亞珠梨 −夢幻奇譚
第二部 江河編 −1−

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1 春蘭姫の悲劇


 江河は冷たい風が吹いていた。
 対岸が遠くかすむ程大きなその河は、赤土の色をたたえ、とうとうと流れていた。
 岸辺から広がる広大な大地に降り立ち、亞珠梨と瑠叉那、そして獅伯の三人はそれぞれの思いでその景色を見ていた。
 獅伯が苦々しくつぶやいた。
「空気が、濁っておりますな。魔に汚れている。これは私の知る江河ではない。正しい姿ではない」
「地上神としては、管理不行き届きだな、獅伯?」
 亞珠梨が皮肉を込めて鼻で笑う。
「まこと己の不備不束を思い知らされます」
 冷たい会話を交わす二人に、瑠叉那が割って入った。
「都に戻るんじゃないのか? どうしてこんな所へ」
「ここがどこかはわかってるな?」
 瑠叉那は顔を曇らせ、うつむいた。
「……兄上が、殺された所。調印の場だ。でも今更こんな所になんの用があるんだ?」
「ちょっと捜し物をするのさ」
 亞珠梨は冷ややかに答えると、地面を見ながらゆっくりと歩き始めた。落とし物を探すかのように、ゆっくりとゆっくりと、同じ場所を何度もぐるぐると回る。見守っていた瑠叉那がしびれを切らして口を開きかけた時、亞珠梨は大地から何かを拾い上げた。
 それは一本の髪の毛であった。彼は指先に摘んで目の高さに捧げ持つと、ちらりと瑠叉那を見てたずねた。
「きみの……姉上のものかな?」
「……そんなの、わかるわけな……?」
 言いかけた言葉が終わるも待たず、髪はすっと亞珠梨の手を離れて空に舞った。かと思うと、見る間に空中にひとつの人の影をつくり始めた。
 流れる滝のようになめらかな美しい黒髪と、象牙のようにしっとりと白い肌をした美姫。しかし実態にはあらざる、半透明な姿。
 瑠叉那はそれを見て思わず叫んだ。
「春蘭姫(しゅんらんひ)姉者!」
 それは懐かしい義姉の姿であった。悪夢のようなあの日より、ようとして行方の知れぬ彼女は、殺されたのかあるいは自害して果てたか、どちらにしても誰もがもう死んだものと信じて疑わなかった。
 亞珠梨はその透いた人影にむかって、命じた。
「命あらざる者はその影も得ず。魂の器より引き裂かれし影なる分身、本体に戻れ!」
 影は言葉を受けてすーっと滑るように動きだした。ふらりふらりと惑うように幾度か円を描き、やがて一方向に向けて進み始める。三人はその後を追った。
 影は最初右に左にふらふらしながら進んでいたが、そのうち河に沿ってまっすぐ動きだした。かなりの距離を行く。数キロも行ったかと思われる場所で、ぴたりと止まった。
 そこには小さな舟付き場があり、壊れかけた小さな舟が一そう縄につながれてぷかぷかと浮かんでいた。
 影は川岸から離れて、内地にむかった。少し進むと低い丘があり、それを越えると荒れた狭い畑と、みすぼらしい一軒のあばら屋があった。
 生活の道具が辺りに散らばっている。一応人が住んではいるらしい。見るからに貧しそうな家で、ほそぼそと漁や農作でかてを得ているのだろう。
 影は少し惑うように辺りを見渡し、家の裏手の方へと向かっていった。建物に隠れてその姿は見えなくなった。
 亞珠梨達は急いでその後を追った。家を越すと、急に目の前に一面の花畑が広がった。鮮やかな黄色の花が辺りいっぱいに咲き誇っている。菜の花によく似た花だ。たくさんの白い蝶が、蜜を求めて飛び交っていた。
