亞珠梨 −夢幻奇譚
第二部 江河編 −4−

目次に戻る


5 最後の戦い

    

 蓬莱山から戻った瑠叉那は、懐かしい、かつての都の跡に独りたたずみ、物思いにふけっていた。
 既にここに住む者は誰もいない。焼け落ちた家々の残骸や、がれきに埋まった往来が、戦いの悲惨な結末を物語っていた。その最期を看取ることができなかった無念さと、一人生き残ったことの申し訳なさとで、瑠叉那は胸が痛んだ。
 だが彼の心を沈ませているのは、それだけではなかった。蓬莱山の館に独り残してきた亞珠梨のことが、気になってどうしようもなかった。それは後悔という、切ない感情だった。
(馬鹿だな、俺。信じろなんて格好いいこと言いながら、結局あいつを突き放してきちまった。冷たくあしらわれて、ついむっときて短気おこしちまって……。ほんとに、バカ瑠叉那……)
 彼は自分で自分の頬を叩いて、大きくため息をついた。
 彼の家、族長の館があったはずの焼け跡に腰をおろし、瑠叉那は空を見上げた。たくさんの星が輝いている。あの中に天帝の住まう世界があるのだろうか。時も次元も越えて、哀れみ深く彼方の地を見おろしているのだろうか。
 瑠叉那は空に向かって独りごちた。
「天の帝さま。そこにいるなら聞いてくれよ。あいつを、亞珠梨を助けてやってくれ。どうすればいいのか俺にはわかんない。けど、このままじゃあんまり可哀相だ。あいつは何にも悪いことしていないんだ。あいつ……いい奴なんだよ。だから、助けて」
 しかしその答はなかった。夜毎変わらぬ星たちが、いつものように美しく瞬くだけ。瑠叉那はもう一度嘆息し、悲しげにうつむいた。
 と、突然深夜の静寂を破って、足音が聞こえてきた。瑠叉那は慌てて物陰に潜み、闇の中に目を凝らした。
 誰かが道を駆けてくる。ぱたぱたと妙に軽い足音が暗闇に響く。時折月の光を受けて白い衣装が浮かびあがった。
 その影は息を切らしながら瑠叉那のすぐ目の前までやってくると、まるで何かを探すように、あたりを見回し、あちこちを歩き回っていた。
 瑠叉那はそっとその背後に忍び寄ると、腰から剣を抜いた。ひとたび深呼吸し、軽やかに身を踊らせて飛びかかった。そし後ろから肩を抱え込み、やいばを喉元に押し当てた。
「動くな。首が落ちる……」
 そこまで言いかけて、彼は仰天した。思わずあとに続く言葉を見失う。
 腕の中でもがく華奢なその人物は、一人の年若い娘だったのだ。
 それも瓦青鬼族の女だ。頭長にふたつの角を持っている。年の頃は瑠叉那よりは幾分上で、十四、五歳の可憐な感じの乙女であった。
 瑠叉那は驚き、拍子抜けして少女の腕を離すと、訝しげに尋ねた。
「瓦青鬼の女だな。いったい、こんな所に何しにきた?」
 娘は恐れおののきながらも、か細い声で答えた。
「私は茉莉香。瓦青鬼族の茉莉香皇女です。私は赤鬼羅の生き残りの、瑠叉那皇子を探しに」
「皇女だって? 皇女がなんだってそんなことを……。瑠叉那は俺だぞ」
 茉莉香は驚いて叫んだ。
「あなたが……! おお、なんという天のお導きか。あなたが異世界に逃れたという、瑠叉那皇子。ああ、お会いできてよかった」
 少女は花のような顔をほころばせ、嬉しそうに言った。瑠叉那は少しばかり戸惑い、緊張しながらも剣を下ろした。
「俺に何の用がある? 殺しに来たのなら相手になるぞ」
「いいえ、そのような恐ろしいことではありません。私は是非あなたにお伝えしなければならぬことがあってきたのです。お願いです、瑠叉那皇子。どうか私の話すことを真実と受け取ってください。お疑いなら、私はこの命をもって証をたててもかまいませぬ」
 茉莉香は膝を折ってこうべを垂れた。芝居などではない必死な心が、ひしひしと伝わってくる。瑠叉那はひどく当惑した。
「な、なんだよ、そんな突然。信じる信じないは、聞いてみなきゃわかんないじゃないか。とにかく話してみろよ」
 茉莉香は美しい顔をあげると、こくんとうなづいた。彼女は今聞いた話をすべて語って聞かせた。異母兄と怪しい男との会話の一部始終を。その卑劣な策略を。そして、瓦青鬼族の者たちもまた、彼らに騙され踊らされていたことや、欺かれたまま赤鬼羅族を憎み戦ったのだということも、何もかも包み隠さず話した。
 瑠叉那は、すべてを聞き終えて深く息をついた。そしてしみじみと呟く。
「……そうか。騙されてたのは俺たちだけじゃなかったんだな。あんたたちは本当に俺の兄上が族長を殺したと信じてたのか。そう信じ込まされていたのか。そうか……」
