亞珠梨 −夢幻奇譚
第二部 江河編 −3−

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4 眠る姫君

    

 目が覚めた時、瑠叉那は一人、見知らぬ部屋で横たわっていた。認識がついていかない。何故こんな処にいるのか、いったい何があったのか。
 ぼんやりと花模様の天井を眺める。そのうち意識がはっきりしてくるにつれ、すべての記憶が甦ってきて、瑠叉那はがばっと跳ね起きた。
「亞珠梨!」
 声が部屋中に反響する。しかし誰も答える者はいない。瑠叉那は混乱して辺りを見回した。
 そこはひっそりと静まり返っていた。闘いの後も、幽鬼の姿もない。そこは塚のある丘ではなく、とある屋敷の一室だった。
 高い天井に美しく描かれた花の錦絵。欄間の見事な透かし彫刻。絢爛たる壁紙。豪華な家具。すべてが最高級にしつらえられたものばかり。
 ふと気づくと、刺されたはずの胸の傷が消えていた。痕すら残ってはいない。服も真新しいものに着替えさせられており、瑠叉那にはまるで訳がわからなかった。
 彼は寝台を降り、大きな扉を開けて廊下にでた。人の姿はなく、静かである。戸惑いながらも進んでいく。長い廊下の両脇にはたくさんの部屋があり、そしてさらに進むと、正面にひときわ大きく豪華な飾り彫刻のついた扉が現れた。
 瑠叉那はひきつけられるようにその中へと入った。
 扉はギギイッと、きしんだ音をたてて開いた。中の光景を目にした途端、瑠叉那は思わず我が目を疑った。そこは遥か彼方まで見渡せるような、広大な野原であった。
 透き通るような青い空の下、一面が白い花に埋め尽くされている。吹き抜ける柔らかな風と甘い匂い。あちらこちらで蝶が舞い踊り、蜜蜂の羽音が耳に心地よい。
 瑠叉那は息を飲んでその景色に見とれた。ためらいがちに花畑に足を踏みいれると、素足に湿った葉が気持ち良かった。瑠叉那は突然現れたその不思議な風景を楽しみながら、ゆっくりと進んでいった。
 やがて、白い花々の真ん中に、一本の大きな木が見えてきた。太い幹、豊かに広がった枝。そこにやはり白い花が、無数に咲き乱れている。それは見事な梨の木であった。
 瑠叉那はひどく空腹だったので、その木にたわわに実る梨の姿を想像して生唾を飲んだ。別段それを期待していたわけではないのだが、彼はその木にむかって歩いていった。
 木のそばまで来た時、瑠叉那はあっと小さな声をあげて足を止めた。梨の木の下に、一人の娘の姿を見つけたからである。
 娘は眠っていた。ゆったりとした豪華な寝台に、胸の上で手を組み合わせ、寝息一つたてずに静かに眠っていた。純白の古めかしい衣装の裾が、柔らかな曲線を描いて草の上にしなだれかかっていた。
 瑠叉那は間近によると、あっけにとられながら、しげしげとその姿に見とれた。娘のいる不思議さよりも、何よりその美しさに魅了されたのである。
娘は信じられないほど美しかった。輝く水面のような銀の髪が、豊かに波うち全身を包んでいた。そこに見え隠れする手足は象牙よりも滑らかで、肌は雪よりも白い。そしてその顔は、瑠叉那が知るどんな美女も及ばぬような、まこと完璧なまでの容姿を備えていた。
 瑠叉那はほうっとため息をついた。天界に住まう天女ですら、この美しさにはかなうまいと思った。
 ただ一つだけ欠点をあげるとすれば、それは生き生きとした命の息吹に欠けること。わずかに上下する胸元が眠っているのだということを語ってはいたが、それ以外には命の証となるものは何もなかった。まるで蝋で造られた人形のようであった。
 瑠叉那はそっと寝台のそばに膝をついた。むき出しの腕にこわごわと触れてみる。体は死者のように冷たかった。
(誰……だろう? 何でこんな処に眠ってるんだろうか?)
 じっとその顔を見つめる。美しい顔は、何故か悲しい表情をしている。その時、ふいに瑠叉那は悟った。
(……麗雅王! この人は、麗雅王大仙だ!)
