亞珠梨 −夢幻奇譚
第二部 江河編 −2−

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3  もう一人の魔道士

    
 瑠叉那は九龍の墓の前に立ち、唇を噛んだ。改めて無念の思いがこみあげてくる。本来ならば、世継ぎの皇子として誰よりも立派にしつらえられる筈であった墓である。しかし謀反の張本人として、貧相な埋葬しか許されなかったのだ。
 無実の罪をきせられ、母となる愛しい妻の身を案じ、冥府へ旅立つことすら許されずに、兄の魂はどれだけ無念だったろうか。思うだけで、毛利やまだ見ぬ仇に新たなる怒りを感じる。
 瑠叉那はきっと塚をにらんだ。
「本当に、兄上を呼べるのか? 話ができるのか?」
 亞珠梨はきっぱりと答えた。
「できる。だがきみでは駄目だ。多分獅伯が案じたとおり、九龍の魂はすでに亡者と化しているに違いない。亡者はあらゆる生気を欲する。弟であることもわからぬまま、きみを殺しかねない。だからきみは一言も声を出しては駄目だ。わかったな」
 有無を言わせぬ強い口調に、瑠叉那は不承不承ながらうなづいた。
亞珠梨は彼を数メートルほど後ろに下がらせ、小枝を拾って地面にくるりと円を描いた。その円を囲んでふたつの三角を互い違いに描き、六方星をつくる。更に、回りを囲む六つの三角の中それぞれに、魔除の文字を描いた。
 瑠叉那をその円の中に立たせると、聖呪を唱えた。
「六界の王、六界の聖霊に願い奉らん。この者を魔なるものより守らせたまえ」
そして厳しくにらんで言った。
「くれぐれも、絶対に喋るなよ、瑠叉那」
うなづく瑠叉那を残し、亞珠梨は塚の前に立つと、手に持っていた小枝を逆手に持ち代え、目の高さに捧げ持って、厳粛な口調で話し始めた。
「死して冥府への門を閉ざされ、死して地に呪縛されしあらゆる魂に告ぐ。我は開く、現世への扉。我は呼ぶ、江河赤鬼羅族第一皇子、九龍の魂。我は召還する。我が声の発する源へ! 死魂招来!」
 亞珠梨は小枝を力いっぱい塚に突き立てた。
 ゴゴゴゥッーーー!
 すさまじい地鳴りとともに、地面が小枝の刺さった場所からぱっくりと割れて口を開き、そこから物凄い勢いで風が吹き出してきた。亞珠梨の髪が風になびき、逆立つ。
 やがて地面に開いた深淵より、白蝋のような一つの首がゆっくりと現れた。瑠叉那は息を飲んだ。それは愛しい兄の顔だ。しかし生前とはまるで違う、見るも恐ろしい形相だった。
 埋葬してから三ヶ月近くもたつというのに、いまだ朽ちもせず、不思議なほど無傷である。しかしその表情には、あの温厚で理知的な面影は微塵もない。修羅のごとく、怒りに満ち、醜く歪んでひきつっている。あまりのおぞましさに身震いするほどである。
 亞珠梨は念を押すように、振り向いて人差し指を唇にあてた。そして再び九龍の方に向き直ると、重々しくたずねた。
「九龍、我が声が聞こえるか?」
 九龍の首は亞珠梨の眼前に止まった。赤い顔料で死化粧を隈取りされた目が、ぎろりとにらんだ。低い低い、地の底を揺るがすような声で喋る。
「……聞こえる。我を呼び出すぬしは、何者であるか?」