 その花畑の真ん中に、一人の娘が座っていた。娘は一心不乱に花を摘んでいた。抱えきれぬ程に摘んで、まだ足りぬというようにその動作は終わることはない。
 亞珠梨は花をかき分けてその娘に近づいていった。娘は人の訪れに気づいて顔をあげた。その顔は三人が追ってきた影と同じ顔をしていた。しかし影のような不確かな存在ではなく、生気の宿った、生きている人の顔であった。
 身なりは貧しく、痩せて顔色も悪かったが、それは間違いなく行方知れずの春蘭姫皇妃だった。
「姉者! 生きてたんだね!」
 瑠叉那は嬉しそうに叫んで走り寄った。満面に笑みをたたえて、今にも飛びつかんがばかりの勢いである。だが娘の方は対象的に明らかに恐れおののいた表情で、哀れに身をこわばらせた。
 亞珠梨は不審に思い、喜び勇んでいる瑠叉那を制した。
「待て、様子が妙だ」
 春蘭姫は青ざめた顔でびくびくとこちらをうかがっている。亞珠梨は恐れさせぬよう静かに声をかけた。
「春蘭姫皇妃ですね?」
 娘はびくりと体を震わせて、堅く目を閉じ、身を縮こませた。両手で耳を押さえ、何も聞こうとはしない。よほど恐ろしいのか歯をがちがちと震わせている。
 彼女の思わぬ反応に、三人は顔を見合わせた。その時、後ろのあばら屋から一人の老いた男が走り出してきて、大慌てで皆を叱りつけた。
「こりゃ! いかん、いかん! なにしてるんじゃい。その娘は可哀相な気の病なんじゃ。脅かしてはならんわい。せっかく少うしようなったのに」
「気の病?」
 亞珠梨は眉をひそめて春蘭姫を見た。確かにその様子は尋常ではない。異様なほどのおびえ方や妙に焦点のあわぬ瞳は、とても普通とは思えない。
 亞珠梨は老鬼にたずねた。
「どこでこの娘を?」
 だが男は小鼻を広げ、奮然として問い返した。
「おまえさん方こそなんじゃい? こんな所に何しに来た? 見たところ瓦青鬼の輩ではなさそうじゃが」
「俺は赤鬼羅族の瑠……」
 言いかける瑠叉那を制して、亞珠梨が答えた。
「控えよ。こちらにおわす御方こそは、天よりこの世の監視をまかされし地上神である。世の正義を見確かめに参られた。神妙にいたすがいい」
 獅伯を指し示しながら物々しく言って聞かせる。獅伯もまたいかにもそれらしく、威厳を見せ、厳めしい表情で相槌をうった。人の良い老人は疑いもせずに、飛び上がって、すぐさま平伏し謝罪した。
「も、申し訳ありませなんだ。御無礼をいたしまして。わしゃあ曽嚥(そえん)つう、ただの老いぼれでございます。何卒おとがめなく。ひゃぁ」
「とがめたりはしない。それより質問に答えよ。娘をどこから連れてきた?」
 亞珠梨の問いに曽嚥は素直に答えた。
「へへい、連れてきたんじゃありませんです。その娘は河を流れてきたんで。虫の息だったんですが、手厚く看護してやったら息を吹き返しまして。ただ、ちいと頭の方がおかしくなっちまって、へい、何聞いてもわかんねえし、喋らねえ。いい身なりをしてたんで、良いとこの嬢様だとは思うんだが。まあ、べっぴんで気だても悪くなさそうなんで、哀れに思っておいてやってたんですが」
「俺の姉者だ!」
 瑠叉那は叫んだ。
「ほい、おまえさまの姉さまか。そりゃ気の毒になあ、ぼうや」
 ぼうやと呼ばれ、瑠叉那は憤然として老人をにらみつけた。しかし亞珠梨に止められた手前正体を明かす訳にもいかず、ぐっとこらえる。腹立ち紛れに回りの花々をけちらしていると、春蘭姫が無垢な子供の瞳で怒りをこめてにらんだ。
 亞珠梨しばし考え込んでいたが、やがて厳しい顔つきで言った。
「仕方がない。過去見語りの術を使おう。春蘭姫には少し辛いだろうが」
