痕(あと)
    
目次に戻る 

 

3 誘惑



 杉宮は美術室をぐるりと見渡して、かすかに眉をしかめた。
 広くて明るいその部屋では、授業が終り、集まってきた美術部員たちが、各々の絵と画材を取り出して、製作の準備をしていた。
 二十人足らずの部員達は、いつもの面々だ。名前だけの幽霊部員はもっといるのだが、毎日顔を出す者となると面子は決まってくる。だが ここ数日姿を現さない者が二名ほどいた。一人は朔哉で、もう一人は俊であった。
 俊がサボるのはそう珍しいことではない。あの性格だ。気が向けば熱心にとりかかるが、そうでなければ気楽にサボってくれる。そしてだいたいは後者の時のほうが多いのだ。だから、彼が出てこないことに関しては、杉宮は腹を立てつつも、別段心配するようなことはなかった。
 しかし朔哉は別だった。朔哉は毎日休むことなく来ていた。それは絵を描くことに対する情熱というよりも、まるで日々の日課のように、しかもその決められたサイクルを繰り返すことが、自分を生に繋ぎとめる大切なひとつの手段として通っているように見えた。
 だからこそ、杉宮は無理矢理彼を副部長にしたてて、責任という枷を与えていた。彼と美術部とのつながりを少しでも強固なものにするために。
 杉宮は中学の頃から朔哉を知っていた。彼が少し普通とは違う男だということも、なんとなく気づいていた。彼がなんに対しても冷めていて、熱中することも溺れることもなく、いつも淡々と生きているということを。
 家庭がいろいろと複雑で、あまり愛情に恵まれずに育ったという話だが、その辺の詳しい事情はよく知らない。だが高校に入ってすぐに一人暮しを始めて、それからほとんど親と顔を会わせたことがないのだと、朔哉自身の口から聞かされた。
 杉宮はそう語った時の朔哉の顔を今でも覚えていた。
 淋しい顔をするでもなく、怒りを現すわけでもなく、まるで何かの文章を読むかのように淡々と無表情に話していた彼。そこには魂の燃える鼓動が感じられなかった。生きているものが見せる感情の起伏が存在していなかった。
 杉宮は小さく舌打ちし、ため息をひとつついて椅子に腰掛けようとした。その時、ガラッと大きな音を立てて一人の生徒が飛び込んできた。それは俊であった。杉宮がキツイ眼差しを向けると、俊はペロリと舌を出して、あっけらかんと謝罪した。
「あ、すみませーん、遅れちゃってー」
 そう言ってくるりと部屋を見渡した。その顔に、一瞬怪訝そうな表情が浮かぶ。だが杉宮に無言の瞳で促されて、すぐに自分の描きかけのキャンパスを取りだし、作業に掛かり始めた。
 美術室は静寂に満たされた。ただ部員達の筆を動かす音だけが静かに響く。
 開け放した窓の外から、野球部の生徒達のにぎやかな声が聞こえていた。暑い日差しの中で動き回る彼らの声は、高校時代というもっとも熱く、もっともきらめいた日々を生きる者達の躍動感に溢れていた。
 やがて外からの騒音が少しづつ静かになる頃、美術部の生徒達も後片付けを始めて、一人、また一人と帰っていった。
 杉宮は画材をしまいながら、俊を呼びとめようと部屋を見渡した。が、彼の姿はとうになかった。いつも後片付けもそこそこに、真っ先に飛び出していく俊だ。杉宮は彼を引きとめておかなかった自分に少々腹を立て、舌打ちして仕方なく片付けを続けた。
 もしかしたら、朔哉は俊と一緒になってサボっているのかもしれないと、希望的な観測を抱いていた。だが今日訪れた俊の様子を見ると、そうでもないようだ。では、いったいどこで何をしているのだろう? 学校には来ているようなのに、放課後になると、消えたようにその姿が見えなくなってしまう。杉宮はそれまでにない行動をみせる朔哉を、漠然と案じていた。