 彼はしばし顔を伏せ考え込んでいたが、やがて少しだけ笑みを浮かべ、安心したように言った。
「俺、その話聞いて、ちょっとほっとしたよ。だって、みんなを憎まなくてもすむんだもんな。俺、何も知らなくて、ずっとあんたらを皆殺しにしてやるって思ってた。……ごめん」
 悲しげに微笑む。茉莉香はその笑顔に、耐えきれなくなって袖で顔を覆って泣き出した。
 大きな瞳からぽろぽろと真珠の滴をこぼしながら、必死になって謝罪する。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私こそが謝らなくてはならないの。私も憎んでたの、あなたたち一族を。滅ぼされて当然だと思ってた。でもそれは間違いだったわ。本当は私たちこそが罰せられるべきこと。ごめんなさい、瑠叉那皇子。どうぞ、その剣で私を殺して。少しでも罪の償いをさせてください」
 瑠叉那は優しく首を振った。
「何言ってるんだ。あんたに罪はないよ。悪いのはあの魔道士と、それにその呂仁っていう兄さんだけだ。あんたはこんな夜中に、俺にそれを知らせにきてくれたんじゃないか。ありがとう。感謝するよ、茉莉香皇女」
 茉莉香はその言葉に再び涙をこぼした。思いもよらぬ優しさに胸を打たれ、またその優しい皇子の家族や仲間を奪ってしまったことに、改めて呵責を感じたのだ。少女は心より悲しみ、嗚咽を漏らした。
 瑠叉那は少し考え込み、娘の涙がおさまるのを待ってから言った。
「その話、俺の友達にも話してくれるか? もしかしたら俺たちのぬれぎぬを晴らす役に立つかも知れない。俺たち赤鬼羅族のために、証言してくれるか?」
 茉莉香は一途な眼差しを向け、うなづいた。
「もちろんです。私はいつでも真実を語ります」
「べらべら喋ってもらっちゃあ、こっちが困るんだ」
 突然二人の会話に、冷酷な声が割って入ってきた。と同時に、鋭い雷光が足元を打つ。瑠叉那は茉莉香の体を抱え、寸での所でその光から逃れた。
 邪悪な気が充満している。瑠叉那には、その冷酷な声も禍禍しい思念にもよく覚えがあった。
 瑠叉那はきっと闇をにらみつけた。
「出てこい、幽鬼。姿も見せずに卑怯だぞ」
 その声を受けて、闇の天空にぼうっと赤い炎に包まれた姿が現れる。焼け残った高い門柱のてっぺんに、幽鬼が残虐な笑みを浮かべて立っていた。
「やれやれ、この世は驚くことばかりなりけり、だな。てっきり殺したと思っていたおまえが現れ、あろうことか茉莉香と出会うとは。まこと偶然とは恐ろしい」
 大袈裟にわざとらしく驚いてみせる。
「ところで、おまえ一人のようだが、あの仙者はどうした? まさか死んだ訳ではあるまい」
「生きている! 死ぬもんか!」
「そうか、そうか。あいつとはいずれ決着をつけねばならんからな。簡単に死なれては困る。まあ、とりあえずは、おまえの始末をつけてからだな。半殺しにして、生きたまま九龍の横に埋めてやろう。虫どもが肉も骨も、丁寧に喰ろうてくれるぞ。ハッハッハ」
 幽鬼は残酷な笑い声をあげると、ひらりと地上に飛び降りた。瑠叉那は茉莉香を後ろに下がらせ、剣を身構えた。
 自分の力が、残念ながら相手に及ばぬものであることは、悔しいが身にしみていた。だが簡単に殺される訳にはいかない。せっかく茉莉香が危ない思いをしながらも吉報を運んでくれたのだ。亞珠梨に知らせるまでは、なんとしても生き抜かなくてはと瑠叉那は思った。
 剣を低く構え、ゆっくりゆっくりと右に回った。焦りは禁物だ。じっと耐えていれば、いつかは隙が現れる。それを狙って、一太刀でいい。一太刀浴びせることができれば、あとはその隙に逃げるのだ。
 まともに剣を合わせて勝てる相手ではない。卑怯でも臆病者でも、この場を逃れて亞珠梨の力を借りる。それが最良にして唯一の勝機なのだから。
 幽鬼は抜刀すらせずに、不敵に笑いながら平然と構えていた。頭から瑠叉那を馬鹿にしてかかっている。彼が後ろに回り込んで視界から消えても、悠然と立っていた。
 瑠叉那は憤然としながらも、息をひそめ、間合いを見計らった。押しづまるような静寂が辺りを支配する。その緊張に耐えられなくなった茉莉香が、悲壮な叫び声をあげた。
「やめて、やめてぇ!」
 一瞬張りつめた空気に乱れが生じ、幽鬼の気がそれた。それを狙って、瑠叉那はすばやく斬りかかった。
 ザンッーー!