「我が名は亞珠梨である」
「……亞珠梨」
 九龍の顔はしばし困惑した表情を見せた。
「亞珠梨。その名に偽りはあらず。しかし名に見合う魂が存在せず。ぬしは生者にあらずしてぬしの命を食らうにかなわず」
 九龍は悔しそうに歯ぎしりした。
「九龍、召還者の問いに答えよ。おまえは何故に死してこの地に留まる? 更に問う。何者に殺された? 重ねて問う。おまえはすべての真実を知っているのか?」
 亞珠梨の問いに、九龍は抑揚のない空虚な声で答えた。
「我が魂が地に留まるは、呪縛の術をかけられているが為。術者の名は幽鬼である。我が命を奪いし者、その名は魍利である。我は知らされず、すべての真実。我は疑う、我が死の真実。我は魔道士幽鬼(ゆうき)と魍利(もうり)にだまされ、死んだものである。しかしその死にはいまだ明かされぬ事実が隠されている。死者の権利が阻害されている。されど現世に封じられし我が魂なれば、冥府において告訴もならず。……我が一族は我にきせられし無実の罪にて滅ぼされたるものなり。口惜しきことなり。おお、この狂おしき怒り。憎悪の炎は燃え盛り、己が魂すらも焼きつくさん。誰ぞわれを解放せよ。冥界への引導を渡せ。さもなければ我は憤怒の修羅と化し、この世のあらゆるものを憎み、おぞましき張鬼となりて、永劫にさまようであろう」
 九龍の顔が笑いとも怒りともつかぬ表情に歪んだ。鋭く尖った牙がむき出され、噛みしめた歯の奥から血の泡が吹き出す。目玉は異様な活気をはらみ、らんらんと輝き、乱れて宙に舞う長い黒髪が、壮絶さに拍車をかけていた。
 瑠叉那は呆然として立ち尽くしていた。語られた内容もさることながら、眼前に見せられた九龍の姿は、あまりにも衝撃的なものだった。
 とうの昔に成仏しているはずの魂が、今なお安らかなる眠りを奪われ、この世をさまよっている。あんなにも恐ろしい姿になり果てて、死よりももっとつらい目にあわされ、卑しめられている。何という酷い仕打ちであろうか。
 悔しさが思わず口をついてこぼれた。
「くそ……、魍利め」
 その声に反応して、九龍の首がくるりと一回転した。目を見開き、あちこちを見渡す。赤い舌の先がちろりと出て、唇から流れた血を嘗めた。
「誰だ、誰だ? 誰かいるぞ。若い魂。活きた魂だ。なんと旨そうな匂いだ。おおい、返事をしろ。誰だ?」
 わずかに残っていた九龍の人格は完全に消え、飢えた亡者となって首は言った。亞珠梨は慌てて瑠叉那の方を向いて凄い形相でにらみつけ、九龍に言った。
「誰もいない。ここには誰もいない」
「誰かいる。生者がいる。命をよこせ」
「黙れ、九龍! 迷宮に戻りたいか!」
 亞珠梨は厳しく叱責した。九龍の首は驚くほど従順に、その言葉に従って黙り込んだ。亞珠梨は背を向けたまま瑠叉那を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎、自分の兄に殺されたいのか!」
 瑠叉那は子供のようにうなだれ、肩を落とした。亞珠梨は一度深く深呼吸すると、もう一度九龍に話しかけた。