「……ふん、余計なお世話ってやつかな」
 杉宮は小さく鼻で笑ってつぶやき、窓の向こうの空を見上げた。夏の太陽が、いまだ熱く燃えて、高い空できらめていた。
 一方その頃、俊は東口の一年生用玄関で、呑気に鼻歌を歌いながら帰ろうとしていた。
 教科書をすべて小さなロッカーに突っ込み、代わりに入れてあった靴を取り出す。と、その時突然後ろから肩を掴まれ、俊はビックリして飛びあがった。
「わっ!」
 声をあげて振り返ると、そこには朔哉が立っていた。
 俊はホッと息をついた。
「なんだ、脅かすなよ、もう。心臓が止まるところだったぜ、朔哉のバカ」
 だが朔哉はそんな言葉に反応することなく、表情ひとつ変えずに食い入るように俊を見つめていた。
「朔哉、おまえ、今日部活サボっただろ? 部長なんか機嫌悪かったぜ。俺、にらまれちゃった」
 俊がそう言ってつんと唇を尖らせると、朔哉は肩に置いた手にぎゅっと力を込めた。俊は怪訝そうに首をかしげた。
「なに、どうしたんだよ? 手ぇ痛いよ、朔哉」
 俊が大きな瞳をくるんと見開いて問いかけると、朔哉はしばし沈黙していたが、やがてかすれた声でつぶやいた。
「俊、今日……うちへ来ないか?」
 俊はちょっと意外そうに眉を上げ、皮肉っぽく笑った。
「なにさ、珍しいじゃん。おまえの方から誘うなんてさ。でも生憎だけど今日は先約があるんだよな、残念だけど」
 彼がそう答えると、朔哉は無言のまま肩を掴んだ手を引っ込めた。無表情な顔に、わずかだが落胆の色が浮かんだ。どこかいつもとは違う朔哉に、俊はからかうように笑って尋ねた。
「なんだよ、そんなに溜まってんの? 夜中でもよけりゃいってやってもいいけど?」
 だが朔哉はにこりともせずに、静かに首を振った。
「……いや、いい……」
 そう言うと、彼はくるりと背を向け、校内に向かって歩き出した。
 俊は怪訝な眼差しでその背中を見つめた。いつもならシニカルな言葉のひとつでも言いそうなものなのに、今日はやけにあっさりしている。珍しく自分から誘っておきながら、随分そっけない態度だ。だいたい部活をサボって今まで何処で何をしていたのだろうか。
 しばらく不思議そうな顔で見送っていたが、やがて小さく肩をすくめると、俊はそのまま校舎を出ていった。


 夜の街は、目まぐるしくきらめくネオンと、店先から流れるにぎやかな音楽で溢れていた。
 朔哉は一人その中を歩いていた。何処に向かうというあてもない。ただ一人きりのあの静かな部屋に戻るのが恐ろしくて、彼はずっと喧騒の中を歩きつづけていた。
 一人になれば、思いはまたあの部屋での出来事へと向かってしまう。そして静けさは耳の奥にあの声を運んでくる。風のかすれたような、乾いた声。名前をささやく、あの声を……。
 朔哉は振り払うように頭を振った。
 若者たちでにぎわう大きな公園へと入り、そこに群れ集って遊ぶ同年代の者の姿を、ベンチに座ってぼんやりと見つめた。派手に音楽を鳴らし、空き缶を並べた間を器用にローラーブレードで走り回る少年たち。噴水前の地面に腰を下ろし、ぺちゃぺちゃと携帯電話をかけつづけている少女の群れ。なにをするでもなく、額を寄せ合って道行く者を眺めている金色の髪のグループ。