 亞珠梨が語ってくれた伝説の大仙。永遠に眠り続ける悲劇の美姫。愚かで、哀れな、独りっきりの乙女。
 瑠叉那は改めて彼女を見た。亞珠梨の祖先と言われる姫。だが本当はそうじゃない。人の身を捨てた彼女に、子孫などいるはずもないのだ。
(本当に……眠ってるのか? 全然起きないのか?)
 瑠叉那はもう一度その腕に触れようと手を伸ばした。その時、突然背後から鋭い声がした。
「触るな!」
 びっくりして振り返ると、そこには獅伯が立っていた。恐ろしい形相である。彼はすごい剣幕で走り寄ってくると、荒々しく瑠叉那の肩をつかんで、その場から引き離した。
「だ、誰かと思った。驚かすなよ、地上神」
 獅伯は無言のまま彼の手を引いて、そこから連れ去ろうとした。瑠叉那は強引な行動に戸惑い、少しだけ怒りをおぼえた。捕まれた手をふりほどく。
「なんだよ、何もしないよ。乱暴だな」
 獅伯は低い声で言った。
「あの御方に触れてはならん。ここから出るんだ」
「わかったよ、自分で行く」
 瑠叉那は口を尖らせながらも、素直に従った。二人並んで花畑の中を歩く。歩きながら瑠叉那はそっと尋ねかけた。
「地上神、あれ……麗雅王大仙だろ? 不死身のお姫さまの」
 獅伯はびっくりしたように足を止め、訝しげに彼を見た。
「何故そのことを……。誰に聞いた?」
「亞珠梨だよ。あいつが教えてくれたんだ」
「亞珠梨どのが……おぬしに……」
 獅伯は信じられぬといったように、しばしじっと何かを考え込んでいた。瑠叉那はそんな地上神の袖をつかんで、たずねた。
「それより、亞珠梨はどこなんだ。あいつ、大丈夫か? 酷くやられてたんだ。無事なのか?」
「え……? あ、ああ、あの方は大丈夫だ。亞珠梨どのに感謝するんだな。とっくに死んでいた筈のおぬしを、あの方が救ってくれたのだから」
「亞珠梨が? ……そうか。地上神、会わせてくれよ。あいつ、どこにいるんだ?」
 獅伯は無情に首を振った。
「駄目だ。今は会えぬ」
「頼むよ。俺、あいつに謝まらなきゃ。あいつ独り残して逃げちゃって。地上神、頼むから」
「駄目だ。今は誰も会うことはできぬのだ」
「どうして?」
(僕はここだよ、瑠叉那)
ふいに、なつかしい声が響いてきた。
 瑠叉那はその声の方に振り向いた。そして仰天し、かける言葉を失ってしまった。眼前の、大切な友人の姿を見て。
 そこに亞珠梨がいた。だがその姿は実体ではなかった。ほとんど消えかけてしまいそうな薄い影、透き通って揺らぐ頼りなげな幻影だった。それも腰から下の方はほとんど形をなしていない。
 どうにか見きわめることのできる表情は、悲しげな笑みを浮かべていた。時折苦痛の表情を見せる。
 彼は声のない声で、頭の中に語りかけてきた。
(驚かせたな。でも大丈夫だ。今はまだ力が足りなくて、ちゃんとした実体でいられないが、もう少しここで充足したらまた元に戻る。だからそれまで獅伯と一緒に待っていて欲しい。いいな?)