「九龍よ、おまえの妻春蘭姫と弟瑠叉那が生きていることを知っているか?」
 それまで闇に支配されていた九龍の顔に、ぱっと赤みがさした。
「知らない。真であるか? 真ならば吉報である」
「本当だ。だからおまえは、無用なる怒りを捨て、心静かに冥界にて次回の転生を待たねばならない。我はこれよりおまえを冥府に引導する。おまえはそこで告訴せよ。そして死の真実を得よ。さすればおまえの魂は救済されるであろう」
 九龍は深くうなづいた。
「承知した。我は冥府にて告訴し、真実を得る。我を引導せよ」
亞珠梨は右左それぞれの手で指を組んで、それを絡み合わせて形を成した。その手を口に寄せ、死者を導く霊言を語り始めた。
 その時である。激しい青白い光が亞珠梨を襲った。霊唱中である彼は身を守ることもできず、直撃を受けてふっとんだ。
「亞珠梨!」
 瑠叉那が驚いて駆け寄ろうとするのを、亞珠梨は大声で制した。
「動くな、瑠叉那! 結界から出ては駄目だ」
 寸でのところで瑠叉那は足を止めた。亞珠梨は身を起こすと、光が放たれた方向を見据えた。その方角、丘の東側にそびえる巨木のてっぺんに、男が一人立っていた。
 男は鬼ではなかった。赤や緑で奇妙に化粧をしたその顔は、亞珠梨も瑠叉那も見覚えのあるものだった。
「毛利……」
 亞珠梨は思わず呟いた。それは講堂で確かに殺したはずの、毛利であった。端正だがどこか歪んだその顔に冷たい笑みを浮かべ、楽しげにこちらを見ている。錦糸に縁どられた魔道士の衣装が、背広ネクタイよりはずっと身にあっていた。
 彼は低く笑い、冷ややかに言った。
「これは、これは、お初にお目にかかる。私は幽鬼と申す。向こうの世界では、我が双子の弟、魍利が随分と世話になったようだ。改めて礼を言わせてもらうよ」
「双子……だって?」
「そうとも。もっとも、少々不出来な弟だ。鬼っ子ひとり殺れず、あまつさえ仙者ごときに殺られるとは、呆れて物も言えぬわな」
 幽鬼と名乗るその魔道士は、魍利よりも遥かに冷酷な匂いを感じさせた。幽鬼はひらりと木から飛び降りると、右手を差しだした。九龍の首が物凄い勢いで飛んできて、その上に乗った。彼はにやりと笑い、その顔を見た。
「やれやれ、こいつを呼びだして何をするのかと思いきや。だが勝手に成仏などさせてもらっては困るな。いろいろと面倒なことになる」
 幽鬼は、冷たく冷静な、しかし狂気に満ちた瞳で二人を見た。嘗めるようにじろじろと、不躾で無遠慮な眼差しである。
「いったいどうして魍利がおまえごときに殺られたのか合点がいかぬな。確かに強い仙力は感じるが、それだけのことだ。私達の敵ではない。ーーまあ良い。魍利も所詮それだけの奴だったということだ。都合よく二人揃って現れたのだし、私がここで片づければすむこと」
 幽鬼は手の上の九龍に向かって命じた。
「行け。そしておまえの弟の首を引きちぎってこい。兄弟仲良く埋めてやるわ」
 九龍はかっと目を見開き、裂けんばかりに口をあけて鋭い牙をむき出した。そして一直線に瑠叉那めがけて飛びかかった。矢のような速さである。瑠叉那は思わず両腕をあげて身をかばった。
 キイィィィィンーー!