 その顔はどれも笑顔に包まれていたが、どこか物足りないような、覇気のない顔をしていた。それでも、生きていることに悩んでいるような者はいなかった。もしいたとしても、それはそれで苦しみという熱い感情を抱いて生きているのだろう。朔哉のように、なにも感じない、なにも燃えない魂とは違って……。
 ふと、二人連れの少女が探るような笑みを浮かべながら、朔哉の元へと近づいてきた。視線を返すと、少女らは愛想良く笑って、声をかけてきた。
「ねえねえ、一人ぃ? 誰か待ってんの?」
 朔哉は冷ややかな瞳を向け、素っ気無く答えた。
「別に」
「ふうん。ね、じゃあさぁ、どっか行って遊ばない? カラオケとかぁ、ゲーセンでもいいよぉ」
 少女たちは、臆することなく朔哉を誘ってきた。慣れた口調だ。きっと毎夜ここにやって来ては、気に入った相手を探して声をかけているのだろう。
 朔哉は無言のまま少女らを眺めた。薄い茶色をしたストレートヘアに、不自然なほど日焼けした小麦色の肌。目の回りに白っぽい化粧をし、鮮やかなピンクの口紅で口元を彩っている。肩を剥き出しにした下着のような服を着、短いスカートの下からはちきれそうな素足が伸びていた。いかにも流行り、といった恰好をした少女たちであった。
 同じような装いをした二人は、二人とも似たような顔立ちに見え、あまり見分けはつかなかった。そんな少女たちが、物欲しそうな瞳をして朔哉を見つめていた。美味しい獲物を見つけた獣のように舌なめずりをして。
 朔哉はじっと少女たちを見つめた。


 真っ暗な部屋に明かりを灯すと、少女は屈託ない声をあげた。
「へぇぇ、素敵な部屋じゃーん。マジにここに一人で住んでんのぉ? いいなぁ」
 少女は遠慮なくキョロキョロと部屋を見渡し、部屋の中を歩き回った。
 朔哉はソファに鞄を投げ捨てると、制服のタイを外してその上に放った。
「風呂場はあっちだ。先に使えよ」
 そう言うと、少女は笑って応えた。
「オッケー。でものぞいちゃだめだよー」
 ためらうことなくバスルームへと向かって入っていった。男と遊ぶことなど慣れきっているといった様子だ。ここが誰かの部屋であろうと、いかがわしいホテルであろうと、たいした違いはないのだろう。せいぜい昨日のサラリーマンからは金をふんだくったけど、今夜の相手はただで寝てもかまわないなというくらいの感覚だ。
 だがそんなことは朔哉にとってはどうでもよかった。今はただ、暖かい肌を持った生身の人間と触れ合っていたかった。だから、公園で声をかけてきた少女らの一人を誘って、滅多に他人を入れることのないこの部屋に連れてきたのだ。見分けのつかない少女らの片方を適当に選んで。
 もっとも、誘われたほうの少女はまんざらでもなさそうだった。なんせ二人いるうちの自分が選ばれたのだ。得意満面といった様子だった。
 やがてほどなくして少女がバスタオルを巻きつけて出てくる。さすがに明るい電気の下では少し恥ずかしそうに身を縮めていたが、それでも部屋の隅のベッドに飛びこむと、夜具の下でそれをとって裸で朔哉の来るのを待っていた。
 朔哉は自分もバスルームで軽く汗を流すと、バスローブ代わりの大判のシャツを羽織って部屋に戻った。少女は一人待つ間、物珍しそうにベッド脇の参考書やら美術書を眺めていたが、やがて彼に気づいて顔を上げた。
 ふと、その顔が驚愕に彩られた。
 少女はちょっと目を丸くし、声をあげた。
「ねえ、なあにぃ、その傷? まさかあんた、SMでもやってんのぉ?」
 彼女の視線は、はだけたシャツの前からのぞいた朔哉の胸に向かっていた。朔哉は己の胸に目をやり、かすかに眉をしかめた。