 瑠叉那は大きく目を見開き、無言のままその姿を凝視していた。獅伯がそっと腕を引き、その場から連れ去る。瑠叉那は何度も振り返って亞珠梨を見た。
 引きずられるようにしてその部屋を後にする。扉が閉まったと同時に、彼は獅伯の胸ぐらにかじりついた。
「地上神! あれはなんだ? 亞珠梨は、亞珠梨は……!」
 獅伯は苦しそうに目を細め、重たげに口を開いた。
「亞珠梨どのは、人間ではないのだ。あの方は……夢なのだ」
「夢? それ、どういう意味だ?」
「麗雅王さまが創り出す霊体エネルギーの実体化したもの。それが亞珠梨どのだ。生きているものではない。映像だ。麗雅王さまが、人でありたいと、普通の人間でありたいと願う、その心が生み出した憧憬の結晶化。……夢だ。永遠に見続ける、麗雅王さまの楽しい夢なのだ」
「亞珠梨は……麗雅王、なの?」
「違う。亞珠梨どのは一個の独立した人格を持つ。意識も考え方も違う、別人だ。そして人と同じように暖かな血を持ち、傷つき、苦痛に涙する。だが起因である麗雅王さまが生き続ける限り、あの方も死ぬことはない。今回のようにあまりにも深いダメージを負った場合は、あのように姿が薄らいでしまうが、エネルギーが充足されればまた元に戻る。そして生き続ける。麗雅王さまとともに」
「永遠に?」
「そうだ」
「それは……亞珠梨の望んだことなのか?」
 獅伯は、苦悶するように顔を歪めた。
「あの方は……消えることを望んでおられる。生きることに、苦しみを感じていらっしゃるから……」
 だが、消えることはできない。そこに彼の意志はない。彼は、有らざるものなのだから。麗雅王の見る夢なのだから。
 知らされた真実の余りの非情さに、瑠叉那は愕然とした。
「あいつ、独りぼっちだったよ。心が、孤独に喘いでた。あんなに悲しくてどうして生きていられるのだろうって、俺は思ったのに……。あのまま独りでずうっと生きていかなきゃならないのか……? そんなの酷い」
 瑠叉那の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お姫さまだって、独りで生きるのが辛くって、耐えられなくって眠ってしまったんだろう? じゃあ、あいつはどうなんだ? あいつだって独りだ。同じなのに……。ひどいよ、ひどい。地上神、どうにかならないのか? あんまりだ、亞珠梨が……可哀相だよ」
 瑠叉那はわっと泣き出した。獅伯の広い胸にすがって、声をあげて泣く。獅伯はどうしてよいかわからず、ただそっと優しく背中を撫でていた。
やがて瑠叉那の興奮がおさまってきた頃、獅伯はその顔を見つめ、静かに尋ねた。
「おまえは、亞珠梨どのが好きか?」
「ああ」
「そうか。ならば、おまえがあの方の御心を溶かしてさしあげられるかもしれん。亞珠梨どのも、おまえには特別な何かを感じておられるようだ。おまえならば……凍ったあの方の心を癒せるやもしれぬ」
「凍った心?」
「そうだ。麗雅王さまを憎み、人を憎み、世を憎み、そして何よりも自分自身を憎んでいる、不信という氷だ。あの方は誰も愛することができない、哀れなお方なのだ。麗雅王さまとは逆の苦しみを背負っておられるのだ」
「誰も……愛せない」
 そんなことはない、と瑠叉那は思った。彼は確かに愛していた。向こうの世界で、高志を。そしてすべての世界を。
 拒絶し、否定しながらも、彼は人を愛していた。高志以外の者も、間違いなく愛していた。そして愛されることを望んでいたのだ。
 うなだれる瑠叉那を、獅伯は力づけるように肩を抱いた。
「きなさい。亞珠梨どのが戻られるまで、まだ少し時間がかかる。何か精のつくものを食べるといい」
 瑠叉那はおとなしく獅伯に連れられて行った。
 長い時間を、瑠叉那はあてがわれた部屋で一人過ごした。悶々として待ち続けているうちに、彼はいつしか眠ってしまった。気がつくと、そばに亞珠梨がいて、じっと顔を見つめていた。
「亞珠梨! 戻ったのか?」
 瑠叉那は跳ね起きた。彼は微笑んで答えた。
「完壁とはいえないけどね。ほら、まだ何となく頼りないだろ、ビジョンが」
 確かにその姿は、どことなく影が薄く見えた。だがそれでも元の亞珠梨だ。瑠叉那はほっとすると同時に、目頭が熱くなるのを感じた。