 獅伯に目で合図する。彼は小さくうなづき、曽嚥に向けて手を差し出した。
「おまえは少し眠ってろ」
 地上神の大きな手がぽんと老鬼の頭を打つ。途端に、曽嚥はあっけなく気を失い、ごろりと地面に転がった。
 春蘭姫が驚いて小さな悲鳴をあげる。だが亞珠梨はかまうことなく彼女の両肩をつかむと、目をにらみ、鋭く言った。
「我が声を聞け、春蘭姫」
 春蘭姫は一瞬ぴくりとけいれんし、そして身を硬直させた。大きく見開かれた目が亞珠梨を凝視するが、そこに彼女の意志はなかった。
「今よりおまえの心を、過ぎし時空の向こうに戻す。おまえはその目で見、その耳で聞いたすべてを語らねばならない。わかったな」
「はい」
「では戻れ。調印の場へ。夫九龍の死した時空へ!」
 亞珠梨の最後の言葉が終わると同時に、春蘭姫は壮絶な悲鳴をあげた。
「きゃああああぁ!」
「姉者!」
 瑠叉那が驚いて駆け寄らんとするのを、獅伯が手を掴んで引きとどめた。
 春蘭姫は恐怖に満ちた、しかし正気の宿る瞳で、そこにはない何かの姿を食い入るように見つめていた。
「ああ、あ……、あああ、なんということ……。あなた、あなた……」
 手が何かにすがるように傍らの宙をまさぐっている。瑠叉那は眉をひそめ、亞珠梨にたずねた。
「な、何をしたんだ? 姉者に」
「意識を過去に送り返したんだ。今彼女は、ここにいながらにして、過去の、九龍が乱行に及んだというあの調印の場に在している。あの時の光景を目にしているんだ」
 瑠叉那は絶句した。可哀相な姉は、おそらくもっとも見たくはなかったであろう愛する者の死の瞬間を、再びその目に見せつけられようとしているのだ。なんと残酷な仕打ちだろうか。
 亞珠梨は春蘭姫のそばに膝をつくと、低い声で聞いた。
「何が見える? 春蘭姫」
「……使者さまが、使者さまが剣を持って立っておられる……」
「剣に血はついているか?」
「赤い血が……。瓦青鬼の長さまとその奥方さまの赤い血が」
「何が聞こえる?」
「夫、九龍の声。『乱心いたされたか、使者どのよ』ーー使者どのが笑う。笑って……近づいてくる。剣を……、剣を持って……。九龍が立ち上がる。立って抜刀し、私に……、『逃げよ』と言われる。おお……あなた」
 春蘭姫の唇から血の気が失せ、ぶるぶると震えた。
「私は逃げられぬ。九龍が、使者どのと剣をあわせる。音がする。剣のぶつかる音。風を切る音。あの方は『逃げよ』と叫ばれる。ああ、逃げられぬ! あの方を置いてなど! しかし、死ぬわけにはいかぬ。おお、あなた、九龍よ。誰か九龍を助けて! 九龍が殺される!」
「九龍は殺されたのか?」
「ああああっ!」
 冷酷で無慈悲な問いに、春蘭姫はその白魚の手で顔を覆い、大地に崩れ伏した。だが亞珠梨は容赦なく再度問い直した。
「九龍は殺されたか?」
「……殺された。使者どのに。使者どのが、あの方の首を……。く、悔しい……。せめて一太刀の仇を……。でも私は死ぬわけにはいかぬ。逃げるのだ。どこかへ。ーーああ、だが使者が追ってくる。足音が迫る。九龍よ、助けて! 使者が! 違う、あれは魔の者だ。魔が私を、私を……! 光が……! きゃああああっ!」
春蘭姫は絶叫した。体が雷に打たれたように激しく反り返り、ぴくぴくとけいれんした。瑠叉那が慌ててその体を抱きかかえる。だが彼女は過去の夢の中で使者に襲われ、失神していた。
「姉者! 姉者、しっかりしろ!」
「大丈夫だ、瑠叉那皇子。気を失っているだけだ」
 亞珠梨は冷淡に言った。瑠叉那は春蘭姫を抱いたまま、興奮して叫んだ。
