亞珠梨 −夢幻奇譚
第一部 倭編 −5−

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7 講堂の魔道士


 あちこちで、明るい朝の挨拶が飛びかっていた。
「オハヨー」
「おはよう」
 日々変わることのない、平穏な日常の風景。
 バス停から校舎に続く緩やかな坂道を、亞珠梨と高志は肩を並べて歩いていた。
 高志がしきりと大きな欠伸を連発する。瞳に涙をにじませてのんびりと言った。
「なんか、今朝はやけに眠くってよ、欠伸ばっかし……、フワアァ」
「また夜更かししてたんだろ、どうせ?」
「んやー、なんか早々と寝てたっておふくろは言ってたけど。俺、いつ寝たのか、よく覚えてないんだよなぁ」
「平和な奴だな、きみって」
「珠梨ーー、俺を馬鹿にしてんだろー? てめ……ぇ、あ……ふぁ」
「つきあってられないね。先に行くよ」
 亞珠梨は道ばたで大きく伸びをしている高志をおいて、さっさと歩き始めた。眠そうな目をした高志は、なにやらぶつぶつつぶやきながら、のんびりと後についてきた。
 足早に歩を進める亞珠梨に、胸の奥から瑠叉那が心配そうに声をかけてきた。
(なあ、いいのか? おいてきて)
(大丈夫だよ。辺りに不穏な気配はないから)
 瑠叉那はふうんと相槌をうち、しばらくしてから遠慮がちに尋ねた。
(な、聞いてもいい? 亞珠梨仙者)
(なんだ? 改まって)
(どうしてあいつの記憶消しちゃったんだ? 何も知らないでいて、危なくないのか?)
(知っている方がよっぽど危険だよ。あいつはあれで正義感が人一倍強いから、僕やきみを助けるためなら自分のことを顧みないだろう。僕の力にも限度があるからね。無茶をしてくれないほうがいいんだ)
(でも……あいつ、怒るんじゃないのか? 勝手に記憶消されたこと知ったらさ)
 亞珠梨はしばし沈黙し、やがて少し悲しげに言った。
(いいんだ。どうせ近いうちに、何もかも忘れるのさ)
(……何もかもって?)
 その答はなく、代わりに厳しい口調が返ってきた。
(いいか、瑠叉那皇子。きみは出来るだけ気配を悟られないようにしていてくれよ。ここにいることが相手に知られると厄介だ。向こうもそれなりの力を持っているようだし、騒ぐとばれるんだからな)
(わかった……)
 少し不満ありげに瑠叉那は答えた。血の気の多そうな彼のことだ。長い間何も出来ずに押し込められているのは、さぞかし辛いに違いない。それでも今のところ文句一つ言わずに、じっと我慢しているのは殊勝だが。
(夜まで待てば、獅伯が情報を持ってくる。どう動くかはその後だ。今日一日、何事もなければよいが……)
 しかし現実は期待したほど甘くはなかった。
 それは四時限目の体育の時間に訪れた。
「おい、今日は講堂で柔道だってよ、ちぇ」
「えーっ、なんだ、バスケじゃねーのかよ。たるいなー」
「昼飯前にやってらんねーよなー、柔道なんて」
 がやがやとぼやきながら講堂に向かう男子生徒達の群れに混じって、亞珠梨は密かに気を張りつめていた。得たいの知れぬ不安が押し寄せてくる。なにかが起こりそうな予感。負の因子を含んだ未来が感じられる。毛利が何かを仕掛けてくるに違いない。
 亞珠梨の不安を感じとったのか、胸の奥で瑠叉那もまた緊張しているのが感じられた。
 授業が始まった。しばらくは何事もなく進み、やがて体慣らしがすんで組み手が始まると、小さな講堂にはたくさんのかけ声が響きわたった。
 型も定かではない技をお互いに掛け合って、それなりに熱中しはじめる生徒達。しかしその群れの中に一組だけ、密かに火花が散りそうなほどの緊張感を持って向かい合う者達がいた。
 亞珠梨と、偽教師毛利だった。
 二人は互いの襟首をつかみ、真正面からそれぞれの瞳を探るようににらみあっていた。先に口火を切ったのは毛利のほうだった。
「鬼はどこだ?」
 亞珠梨は一拍間をおいてから、ゆっくりと答えた。
「何のことですか? 毛利先生」
「とぼけるな。おまえのもとに逃げてきたのはわかっているのだ。素直に奴を渡せばよし。手向かえば、たとえお偉い仙人さまと言えども、ただではすまぬぞ、亞珠梨」
「……物騒ですね。笑えない冗談ですよ、先生」
 そう言った途端、毛利の体から青白い火花がちって、組んだ腕から蛇のように絡みついてきた。鋭い衝撃が全身を駆け抜けた。
「うああっ!」
 亞珠梨は思わず悲鳴をあげた。体から力が抜け、その場にくずれおちそうになる。それを毛利が乱暴に衿をつかんで持ちあげ、息が触れるほど顔を寄せてすごんだ。