 亞珠梨は立って窓際に行くと、そこから見える雲海の、遥か彼方地上を見つめた。
「もう少し快復したら地上に降りよう。今度こそ九龍を送らなければ」
 きつい鋭い声である。だがそのどこかはかなげな後ろ姿に、瑠叉那は少し心配になった。
「大丈夫なのか? もっとお姫さまに力をもらってからでいいんだぜ。俺、待ってるからさ」
 だが亞珠梨は眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「一刻も早くここを出たい。あいつのそばになど居たくない」
 忌まわしいもののことを語るように、顔を歪め、拳を握りしめる。瑠叉那はおそるおそる尋ねた。
「あの人が、麗雅王大仙が嫌いなのか?」
「……憎い」
 彼はきっぱりと言った。
「どれだけ憎んでも足りぬ程に憎い。僕は死にかける度にあいつとつながるのが我慢できない。今度こそと思っても、いつもあいつは僕を引き留める。自分のかなわない夢をかなえさせるために、僕を生かし続ける。僕はこれっぽっちも生きたくなどないのに」
「でも……亞珠梨が消えたら、俺は悲しい。きっと」
 瑠叉那がぽつりと呟いた。亞珠梨はちらりと見、少し嘲るように笑った。
「悲しくなどないさ。その時にはきみの中に僕の記憶はない。きみはすべて忘れているんだ。何も感じはしない」
 瑠叉那は少しむっとし、意地悪く尋ねた。
「じゃあ、俺が消えたら、亞珠梨は悲しいか?」
 亞珠梨はちょっと返答に困り、だが冷たく言った。
「次の夢見を見つける。それだけのことだ」
「そうか。俺のことなんてすぐに忘れるんだな」
 追い詰めるように言う。亞珠梨は困惑し、それ以上の議論を避けるように、瑠叉那を残して部屋から出ていこうとした。瑠叉那がその背中に叫んだ。
「逃げるなよ、亞珠梨」
 亞珠梨の足が止まる。瑠叉那は頬を高揚させ、熱く語った。
「俺、おまえのこと可哀相だと思うし、あのお姫さまのやってることもひどいと思うよ。でもおまえだってだめだ、逃げてばかりいたら」
 亞珠梨は眉をひそめ、低く言った。
「きみに説教される謂れはない」
「その態度だよ。それが自分で自分を追い詰めてるんじゃないか。他人から逃げるな、自分の感情から逃げるな。どうして悲しいって言わないんだ。なぜ感情を押さえつけるんだよ。俺は知ってるんだ。おまえ、高志を好きだった。あいつと別れるのを、あいつに忘れられるのを、すごく悲しんでた。あいつを、愛してたんだろう?」
「愛してなどいない!」
 亞珠梨は振り向き、叫んだ。
「愛してない。愛せるわけがない! 誰も信じることができないんだから、僕にあるのは疑うことだけなのだから!」
「どうして? 何を疑うんだよ?」
「何もかもだ。何もかも、夢だからだ!」
 亞珠梨は悲鳴のように絶叫した。色の薄い唇を震わせ、激しい感情の波に耐えるように、ぐっと歯を噛みしめる。
「どう言ったって、きみにはわかるまい。無作為の愛、真実の愛に包まれて生きてきたきみには、僕の苦痛など理解はできない。自分に向けられる笑顔が、語られる愛の言葉が、まことその者の心から出たものではないというあの絶望。どんなに誰かに愛されようと、それは所詮僕が勝手に望み、創り出した夢なのだと、空しい己の願望にすぎぬのだと思い知らされるあの絶望は」
 亞珠梨は苦しそうに眉をひそめた。
「ありとあらゆるものを疑わずにはおれぬ、苦しみ、切なさ。……そうだ、僕は高志に愛されていたあの時さえ、奴の心を信じることができなかった。奴の愛を信じることができなかった! すべては僕が、僕が……夢見に望んだこと。僕を愛せと、僕の夢を見よと、望んだ……愛情。強いた思いなんだ……。虚構である僕に、本当のものなど何もない。幻影だ。夢だ。この透き通った体と同じように、何も有りはしないのだ」
「でも俺はおまえが好きだ。本当に! 夢だろうが何だろうが、一番大切な友達だ。それともおまえは、俺の思いすら疑うのか、亞珠梨?」
 亞珠梨は一瞬はっとしたように瑠叉那を凝視した。その瞳に、見る見る疑惑が浮かんでくる。疑惑と、そして悲しみが浮かんでくる。
彼は震える声で呟いた。