「聞いただろ、亞珠梨仙者! やっぱり兄上は無実だったんだ。俺達は謀反人なんかじゃあないんだ!」
 しかし亞珠梨の反応は冷たく、悲観的な返事が返ってきた。
「だがこのままではどうしようもない。天に対する不敬の事実は、地上神にすらも掴めない程巧妙に隠されている。おそらくその線から訴訟を起こすのは僕達には無理だろう」
「じゃ、どうすればいいんだ。毛利にだまされた俺達が悪いってのか?」
「そうかもしれない」
「亞珠梨仙者!」
「だが、それを逆手にとることもできる。死人は冥府で己の死の真実を知る権利がある。だまされて死んだことを確証できる者に、冥府で告訴させれば、冥府は事実を解明する為に動く。冥府で解明できなければ、その仕事は天に依頼される。天が動いて明らかにならざる事実はない。たとえ魔の者がどれほどの力でシールドしようとも、天にはかなわない」
「では誰に告訴させればいい? 父上か?」
「九龍皇子だ。彼以外にその役を担える者はいない。何故なら、彼は使者が瓦青鬼の族長を殺害した場面に居合わせているし、彼自身もその手にかかっている。きみの父上や劉沙達は実際に使者に何かをされたわけではないし、それにたとえわずかでも九龍皇子に対する疑惑がある。己の死に偽りが関与しているという百パーセントの確証を持っている者でなければ駄目だ。多分九龍の魂をこの世に呪縛しているのは、冥府にその疑惑を持ち込まれては困るからに違いない」
 亞珠梨はきっぱりと言った。
「九龍を呼ぶ。そして引導する」
 と、それまで黙って耳を傾けていた獅伯が、慎ましやかに、しかし心より亞珠梨の身を案じて提言した。
「亞珠梨どの、長い間地に呪縛された魂は危険です。未練や怨念が溜まり、亡者と化しているかもしれません。御一人で大丈夫ですか?」
「おまえがいても、どうせ手は出す訳にはいくまい、獅伯? それより、春蘭姫を泰山のおまえの屋敷に保護しておいてくれないか? それくらいなら人の世に干渉しても構わないだろう?」
「かしこまりました。責任を持ってお預かりいたします」
 獅伯は丁重に頭を下げた。そしてちらりと地面に転がっている曽嚥に目を向けた。
「ではまず、この者を起こさねばなりませぬな」
 獅伯はぱちりと指を鳴らした。眠っていた曽嚥がその音で目を覚ます。しばしぼんやりとしていたが、瑠叉那の腕に抱かれた春蘭姫の姿を見て、驚いて叫んだ。
「あややっ! これはどうしたことだ、嬢さんが!」
「気絶してるだけだ。心配ない」
「いかん、いかん。一人の体じゃないんだ。せっかく助かったややこに何かあったら大変じゃわい」
 曽嚥が顔をしかめ、首を振って呟いた。亞珠梨と瑠叉那は目を丸くして顔を見合わせた。瑠叉那はおそるおそるたずねた。
「なあ、じいさん。今……ややって言ったのか? 姉者に子供が?」
「そうじゃ、そうじゃ。助かったのが奇跡みたいなもんだと産婆が言うておったぞ」
 その言葉を聞いて、沈んでいた瑠叉那の顔に輝きが戻った。
 春蘭姫のおなかに子供がいる。敬愛する兄の子、自分にとっての甥子だ。生きて残ったのは自分だけだと思っていたのに、こうして春蘭姫を見つけ、今また兄の子の存在を知った。もう孤独ではない。独りではないのだ。瑠叉那の胸に熱い希望が甦った。
 瑠叉那は嬉しそうに亞珠梨を見た。溢れる喜びを分け与えようとでもするかのように。その笑顔に亞珠梨も微笑みを返したが、何故かその笑みは悲しみに満ちていた。
 獅伯は皆より少し離れると、真っ黒な巨大鷲に変化した。曽嚥がひいいっと叫んで尻もちをつく。黒鷲はその目の前でばさりばさりと大きく翼をはためかせると、大きな爪で慎重に春蘭姫を掴み、高く一声鳴いて飛びあがった。