 そこには、無数の赤い痣が浮き出ていた。何かの爪あとのような細く長い痕。しかし傷はついていない。ただ白い肌の下が鬱血して、痣のように色鮮やかに浮かび上がっている。しかも幾本も幾本も無数に絡みあって。
 少女は興味深そうに目を輝かせ、けらけらと屈託なく笑った。
「もしかしてぇ、マゾォ? やだー、そーいう変態っぽいのってパスだよー、アタシィ。あ、でも女王様ならちょっとやってもいいかも。ねえ、苛めてあげよーかぁ?」
 朔哉は無言のまま少女の体から夜具を引き剥がすと、荒っぽくそのまま押し倒した。
「ちょっとぉ」
 乱暴な行為に少女はちょっと文句をつぶやきかけたが、すぐに悩ましげに顔を歪めた。
 朔哉の手が、豊かな胸を鷲掴みにし、荒荒しく揉みしだいた。大きな掌から更に余って溢れる乳房。その先についたピンク色の乳首が、すぐに固く勃起してくる。朔哉はそこに口を寄せ、舌を這わせた。
「あーん、……いやぁ」
 少女がせつなそうにうめいた。身をよじって悶えるたびに、もう片方の胸がぷるんと揺れる。少女はそこにも愛撫を求めて、朔哉の手を掴んで何気なく導こうとしたが、朔哉はそれを拒否して手を払いのけた。
「ん、ん……ねぇ」
 甘えて鼻にかかった声でねだった。薄目を開けて、胸の上の朔哉を見る。その目は、貪欲に快楽を求めていた。
 朔哉は冷ややかにそんな少女を見、じらすように片方の乳首だけを舐めつづけた。そしてあいている手を下に伸ばして、女の部分を探った。
 俊とは違って、そこは深淵へと続いており、すでに熱く湿っていた。奥からとろりとしたものが滲み出して、指し入れた朔哉の指を濡らした。
 少女はいっそう身をよじった。ピンクに色付いた唇から、絶え間なくあえぎ声が漏れる。
「あ、あ、いやぁ……、いいよぉ、感じちゃう……あん、あん」
 朔哉はあられもなく悶える少女の姿を、冷たい目で見つめていた。
 胸の下で少女の身体が燃える。快楽という酒に溺れ、魂までも熱く震わせている。
 朔哉はそれをじっと見ていた。
 誰かが熱く燃える分だけ、自分はどんどん冷めていく。ああ、と悩ましい声を聞くほどに、心が氷に包まれる。こんなに近くに触れ合っているのに、いっそう強く押し寄せる孤独という感情。朔哉はそれらを打ち消すように、肉体の快感だけを追って無理矢理セックスに没頭した。
 どろどろに潤った少女の中に、自分のものを押し入れた。少女が一声高くあえいで、身をのけぞらせた。弓型に整えた細い眉をしかめて、淫らに声をあげ続けている。朔哉が荒荒しく中をかき乱すと、少し苦しそうにうめいた。
 少女はかすかに目を開くと、甘えるように嘆願した。
「ね……もっと優しくしてよ。痛いよ、そんなに強くやっちゃ……」
 そうささやいて朔哉に向けた瞳が、ギョッとしたように凍りついた。快楽に歓喜していた顔から一瞬にして表情が失せ、代わりに恐怖の色が浮かび上がった。
「な……に、それ……」
 独り言のように言葉が漏れる。視線が朔哉の胸に釘付けられていた。
 朔哉はふと少女の異変に気づき、動きを止めてその瞳の見るところへと目をやった。
 そこには、赤い痣のような痕があった。
 真っ白な胸に浮かび上がった幾本ものすじ。それが、まるで肌の下で蛇がうごめいているかのように、くねくねと身をよじらせて動いていた。
 少女と朔哉は、身動きもできずに、その光景に釘づけになった。
 やがて、傷はゆっくりと、ひとつの形を形成していった。それは赤い文字。まるで妖しくささやくように、サ・ク・ヤ……と。
「ひいぃっ!」