 耳をつんざく高音。瑠叉那の回りに白く輝くバリアが現れ、彼を包み込んだ。九龍の首は六方星が生み出す聖周波障壁によって激しくはじき飛ばされ、ぽーんと遠い地面に転がった。
 だが首は怯むことなく、再び襲いかかってきた。何度もはじかれ、そしてまた攻撃を繰り返す。その度に障壁は高いパルスを発しながら振動する。瑠叉那は結界の中で耳を押さえてうずくまった。鼓膜が破れてしまいそうだった。
 亞珠梨はその有り様を見ながらも、九龍の首への攻撃を踏み切れずにいた。下手な攻撃は首だけでなく魂すらをも消滅させてしまう恐れがあったからだ。九龍には冥府で告訴をしてもらわねばならない。消してしまう訳にはいかないのだ。
 やがて度重なる攻撃に、聖周波障壁に亀裂が生じ始めた。銀に輝くバリアに幾筋ものひびが入り、それが全体に広がってゆく。もう幾らももたないだろうことが見て取れる。
 亞珠梨は一か八かの賭けにでた。
「亞珠梨と麗雅王の名において、元素司る三大聖霊に命ず! 地と水と風よ、九龍の肉体を再生せよ!」
ザン、と一陣の風が大地より吹きおこり、小さな竜巻をつくると、地面の塵と空気中の水がその中心に凝縮され、ひとつの肉体を形成した。首のない、肩から下の体である。それは血の通わぬ、いわば土人形に等しかったが、生前九龍が有していたのと寸分違わぬものであった。
「さまよう魂は元居た場処に戻らん!」
 亞珠梨の言葉に、九龍の首は攻撃をやめ、惑うようにうろうろと宙をさまよった。やがて土と塵でできたわが身を見つけると、一目散に飛んで来てその首をすえた。
 実に奇妙な形で九龍が甦った。見ていた幽鬼が呆れたように呟いた。
「なんて奴だ。体を与えて、逆に首を拘束しやがった」
 ちっと舌打ちする。それまで思うままにコントロールできた九龍の首が、砂塵の塊とはいえ肉体を得てしまったがために、自由を奪われ、三大聖霊によって呪縛されてしまったのである。
「いいさ。ならばそいつを活用させてもらうまでだ」
 幽鬼は傍らの大木から枝をむしりとると、それを一本の刀剣に変えて、九龍に向かって投げつけた。
「そいつらを八つ裂きにしろ!」
 九龍は与えられた剣を構え、瑠叉那ににじり寄った。瑠叉那は懐に手を入れ、懐剣をぐっと握りしめた。多分あと一太刀でこの障壁は破られるに違いない。懐剣などで兄にかなうはずもなかったが、黙ってやられる訳にはいかないのだ。
 その時、障壁がはずれ、代わりに亞珠梨がすっと瑠叉那の前に立ちはだかった。手にはやはり枝を変えた刀剣を握っている。亞珠梨は背を向けたまま、鋭く言った。
「逃げるんだ、瑠叉那。僕が時間を稼ぐ間に出来るだけ遠くへ」
「な……、馬鹿言え! どうして俺一人で」
「言うことをきけ! きみは殺されてはいけないんだ! 死んだ仲間のことを思うのなら、今は退け。逃げろ!」
 瑠叉那は困惑し、首を振った。
「でも……、兄上は、強いんだ。おまえ一人じゃ……」
「僕は死なない! 何があってもだ! だから気にせず行くんだ。もうすぐ獅伯が戻る。そうすれば……!」
 カーーーーン!
 高い音がした。九龍が振り下ろした刃を受けとめ、なおも亞珠梨は叫んだ。
「瑠叉那、行け! 早く! なんとしても生き延びろ!」
 瑠叉那は戸惑い、迷い、九龍と剣を合わせる亞珠梨を見つめながら、ゆっくりと後ずさった。そして身を翻すと一目散に、今来た竹林に向かって走り出した。
「ちっ、逃がすか」
 幽鬼が魔呪を唱えて大木からたくさんの木の葉を飛ばした。それを見た亞珠梨はすかさず叫んだ。
「破邪反転!」
 と、それまで瑠叉那めがけて風切るように飛んでいた木の葉が、くるりと方向を変えて幽鬼に襲いかかった。
「うわっ! くそ!」
 幽鬼はくるくるとまとわりつく木の葉に四苦八苦し、なんとかそれらを振り払った頃には、瑠叉那の姿はすでに深い竹林の中に消えた後であった。
 幽鬼は忌々しそうに地面に唾を吐いた。
「くそ……、まあいいわ。どうせ鬼のガキなど何もできん。それより、こしゃくな仙者め。ゆっくりといたぶって殺してやるわ。ガキの始末はそれからだ」
 幽鬼は唇に冷酷な笑みを浮かべた。
 一方亞珠梨は必死になって九龍と戦っている最中だった。いや、戦いなどと呼べるものではない。一方的に防戦しているにすぎない。希代の剣士だった九龍に、剣など握ったこともない亞珠梨がかなうわけはないのだ。
 九龍がこのように攻撃してくることは、初めから予測はついていた。瑠叉那がこの場から逃げだせる時間さえ稼げればいい。もとより勝てるなどとは思ってもいない。
 わずかに幸いなのは、亡者とかした九龍の頭には剣術の戦法などなく、ただ闇雲に剣を振り回してくるだけということだった。
 しかし幾ら滅茶苦茶とはいえ九龍の力は強い。受ける亞珠梨はすぐに息が切れ、逃げるのもおぼつかなくなってきた。圧倒的な力の差は如何ともしがたかった。
 亞珠梨は肩で息をし始めた。頭がくらくらし、目がかすんでくる。額を流れる汗が目に入ってしみた。その一瞬の隙を、九龍の刃は見逃さなかった。
 ザンッーー!
