬことを企むような輩には恰好の隠れ場となりそうなものだったが、何故かこの旧校舎に入る者はほとんどいなかった。よほど何かの用事でもない限り、皆訪れるのを嫌がった。
 だから尚更そこはいつもひっそりとしていて、不気味な感じまでさせるのであった。
 俊は杉宮と並んで歩きながら、どこか身の内が冷たく冷えていくような気がして、思わずポツリとつぶやいた。 
「……なんか、いつきても薄気味悪いよな、ここって」
 弱気な言葉に杉宮はちらりと視線を向けたが,沈黙したまま足早に歩き続けた。
 ふと、俊は誰かに呼ばれたような気がして、その場に足を止めた。じっと動かず、辺りの音に耳をそばだててみたが、何も聞こえはしなかった。もっとも、それは耳に聞こえる声ではなく、頭の中に響いてくるようなほんのかすかな感覚だった。
 俊が立ち尽くしていると,杉宮が不思議そうに声をかけてきた。
「どうした?」
「ん、いや……なんか……」
 俊は何かに導かれるように、今まで歩いていた廊下を右に折れて進み始めた。杉宮は急にスタスタと歩き出した俊に戸惑い、慌ててその後を追って引き止めようと肩に手を伸ばしかけたその時、俊がピタリと足を止め、小さくささやいた。
「部長。あれ……」
 彼の見つめる方向に眼を向けると、そこには旧美術室があった。そしていつもは固く閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだがその口を開いていた。
 二人は顔を見合わせ、こくんとうなづきあうと、静かにドアを開け、中へと入った。
 そこは……空気が暗く淀んでいた。埃だらけのガラクタが部屋中を埋め尽くしている。壊れた彫像が薄気味悪い瞳を向けて、訪問者を冷ややかに歓迎していた。
 俊と杉宮は恐る恐る奥へと足をのばし,緊張した面持ちで辺りを見まわした。俊はこくんと小さく唾を飲んだ。以前朔哉と訪れた時もあまりいい気持ちはしなかったが,今日はいっそう不気味な雰囲気を感じた。まるでなにかに監視されてでもいるような、背筋の寒くなる感覚だ。
 思わず緊張して立ち尽くしていると、一人元気に部屋を歩き回っていた杉宮が,ふと足を止め,眉をひそめた。無言のまま,手招きして俊を呼びつける。俊は請われるがままに寄っていくと,彼が顎で指し示す方を見た。そこには準備室だと朔哉が言った,奥の小部屋に通ずる扉があった。
 何、と言う顔で杉宮を見ると,彼は唇に指をあて静かにするように合図しながら,もう一度ドアを指し示した。俊が不思議に思いながらもそちらを伺うと,ふとかすかな人の声が中から聞こえてきた。
「声が……」
 思わず小さくつぶやいて杉宮を見返す。彼はこくんとうなづき、自分から先に立って扉に歩み寄った。そして一旦俊の方を振り返ると、いいなと言うように目で語り、一緒に静かにドアを押した。
 扉は,音もなくゆっくりと開いた。
 二人は、その時目の前に現れた光景を見,同時にヒクッと息を飲んだ。
 小さな部屋の汚れた床の上に,朔哉が横たわっていた。
 だが、ただ寝転がっていた訳ではない。制服のシャツは前がはだけてすっかり胸がさらけ出され,下もズボンの前が大きく開かれ,下着が剥き出しになっていた。
 しかし、それだけならば、まだ理解の範囲内のことだったかもしれない。なにより信じられなかったのは、その朔哉の体に起きている異様な現象だった。
 朔哉のはだけた白い胸の上を、目に見えぬ何かが這いまわってでもいるかのように,赤い痕がゆっくりとその足跡を刻み付けていた。
 胸一面に広がった古いものの上に、さらに重ねるようにして、痣が鮮やかに浮かび上がっていく。真紅の蛇が,一匹,また一匹と現れては、白磁の肌の上で絡み合う。
 そして、俊と杉宮にとって,我が目を疑う出来事がもうひとつあった。
 朔哉の体が,まるで何かに突き上げられているかのように,ずん、ずんと規則正しく揺れていた。それは二人にもすぐわかるような動きだ。
 朔哉は……なにものかに犯されていた。
 下着はつけたままだったが,その奥で激しく何かが動いていた。そして突き上げられる度に,朔哉の口からくぐもったうめきが漏れる。艶かしく,歓喜に満ちた妖しい声が流れ出す。
 あきらかに何かが彼を暴行していた。だが、それは暴行とは呼べぬものかもしれない。何故なら,朔哉の表情は快楽に酔いしれ,喜び、恍惚としていたのだから。
「……ああ……はぅ、や……あ」
 朔哉は俊たちにまるで気づいた様子もなく、ただ快感に支配され、淫らにあえいでいた。端正な顔を淫靡に歪め,半開きの唇から甘い息を漏らす。それは、背筋が震えあがるほどおぞましく、また震えるほど妖艶な光景だった。
 俊と杉宮はしばらくの間,身動きひとつ叶わずに,その光景を見入っていた。何がおきているのか,すぐには受けとめられなかった。 
「あ……また……イクっ……、や……ああっ!」