「笑えぬ戯言をぬかしているのはおまえのほうだ。俺は気が短いのだ。麗雅王大仙の末裔だかなんだか知らぬが、所詮はただのガキではないか。俺様に刃向かうとどうなるか、その身をもって教えてやるわ」
 毛利は乱暴に亞珠梨を放り出すと、ぱちりと指を鳴らした。と、それまで無関心に組み合っていたまわりの生徒達が、一斉にくるりと振り向き、亞珠梨達を取り囲んだ。
 皆無表情で、生気のない顔をしている。何かにとりつかれたかのように狂気をおびた瞳で、一心に亞珠梨をにらみつけていた。
 淀んだ静寂の中に冷酷な毛利の声が響いた。
「これまでのようなこけ脅しとは訳が違うぞ。ここにいる者は全員俺の忠実な人形だ。俺が命ずれば殺しも厭わぬ。だがおまえには手出しはできまい。皆おまえのオトモダチだからな。さあて、どう料理してほしい?」
 くすくすといやらしいしのび笑いをしながら、毛利はすっと一歩後ずさった。
 それを合図に、後ろにいた生徒達が背後から亞珠梨をはがい締めにし、身動きできぬように押さえつけた。すかさず他の者が数人、まさしく人形のごとく、顔色ひとつ変えずに淡々と腹めがけて硬い拳で殴りつけてきた。
 あっさりと意識を奪う顎や頭への攻撃とは違い、腹への攻撃は地獄の苦しみを生む。その苦痛はうめき声すら許さない。亞珠梨は声もなく身悶えし、ただ殴られる度に喉の奥から空気が漏れるような、ひしゃげた音を発した。
血の気が失せ、気が遠くなるのを、また殴打によって引き戻される。胃の腑が傷ついたか、赤い血が食道をかけ登り、口から飛び散った。
 瑠叉那が身の内で狂ったように暴れていた。
(亞珠梨、亞珠梨仙者! なぜやり返さないんだ? 抵抗しろ、亞珠梨仙者!)
 だが亞珠梨は何も答えなかった。
(馬鹿野郎、殺されるぞ! なら俺を出せ! 俺が片をつけてやる!)
(騒ぐな、瑠叉那皇子……)
(亞珠梨仙者!)
「どうだ? 喋る気になったかね?」
 毛利がにやにやと笑いながら寄ってきた。勝ち誇ったような目で見下し、荒々しく顎をつかんで持ち上げる。その手から邪悪な気が流れ伝わってきた。
「さあ、言え。瑠叉那皇子はどこにいる? それともまだ痛い目にあいたいのか?」
 つかんだ手にぐっと力を込めた。亞珠梨の細い顎が砕けてしまいそうなほど激しく握りしめ、ねじ曲げる。骨がきしきしと悲鳴をあげた。
 亞珠梨は胸の奥で、声にならぬ叫びを発した。それを聞き、瑠叉那の怒りが爆発した。
(毛利ぃぃっ、この野郎ぉぉっ!)
 その瞬間、毛利はぴりっと電気に触れたような衝撃を感じ、思わず手を離した。だがすぐさま、にやりと満足げな笑みをたたえた。
「ははあ、これは俺もうかつであったわ。なるほど、包宝珠の術か。ーーしかし見事なものだな。完璧なまでに気を隠している。並の術者ではこうはいかん。……ふむ、今の今まで信じちゃいなかったが、大仙の末裔というのもあながち嘘ではないのやもしれんな」
 毛利はわずかだが警戒の色を見せ、鋭くにらんだ。そして冷たい瞳にいっそう冷酷な光をぎらつかせ、情け容赦なく言い放った。
「居所さえわかれば、もう手加減はいらん。あとはさっさとおまえを消して、瑠叉那を引っ張り出すだけだ」
 毛利は右の掌を唇に寄せ、ぶつぶつと小さく呪文を唱えた。長い言葉を終えて手を離すと、そこには死を意味する魔道文字が浮きでていた。その手を亞珠梨に向け、彼は氷のように笑った。
「ガキのおもり、ご苦労だったな。亞珠梨仙者どのよ」
「……おまえに僕は殺せない」
「残念だったな。魔道士の作り出す死の烙印に勝てる人間など、いないんだ。たとえ仙者でもな」
 すっと手が伸びて、亞珠梨の額を打つ。白い額に毛利の手に浮き出ていた魔道文字が押された。その瞬間、魔道文字からすさまじい激しさで真っ赤な光がほとばしり、亞珠梨の全身を包み込んだ。それはまことに邪悪な輝きであった。
「うああああぁぁっっ!」
 目玉の飛び出るような衝撃が襲う。
 血という血が熱湯のようにふつふつと煮えたぎり、それが全身を逆流して駆けめぐる。手と言わず、足と言わず、脳髄の中までもそれはめぐって、体中を具連の炎で熱く焼きつくした。
 マグマが身の内でたぎるような感覚である。肉も内臓も、骨までもを焼き、溶かし、どろどろと流れ、すべてを飲み込む苦しさ。
 瑠叉那が亞珠梨の苦痛にシンクロし、壮絶な悲鳴をあげて、のたうちまわっていた。だが亞珠梨には、それをどうこうしてやる余裕など、あるはずもなかった。
 長い長い拷問の末に、赤い光がやがて薄れ、消えた。同時に亞珠梨はがっくりと首を垂れた。