 鈍い音とともに、剣は亞珠梨の右腕を肩からばっさりと斬り落とした。
「ウァッ……ックゥゥ!」
 真紅の血が噴水のように吹き出す。剣を握ったままの右腕が、ごろりと地面に転がった。亞珠梨は血が流れ出る肩をつかみ、額を地面にこすりつけて悶え苦しんだ。
「うが……ぁぅ……!」
 九龍は苦痛に喘ぐ無防備な背中に向けて、容赦なく刀剣をぐさりと突き立てた。
「…………!」
 今度は声もなかった。刃は肺を突き抜けた。亞珠梨はごふっと多量の血を吐いた。亡者の九龍に慈悲はなく、彼は剣を引き抜くと、もう一度突き刺した。
 辺り一面に血が広がり、真紅の海と化す。その中で、亞珠梨はぐぶぐぶと血を吐きながら、哀れにうごめいた。
 九龍はその様を見おろしながら、再び剣を背中から引き抜いた。そしてまた突き立てようとした瞬間、亞珠梨の手が伸びて彼の太い足首をつかんだ。
 亞珠梨は血を溢れさせながら、呟いた。
「地の聖霊……、同胞なる、元……素を、共有……せよ」
 途端に、九龍の肉体を形成していた土が、大地と融合してひとつとなった。九龍はその身を地面に縛り付けられ、身動きかなわぬこととなった。
「うがあああぁ!」
 九龍の首が悔しそうに吠える。しかし一旦肉体と認めて合体してしまったものは、簡単に離れることはできなかった。
 亞珠梨は自分の斬り落とされた右手から剣をとり、それを支えにしてなんとか立ち上がった。はーっ、はーっと荒く息をつき、あらん限りの力で傷の快復に努める。そこに、遠くですべてを見守っていた幽鬼が、ゆっくりと近づいてきた。
「やるもんだな、仙者どのよ。なかなか大したものだ。だがその傷では、もうどうにもなるまいな。私が慈悲深くとどめをさしてやろうか」
「……おまえに僕が殺せるものか」
「は、まだ減らず口をたたいてやがる」
 幽鬼は固まった土人形の九龍の手から剣をむしり取ると、切っ先を亞珠梨の顔に向けた。にやにやと陰湿に笑う。
「ゆっくり、ゆっくりとな。可愛がってやるよ。仙者のぼうや。クックック」


 その頃、瑠叉那は必死の思いで森を駆けていた。
 遠く残してきた戦いの音がまだ聞こえてくるようで、両手で耳を覆いながら走った。不安定な格好で走っていたせいか、何度も下草に足を取られて転んだ。立ちあがっては走り、また転び、また起きて走る。そんなことを繰り返し、涙を流しながら瑠叉那は逃げた。
 手も足も、体中のどこもかしこもが傷だらけで痛かった。何よりも、胸が痛かった。一人残してきた亞珠梨。一人逃げてきた自分。思うだけで身が引き裂かれそうだ。
 何度目かの転倒で、ついに瑠叉那は起きあがることが出来ず、そのまま地面につっぷした。誰かが追ってくる気配はない。しかし追ってきても、もう逃げられない。何かが強く瑠叉那をひきとめていた。
 彼は恐れおののいて頭を抱え込んだ。必死になって自らに言い訳する。逃げたのは己の弱さではない。自分のせいではない。逃げたくはなかったのに、亞珠梨がそう言ったのだ。逃げろと、言ったのだ。だから……。