 少女は甲高い悲鳴をあげて上に乗りかかっていた朔哉を突き飛ばすと、転がるようにベッドから這いずりでて、ソファの上に置いてあった服を掴んで慌ててそれを着た。そして後も見ずに一目散に部屋から飛び出していった。
 朔哉は一人取り残され、しばしベッドの上で呆けたようにうずくまっていた。やがてゆっくりとそこを降りると、誰もいなくなった部屋を見渡す。それほど広くもないワンルームのその空間が、ひどく大きく見えた。
 朔哉はしばらくぼんやりと突っ立っていたが、そのうち思い足取りでバスルームへと向かった。
 湯気の名残でぼんやりと霞んだ中、洗面台の前に備え付けられた鏡が、朔哉の白い裸体を映し出していた。
 そこには、血の気のない青い顔をした彼の姿があった。
 胸の上の赤い傷。だがそこに先ほど少女とのセックスの間に浮かびあがった文字はすでにない。ただ何本も縦に走る、鬱血した痕だけだ。
 朔哉はしばらくじっと鏡を見つめ、そしてためらいがちに己の胸に手を伸ばした。指先でそっとその痕をなぞってみる。別段なんの痛みもなかった。それがあの部屋にいた何かがつけたものであることはわかっている。だが特別な暴行を受けたという記憶はないのだ。
 いや……暴行どころか、それは信じられぬほど甘美な刺激であった。
 目に見えぬもの、正体の知れぬ何かが、ただその気配だけをさせて身体のあらゆるところに触れてきた。首筋を、頬を、胸や腹を、そしてもっとも敏感な部分を、丁寧に丹念に愛撫した。何本もの触手を伸ばして体中を這いまわった。
「く……」
 朔哉はその時の感覚を思い出し、顔を歪めた。思わず唇から声が漏れる。背中にぞくりと快楽の悪寒が走った。
 思い出しただけで、身の内に火が灯った。先ほどまであんなに冷たく凍り付いていた魂が、じわりと熱を帯びてくる。と同時に、下半身もが熱くなった。
 朔哉は空いていたもう片方の手を伸べて、そこに触った。指が触れた瞬間、電気に打たれたような感覚が走りぬける。びくりと大きく体が震えた。
 手の中で固く大きく膨れ上がってくる欲望を、朔哉はゆっくりと弄んだ。
 柔らかく、優しく、そして残酷に、少しづつ力と早さを加えてうごめかす。中途半端に放り出されていた快楽がすぐさま蘇ってきて、全身を包み込んでいく。 掌の内側で、それは固く大きく張り詰めていった。
 朔哉は形良い眉をひそめ、思わず声を漏らした。
「あ……ああ」
 閉ざされた狭い空間に、淫らなあえぎ声が艶かしく響いた。
 耳元で声がする。かわいた風のような、そっと名を呼ぶあのささやきが。
 ――サクヤ……
 その声にはっと気づいて目を開けると、眼前の鏡の中に淫らに顔を歪めた自分の姿がうつっていた。
 そして……それ以上に妖しくおぞましい光景が……。
 胸の痕に触れた手。
 そこに、赤い痣が生き物のようにくねくねとうねって、胸から手首へと這いあがって伝い広まろうとしていた。指先から手の甲へ、手首へ、そして腕へ、それはさわさわとうごめいて伸びていく。まるで朔哉すべてを飲み込もうとするように。
 朔哉は恐怖に刈られ、思わず胸から手を離した。だが手に伝染した赤い痣は、容赦なく侵略をやめようとはしなかった。尚も身をくねらせて、手の上を這っていく。白い指の一本一本を、滑らかな甲の肌の下を、無数の蛇が動きまわる。朔哉の体を内側から食い尽くして、更に手を伸ばす飢えた魔物。
「あ……うああっ!」
 朔哉は思いっきりその手を目の前の鏡に叩きつけた。
 ガシャンと激しい音がして、広い洗面鏡に大きなヒビが入った。