 男子生徒達が押さえていなければ、その体は地面にだらりと這いつくばっていたことだろう。
 毛利はそれを待ちかねたように、寄って行った。あとは肉体を消して瑠叉那を檻から引きずり出せばそれで終わりだ。簡単な仕事だ。
 だが垂れたこうべの髪をつかみ、ぐいと引っぱりあげて、その手が止まった。
 毛利の全身が硬直した。上に向けた亞珠梨の、死んだはずの少年の瞳が、大きく見開かれて彼をみつめていたのだ。
 黒い瞳は濡れて美しく、冷ややかに、そして紛れもなく死者ではない、生の輝きを秘めて彼を見ていた。
 毛利はその目に釘づけられたように、ぴくりとも身動きできずにいた。彼の頭の中には、そんな筈はないのだという激しい葛藤が渦巻いていた。
 およそこの世に肉体を持つものならば、死の烙印を額におされて生きていられる訳がないのだ。たとえ仙人といえども、いや自分だって、抗うことなどかなわない。なのに何故その技が、この少年には効かないのか。何故生きているのか……。
 やがてぞっとするほど青ざめた亞珠梨の唇が、ゆっくりと動いた。
「だから……言っただろ? おまえに僕は殺せないのだと……」
「あ……、う、うわ、うわ……」
 毛利はパニックになって、言葉にならぬ声を発しながら、慌てて手を離した。そしてぶざまに半ば腰を抜かした格好で、あたふたと後ずさった。
「な、な、何で死なない? お、おま……」
 亞珠梨は毛利の動揺のせいで力の緩んだ生徒達の手から、後ろ手につかまれた腕を抜くと、ゆらりと揺らめきながらも自力で立った。流れでた唇の血を拭う。それはかろうじて生きているといった悲惨な状況だった。
 ふらつきつつも、かすれた声で冷たく言い放った。
「もうわかっただろう? 僕に何をしても無駄なんだ。あきらめろ」
「馬鹿な……」
「これ以上やれば、おまえは墓穴を掘ることになる。自分の命が惜しかったら、さっさと帰れ。異次元の向こうへ」
 もう少し力が残っていたなら、恐怖にかられた毛利に何がしかの術を見せつけ、一気に威圧して追い払うことが出来たかもしれない。あるいは、何とかしてその場から逃走することも可能だったろう。
 しかし亞珠梨のダメージは大きかった。立っているのが精いっぱい、いや、それもままならず、彼はふらりとよろめいた。その様を見て反撃の余地を知った毛利は、すかさず叫んだ。
「こいつを絞め殺せ!」 
 彼が自らの力を使わなかったのは恐怖の故だったが、それは思わぬ効を奏した。
 突然後ろから誰かの手が伸びてきて、亞珠梨の首を絞めあげた。あまりに急なことで逃げる暇もなかった。
(く、苦し……、くそ)
 亞珠梨は少しでも隙間をつくろうと、腕と喉の間に手をこじいれた。腕をはぎ取ろうと懸命にもがく。ほんの少し離れ、わずかだが首が動くようになって、無意識に後ろの人物に目をやった。
 亞珠梨は愕然とした。それは、高志だった。
 他の生徒達と同様、毛利の操り人形と化した高志は、とろんとした目で無感情に亞珠梨を見ていた。そこに彼の意識はなかった。
 だが亞珠梨にとってはそれは思いもかけぬ衝撃だった。動揺は彼の抵抗する気力を一時失わせた。途端に、はずれかけていた腕にぐっと力が戻り、それはまさしく人を殺すに的確なる場所にはまった。
「ぐぐぅぅ……」
 喉の奥からくぐもった音が漏れた。がっちりと絡まった高志の腕は、容赦なくきりきりと絞めあげてきた。運動部で鍛え上げた彼の手は、息が詰まるというよりもっと激しく、骨をへし折られてしまいそうな程の力があった。おまけに人としての意識がないだけに、何のためらいも躊躇もない。ぐいぐいと力の限りに絞めてくる。
 亞珠梨はあらん限りの抵抗を試みたが、先ほどの衝撃のダメージが強く残っており、とても太刀打ちできるものではなかった。また相手が高志だったことも災いした。どうしても意識を攻撃に転換することができないのだ。
 頚動脈を止められ、酸欠になった脳髄がカアッと熱くなってくる。力がどんどん失われていく。亞珠梨は薄れる意識の奥から、必死に叫んだ。
(やめろ! やめろ、やめろ、高志! 僕を殺すな! やめてくれ!)
 だがその声は届かなかった。
(やめてくれ……。それ……以上、それ以上やったら……道、が、……道が開く。高……志!)
ぐきっと不気味な音がした。
 亞珠梨の目がかっと見開かれ、全身から急速に力が抜け、だらりと四肢が垂れ下がった。筋肉が瞬時に緩んだ。亞珠梨の異様な変化を感じとった瑠叉那が絶叫した。
(亞珠梨仙者!)
 その声と、力の爆発は同時であった。
 ゴゴゴゴウウウッーー!