 だが、あの時、身も凍るほど恐ろしかったのは本当だった。兄の姿をした化け物が迫ってきて、震えあがったのは本当だった。そうだ。本当は、逃げ出したかったのだ、あの場から。
(亞珠梨……)
 彼は今ごろどうてしいるのだろう。九龍相手に一人で戦っているのだろうか。
 彼は死なない、と言った。そうかもしれない。きっと死にはしないだろう。不思議とそのことには確信がある。彼は多分普通の人間ではないのだ。
 だが、瑠叉那は知っていた。たとえ死からは逃げられても、苦痛から逃げることはできない。傷つけられれば血を流し、苦しみ、涙し、身をよじる。普通の人間と同じように痛みを感じるのだ。そしてそれは不死身であるが故に、終わることはない。ずっとずっと苦しみ続ける。
 瑠叉那は、がばっと跳ね起きた。立ち上がって、今来た道を走り出す。
(そうだ。どうして知らないふりをした? あいつだって痛いのに、俺と同じだけ痛いのに。苦痛は同じなのに! バカ瑠叉那。どうしてあいつを置いてきたりしたんだ!)
 瑠叉那は脇目もふらずに林を駆け抜けていった。


 亞珠梨は地面に仰向けに転がったまま、身動きひとつできずに、立ちはだかる幽鬼を見あげていた。
「呆れたな、まだ生きてやがる。どうなってるんだ?」
 幽鬼が驚いたように呟いた。体中を無惨に切り裂かれ、どれだけの血が流れたかと思われるほどの血を流し、右腕を失い、両足もほとんどその機能を奪われ、幾度も胸や腹に剣を突き立てられながら、それでも生きて自分を見つめる亞珠梨に、彼は畏怖すらおぼえた。
 亞珠梨は力なく答えた。
「……だから言っただろう。僕を殺すことなどできないと」
「まったく、信じ難いことだ。しかし時間の無駄だったということはよくわかった。そろそろけりをつけさせてもらおう。その首をはねて、まだ生きていられる者があったら見てみたいものだ」
 幽鬼は剣をかまえた。その時、突然背後から少年の声がした。
「亞珠梨から離れろ!」
 二人はその声の方を向いた。そこには逃げたはずの瑠叉那が、りりしく立っていた。亞珠梨は驚き、弱々しく呟いた。
「ばか……、逃げろと、言ったのに……。何故戻って……きた、瑠……」
 瑠叉那は寄ってくると、毅然として言った。
「幽鬼、おまえの狙いは俺で、そいつじゃないだろ。そいつから離れろ。俺が相手になってやる」
 幽鬼はにやりと笑った。
「感心なことだな。自分から殺されに戻ってくるとは。愚か者と言おうか。だがその勇気に免じて、おまえの言うようにおまえから殺してやってもいいぞ。どうせこいつはもう動くことすらできんのだ」
 幽鬼は手にしていた剣を立て、亞珠梨の胸に刺した。それは深々と突き刺さり、心臓を貫いて地面に届いた。
「ぐっ…………」
 くぐもったような亞珠梨のうめき。苦痛に歪む顔。瑠叉那はその光景に背筋が震えた。と同時に激しい怒りを感じた。