 刃が風を斬る。幽鬼の背に一条の傷が走り、血しぶきがあがる。だが皮一枚、表面だけの浅手だ。すかさず瑠叉那は体勢を立て直して追撃をかけたが、さすがに今度は幽鬼も黙ってやられてはいなかった。
 瑠叉那のひゅんと空振りした刀に青白い火花が散り、それが蛇のように刀身をかけのぼって手に絡みついてきた。触れた瞬間全身に感電したような衝撃が走り抜けた。
「うわああぁっ!」
 火花が消えてもびりびりと全身がしびれている。手に力が入らず、刀を持っているのがやっとの状態だ。瑠叉那はくっと唇をかみしめた。
(くそぉ、やっぱり強ぇ、こいつ……)
 たった五分でいいのだ。それだけの時間があれば、奴の目を逃れることができる。この場から逃げきってみせるのに。
 焼け跡とはいえ、生まれ育った都だ。曲がりくねった路地の抜け道や、あらゆる身の隠し場所を知り尽くしている。地下を走る隠し通路も知っている。五分あれば、追撃を逃れる自信はあるのだ。
 しかし幽鬼は陰湿な薄笑いを浮かべながら、ゆっくりと近づいてきた。わざと時間をかけてもてあそんでいる。闇の中、それはまことに魔の亡者のようであった。
 その時、それまで濃い霞をかぶっていた月が、さあっと晴れてその身をあらわにした。真っ白な神々しい姿が、太陽のごとく明るい清廉なる光を投げかける。辺りは驚くほど明るくなった。
 ふと顔をあげた幽鬼の目に、その光が降り注ぐ。彼は余りのまぶしさに思わず目を閉じた。
「くそ……」
 小さく罵声を呟き、目元に手をあてて顔を伏せる。亞珠梨にやられた目がまだ癒えてはいず、月光とはいえ直接光が射し込んだ為、ひどく痛んだのだ。
 瑠叉那はそのチャンスを見逃さなかった。しびれの残る手に全身全霊の力を込め、剣を突き出した。剣は見事に的をとらえ、急所は外れたものの、深く肩を貫き、真っ赤な鮮血が飛び散った。
 幽鬼はよろよろとよろめき、二、三歩後退して尻餅をついた。
 瑠叉那は飛びかかりたい衝動にかられたが、なんとか思いとどまった。これ以上奴を倒すことに執着したら、逆に自分が危ないことがよくわかっていたから。
 軽やかに身を翻し、焼け焦げた階段をかけ降りた。門を抜けて左に回れば、中庭にでる。その植え込みに、隠し通路への入り口がある。その中に逃げ込めれば……。
 だが一つだけ誤算があった。先程受けた攻撃のダメージがまだ残っていて、足がしびれていたのだ。走り始めたところで足がもつれ、前につんのめって膝をついてしまった。
 瑠叉那は思いもよらぬ失態に動転した。そのため、すぐに立ち上がって走り出せば良かったのに、つい振り向いて背後の様子をうかがってしまった。
 幽鬼は肩から血を流しながら、恐ろしい形相で立ち上がった。
「くそ……よくも、やりやがったな、小わっぱめ。思い知らせてやる」
 幽鬼は怒りに燃え、呪言を唱えると、瑠叉那に向かって掌を差し出した。
「死ね、小僧!」
 強烈な閃光が瑠叉那めがけて放たれた。
「きゃああぁーー!」
 絶叫があがった。絹を裂くような高い、細い悲鳴だ。
 茉莉香の体が光にうたれ、弓のように反り返って硬直した。そして一瞬後に、力なく大地に崩れ落ちた。
「茉莉香皇女!」
 瑠叉那は叫んだ。目の前で起きた一瞬の出来事に愕然とした。茉莉香が彼をかばって踊りだし、その身に光を受けたのだ。転んでやられそうになった瑠叉那を、身をていして助けたのだ。
 慌てて茉莉香の体を抱き起こす。だが、一目ですべてがわかった。ぐったりとした華奢な腕。見開かれた虚ろな瞳。血の気を失った二度と物言わぬ唇。瑠叉那は声もなく彼女を見つめた。
 幽鬼が忌々しそうに唾を吐いた。
「ちっ、邪魔な女だ。しゃしゃりでおって」
 そして唇を歪めながら、にじり寄ってくる。瑠叉那はもう逃げるすべもなく、意を決して、茉莉香の体をそっと地面に置くと、立ち上がって剣を構えた。
 幽鬼はもはや笑うでもなく、邪悪にひきつった顔で鋭く瑠叉那をにらんだ。もう一度掌を瑠叉那に向け、小さく呟く。
「今度こそ……逃がさぬ」
 口の中で呪言を唱える。そして最後に一言大きく叫んだ。
「破!」
 強烈な閃光が一瞬きらめいた! 
