亞珠梨 −夢幻奇譚
第一部 倭編 −4−

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6 地上神召喚


  夜の学校はひっそりと静まり返っていた。昼間のにぎやかさは闇に消え、水を張ったような静寂が支配している。
 亞珠梨と高志、そして瑠叉那は、グランドから体育館へと続く入り口の前に立っていた。
 扉には鍵がかかっていたが、亞珠梨が手をかざすとガチャリと重い金属音がして外れた。
三人は連なって中へと入った。闇に包まれたがらんとした空間は、三人の足音を不気味に響かせる。高志が辺りを見回してつぶやいた。
「暗いな。電気……つける訳にもいかないか」
 亞珠梨は人差し指を上に向けた。その指先に、蛍のような柔らかく暖かい光がぽうっとともる。ふっと軽く息を吹きかけると、まさしく蛍そのものように、指先から離れてふわふわと飛び始めた。
 それが十数個ほど作り出されて、辺りを舞い始めると、それまで暗く不気味な雰囲気を醸し出していた体育館は、一変して幻想的な美しさを見せた。高志は感心したようにその様を見つめ、そして聞いた。
「どうして体育館なんかに来たんだ? 学校はまずいんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。この一角に結界を張ったから気づかれはしないさ。それに、彼を呼び出すにはこういう人目につかない、かつ広い空間がいいんだ」
「彼って?」
「来てから紹介するよ」
 亞珠梨は軽く片目を閉じると、ポケットから不思議な色をした蝋燭のようなものを取り出し、体育館のほぼ中央辺りの床の上に、大きな図形を描き出した。
 直径が二・三メートルほどの円と、その回りにさまざまな文字や図形を描いてゆく。それは外国の文字のようでもあり、またなんのものなのか想像もつかない奇妙な絵であったりした。
高志は離れた場所で黙ってその様子を見守っていた。彼の横では、亞珠梨の体から解き放たれた鬼の子瑠叉那が、やはり同じようにじっと見つめていた。先ほどとは違って文句ひとつ言わず、むっつりと押し黙ったままだ。もっともその表情はいまだ不満たっぷりだったが。
 亞珠梨と瑠叉那を交互に見ながら、高志は今日一日に起きた不可思議な事件のことを思い起こしていた。
 蜘蛛の糸に乗って亞珠梨とバスを脱出してから、二人はこっそりと家に戻り、誰にも見つからないよう亞珠梨の部屋でじっと夜を待っていた。
 その間に、粗方のことを聞いた。死んだ大男の鬼のこと。その一族の悲惨な運命と、独り残された瑠叉那皇子のこと。彼らが、亞珠梨を頼りにこの世界へとやってきたこと。
 だが、亞珠梨自身のことについては、彼はなにも話してはくれなかった。苦々しい顔をして口をつぐんだままだった。
 瑠叉那皇子が彼の代わりに話した。
 遥か昔、麗雅王(れいがおう)という名の大仙人が世に現れ、その仙人があらゆる世界の災いから人々を救った。麗雅王大仙は慈悲深く、強い仙力を持ち、そして千年も生きた。が、いつの頃からか、その行方はようと知れず、人々は仙人は死んだものと思うようになった。
 そしてまたいつの頃からか、麗雅王の末裔と伝えられる亞珠梨の名が、人の世に噂されるようになった。その名を継ぐ者は大仙のごとく強い力を持つと言われ、彼の名もまた長く伝えられていった。
 それは瑠叉那の住む鬼の世界、江河の国にもずっと言い継がれてきた。世に、手に負えぬ災いが起きた時、為すすべのない災厄に見舞われた時、強い願いを込めて大地に祈れ、風に聞け。さすれば必ずや亞珠梨という名の仙者ーー麗雅王大仙の血をひく者が現れ、救ってくれるであろう、と。
 そして彼らは祈ったのだ。身に覚えのない謀反の真相を明かすために、一族を救うために。
(珠梨が……その仙人の末裔だというのか? でも、こいつは昨日までは、本当にただの高校生だったんだぞ。十年間、ごく普通の人間だったんだ。いつだって俺と一緒にいたのに……)
 高志にはいまだに亞珠梨がそのような特別な存在であるとは思えなかった。もっとも、朝から様々な場面でみせられた不思議な技は、とても普通の人間に出来るようなものでなかったことは確かだが。
(……何を隠してるんだ、珠梨? さっきおまえを、ふざけてその仙者の名前で呼んだ時、確かに何かがおきた。俺にも、そしておまえにも……。いったい、なにがあるんだ? いったいおまえには、どんな秘密があるんだ、珠梨? 何故……話してくれないんだ?)