 すさまじい風が亞珠梨を中心にわきあがった。
 高志と、そして近くにいた生徒達がつむじ風に飛ばされた紙きれのように、ひらひらと吹き飛ばされた。
 バリバリバリーーッ、グワシャーーン! 
 爆発したかのような激しい騒音とともに、講堂中の窓ガラスがいっせいに砕け散った。
 粉々になったガラスの破片が、風の渦に巻き込まれ、猛烈な破壊力を持って吹き荒れる竜巻となる。その無数のやいばを抱いた渦は、まるで意志を秘めた動物のように、真っ先に高志めがけて進み、その体をぐるりと包み込んだ。
「ぎゃぁぁあっ!」
 全身をガラスに引き裂かれ、高志が壮絶な悲鳴をあげた。そばにいた生徒達も巻き添えを食らって、ガラスのやいばの餌食になる。
 ほとばしる血。破れた衣服の切れ端。
 そんなものをも巻き込んで、渦は講堂の中をぐるぐるとめぐった。
 講堂は血の海とかした。生徒達がばたばたと倒れていく。その中で、一人だけ、小さな半円球の光のドームの中で、震えながらその様子を凝視する男がいた。
 毛利だった。
 彼はとっさにこしらえた結界で、かろうじてそのガラスの竜巻から身を守った。だがそこから逃げ出す勇気はなかった。情けなくおびえ、ただ見守っていた。
 彼にはその状況はなにがなんだかわからなかった。だが尋常ではない気が渦巻いているのを感じる。それは人間が作り出すようなものではない。仙人だとか魔道士だとか、そんな自分の知っている世界のものではない。もっとおそるべき、人知を越えたもの。とてつもないもの。
 そして、彼はごうごうと渦巻く嵐の中に、一人の姿を見つけた。
 亞珠梨である。
「はーっ、はーっ、はーっ」
 彼は荒く息を吐きながら、風の中で立っていた。漆黒の髪は乱れて逆立ち、苦痛の汗に全身を濡らし、口の端から血を流しながら、鬼気迫る姿で立っていた。
 だが肉体はぼうっと霞み、妙に影が薄かった。体が透き通っているかのようにさえ見える。
 毛利はその後ろに、なにか強烈な思念の存在を感じた。
 それこそがこのすさまじいまでの気を発しているものだ。そしてそれは、殺意というよりは完全なまでの保護という意志で、亞珠梨を傷つけようとするもの一切を排除しようとしていた。
「く、くくぅ、くそ……!」
 毛利は絶望的なまでの身の危険を感じ、それでも必死に抵抗しようと、魔道呪を唱えた。
「魔道砲・波動烈火!」
 だがそれは皮肉にも逆の結果を生むことになった。いっそいっさいの攻撃意欲をなくしたならば、その力はそのまま彼を見のがしたかもしれない。だが力は彼を危険とみなし、彼の攻撃に力でもって対抗した。
 グワアアアアァァッーー!
 激しい炎の塊が毛利の合わせた手から打ち出された。同時に亞珠梨を中心に渦巻いていた風が、その炎に向かって猛然と踊りかかった。
 風は炎の勢いに勝り、強く激しく、大蛇が小さな生き物をその身で巻き殺すように、すさまじい力でその火を包み込んだ。
 ぶおおぉっと熱風が吹き出し、炎は渦の中で身動きならず包まれたまま爆発的に燃えあがった。放出せんとするエネルギーが風の壁に阻まれ逆流する。行き場所を奪われたエネルギーは内部に引き戻され、いっそう強く燃え立った。
 そして渦はその炎の球を抱いたまま、矢のような鋭さで毛利に向かって飛んだ。
「う……あ!」
 一瞬の隙さえなかった。風は結界を打ち壊し、炎は毛利を熱く抱いた。断末魔の悲鳴が講堂中に響きわたった。
「ぎゃあああぁっ!」
 毛利の肉体は骨のすべてまでもを焼き尽くされ、文字どおり塵と化した。渦は容赦なくその灰までも吹き飛ばし、後にいっさいの痕跡を残さなかった。そして過ぎ去った嵐のごとく消え去っていった。
 唐突に静寂が訪れた。
 残されたのは血とガラスの海の中に横たわる傷ついた生徒達だけだった。
 亞珠梨はその地獄絵図の中に、一人呆然と立ち尽くしていた。耳の奥に現実の音が少しづつ響いてくる。ばたばたと渡り廊下を駆けてくる騒々しい足音。異変を聞きつけて集まってくる人々の群れ。
 だがもはや亞珠梨には、何も考えることはできなかった。ただ見つめているだけだった。己の成した恐ろしい仕業の痕を。

 
   8  夢の終焉、そして始まり


 高志は夢を見ていた。

 ーーそれは遠い遠い昔の記憶だった。
 時刻は夕暮れ、オレンジ色の太陽が地平の下に沈み、世界から急速に光が失われつつある時刻。
 小さな高志は一人で小走りに家路を急いでいた。母との約束の帰宅時間はとうにすぎている。きっとお説教が待っているに違いない。