 が、それは放たれずに、幽鬼の眼前で激しく爆発した。
 グワッーーー!
 幽鬼は一瞬の間に結界をつくり、爆発の炎からは逃れた。だがすさまじい爆風に吹き飛ばされ、ふっとんで柱に激突した。
「うぐっ!」
 くぐもった悲鳴と、赤い血が唇から漏れた。幽鬼は呆然とし、情けなく柱に身を預けたまま、蒼白になって辺りを見渡した。
「い、今のは……何が起こったんだ。いったい何が……」
 するとその問いに答えるように、闇夜の天空から、ひとすじの光の帯が地上に向かって降りてきた。
 ゆっくりと、まるで光の階段がのびるように進んでくる。それは神々しい美しさ、荘厳な光景であった。
 光の帯は彼らの前にまで達して止まったかと思うと、やがて中から二人の男が姿を現した。
 亞珠梨と獅伯であった。
「亞珠梨!」
 瑠叉那が嬉しそうに叫んだ。亞珠梨は穏やかな笑みを返した。
「遅れてすまなかった。いま九龍の魂を冥府に送ってきた。これですべての決着がつくだろう」
 そして呆然としている幽鬼の方に顔を向けると、驚くほど静かに言った。
「きみの企みもこれで終わりだ。僕は少しだけきみに同情する。これからのきみの未来をね。天は、きみが思っているよりずっと厳しく、きみを罰するだろう。自業自得の意味を、きみは思い知らされることになるんだ。観念するんだな、魔道士幽鬼。地獄で弟も待っているさ」
 幽鬼は呆けたようにぽかんと口を開けて聞いていたが、やがてきりきりと歯を噛みしめ、低くうめいた。そして素早く起きあがると、ポーンと地面を蹴って高く飛び上がり、焼け残る門柱の上を飛び跳ねて逃げていった。
 獅伯が後を追おうとする。亞珠梨はそれを制した。
「手を出すな。僕がやる」
 口を開きかけた獅伯に語らせることなく、すっと亞珠梨の体が消えた。そしてその姿は一瞬後に、見事な素早さで逃げていく幽鬼の目の前に、突然現れでた。
 幽鬼はぎょっとしたように立ち止まった。すぐに方向を変え、違う方向に逃げる。その前にまた亞珠梨が現れる。幾度も幾度も、どこに逃げようと亞珠梨は確実にその先に出現した。
 とうとう幽鬼は逃げるのをあきらめ、一本の柱の上に止まり、荒く息をした。激しい緊張に顔はこわばり、血の気が失せ、だらだらと汗を流した。
 すでに幽鬼は気づいていた。今、前にいる亞珠梨は、これまでの彼とはまったく違うものだということを。気のすさまじさも、発する威厳も、何もかもが別物だ。どんな魔道呪も倒すことのできない、人知を越えた存在。とても太刀打ちなどできない。
「く……くそぉ」
 それでも必死に幽鬼は、炎の玉を亞珠梨に向けて放った。
 だが炎が届く前に、亞珠梨の体ははすっと消え失せた。そして今度は幽鬼の後方の空間に現れた。幽鬼はそれに向けてまた炎を放った。だが今度も同じようにいたちごっこで、炎はいっこうに亞珠梨を捕らえることはできなかった。
 幽鬼は爆発しそうに心臓が波打っているのを感じた。一言も発することができぬ程の緊張感だ。とてつもないものを相手にしているという絶望的な恐怖感がある。太刀打ちできぬことはわかっているのに、恐怖のため何かせずにはおられなかった。
「うわあっ!」
 幽鬼はパニックに陥り、闇雲に攻撃した。
 今度は亞珠梨も逃げることなく、その炎を真っ向から受けとめた。だが炎は亞珠梨のそばまでくると、途端に勢いを失って、ぽわんと、まるで風船のようにその場に浮かんだ。
 幾つもの炎の玉が、彼を飾るようにそのまわりに群れ漂う。自分の攻撃がまるで無駄なことを知り、幽鬼は歯噛みして手を止めた。
 すると彼が諦めるのを待っていたかのように、それまで漂っていた炎の球が、幽鬼に向かっていっせいに襲いかかった。
「ひっ!」
 幽鬼は間一髪のところで結界を張り、その攻撃から逃れた。だが炎はかまうことなく、どんどん集まって、ぐるりと彼を結界ごと押し包んでしまった。
 結界内の温度がどんどん高まる。幽鬼は耐えきれずに、結界を爆発させ、炎を消し飛ばした。
 回りを囲んでいた炎は消えた。だが残っていたものが、すかさず彼めがけて飛んでくる。幽鬼は無様にあちこち逃げまどった。
 炎は容赦なく執拗に追い続けた。幽鬼は逃げながらも必死に応戦した。新たな炎を打ち、襲ってくるものにぶつけて拡散させる。だが消しても消しても炎は限りなく襲ってきた。