「……そうだ。それもまた夢かもしれない。真実だなどと誰がいえるだろう。きみは僕を見捨てず、戻ってきた。あの時、僕は嬉しかった。しかしあれもまた、僕の創った夢なのかもしれない。僕が望んだことなのかもしれない。きみに愛されたいと、僕が願っているのだとしたら……。いいや、こうしてきみに出会ったことも、きみがそこにいることも、今この時さえもが虚構なのだとしたら。この瞬間すら……」
「亞珠梨!」
 瑠叉那は叫びざま亞珠梨の頬を殴った。
 亞珠梨は驚き、声もなく殴られた頬を押さえ、彼を見返した。呆然と立ち尽くす。
「そんなに俺が信じられないのか! なら、その頬の痛みはなんだよ。そいつも夢だとおまえは言うのか!」
 瑠叉那は亞珠梨に詰めより、襟首をしめあげて泣きながら言った。
「信じろよ。他の何も信じなくてもいい。でも、俺だけは、俺の心だけは信じろ! 信じてくれ。でなけりゃ、でなけりゃ……」
 亞珠梨は困惑した。喉に触れる瑠叉那の手の暖かさ。乱れた髪の甘い匂い。涙の冷たさ。これは現実のことなのか、それとも夢なのだろうか。夢だとしたら、なんと残酷な夢だろう。甘く、優しく……覚めた時の絶望。
 その時、獅伯が部屋に入ってきて、あわてて二人の間に割って入った。
「何をしているんです。争いはおやめください」
 瑠叉那は振り払うように手を離すと、きっと亞珠梨をにらみつけ憎々しげに言った。
「俺は帰る、俺の国に。こんな所になんか居たくない。帰してくれ、地上神」
 獅伯は驚いて顔をしかめ、うかがうように亞珠梨を見た。亞珠梨は静かにうなづいた。
「彼の、望むようにしてやってくれ。送ってやれ、江河まで」
「……かしこまりました」
 そう答えながらも、本当によいのかと言うように疑わしそうに彼を見る。亞珠梨は瑠叉那が一人さっさと出ていった後に、そっと耳打ちした。
「よく見張っていろ。何かあったらすぐわかるように」
 獅伯は深くうなづき、少年の後に続いて出ていった。
 残された亞珠梨は、彼らが去った扉を見つめながら、大きくため息をついた。手が自然と頬にいく。殴られたところが、まだ少しだけしびれている。亞珠梨は苦笑した。確かに、この痛みだけは夢ではないようだ。荒っぽい証明の仕方だが、いかにも瑠叉那らしい。
 長い間、彼はじっと考えていた。ぼんやりと何を見つめるでもなく、ずっと考え続けていた。ずいぶん時がたち、やがて獅伯が地上より戻ってきた。帰還の報告をし、だが立ち去るでもなく控えている。亞珠梨はちらりと横目で見た。
「何か言いたそうだな、獅伯」
 獅伯はこほんと咳払いをし、亞珠梨の前にやってくると、彼の前に座った。それは珍しいことだった。獅伯はいつの時も最大限の礼儀を尽くし、一歩下がっているのが常だったから。
 だが今は、まるでこれから説教でもしようというように、正面から臆することなく亞珠梨を見つめていた。
「亞珠梨どの、あの少年はすっかり意気消沈して、ずっと私の背で大人しくしておりましたよ」
「そう……か」
 亞珠梨は獅伯が何を言いたいのかわからず、気の抜けた返事を返した。
「何があったのかは知りませんが、あれはなかなか良い子です。お放しにならぬべきだと思いますがね」
 亞珠梨はじっと獅伯の顔を見た。彼がそのように意見してくるのは初めてだった。獅伯は熱心に、小さな子供に辛抱強く諭すようにゆっくりと語った。
「亞珠梨どの、希望は絶望と混在しているものです。どちらか一方では成り立たぬ。希望を持つからこそ絶望に苦しむのであり、絶望の中からこそ新たな希望が生まれてくる。あきらめてしまうのは、一番愚かな方法です」
「僕に……どうしろと言うのだ?」
「信ずること、もう一度始めてみてはいかがですか?」
 亞珠梨は困ったように顔をしかめた。不安げな、心許なげな様子で、すがるように獅伯を見つめた。
「僕に、信じろと言うのか? 人を……。僕に信じられるのか? 誰かを」
「亞珠梨どの、あなたはもうとうに話されたではありませんか。ご自分のことも夢のことも、何もかもあの者に」
「もうとっくに信じてると? 僕があいつを……?」
 獅伯は無言のまま、じっと亞珠梨の瞳を見返した。
「もう一度……」
 亞珠梨はぽつりとつぶやいた。


 江河の国、瓦青鬼族の都では、人々が寝静まった夜更け、声をひそめて何やら話し合う者達がいた。
 長の屋敷、代替わりした若い族長の住まうその館のとある一室で、二人の男が顔を突き合わせて話をしていた。