 上空で一、二度旋回し、やがて薄紫色の雲に隠れて見えなくなった。残された三人は地上からじっとその様を見守っていた。曽嚥が感服したようにほーっと大きなため息をついた。
 亞珠梨は瑠叉那のほうに向き直ると、尋ねた。
「九龍の墓に行きたいが、ここからは遠いのか?」
「結構あるけど、歩いて行けない距離じゃないよ。河を渡れば早い」
 横で耳をそばだてていた曽嚥が口を挟んだ。
「よけりゃ、わしが船を出すがの。おんぼろだが、沈みはせんよ」
「では頼む」
 曽嚥が喜々として駆けていった。亞珠梨がその後について歩きかけた時、瑠叉那が袖を引いてひきとめた。
「どうした?」
「ありがとう、亞珠梨仙者。姉者を見つけてくれて」
「まだ問題が解決したわけじゃないさ」
「でも……ありがとう。感謝するよ、本当に」
「礼はあのじいさんに言うんだな。僕は何もしてないよ。それと……きみの強運にだ、瑠叉那皇子」
「瑠叉那でいいよ、亞珠梨仙者」
「では僕も亞珠梨でいい。いちいち仙者と呼ばれるのはうっとうしくてかなわない」
 亞珠梨は苦々しげに眉をひそめてみせた。瑠叉那はにっこり微笑み返した。亞珠梨のこんな冷ややかさは上辺だけのものであることを、瑠叉那はよくわかっていた。
 曽嚥が用意した船は本当におんぼろで、三人乗れば沈んでしまいそうだったが、それでも緩やかな流れの上をどうにか渡って、亞珠梨と瑠叉那は対岸に着いた。
 曽嚥に礼を言って帰らせると、二人は九龍の墓があるという方向に向けて歩きだした。辺りがうっすらと夕暮れのベールを纏い始める。やがてうっそうとした竹林にはいった。
 二人は繁った下草をかき分けながら、細い獣道を通って進んだ。頭上では、風に吹かれて竹の葉がザワザワとざわめいている。昼間でも方向のつけにくい竹林だ。闇に包まれればいっそう道行きは難儀なものになるに違いない。二人は日が暮れる前に、と足早に歩いた。
 ずっと無言だった瑠叉那が、おずおずとたずねた。
「なあ、聞いてもいいかな、亞珠梨?」
「なんだ?」
「おまえ……何者なの?」
 亞珠梨の足が一瞬止まった。だが無言のまますぐにまた歩き始める。しかし背中には明らかに、動揺の色があった。それ以上は聞くなと言う、拒絶の意志があった。しかし瑠叉那は知ってか知らずか、話し続けた。
「亞珠梨ってのは、麗雅王大仙の末裔、その力を継ぐ人間に名付けられる名前だって、俺達は聞いてた。でも……、夢とか夢見とか、人間の話じゃないよな。おまえ、普通の人間じゃないんだろう? ただの仙人じゃないんだろう? 考えてみりゃ、地上神の態度だって人間や仙人に対するものじゃない。おまえ、いったい何者なんだ、亞珠梨?」
 亞珠梨はくるりと振り向くと、目を細め、冷たい口調で言った。
「……聞いてどうする?」
「どうもしないさ。だけど、聞きたいんだ、本当のことを」
「何故?」
「好きだからだよ、おまえのことが。おまえだって大切な友達のことなら、嘘や偽りじゃない本当の姿を知りたいと思うだろう?」
 亞珠梨はその言葉に愕然とした表情を浮かべた。しばし物も言わずにじっと立ち尽くしていたが、やがて薄笑いを浮かべ、あざけるように呟いた。
「嘘、偽りのない真実か。そんなもの、僕には何もないんだ。僕自身が虚偽の塊なんだ」
 そしてまた背を向け、すたすたと歩き始める。だがしばらく進んでから、彼は自ら立ち止まり、何かを決心したように瑠叉那を見つめた。
「おとぎ話を、聞いてくれるか?」