「くぅぅ」
 幽鬼は歯を噛みしめて結んだ口から、悔しそうなうめき声を漏らした。これではどんなに逃げて応戦してもきりがない。しかたなく、走る足を止め、振り向いて亞珠梨を見た。
 彼は表情一つ変えず、冷ややかな眼差しを向けていた。そのまわりに幾つかの炎の球がまだ漂っている。見ると炎はゆっくりと分裂し、新たな球を作り出していた。
 幽鬼はぞっとした。そんな技は一度として見たことはなかった。
 炎の球は、もともとは幽鬼の生みだしたもの。それも亞珠梨を倒すという強烈な思念を送り込んで成した、彼の憎悪の塊だ。だから彼自身の力で分裂させるならともかく、他人が、しかもその憎悪の対象である亞珠梨がああも簡単に操作するなど、幽鬼の頭では考えられないことだった。
 今更ながらにその力の強大さを見せつけられ、幽鬼は情けなく震え上がった。もう抵抗する気力すらない。がちがちと歯を打ち鳴らし、茫然として立ち尽くした。
 彼が観念したと察したのか、亞珠梨はしゅんっと飛んで、幽鬼のすぐ目の前に出現した。
「ひぃ!」
 幽鬼がひきつった声をあげた。すぐさま両手を組み合わせて烈火を放とうとする。だがその腕を、がっちりと亞珠梨の手につかまれた。
 亞珠梨は幽鬼の組んだ両手を軽々と片方の掌でつかみあげ、ぐいとひねった。
「うわ……ああ」
 幽鬼は必死になって逃れようと身をよじった。だが握る手に力などまるで入ってはいないのに、どうしても抜け出すことができず、無駄な努力を繰り返すだけだった。
 亞珠梨は触れるほど間近に顔を寄せ、低く、しかし迫力に満ちた声で語った。
「おまえだけは逃がす訳にはいかない。僕はそれほど慈悲深い男じゃないんだ。さんざんいたぶられたお返しは、させてもらう」
 幽鬼は声もなく震えあがった。だが容赦なく亞珠梨は言った。
「おまえにも僕の力は感じているはずだ。僕は今、初めて自分の意志で、あいつとの道をつなげている。初めてあいつの力を攻撃に使おうとしている。おまえを倒す、それだけのために」
 亞珠梨の瞳が、きらりときらめく。研ぎ澄まされた鋭角なナイフの切っ先のように、冷たく美しかった。
 彼はおびえて目を剥いている幽鬼に、静かにささやいた。
「無限大の力、聖なる光に焼かれる感覚というものを、おまえに味あわせてやろう」
 亞珠梨は残ったもう片方の手で宙に文字を切ると、凛とした声を響かせた。
「麗雅王と亞珠梨の名において! 天空に願いたてまつる!」
 リン……、と高い音が聞こえた気がした。
「この世のあらゆる聖なるもの! 聖なる心、聖なる力を、我が手に分け与え給え。我は悪を退治す。我はこの世を浄化する。我は清める、すべての闇を!」
 静寂。
 その一瞬後、二人を包む空間が変化した。
 その場に潜むありとあらゆる邪悪なもの、世俗にまみれたもの、歪んだものが、いっせいに消滅し、澄んだ空間に変わった。
 そしてその清浄なる空間エルネギーが、亞珠梨の手に凝縮されていく。手は見る間に恐ろしいほどの清厳な光に包まれていった。
 目も眩む程のまぶしい輝きをたたえる。亞珠梨は力が充足したの感じとると、その手を、声もなく呆然と見守る幽鬼の顔に押しあてた。
「うぐわあぁあうーーーっ!」
 壮絶な悲鳴があがった。
 亞珠梨の手から発せられる白い輝きに、幽鬼の身体が少しづつ焼かれていく。生きながら、魔と相反するものにその身を塵と化されていく。生きながら浄化されていく。
 手を押しつけられた顔がゆっくりと白い骨になり、骨はまたゆっくりと風化し、そして塵となって霧散した。それは全身に広がっていって、やがて幽鬼の身体は白い灰となり、そしてその灰すらもが光に焼かれて消えていった。
 幽鬼はこの世から消滅した。
 亞珠梨はしばらくの間その場にとどまって悪の死を確かめていたが、完全に消え失せたのを確認すると、くるりと身を翻して瑠叉那たちの元へと戻った。
 地上では、下からすさまじい光の乱舞を見守っていた瑠叉那たちが、彼の戻るのを心配して待ちかねていた。
 亞珠梨が大地に降り立つと、真っ先に瑠叉那が駆けよってきて、思いっきり抱きついた。胸の中から顔をあげると、ほっとしたように微笑む。そしてちらりと辺りを見渡し、おそるおそる尋ねた。