 それでも母は優しく、家は暖かく、夕げは柔らかな湯気をたてながら彼を迎え入れる。高志は世界のすべてに愛されて生きていた。
 そこは新興住宅地で、家家は新しかったが、まだまだ空き地がそこら中に点在し、何本か通りを外れると、広い荒れ地があったり小山や森が残っているような、そんな所だった。
 高志は腕白な子供で、まだ六歳だったが、平気で遠い友達の家にも遊びにいった。近くに年頃の子供がいなかったので、誰かと遊ぶには遠出しなければならなかったのだ。
 その日も、そんな帰りの途中だった。いつもの慣れた道とは違う古い通り。途中に小山があり、その上には古びた神社がある。その下を通りかかった時、高志は境内の片隅に不思議な白い影を見つけた。
子供の恐いもの知らずの純粋さで、彼はその影の正体を見きわめようと神社の境内へと入っていった。
 影はぼうっと白く霞み、実体のない幽霊のような存在だった。だが悪意とか邪悪な気はいっさいなく、ただそれは子供心にも感じとれるほど、寂しげに、悲しげに揺れていた。
 高志の優しい心はその影の発する孤独に同調し、同情した。彼は屈託なく話しかけた。
「どうしたの?」
 影は答えるようにゆらゆらと揺れた。
「……寂しいの? 独りぼっちなの? どうして?」
 ゆらゆらゆら。
「友達いないのか?」
 ーーヒトリ
 そんな心が伝わってきたように感じた。
「俺さ、今ヤッチの家に行ってきたんだ。ヤッチってさ、幼稚園の友達なんだ。俺、二丁目の愛心幼稚園の、キリン組なんだ」
 高志は無邪気に、いろいろと自分のことを話して聞かせた。影は静かに、だが熱心に耳を傾けていた。
 しばらく高志は影を相手にお喋りをしていたが、ふと帰る途中であることを思い出して、慌てて立ち上がった。
「いっけね。お母さんに怒られる。帰んなきゃ」
 影はいっそう寂しそうに揺れた。高志は小さな心に強い痛みを感じた。この影をここに置いて立ち去ることに深い呵責を感じた。
「……きみも一緒に行く?」
 影は否定するようにその身を揺らした。
「でも独りぼっちなんだろ? 俺友達になってやるよ」
 影は一瞬その言葉に戸惑った様子を見せ、そしておそるおそる話しかけてきた。
 トモダチ? ワタシノ?ーー
「うん。俺んちに来いよ。こっそり俺の部屋にいればわかんないよ。俺さ、近くに遊ぶ友達いなくってつまんなかったんだ。一緒に暮らせば、いつでも遊べるじゃん。なあ、俺んち行こう」
 ワタシノユメヲミル? イッショニ?ーー
「夢? 夢って、寝てみるあれ?」
 その時、影はすうっと高志の中に入り込んできた。そしてしばしなにかを探り、そしてまた離れた。影は静かに大人の言葉で、子供の高志にはよく理解できぬ言葉を語った。
 ワタシノユメミ、ワタシノユメヲ、ミヨ。
 オマエノノゾムトオリ、トモトシテ、ワタシヲユメミヨ。ワタシヲノゾメ、ワタシヲアイセ。
 イツカメザメル、ソノトキマデーー
 それっきり影がどうしたのか、高志は覚えていない。いや、その記憶自体、もうとうに深い心の奥底に沈み、すっかり忘れていた。
 だがそれからまもなく、隣に新しい家が建ち、その家族の中に一人の子供がいた。同い年の、男の子。ずっとずっと一緒に遊べる男の子。大切な親友の……珠梨が。

 高志は夢うつつに思った。
(そ……か。だからあいつ……、あいつ、男なんだなぁ。俺が……そう望んだんだもんな。一緒に遊べる友達だったんだ……)
 すうっと一筋、涙がこぼれた。


 夕暮れに赤く染まった病室は、安らかな寝息につつまれ、静かだった。
 ドアの向こうから、わずかながら人の声が聞こえてくる。なにかを言い争う声だ。クラスメート達と並んで眠っていた亞珠梨は、その声に目を覚ました。
 校長が怒り狂う父兄らにむかって、必死になって言い訳しているのが聞こえた。たぶん彼自身も訳のわからぬ事態に戸惑っているに違いない。弁明が意味をなしておらず、ただ謝罪の言葉を繰り返すだけだった。
 だが無理もない。あの場で起こったことを説明できる者など、誰一人いないだろう。とうの生徒達ですら、何も覚えてはいないだろうから。
 亞珠梨は深くため息をついた。全身にぐったりと疲労感が残っていた。もっとも、どうせ日の明るいうちはここから抜け出すこともできない。夜が訪れるまで、もう少し眠って休息する時間はある。
 再び目を閉じた亞珠梨に、瑠叉那がおずおずと話しかけてきた。
(……亞珠梨仙者?)
(ああ……)
(大……丈夫、か?)