「ふん、ここまでやってもまだ死にやがらん。化け物め」
 幽鬼は剣を引き抜くと、憎々しげに唾を吐きかけた。瑠叉那はかっとして、足元に転がっていた亞珠梨の剣を取ると、幽鬼に向かって斬りかかった。幽鬼はひらりと身をかわすと、不敵な笑みをうかべ身構えた。
 九龍にはとうてい及ばぬものの、幽鬼の肉体は十分に逞しく、少女のような瑠叉那とは比べようもなかった。それでも瑠叉那は怯むことなく、敢然と挑みかかった。
 金属音が響きわたる。緊迫した空気が辺りを包む。朦朧とした意識の底で、亞珠梨はそれを聞いていた。
(やめろ、瑠叉那。きみには……勝てない。殺される……)
 残る力を振り絞って戦いに目を向ける。二人は刃をかわしあい、前進し、後ずさって、激しい死闘を繰り広げていた。
 瑠叉那は亞珠梨が思ったよりもずっと健闘していた。しかし大人と子供の歴然とした力の差があり、だんだんと劣勢に追い込まれていく。冷ややかな笑みすら浮かべる幽鬼に比べ、瑠叉那はたちまち息があがり、激しく肩を上下させた。
 額にかかる髪がべったりと汗で張り付いている。瑠叉那は視界を邪魔する髪を手で払った。
 一瞬の気の乱れをついて、幽鬼は剣を突き立てた。
 ぐぶっと鈍い音がした。
 剣を振りあげた瑠叉那の動きが止まる。その胸に、幽鬼の剣が深く突き刺さっていた。そしてそれが引き抜かれた途端、傷口から激しい勢いで血が吹き出した。
 瑠叉那は一言も発せぬまま、どうと地面に倒れた。大きな瞳は見開かれ、瞬きすらもしていない。それっきり、彼は身動き一つしなかった。
「ふふん」
 幽鬼は剣についた血を振り払うと、嘲るように鼻で笑った。足で体をひっくり返す。何の反応もないのを確かめ、ゆっくりと亞珠梨の方に向き直った。
「あっけないもんだ。こうでなくちゃいかん。全くおまえはしぶとすぎるんだ」
 彼は亞珠梨のそばに歩み寄ると、勝ち誇ったように見おろした。
「さあて、残るはおまえだけだ。ひでえ姿だ。今楽にしてやるぜ。九龍のようにな」
 剣を逆手に握り、切っ先を首筋にあてて垂直に立てると、にやりと笑った。
「あばよ、仙者どの」
 ぐっと力を込める。刃は亞珠梨の首に埋没した。
 剣は首を切り放し、貫通し、深く地面に突き刺さった。間違いなくその広い刃は、首と胴体を二つに分けた、その真ん中に立っていた。切り放された首は転がることもなく、そこにある。
 幽鬼は亞珠梨の首を拾い上げようと手を伸ばした。しかしその手が宙に止まる。彼は愕然として身をこわばらせた。冷たい地面の上で、亞珠梨の目が、じっと彼を見つめていたのだ。
 それは閉じることを忘れた死者の瞳ではなかった。つい今しがたまで幽鬼を見つめていたあの冷ややかな目。死の瀬戸際にありながらなおも静かだった、あの目だ。
 幽鬼は見入られたようにその瞳を見返した。
よろりとよろめく。彼は弟魍利が味わったのと、同等の恐怖をおぼえた。
 首を切り放されて、なおも生きるこの者は、いったいなんだ……? 