 瑠叉那はこくんとうなづいた。そして亞珠梨は、静かに語り始めた。昔、昔の、古い話を。


   2 天界の美姫


 それは、遥か昔の話であった。
 人の世に、それはそれは美しい娘がいた。娘は小さな国の姫君で、王はそのたった一人の姫をこよなく愛し、いとおしんだ。姫君もまた、たくさんの愛に囲まれ、健やかに育った。
 大人への階段を一つ一つ登るにつれ、姫君の美しさは世に並ぶもののない程類希なるものとなった。
 流れる髪は銀糸のごとく、瞳は川底に輝く黒曜石、唇は沈む赤い夕日のように、華やかさはどんな花にも優り、虹すらもその娘の前では輝きを失い、小鳥もかなわぬ程の美しい声で語る、娘はまことにこの世で最も素晴らしい存在であった。
 その美しさは世界の隅隅にまで知れ渡り、天界にまで届き、天帝の耳にも入った。そしてとうとう天帝に呼ばれ、寵愛を受けることになった。
 姫君の美しさは天においてすらきわだっており、天帝は深くいとおしみ、それはもう大切になされた。姫は天帝の愛を受け、よりいっそう輝きを増した。
 そうしてしばらくの時がすぎた。ある時姫君は気づいた。鏡の中の己が顔は、相も変わらず美しい。だが昨日よりはほんの少しだけ色が失せているようだ。そしてそれは明日にはまた少しだけ失せるだろう。
 天界に住む天人達とは違い、人の身なれば時の呪縛は逃げるにかなわぬ。老いは全ての者に公平に訪れる。この美しい自分すら、やがては老いさらばえて、見るも無惨となるのだろう。
 姫君はぞっとした。そんな行く末があるなどとは考えたくもなかった。天帝にすら礼賛されるこの美しさを、何故に失わねばならぬのか。永遠という言葉は我が美のためにあるのではないか。
 そして姫君は、天帝に願い請うた。
「偉大なる天の帝よ、貴方は大いなる心でもって、我に愛を注がれた。ならば愛しき我の願いを、愛をもってかなえたまえ」
 天帝はそれは姫君を愛していたので、娘の望むところを聞いた。
「わが身を、不老不死なる者になして賜れ。人の身とあれば、輝きは日毎失われ、明日は今日よりもやつれゆかん。我とわが身を、時の呪縛より解き放ちたまえ。時の流れより拾い上げたまえ」
 天帝は何故かとても悲しい御顔をなされ、幾度も問い直した。しかし姫君の意志は堅く、その望みを退かせることはできなかった。天帝は姫君の願いをかなえたもうた。
 こうして姫君は人であることを捨て、美しさを選んだ。姫君はそれが如何なることを意味するのか知らなかった。
 そうしてまた長い時がすぎた。
 しばらくは姫君は幸せに過ごした。だがだんだん天の暮らしに飽きてきた。時の流れのない世界が如何に退屈で苦痛に満ちたものであるか、だんだんとわかってきた。
 修行修養した仙人ですら天に住まうことは難しいとされる。なのに、ましてや姫君は普通の人間として生まれて、なんの修練もなく甘やかされて育ってきた。天上の超越した感覚など理解できるはずもなかった。
 姫君の苦痛は日毎耐え難いものとなった。地に降ろしてくれと天帝にも頼んだ。しかしすでに人にあらざる身では、それも無理だった。
 姫君は毎日天の水鏡で地上を眺めて、その退屈を紛らわせていた。そんなある時、姫君は一人の若者を知った。若者はある公国の名だたる勇士で、逞しく雄々しく、また性格も清廉であった。比類なき美男であった。
 姫君は一目で恋した。それはまことに真実なる初めての恋であった。
 姫は若者に焦がれ、胸を焼き、苦しみ、天の掟を破ってそっと若者に水鏡を通して話しかけた。若者は、最初は驚き畏れもしたが、やがて彼もまた水に映る美しい姫君に恋をした。二人は夜毎天と地とで愛を語った。