(なんとかね。ダメージは残ってるが)
 瑠叉那は消え入りそうな様子で謝罪した。
(ごめん……、すまない。俺のせいで。く、苦しかったろう? ごめん)
 亞珠梨は自嘲するように言った。
(苦痛はきみも同様だろう。あの時僕とシンクロしてただろ? きみをシールドする余裕がなかった。僕の方こそ謝罪する)
(もう……、もういいよ。俺やっぱり一人でどうにかする。江河に帰るよ)
(またくだらない言い合いをする気か?)
(違うよ。もうこれ以上、あんた達を巻き込みたくない。死ぬところだったじゃないか。あんたも、高志も。俺、もう誰かが死ぬところなんて見たくない)
 亞珠梨は冷ややかに笑った。
(心配はいらないさ。僕は死なない。それに……高志もね。もうあいつを巻き込むことはない)
(でも、あの使者も死んだんだし、あとは俺一人でも頑張れるよ。江河に帰してさえくれれば……。そうだ、地上神に力を借りて)
(獅伯はきみが動かせる男じゃない。僕の命令以外はきかない)
(だけど)
(少し寝かせてくれ、瑠叉那皇子。夜になったら動く。それまで快復しておきたいんだ)
 亞珠梨はそれっきり何も言わず、やがて眠ってしまった。瑠叉那はしかたなく亞珠梨の中でひとり時を過ごした。
 ひどく悲しかった。瑠叉那は今、毛利に死の烙印を押され、亞珠梨の苦痛に同調したあの時のように、彼が感じている悲しみに同調していた。
 それはクールでポーカーフェイスな現実の亞珠梨とは違い、絶望的なまでの孤独と痛いほどの後悔に満ちていた。
(心が泣いてる……。亞珠梨仙者の心が泣いてる。こんな深い悲しみを、俺は知らない。どうしてこんなにも悲しくて、生きてゆけるのだろう? 何故? 何が悲しいんだ、亞珠梨仙者)
 それは、あの時の彼と関係があるのだろうか、と瑠叉那は思った。
 あの時。高志の手が彼の首を絞めあげた時、瑠叉那は亞珠梨の中にいて、確かに彼の首が折れたのを感じた。彼の、死を感じた。
 だがその一瞬後にすさまじいエネルギーが流れ込んで来て、彼を救い、守り、彼を攻撃するものを排したのだ。
 あれは彼自身の技だったのだろうか。だとすれば、亞珠梨はとてつもない力を持つ仙者といえよう。しかし、己の死をも乗り越えられる者がいるのだろうか。仙者と言えども所詮は人、この世に命あってこその存在なのに。
 瑠叉那は亞珠梨の悲しみの中にあって、深い罪悪感を感じた。
 自分がこんな事件に巻き込まなければ、彼をこれ程までに苦しめはしなかったのではないかと思った。そう思ってしまうほど、亞珠梨の心の傷は深かった。
 その時、ふいに意識が伝わってきた。
(きみのせいではない、瑠叉那。きみが悲しむ必要はないんだ)
(亞珠梨仙者……)
 そして唐突に悲しみの感情から解放される。亞珠梨が瑠叉那の心を切り放し、シールドしたのだ。
 瑠叉那はそれを感じ、新たな悲しみを覚えた。それは彼自身のものだった。受け入れてもらえなかった悲しさと、すべてを拒絶しようとする亞珠梨の、その孤独な心を哀れんで。


 病室は静かだった。
 亞珠梨は静かに起きあがると、ベッド下のケースに誰かが用意した洋服に着替え、部屋を抜け出した。
 誰もが眠りについている深夜、非常灯のわずかな明かりに導かれ、彼は廊下を歩いていった。向かった先は、ある個室だった。扉の脇のプレートに高志の名が書かれている。そして面会謝絶の冷たい札も。
 亞珠梨はそっとドアをあけ、中を見渡した。小さな部屋にはひとつきりのベッドと、わずかな家具と、そして体中に白い包帯を巻いて横たわる高志の姿があった。
 亞珠梨は高志のそばに寄ると、羽が触れるように優しく額に手をあてた。その手がぼうっと白く輝く。しばらくして、微かな笑みを浮かべ、ささやいた。
「明日には、だいぶ良くなるよ。きみは丈夫な奴だ、高志」
 その時、声に目覚めたのか、高志がうっすらと目をあけた。力ない声で弱々しく呟く。
「……珠梨?」
「ああ」
「なんだ、おまえ、元気、そうだな」
「ああ、ぴんぴんしてるよ」
「……よかった。俺、なんか、おまえに、ひどいこと、したよな。よく、覚えてないけど」
「大丈夫、なんでもないよ。気にするな」
 高志は包帯につつまれた手をさしだした。亞珠梨はその手を受けとめ、そっと両手で包んだ。
「な……あ、珠梨」
「なに?」
「俺、女の子って、望めばよかったかなぁって、ちょっと思ったぜ……」
「何の話だ?」
「おまえ、女なら、今ごろ俺達、恋人同志、だよな。おまえ美人だし、惜しかったな。へへ」
 高志は包帯の間からわずかにのぞいた唇をあげて、照れくさそうに笑った。亞珠梨もにっこりと笑った。
「男の友達も楽しかったよ」
「また、遊ぼうな、一緒に。……ずっとな」
 亞珠梨の瞳から透き通った滴がこぼれた。たったひとつぶだけ。しかしそれがすべてを物語る。
 亞珠梨は静かに呟いた。
「おやすみ、高志。夢は、明日目覚めれば終わるよ。最後に少しだけ悪夢が混ざってしまったけど。最後の一夜をぐっすりとお眠り。ーーさよなら、夢見」
 その言葉に促されるように、高志は再び目を閉じ、眠りについた。その様子を見守ってから、亞珠梨は静かにそばを離れ、病室を後にした。
 夜の街を歩く。まるで精霊が空をすべるように速く。ひそやかに、流れるように。
 一刻も早く病院から、高志のそばから離れようとするかのごとく、彼は何も語らず歩いた。
 瑠叉那はおずおずと尋ねかけた。
(どこに行くんだ、亞珠梨仙者?)