「さて、出来たぞ。二人とも少し後ろに下がってくれ」
 高志の疑念は亞珠梨の言葉に遮られた。高志と瑠叉那は言われるままに、円から離れ、後方へと下がった。亞珠梨はそれを見届けると、床に片膝をつき、図形の一部分に手を触れて、目を閉じ、低くつぶやいた。
「麗雅と、亞珠梨の名において、いまこの来訪陣の扉を開け、異空より我召喚する。ーーいでよ! 地上神、獅伯(しはく)!」
言葉と共に、ゴウウウゥーーッ、と激しい音をたてて、物凄い光の柱がその図の中に立ち昇った。
 真っ白な、目も眩まんばかりの、すさまじいまでの光の量である。後ろで見ていた高志と瑠叉那は、思わず腕をあげて目を覆った。
 柱は描かれた円と同じ太さの巨大なもので、光は大地から発っしていた。その神々しい白い輝きは途切れることなく、勢いよく天に向かって立ち昇っていた。
 亞珠梨は光に触れんばかりの側に立ち、風に髪をふわふわとなびかせながら、しっかと柱を見つめている。やがてその柱の中心に、黒い人影がぼんやりと現れ始めた。
 影はゆっくりとそこからこちらに向かって歩いてきた。徐々にその姿があらわになってくる。それはたくましい体躯をした若い男だった。背は高く、胸板は厚く、がっしりとした広い肩幅に太い腕、大きな手。劉沙のような巨大すぎる鬼、ではなかったが、普通の人間とはどこか違う迫力に満ちた雰囲気を醸し出している。
 男は腰まで届く真っ黒な長い髪に、漆黒の瞳、そして真っ黒な鎧と、黒づくしで身を包んでいた。きりりとした精悍な顔つきと鋭い眼孔は威厳に溢れ、ただ者ではないことを匂わせている。
男はゆっくり亞珠梨の前までやって来ると、すっと膝を折り、厳かにこうべを垂れた。そして低く張りのある声で丁重に言った。
「久しく御拝謁つかまつります、亞珠梨どの」
「ああ、久しぶりだ、獅伯」
「この度は急なお呼びでございますな。この獅伯に何用でございましょうか」
「地上神に聞きたいことがある。真実を確かめたい」 
獅伯と呼ばれた男は、膝をついたまま顔を上げ、亞珠梨を見、そしてその後ろに立つ高志と瑠叉那に目を向けた。しばしの間の後、穏やかに尋ねた。
「察するに、その真実とはそこに控える鬼に関わることとお見受けいたしますが、何故にその者が亞珠梨どののお側におりますのでしょうか? できますれば、お話をお伺いする前にお聞かせいただきたい」
「何故だ?」
「事と次第によっては、その者を捕らえなければなりませぬ故に」
 亞珠梨は眉をひそめた。
「彼が誰か知っているのか、獅伯?」
「赤鬼羅族第五皇子、瑠叉那」
「どうしておまえが彼を捕らえる? 天帝はおまえにまで命をお下しになられたのか?」
「天帝? 何をおっしゃられているのですか、亞珠梨どの? ここ久しく天は何の動きもございませぬ。私は冥府の府君より捜索の依頼を受けておるのです。罪人として」
亞珠梨は振り返って瑠叉那を見た。瑠叉那は慌てて両手を振って、必死の形相で否定した。
「し、知らないよ、俺。なんのことだかわかんない。何もしてないよ、本当だってば」
 確かに、彼の言葉に嘘はなさそうであった。もっとも、どう見ても瑠叉那は策を巡らして人を騙すようなタイプには見えなかった。正義感溢れる子供らしく、卑怯な手など死んでも使わない、といったタイプだ。
 亞珠梨はもう一度獅伯に問いただした。
「彼の罪状はなんだ?」
「死者の魂を地上にとどめ、いたずらに昇天を阻害したため、と聞いております。ちなみに、その死者とはその者の兄、九龍(くりゅう)皇子でございますが」