「あいつ……死んだのか?」
 亞珠梨は静かに答えた。
「ああ。だがこれで奴の罪が消えたわけではない。これから冥界の遥か地の底で、彼は天の制裁を受けるんだ。何よりも厳しい、天の刑罰をね」
「そうだ、あいつ……瓦青鬼の呂仁とか言う皇子も一枚かんでんだ。そいつはどうなるんだ?」
「大丈夫、天の目から逃れられる者などいやしない。彼もまた、為した罪と同等の苦しみを味わうことになるのさ。僕が手を下す必要はない」
 ふと瑠叉那は、亞珠梨の体がまたうっすらと霞始めているのに気づいた。
「亞珠梨! おまえ、また……」
 亞珠梨は微笑んで答えた。
「ああ、まだ完全じゃないのに、ちょっと力を使いすぎたんだ。それより……」
 彼は横たわる茉莉香皇女に目を向け、近寄っていくと、その命のない胸に手をあてて目を閉じた。しばらく何かを探るようにそうしていたが、やがて目を開けて、呟いた。
「まだ命の火は消えてない。今ならまだ間に合うかもしれない」
 瑠叉那が不思議そうに尋ねた。
「まにあうって、何が?」
「僕のエネルギーを彼女に移行するんだ。そうすれば、助かる、この間のきみのように」
 すると、その言葉を聞いて、それまで静かに控えていた獅伯の顔色がかわった。
「いけません! 今そんなことをなされたら、あなたの方が……」
「うるさいぞ、獅伯」
 亞珠梨がぴしりと制し、獅伯は忠実に押し黙った。しかしその眼差しは心配に溢れていた。二人の間に漂う緊迫した空気に、何か重要な秘密があるのだということを察して、瑠叉那はひどく不安になった。
「なんだよ、何があるんだ? 隠してないでちゃんと話せよ」
 しかし亞珠梨の口からは何も語られることはなかった。瑠叉那は矛先を変え、獅伯に尋ねた。
「なあ、地上神。話してくれよ。そんなことしたら……の、続きは何なんだ? 何があるんだ?」
 獅伯は苦渋の表情で亞珠梨を見た。亞珠梨の瞳が鋭くにらんでいる。しばらく押し黙っていたが、やがて重たげに口を開いた。
「もしそんことをなされたら……」
「黙れ! 獅伯!」
 亞珠梨の叱責が飛ぶ。だが今度は地上神も怯むことなく、話し続けた。
「今の亞珠梨どのは力を使いすぎている。もし他人にエルネギーを分け与えるようなことをしたら、それも死んだ者を復活させようなどと、そんなことをしたら……亞珠梨どのは消えてしまわれる。完全に」
 瑠叉那は驚き、問い返した。
「消えるって……、でも不死身なんだろ、死なないんだろ? 麗雅王大仙のところへ行きゃあ、また元に戻るんだろ?」
「確かに戻ることはできる。が……時間がかかる。とても……」
「時間って、どれくらいだ? 一か月とか二ヶ月とかか?」
 獅伯は首を振った。否定的な眼差し。瑠叉那は泣きそうな顔で、亞珠梨に問いただした。
「どの位なんだよ、亞珠梨? 答えろよ。すぐに帰ってくるんだろ? な?」
 亞珠梨は目を細め、厳しい表情をして瑠叉那を見た。申し訳なさそうに首を振る。
「わからない。一年か、二年か、もっとずっと先のことか……、僕にもわからないんだ。一度消えてしまうと、麗雅の超越した時間感覚に取り込まれてしまうから」
「もう……会えない?」
「どうだろうね。答えられない。会えたとしても、遠い先のことだろう、きっと」
 瑠叉那は激しく首を振って、亞珠梨の胸に抱きついた。
「いやだ! そんなのいやだ。亞珠梨、亞珠梨!」
 力を込めて抱きしめる。絶対に離さないとでもいうように。亞珠梨は困ったように、優しく髪を撫でつけ、言って聞かせた。
「早くしないと手遅れになる。離してくれないか、瑠叉那」
「いやだ!」
 だだっこのようにいやいやし、いっそう強く抱きつく。。亞珠梨は優しくその体を引き離すと、涙に溢れた瞳を見つめ、静かに言った。
「瑠叉那、僕は、生きて戻ることができる。でも茉莉香はそうじゃない。彼女の生はたった一度きりなんだ、僕とは違って。わかるだろう?」
「だって……」
「僕は死なない。亞珠梨は何度でも再生する。だからきみが泣くことはないんだ。きみはただ、信じて待っていてくれればいい。そうすれば、僕もまた、きみを信じてきみの元に帰ることができるだろう」