 手首を這いまわっていた赤い痣は、一瞬にして消えうせた。だが代わりに、割れた鏡に傷つけられた手から赤い血が流れ落ちる。真紅の糸が手首を伝い、ポタポタと音を立てて洗面台の上に滴った。
 朔哉は呆然としてそれを見つめていた。
 血が流れていく。暖かい血が、自分の体から流れ出ていく。生きている人間の、命そのものが失われていく。
「ああ……」
 朔哉は固く目を閉じ、苦痛に顔を歪めた。膝から力が抜け、ずるずるとその場に崩れ落ち、洗面台にすがりついた。
「助けて……」
――サクヤ……
 耳元で声がした。優しく、甘く、名前を呼ぶ声。彼を闇へと誘う声。
――サクヤ……
「いやだ……誰か……」
 朔哉は誘惑の声に包まれながら、恐怖にうめき、震えた。狭いバスルームの中に、命の流れ落ちる小さな音が、いつまでもポトリ……ポトリと、冷たく響いていた。


 何度目かのペルの音が、閉ざされたドアの向こうからかすかに聞こえていた。
「なんだよ、いないのかよ、あいつ。人、誘っておきながらさー」
 俊はぶつぶつと独り言をつぶやき、恨めしそうにドアを見上げた。
 ちらりと時計を伺い見る。時刻は11時を少し回ったところだ。今なら駅に向かえば、まだ最終の電車には間に合うだろう。俊は小さく舌打ちし、文句を言った。
「ちぇ、こんなことなら向こうに泊まってくりゃよかった。ちくしょー、朔哉のやつ」
 以前クラブで知り合った男とそれまで遊んでいたのだが、なんとなく昼間の朔哉が気になって、引き止めるのを無視して帰ってきたのだった。しかし何度チャイムを押しても反応がなく、俊は腹を立てドアを蹴飛ばして八つ当りした。
 仕方なく帰ろうかと背を向けて歩きかけた時、背後でカチャリと小さな音がし、それまで固く口を閉ざしていたドアがゆっくりと開いた。
 わずかに開いた隙間から、朔哉が静かに顔を見せた。薄暗いマンションの廊下に、彼の顔が蝋人形のように青く浮かび上がった。俊は一瞬背筋に凍りつくような悪寒を覚えたが、それが薄れかけている蛍光灯の灯りのせいと気づいて、ホッと密に息をついた。
 安心するとすぐに怒りが蘇ってきて、俊は鼻息荒く怒鳴りつけた。
「なんだよ! いるなら早く出ろよ、てめぇ。一体何度チャイム押したと思ってんだ?」
 だが朔哉は何も言わず、そのまま黙って部屋の中へと引っ込んでいった。まるで何ひとつ目にも耳にも入っていないかのように。無視しているようなその態度に、俊はカッときて、彼の後を追って部屋に入ると、無言のままの朔哉に大声で怒鳴った。
「朔哉! おまえが来いって言うから来てやったんだぜ。夜の夜中をわざわざさぁ。ありがとうの一言ぐらい言え、バカヤロウ! なに黙ってんだよ?」
 朔哉はそれでもしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと振り向くと、抑揚のない声でつぶやいた。
「なんの用だ?」
「はあ?」
 俊は一瞬ぽかんと口を開け、呆然として見返した。そしてすぐに顔を怒りに染めると、つかつかと彼の元へと歩み寄って白いシャツの襟首をねじりあげた。
「てめぇ、なに寝ぼけてんだよ? 来てくれって頼んだのはおまえだろうが。からかってるつもりなのか? シャレになんねーよ、そんなの!」
 しかし朔哉は相変わらず無表情のまま、生気のない声でぽつりとつぶやいた。
「離せよ……」
「うるさい! ざけんなよ、朔哉! 言っとくがな。俺はおまえなんかどーでもいいんだぞ。別に他にも男はいっぱい……」
 そこまで勢いづいてまくし立て、ふと俊は自分の手に添えかけられた朔哉の手に、白い包帯が巻かれているのに気づいた。