(学校だ。体育館に行く。獅伯が来る)
 答えはそれだけだった。ほかには何の言葉もない。先ほど流した涙の意味も、心に溢れている悲しみの訳も、なにも語ろうとはしなかった。
 そして瑠叉那には、とても自分から聞くだけの勇気はなかった。
 ほどなく学校に到着した。そこは昼間の事件がまるで嘘のように、穏やかな眠りにつき沈黙していた。闇がすべてを覆い隠し、しとやかな夜のベールで包んでいる。
 体育館に入ると、亞珠梨は瑠叉那を解放した。そして三千世界に通るような透き通った声で叫んだ。
「獅伯!」
 ズザザアァッーー!
 彼の言葉に呼応するがごとく、光の柱が立ち、すぐに地上神が現れた。呼ばれるのを待ちかねていたかのようだった。
「見参」
 亞珠梨は寸暇を惜しんで尋ねた。
「不敬の事実はつかんだか?」
「未だあらず」
「何故? 地上の出来事、おまえがわからぬ筈はあるまい」
「巧妙にシールドされております。何者か、魔の力を持つ者がこの度のいっさいの事実を隠蔽しているものと思われます」
「だが毛利は、事件に関与していた魔道士は死んだぞ」
「いまだ誰かが存在し、その力を行使しているものと」
 亞珠梨と瑠叉那は顔を見合わせた。天の使者と名乗って部族を惑わせた男、毛利は死んだ。己の放った業火に焼かれ、骨まで消しとんでしまった。
 しかし邪な目的を遂行しようとする者は、彼一人ではなかったのだ。毛利同様、強い魔の力を持つ者、いや、もしかしたらそれ以上の何者かが、いまだ裏に潜んでいる。そしてその者は、きっとまた瑠叉那を追い、殺害せんと襲ってくるに違いない。まだ問題はなに一つ解決してはいなかったのだ。
「やはりまだきみの手には負えないようだな、瑠叉那皇子」
 亞珠梨は皮肉な微笑みを浮かべた。瑠叉那は苦々しげに唇を噛み、無言のままうつむいた。
 獅伯が慇懃に口をはさんだ。
「いかがいたしましょう、亞珠梨どの?」 
 亞珠梨はきっぱりと答えた。
「江河に行く。僕達を運んでくれ」
「江河へ? 帰るのか?」
 瑠叉那が叫んだ。
「そうだ。江河で、九龍皇子と春蘭姫に会って直接話を聞く。いったい調印の場で何があったのか」
「でも、兄上は死んだし、姉者は行方知れずだ。どうやって?」
「冥府の府君は、九龍の魂がまだ地上にあるといっている。地上のどこかに呪縛されているのならば、呼び出すことができる。春蘭姫の生死も確認したいし、それに……もうこの世界に僕はいられない。ーー獅伯、現世の記録を抹殺してくれ。夢見は明日目覚める」
 亞珠梨の言葉に獅伯の顔色が一瞬変わり、しかし反論はせず、厳粛にうなずいた。
「かしこまりました。しばしお待ちを」
 途端に、獅伯の体がすうっと地面に吸い込まれ、消えてしまった。瑠叉那は目を丸くして尋ねた。
「ど、どこ行ったんだ? 地上神」
「獅伯は、この現代の倭の世界から僕の、東条珠梨の記憶と記録のいっさいを消しにいった。僕はもうこの世界には戻らないから」
 亞珠梨の思わぬ返答に、瑠叉那は驚いて問い返した。
「戻らない? なんで?」
「僕はここにはいられない。夢見の、高志の夢を終わらせた」
 瑠叉那は訳がわからないという風に眉をひそめた。
「どう……いうことなんだ、それ? 夢って……なんだ?」
「僕は、この世界では亞珠梨ではなく、東条珠梨という。十七歳の高校生で、高志の隣の家に住んでいて、彼の幼なじみの男だ」
 瑠叉那は知っていると言うようにこくんとうなずいた。
「だが東条珠梨という人間は、実在してはいないんだ。高志の家の隣に家はない。この学校にそんな生徒は存在しない。この世界の僕は、高志が見ていた夢だ。僕が彼を夢見と定め、彼に僕の夢を見させてきた。僕は彼の夢に創造されて存在していた。だがこれ以上ここにいると、彼をまた巻き添えにする。……今回は何とか死なずに助かったが、次回も助かるという保証はない。だから夢を終わらせた。明日の朝、高志が目覚めたとき、彼の中からいっさいの僕の記憶は消える。それとともに、この世界から東条珠梨はいなくなるんだ」
「いなく……なるって……、でもあんたは確かにここいる。それは高志だけじゃなく、他の奴らも知っていることだろう?」
「高志以外の人間の記憶、並びに物質的な記録は、獅伯が今消している」