「……信じる?」
 亞珠梨は深くうなづいた。瞳が優しく、そして深い愛情を込めて見つめていた。これまでとは違う、心からの信頼とともに。彼は静かに語った。
「信じろときみは言っただろう? ほかの何を信じなくても、きみの心だけはと。だから僕はきみを信じる。きみがいつまでも僕を忘れずに、待っていてくれるのだと信じて、きっと帰ってくる」
 瑠叉那はぐしゃぐしゃになった顔で、こくんとうなづいた。
「絶対に忘れないよ。忘れたりするもんか」
 亞珠梨は穏やかに微笑んだ。そして今度は自分から瑠叉那を抱きしめ、そっとささやいた。
「ありがとう、瑠叉那」
「亞珠梨……」
 瑠叉那はその体を強く抱きしめ返した。涙が溢れてくる。溢れて抱えきれぬ愛のように、後から後からこぼれ落ちる。
 やがて亞珠梨はそっと離れ、茉莉香の横にひざまづいた。
 瑠叉那は獅伯の腕をぐっと掴んで、必死の思いで別れを耐えた。そして、泣きながら大きな声で叫んだ。
「絶対に帰ってこいよ、亞珠梨。俺たち、みんなで歓迎する。みんなおまえを好きになるよ。だから帰ってこい。約束だぞ。俺はずうっと待ってるからな。亞珠梨!」
 亞珠梨はにっこりと微笑んだ。それが、瑠叉那が亞珠梨を見た最後だった。


 紫泊は、蓬莱山の麗雅王の屋敷に戻ると、そっと握りしめていた手を開き、中を見た。
 そこには白く輝く小さな光の玉があった。まるで星のかけらのように、きらきらと美しく、そしてほんの少し暖かい。獅伯はもう一度それを優しくてのひらに包んだ。
 足早に廊下を抜け、正面の大きな扉を開けて中にはいる。まぶしい光の楽園が、獅伯の顔を照らし出した。
 彼はゆっくりとその花咲く草原を歩いて、中央にそびえる大きな梨の木の元へ向かった。そこには一人の娘が眠っていた。
 獅伯は娘のそばに歩み寄り、傍らにひざまづくと、握っていた光のかけらをそっと娘の胸の上に置いた。
「お受取りください、麗雅王さま。あなたの分身、亞珠梨さまです」
 光はぽうっと輝き、そして胸の中へ吸い込まれて消えていった。
 獅伯はそれを見届け、その場を立ち去ろうと身を翻した。その時、ぱさりと音をたてて、麗雅王の組んだ白い手がはずれて、胸から滑り落ちた。獅伯はそれに気づいて、元に戻そうと、かがんでその手をそっと掴んだ。
 ところが、しなだれた華奢な白い手を掴んだ瞬間、彼は強烈な何かが胸の内ではじけたのを感じた。
 彼は身をこわばらせて立ちすくんだ。体中に、熱いものが甦ってくる。遠い昔に失くした、大切なもの。とてもとても大切な何かが、沸き上がってくる。何だろう、この感覚は。
 獅伯は顔をあげ、麗雅王の顔を見た。そして雷にうたれたような衝撃を感じた。彼は震える声で呟いた。
「私は……どうして忘れていたのだろう。私はこんなにも愛していたのに。初めて水の中のそなたに出会ったあの時から、ずっとずっと、そなただけを想い続けていたのに……。どうして失くしていたんだ、こんなにも熱い想いを! 麗雅!」
 獅伯は麗雅王の手を握りしめ、頬を寄せた。瞳が熱く滲んでくる。それを拭うことなく、語り続けた。
「遥か昔、天帝に地上神の位を授けられ、そしてそなたの守護者と定められたあの時から、ずっと私はそなたのそばにいた。ずっとそなたと生きてきたのに……。何故忘れてしまっていたのだろうか。ああ、愛する麗雅。たったひとつだけの愛を誓った娘よ……」
 獅伯は涙し、その胸にすがった。言いようのない感情がわきだしてくる。悲しみや愛や喜び、切なさ、さまざまな想いが、彼を包み込んだ。彼は泣いた。
 ふと、彼は自分の顔の下の麗雅王の胸が、ほんのりと暖かいのに気づいて、不思議に思った。彼女の体はいつも冷たかった。手も足も、凍っているように冷えきっていたのに。
 訝しく思って顔をあげると、そこにはふたつの美しい瞳が待っていて、彼を見つめていた。
 濡れた黒曜石のようにしっとりと輝く漆黒の瞳。麗雅王の瞳。愛しい恋人の、見開かれた瞳がそこにあった。
「麗雅……」
 獅伯は呆然として呟いた。麗雅は長い間彼の顔をじっと見つめていたが、やがて不思議そうに、細く小鳥の声でささやいた。