「馬鹿、な……」
 だが幽鬼は蒼白になりつつも魍利のようにパニックに陥ることなく、改めて攻撃しようと震えながら果敢に首に刺さった剣に手をかけた。
 亞珠梨がぽつりと言った。
「弟の轍を踏んだな、幽鬼……」
「なん……だと?」
「おまえはやりすぎた。もうすぐ、道が開くだろう。いい気になって僕を傷つけ、僕をあいつにつなげてしまった。僕がもっとも忌み嫌う、あの僕の創造者、僕の夢の源へ」
 幽鬼はぞくりとした。その言葉の奥に恐ろしい何かを感じたのだ。我知らずズリズリと後ずさる。警告の鐘が耳の中に鳴り響く。逃げろと叫んでいる。
 亞珠梨の体がすうっと霞んだ。まるで幽霊のように半透明に透き通る。そしてその奥からすさまじいエルネギーの波が押し寄せ、それが一挙に爆発した。真昼の太陽のように激しい光を放った。辺りが真っ白に輝いて何も見えなくなるほどに。
「うぐぁあぁ! め、目が……!」
 幽鬼は両目を押さえてのたうち回った。火に焼かれたような激しい痛みである。悶絶の末、よろよろと立ち上がり、固く目を閉じたままその場から逃げた。彼がひとつ賢かったのは、魍利とは違い、己の不利を敏感に悟ったことだ。抵抗の意志を捨てたがために、再び攻撃を受けることはなかった。
 幽鬼は蒼白になってひきつりながら、小さな風で竜巻を起こすと、それに身を包んでほうほうの体で退散した。それは見事なまでの引き際といえた。
 静寂が訪れた。
 光は消え、突然やってきた夕暮れの薄闇の中、冷たい風が地面を撫でて吹き抜けていった。地に横たわる二つの体の上を、何の救いも同情もなく、無情に通り過ぎていく。
 亞珠梨は残された左腕で首に突き立てられた剣を大地から引き抜いた。
 瑠叉那を見る。生気のない瞳が見返している。彼は全身の力を振り絞って、瑠叉那の元まで這いずり寄った。
 少年の体はまだ暖かかった。胸に耳を押しあててみる。鼓動はすでに止まっている。だが微かに残る命の火を、亞珠梨は確かに感じとった。
 亞珠梨は瑠叉那と頭を並べると、手を伸ばして顔を引き寄せ、互いの額を触れ合わせた。
(死ぬな、瑠叉那。死んじゃいけない。僕の中にある力をきみにやるから、全部やるから、受け取ってくれ。そして生き返ってくれ。頼む、頼む、瑠叉那……)
目を閉じ、強く念じる。わずかに残されていたエナジーが流れていくのが感じられる。亞珠梨は気が遠くなりながらも、祈るように念じ続けた。
 

 泰山から舞い戻った獅伯は、目にした光景に愕然とした。すぐさま亞珠梨の元へと駆け寄り、悲痛な声で叫んだ。
「亞珠梨どの、亞珠梨どの!」
 亞珠梨はうっすらと目を開けた。消え入りそうな声でささやく。
「……獅伯か。遅かったな」
「しっかりしてください。いったい何があったのです?」
「もう一人の……魔道士が現れたのさ。僕も瑠叉那もやられた。ーーそうだ、獅伯、瑠叉那はどうした? 生きているのか?」
 獅伯は瑠叉那の胸に手をあてた。
「……心の臓は動いている。大丈夫、生きてますよ、しっかりと」
「そうか。よかった……」
 亞珠梨はほっとしたように微かな笑みを見せた。その顔が透けている。手や足や、体が、半透明に透けて、ゆらゆらと揺らいでいる。獅伯が心配そうに目を細めた。
「この鬼より……あなたの方がよほど酷い。消えてしまいそうだ」
「大丈夫、まだもつさ。でも……ちょっと辛いな。獅伯、僕と瑠叉那を、あそこへ、蓬莱(ほうらい)の館へ運んでくれ」
「この鬼もですか?」
「ああ。傷はふさいでおいたが、力が足りなくて完全じゃない。手当してやってくれ。頼む……」
 亞珠梨は力尽きたように目を閉じた。
 獅伯は一刻の猶予もならぬことを知り、命ぜられた通り、二人の体を抱きかかえ、遥か天上の雲の彼方、蓬莱山のてっぺんにある屋敷へと空高く舞い上がっていった。
  
  
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