 しかしどんなに想いを語り合おうと、所詮は異なる世界。その大きな手を握ることも、広い胸に抱かれることもない。姫君の想いは募り、とうとう姫君は天帝の許しもないまま、無断で人の世へ降りてしまった。
 姫君は喜び勇んで若者に会いにいった。若者もまた胸を踊らせて姫を迎えた。
 しかし二人がその手をとりあった瞬間、二人の間の愛は失われた。いや、正しくは、若者の心から愛が失われたのであった。
 若者はその黒い瞳に、精一杯の尊敬と忠節の意思を溢れさせた。だがそれは一人の娘に対する愛の感情ではなかった。
 若者は膝を折り、美を礼賛し、忠誠を誓った。だがその口から熱い想いが語られることはなかった。
 どんなに姫君が説いても無駄であった。そして姫君はついに悟ったのである。自分が如何に愚かなる願いを請うてしまったのかを。
 不老不死であること。時を捨てること。それは人々の生きる流れの中からもはじきだされること。彼女はもう、人として人に愛されることはないのだ。どんなに敬われ慕われようと、それは天の者に対する信奉。仲間として、ましてや女としてではない。
 姫君は嘆いた。どんなに嘆いてももう遅い、取り返せぬこととわかってはいても。
 また姫君は天にも戻ることは許されなかった。天帝の愛を裏切ったのだから当然のことである。こうして姫君はたった一人で、人の世界で永遠の時を生きなければならなくなったのである。
 最初の百年、姫君は泣き暮らした。己の不幸を嘆き悲しんだ。それから百年、必死になって修養した。不老不死の力を解く鍵を探して、来る日も来る日も仙の修行に明け暮れた。辛い修行も耐えた。しかし……それも無駄と知り、悲しみ、苦悩し、そして天に許されることを祈って、一生懸命世に尽くした。深い慈悲と哀れみの心を持ち、修行して得た仙力で世の災厄からたくさんの人々を救った。多くの人間を愛し、多くの人間に敬われ、慕われ、しかし愛されず、そうして数百年を生き……、やがて彼女は絶望した。
 姫君は生きることに耐えられず、眠りの世界に閉じ込もってしまった。今も彼女は眠っている。永遠の時間の中を、目覚めることもなく、眠り続ける。孤独のままに……。


「その……お姫さま、なんて名前?」
 瑠叉那が震える声で尋ねた。亞珠梨は前を歩きながらちらりと顔を向け、寂しげに笑った。
「おとぎ話さ、瑠叉那」
「なんて名前なんだよ!」
「麗雅……。麗雅王だよ」
 彼は深い悲しみを込めて呟いた。瑠叉那は今にも泣き出しそうな顔で、亞珠梨の元へと走りより、腕をつかんだ。
「そのお姫さまーー麗雅王は、今でも眠ってるのか? じゃあ、おまえは末裔なんかじゃない。そんなものいない! 嘘つき亞珠梨。おまえは誰? 誰なんだ?」
 亞珠梨は目を細め、瑠叉那を見つめた。
 風が強まり、竹林の中を吹き抜けて二人の頬を撫でてゆく。ざわざわざわと妖しく唄う。亞珠梨はそっと瑠叉那の手をはずし、彼から離れた。
「急ごう。日が暮れる」
 すっと歩き出す。離れていく一歩一歩のその距離が、瑠叉那には亞珠梨の孤独の深さ、とうてい癒せぬ傷の深さに思えた。
 竹林を抜けると、なだらかな丘が見えた。そのてっぺんに、わずかに土を盛られただけの丸い貧しい塚があった。瑠叉那は思わず呟いた。
「兄上……」
 それこそが、目指す九龍の墓だった。    
  
  
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