「亞珠梨が……、亞珠梨の熱い想いが、私を揺り起こした。逃げてはいけない、あきらめてはいけないと、私に語りかけた。だから私は目覚めたの。もう一度愛を探すために。もう一度生きてみようと思って……。そして、目覚めたらあなたがいたわ。初めて会った時のように、燃える目で私を見つめ、熱い想いを言葉に語る。これは……夢なのかしら。私は別の夢を見ているのかしら? 教えて、獅伯。これもまた夢なのかどうか」
 獅伯は強く娘の体を抱きしめた。
「違うよ、麗雅。夢なんかじゃない。もう夢を見る必要はないんだ。私達は愛を手にいれた。すべて真実だ。麗雅、愛してる。もう二度と離しはしない」
「獅伯……」
 ふりそそぐ光と白い花びらの中で、二人の恋人たちはいつまでも抱き合っていた。


    終章


 一面に咲き乱れる自然の花畑の真ん中で、鬼の子は一心不乱に花を摘んでいた。
 子供はまだ小さかった。赤味がかった肌と一本の角を持つ、十歳足らずの男の子である。
 少年は熱心に白い花を選んで摘みとっていた。腕に抱えきれぬほどに集め、それでも足りぬと思うらしく、いつまでも摘むのをやめようとしない。
 少し離れた所にのんびりと寝そべっていた若い男が、半身を起こして少年を探した。頭上に細い金の冠をつけている。長の印だ。輝く金色の髪を長く伸ばし、逞しい身体つきをした、りりしい青年だった。
 青年は張りのある声で少年を呼んだ。
「おーい、亞珠梨。そろそろ帰るぞ。どこにいるんだ?」
 少年はあわてて彼の元へと走ってきた。
「またいっぱい集めたな。そんなに持って帰ってどうするんだ」
 青年の問いに、少年は口をとがらせて答えた。
「何言ってるの、瑠叉那叔父上。明日は茉莉香皇女との結婚式でしょ? 本当なら花婿の叔父上が集めて贈るものなんだよ。叔父上がしないから僕がやってるんじゃないか。のんきなんだから、もう」
 青年は罰悪そうに鼻を掻いた。そそくさと立ち上がって、まとわりついた草を払うと、照れくさそうに言った。
「さて帰るぞ。姉上が心配するといけないからな」
「うん」
 少年は素直にうなづいた。若者は軽々とその体を肩に乗せると、都に向けて歩きだした。
「だいぶ重くなったな、亞珠梨。早くでかくなって一人前になって、俺の代わりに長を継いでくれよ」
「うん……。でも、叔父上が長のままでいいのにな」
 青年は笑った。
「だめだ、だめだ。俺は長にはむかん。短気で喧嘩っぱやくて。それに、こんな冠なぞつけていると、いらいらする。まっぴらごめんだ」
「ずるいや、嫌なものを押しつけるなんて」
 少年はぷんとふくれる。若者は高らかに笑い飛ばした。
 しばらく二人は黙ったまま歩いていたが、ふと真面目な口調で青年は話し始めた。
「なあ、亞珠梨。おまえが大人になって長を継ぎ、結婚して子供が生まれ、その子がまた大人になって子をつくる。それがずっと続いてゆく。いつかは俺もおまえも死ぬだろう。でもこれだけは約束してくれ。亞珠梨の名を後に託せ。決して忘れないでくれ。そして、いつかその名の者が現れたなら、みんなでそいつを愛してやってくれ。そいつは俺たちの救世主だ。ほんとにいい奴なんだから」
「うん、わかった」
 もう幾度となく聞かされたであろうその話を、飽きるでなく、少年は真剣な顔でうなづいた。そしてポツンとつぶやいた。
「いつか会えるかな、その人に」
「会えるさ。信じていれば、きっとな」
 青年はその日を思い浮かべるように、遠い瞳で空を見た。
 少年も習って空を見上げる。そして天空をよぎる大きな陰に気がついて声をあげた。
「わあ! 鷲だ。すごく大きな黒鷲だよ、叔父上。でっかいなあ。あんな立派なのは初めて見た。天のお使いみたいだなあ、すごいや」
 青年はちょっと訳知り顔でくすりと鼻で笑ったが、黙って歩いていた。
 少年は広い肩の上で、ずっと空の大鷲を目で追っていた。だが、その鷲の背に乗る銀の髪の乙女には気づくことはなかった。


 鷲が一声高らかに鳴き声をあげた。風を切るようなかん高い声が、青空に響いていった。
             
  
                                                         <終>
  
前の章へ

目次に戻る
感想のページ