「でも……、でもそんな……。か、帰ってくればいいじゃないか? 事件が終わったら、またここへ」
「一度目覚めたなら、同じ夢を二度見ることはできない。だからもう終わりだ」
 亞珠梨は平然と語った。その口調にも態度にも、なんの動揺も未練も感じられなかった。
 だが瑠叉那は知っていた。彼の内なる苦しみを。人知れず胸に秘めた、高志に対する何よりも深い愛情を。
 瑠叉那は耐えられないやりきれなさを感じ、怒りすらおぼえた。何故この男は、この仙人は、そこまで自分を追い詰めるのか。そしてなによりも、どうしてそれを平然と言ってのけるのか。あんなに孤独に喘いでいたのに。
「どうして……そんな、そんな平気な顔してるんだ、亞珠梨仙者……? もうあいつに会えないのに……、あいつ、あんたのこと忘れちゃうのに! 平気なわけがない! あんたはそんなにも悲しいのに!」
 瑠叉那は泣きながら叫んだ。まるで自分の悲しみを嘆くように、大きな瞳から大粒の涙をこぼして。亞珠梨はそんな彼の態度に戸惑い、困惑した。
「どうして……きみが泣く? 瑠叉那皇子」
「だって……。俺のせいで、俺があんたをまきこまなきゃ、こんなことにはならなかった。あいつと別れなくてもすんだのに……」
「夢はいずれ覚めるものだ」
「だけど……。ごめん、俺のせいで……」
 瑠叉那は拳を震わせ、ぐっと唇を噛んだ。
 亞珠梨は困惑した。今まで、こんな風に自分のために泣いてくれた者はいなかった。これ程までに深く、自分の悲しみと同調した者もいなかった。瑠叉那はまだ夢見と定められた者ではないのに、彼に何も望んではいないのにだ。
 かける言葉が浮かんでこない。口を開けば冷たい言葉ばかりが生まれてきそうで、彼を傷つけてしまいそうだった。
 そこへ獅伯が戻ってきた。地上神は二人の様子を見てちょっと訝しげな顔をしたが、不遠慮に尋ねてくるようなことはしなかった。無言で脇に控えたまま、ただじっと命令がくだされるのを待っていた。
 亞珠梨は瑠叉那が落ちつくのを待って、静かに促した。
「行こう。江河へ。きみの国へ」
 亞珠梨がそう言うが早いか、控えていた獅伯は瞬時にして、真っ黒なたてがみを持ったすばらしく大きな獅子に姿を変えた。そして広い体育館に鋭い咆哮を轟かせた。
 その様に、泣いていた瑠叉那も思わず目をとめ、泣きやんだ。亞珠梨が肩に手を置き、乗るように勧める。瑠叉那はその獅子が獅伯とわかっていながらも、おそるおそるまたがった。
 亞珠梨は自分も乗ろうとし、ふと思いだしたように言った。
「瑠叉那皇子、きみの世界に僕が存在するために、今度はきみに夢を見てもらわなければならない。今からきみが夢見だ。きみは僕に何を望む?」
「な、何って?」
「僕は夢見の望むものになれる。男でも、女でも、若者にも、老いた者にもーーきみを守るためには、屈強な戦士がいいかもしれない。それとも?」
 瑠叉那はきょとんとした目をし、首をかしげた。
「あんたはあんただろ? 亞珠梨じゃないか。他に何があるんだ?」
 今度は亞珠梨がきょとんとした。やがて、くすくすと笑い出した。
「はは、夢見に何があると問われたのは初めてだな。もっとも、夢見に夢の話をしたのも、きみが初めてだけど。ははは。でも、きみは面白い奴だ。はは。次回からはメニューでも用意しておくとするよ」
 彼はおかしそうに笑った。それは亞珠梨が瑠叉那に見せた、初めての屈託のない笑顔だった。
 瑠叉那はその優しい笑顔に心ひかれた。最初は冷たくて陰険でいやな奴だと思っていたが、彼の心の寂しさを知り、そしてその笑みを見て、自分がだんだんこの仙人を好きになっていることに気づいた。
 二人が身を寄せあってしっかりと獅子の背にまたがると、獅伯はもう一度高く吠え、そして光の柱へひらりと軽く身を踊らせて飛び込んだ。
 柱はごうごうと音をたてて立ち登り、三人を軽々と飲み込んだ。そしてやがて静かに消えていった。
 あとには何も残ってはいなかった。
 異世界から来た鬼も、地上を見守る神も、すべて消えた。夜が明ければ消えてしまう、一人の少年の記憶とともに。
 夢見が愛おしんだ、大切な幼なじみの記憶とともに。
    

  
  
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