 一人の男は、長の異母弟呂仁、そしてもう一人は魔道士の幽鬼であった。幽鬼は長椅子に寝そべって濡れた布で目を冷やしながら、憎々しげにうめいていた。
「くそぉ、あのガキめ。忌々しい。腹が立つわ」
 呂仁は酒の杯を手渡し、幾分嘲るような眼差しを向けつつ、冷ややかな口調で尋ねた。
「いったい、おぬしをここまで痛い目にあわせたその仙者というのは何者なんだ? お偉い大仙の子孫だとかいうておったが、そんなに強いのか?」
 幽鬼は吐き捨てるように言った。
「違う。あいつが強いのではないわ。あいつは、そりゃあ結構な仙力を持ってはいたが、攻撃力はたいしてなかった。化け物はあいつを憑人としている背後の何かだ。そいつがとてつもない力を持っているのだ」
「かなわぬのか、おぬしでも。ではどうするのだ、その仙者は」
「心配いらん。式神だか守護聖霊だかはわからぬが、その手のものなら封じる手段はある。
あれがでてこなければ、あんな仙者ごときにやられるものではない」
 呂仁はぐいと酒を飲み干し、再びなみなみと注ぎながら言った
「魍利の二の舞だけはふまんようにな。まだおぬしにはいろいろとやってもらうことがあるのだ。江河は統一したが、国はいまだほんのわずかにも俺のものではない。忌々しい兄やら弟やら甥子どもが山のように控えておる。あいつらをどうにかせんことには、金貨一枚、女性一人手に入らぬわ」
「妾腹の皇子は立場がないな」
 幽鬼は馬鹿にしたように鼻で笑った。呂仁は鋭い眼差しを向けた。
「だからこそ、おぬしの力を借りたのではないか。べらぼうな報酬を約束してな。おぬしも金が欲しければそれなりの働きをしろ。いつまでもガキ二人に手こずっている場合ではないのだぞ」
 幽鬼は大きな世話とでもいわんばかりに、不機嫌そうに顔を背けた。呂仁は杯を何杯も重ねながら、独りそれまでの悪事を思い返した。
 幽鬼と魍利の策略で、赤鬼羅、瓦青鬼両族をうまく騙して、父である族長とその妻を殺害した。そしてその罪を赤鬼羅になすりつけ、部族を動かして戦いを起こし、奴らを滅ぼして国を手にいれることに成功した。ここまでは万事計画通りいっている。狙い通りだ。江河は統一され、瓦青鬼がその頂点に立った。
 しかし、頂点にいるのは自分ではない。自分はいまだそこから見おろされるちっぽけな存在でしかない。
 だが、と呂仁は思った。それを手にいれるのもそう遠いことではないだろう。少しづつ、だが迅速に、兄や弟を消し、厄介な重臣達を始末し、必ず長の座についてやる。妾腹の子、下女の子と馬鹿にしてきた奴らを、見返してやるのだ。復讐してやるのだ。
 呂仁は低くせせら笑った。幽鬼が背後で嘲るような眼差しを向けているが、そんなことはどうでもよかった。互いの思惑がどうであれ、この計略が成功し、江河を手にいれられたなら、どちらも充分な利益を得ることができるのだから。
 呂仁は空になった杯をどんと机に置いた。その時、庭に通ずる扉の向こうで、小さく床のきしむ音がした。二人は緊張し、密かに帯刀する剣の柄を握りしめて身構えた。
 呂仁は足音を忍ばせて扉に近づくと、ひとたび間をおいてから激しく開けはなった。そこには誰もいなかった。だがかすかに、人のいた気配だけは残っていた。
「……誰だ? 誰に聞かれた?」
 幽鬼がやってきて、小さく呪言を唱える。すると辺りに甘い花の香りが漂った。
「これは……茉莉花(まつりかーー注;ジャスミンのこと)の匂いだな」
「茉莉花? では茉莉香(まりか)がここに……」
「茉莉香皇女? あんたの異母妹のか。そいつはまずったな。始末せねば」
 呂仁は顔色を変えて制した。
「いかん! あいつには手を出すな」
 幽鬼は驚いた顔をしたが、すぐに馬鹿にしたようにせせら笑った。
「ふん、なるほど。そういうことか。だがほっといて面倒なことになると困る。捕らえてくるから、あとはあんたが優しく口止めしてやるんだな」
 言うが早いか、幽鬼はひゅんと風を切って、闇にまぎれて消えてしまった。呂仁は彼の消えた庭を見つめた。どこかでふくろうが不気味な子守歌を唄っていた。



  
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