 朔哉がひときわ大きく叫び,両腕を頭上に高く押さえつけられた体を激しくのけぞらせた。
 それは俊の心を直撃した。そんな彼を見るのは初めてだった。こんなに乱れ,こんなに悦楽に酔いしれる朔哉は初めてだった。
 朔哉がなにものかに蹂躙されている。身も、心も、魂までも……。
 俊は我を忘れて、ヒステリックに叫んだ。 
「朔哉っ!」
 思わず俊は朔哉の元へと駆けだした。
 しかし、一歩その足を踏み出した途端、激しい力に抵抗され、後方に突き飛ばされた。
「うわああっ!」
 俊の小柄な体は準備室のドアを越え、数メートルも飛んでガラクタの中へと突っ込んだ。激しい音がして、まわりに積まれていた様々な物が崩れ落ちた。
「長尾! 大丈夫か?」
 杉宮は倒れている俊の元へと駆け寄って、焦ってその体を抱き起こした。俊は苦しそうに顔を歪めながらも、小さくうなづき、つぶやいた。
「……ん、だいじょ……ぶ。それより、朔哉を……」
 血の流れる唇を噛み締め、けなげに痛みをこらえながら、なおも朔哉を案じる。杉宮は俊を残して立ちあがると、準備室の方へと戻った。そこではこれだけの騒ぎがありながらも、まるで気づかずに快楽に浸り続ける朔哉の姿があった。
 杉宮はぎゅっと固く口を結ぶと、ドアの枠に手をかけ、中へ入ろうと試みた。先程と同じく、激しい力がそれを阻止した。
「くそ……」
 杉宮はギリギリと歯を噛み締めると、ドア枠に掴まって必死にそれに耐えた。
 それは物凄い力だった。すさまじい風圧で押し返されているように、顔の皮がぶるぶると震えて歪む。息もろくにつけないほど全身を圧迫する。俊と違って体格のいい杉宮は、そうやすやすと飛ばされはしなかったが、それでも部屋の中には一歩も踏み入れることが出来なかった。
 見えない障壁の向こうには、朔哉がいた。
 彼がすべてをなにかに委ねて、悦楽に溺れていた。
 おぞましくその身を刺し貫かれながら、焦点の合わぬ瞳をぼんやりと見開いて、恍惚としている。めちゃめちゃに突き上げられて、抵抗の意志もなく犯されている。杉宮はその光景に目をひそめた。
 それはとても容易に受け入れられる姿ではなかった。たとえ彼がどんな者にも体を許す男であったとしても、今まざまざとその行為を眼前に見せつけられ、しかもそれは、正体もなにもわからぬ理解不能な何かを相手にしているのだ。そのおぞましさは想像を絶していた。 
 その時、床に押しつけられていた朔哉の右手が、ふっと離れて宙に伸びた。まるでなにかにすがるように、力なく空間に向かって指を伸ばす。杉宮には、それが海に溺れる者が必死に助けを求めて差し伸べている手のように見えた。
(ふじ……しろ)
 杉宮は全身に力を込めて、部屋の中に向かって絶叫した。
「藤城ぉぉっ!」
 その瞬間、ドゥンと強い衝撃が辺りに走り、杉宮は心臓に何かを打ちつけられたかのような強烈なショックを感じた。
 だが……一瞬後にはすべてが消え、そこは恐ろしいほどの静寂に満たされた。
 準備室を支配していた何かは消えうせていた。
 淀んでいた空気は正常なるものに戻り、おどろおどろしく歪んでいた空間も、今はなんの変化もなかった。まるでそれまで起きていた異常が嘘のように、部屋はひっそりと静まってかえっていた。
 汚れた床の上に朔哉が一人、ぐったりと横たわっているだけ。
 杉宮は急いで彼に駆け寄ると、その体を抱き起こした。だが朔哉は依然ぼんやりと正気を失ったままで、なんの反応も返してはこなかった。
 杉宮は彼を抱き上げ、部屋を出た。すぐに俊が蒼ざめた顔をして駆け寄ってきた。
「朔哉!」
 すがりつこうとする俊をおしのけて、杉宮は転がるようにして旧美術室から飛び出した。
「ドアを閉めろ、長尾! 早く!」
 悲鳴のように叫んで俊に扉を閉めさせ、なにものをも後を追ってくることがないのを見確かめると、ようやく杉宮はほっとしたように息をついて、朔哉を抱いたまま廊下にへなへなと座り込んだ。
 気がつくと、息がきれていた。心臓もドクドクと激しく高鳴っている。今更のように、冷たい汗が全身から噴き出した。
 俊は杉宮の腕の中で茫然としている俊にすがりつくと、必死に叫んだ。
「朔哉! 朔哉! しっかりしろよ!」
 朔哉はしばらくはなんの反応も見せなかったが、何度も呼ばれ、その体を揺すられてるいうちに、焦点の定まらなかった瞳に少しづつ光が戻り、やがてぼんやりとだが俊を見返した。
 そして弱々しくつぶやいた。
「……俊?」
「朔哉っ!」
 俊は彼の手を両手で包み込んで、強く握り締めた。涙が溢れ、ポロポロとこぼれ落ちて頬をつたった。 掴んだ手に額を押しつけ、泣きながら名前を呼び続けた。
「朔哉、朔哉ぁ……」
 包み込んだ掌の内側で、わずかだが朔哉が握り返した。
 俊にとって、それはほんの微かな希望の証しのように感じられた。

 

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