「……なにさ、それ? 怪我……してんのか?」
 かなり無造作に巻きつけられた布に、内側から赤い染みが滲み出していた。俊は襟首を掴んでいた手を離し、代わりにその包帯にくるまれた手をそっとつつみ込んだ。
「切ったの? これ、ちゃんと手当てしたのかよ? まだ血が出てんじゃないの?」
 一変して優しい声で尋ね、心配そうに傷を見つめている。
 朔哉はしばらくの間そんな俊に対して、氷のように無表情な顔を向けていたが、ふいに彼に抱きついて、力強く抱きしめた。
 俊はびっくりして、戸惑ったような声をあげた。
「朔哉……。なんだよ、どうしたんだよ、急に?」
 だが朔哉は無言だった。ただ抱いた手にいっそう力を込めてくる。その包帯が巻かれた白い手が、体が、小刻みに震えていた。
「朔哉……?」
 俊はかける言葉もなく、黙ってその胸に抱かれていた。
 その夜、朔哉は俊を抱いたまま、なにもせずに眠ってしまった。
 小柄な彼の体にすがるように、胸に手を回し、ぴったりと身を寄せている。耳元にかすかな寝息が聞こえる。肩に押し当てられた頬がひんやりと冷たかった。
 俊はしばらく一緒に横になっていたが、やがて朔哉が完全に寝ついたのを知ると、胸に巻きついた手をそっと外して半身を起こし、寝顔を心配そうな眼差しで見おろした。
 今日の朔哉はどこかおかしかった。珍しく自分から誘ってきたり、かと思えばせっかく訪れても無関心で、そして突然小さな子供みたいに全身全霊ですがってくる。目まぐるしく態度が変わって、まるでいつもの彼ではなかった。
 元来何を考えているのかわからないようなところはあったが、気まぐれというわけではなかった。だいたい気まぐれというほど強い感情を持っている男じゃない。いつも凪いだ海のように静かで、蒼い三日月のように冷ややかな男だった。こんな風にすがるように誰かを求めて眠ってしまうなど、いつもの朔哉なら考えられない事だ。
 と、俊ははだけたシャツの隙間からのぞく朔哉の体を目にして、怪訝そうに眉をひそめた。
 胸元に何かの傷がある。
 手を伸ばし、そっと襟元を開いて、眠っている朔哉の胸を剥き出しにしてみた。
(……なんだ、これ?)
 そこには、胸一面に広がった無数の赤い痣があった。
(これはいったい……)
 俊は震える指を近づけ、おそるおそるその傷に触れてみた。最初は引っかき傷かなにかかと思ったが、そうではなかった。傷そのものではなく、痣のようなものだ。腫れているわけではないので、いわゆるミミズ腫れとも少し違う。それはなにか強い力で肌の上をなぞったような、鬱血した痕だった。
 俊は当惑してそれを見つめた。
 朔哉の胸の無数の痣。幾本も幾本も、まるで細い蛇のように絡み合う。赤い肢体が白い肌の上に美しいコントラストを彩って、妖しくせせら笑っていた。
 俊はごくリと唾を飲んだ。何故だか全身が総毛だった。見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて襟をただすと、その傷を服の下に隠した。
 胸がドキドキと高鳴っている。なにも気づかずに静かに眠っている朔哉が、かすかにうめいて身をよじった。
 突然、部屋のどこかでピシッとかん高い音が響いた。
 俊はピクリと身を震わせ、青ざめた顔で部屋を見渡した。だがそこにはなにもなかった。ただ綺麗に整えられた部屋が広がっているだけ。朔哉の寝息が聞こえてくるだけ。なのに背筋がひやりと冷たい。
 何処かで何かが、笑った気がした……。
 

前の章へ
次の章へ
目次に戻る 
感想のページ