「兄上をだって? 馬鹿言え! そんな事、俺にできるもんか!」
 瑠叉那はむきになって反論した。獅伯はその礼儀を欠いた態度に憮然として顔を曇らせたが、不問のまま亞珠梨に向けて話を続けた。
「もっとも、冥府ではさほど真剣に追っているわけではございませぬ。御存知かと思いますが、鬼族の国江河は瓦青鬼族に統一され、赤鬼羅に大量の死人がでました。冥府は今その対応におおわらわで、些細な罪にかかわっている余裕はないのですな」
 亞珠梨は地上神の言葉を聞き、しばらく沈黙して何か考え込んでいた。やがて緊張した口調で命じた。
「獅伯、これから話す事は僕とおまえだけの私的なものと思え。冥府の依頼はしばし忘れろ。責任は僕が持つ」
「は」
「獅伯に尋ねる。江河国の戦いにおいて、その子細を聞かせろ」
「赤鬼羅族と瓦青鬼族の、江河国領土を巡る部族間抗争。史歴三千四年、八月をもって、江河国は瓦青鬼族が統一。赤鬼羅族長偕並びに子邑の一族は、逃亡せしめし瑠叉那第五皇子をのぞいて全員死亡。落都」
「その抗争に際して、何らかの不敬罪の訴訟はあったか?」
「ございませぬ」
「天帝よりの使者は?」
「いいえ」
「天は動いていないのか?」
「おりませぬ。天上界は地上への不干渉が原則。訴えの出ぬ限りは何も致しませぬ」
 亞珠梨は瑠叉那を見、冷ややかに言った。
「この話をどう思う、瑠叉那皇子? 天は動かず。使者も送りたもうていない。謀反の訴訟も、その懲罰もない。きみや劉沙に聞いた話とはまるで違うが」
瑠叉那は呆然とした様子で、力なく答えた。
「そんな……。だって、確かに父上のもとに使者が来た。和平を結ぶようにって、勅令の親書を持って来たんだ。それで兄上が調印に赴いて……。それに、瓦青鬼の戦旗には天誅の文字があった。大臣や兵士達は皆その旗を恐れたんだ。天の文字に剣を向ける事は、まさしく謀反と変わらないからって。それでなかなか応戦できなくて、どんどん退却して……。変だよ、そんなの。じゃあ、あの使者はいったい誰なんだよ?」
 泣き出しそうな声で瑠叉那は訴えた。亞珠梨は黙ってその様を見ていたが、獅伯の方に向き直って、厳しい口調で命じた。
「獅伯、この度の江河の戦いには何かの策略がある。探れ」
「は、……しかし、この獅伯、天の命令なくして、地上の者達のいざこざに、むやみに手出しをする訳にはいきませぬが」
「では、天帝に無断で天の使者と名乗る者がいる。また無断に天誅と記された戦旗を挙がった。この二つの不敬罪に対して、真相を確かめろ。それならかまうまい?」
「承知つかまつりました」
 獅伯は物々しく頭を下げると、すっくと立ち上がった。そして一端戻りかけようとして、再び尋ねた。
「もう一つ、お伺いしてよろしいですか、亞珠梨どの」
「なんだ?」
獅伯は鋭い視線を高志に投げかけた。
「そこにいる人間は何者でしょう?」
 亞珠梨は一瞬ためらった後、答えた。
「夢見だ」
 獅伯はその言葉を聞いて、はじめてその顔に驚きの表情を見せた。しげしげと高志を見つめ、それから心配そうな様子で亞珠梨を見た。
「……よろしいのですか?」
「いいんだ」
 亞珠梨は眉をひそめ、顔を反らした。獅伯は何かを気遣うようにじっと彼を見守っていたが、やがて一礼して再び光の柱の中へと戻っていった。その姿が失せると同時に、光もまたすうっと地上に吸い込まれて消えていった。
 残った三人はしばしその場にたたずんでいた。と、瑠叉那が突然地面に手をつき、亞珠梨に向かって土下座した。
「何の真似だ、瑠叉那皇子」
「頼む、力を貸してくれ!」
 瑠叉那は額を大地に触れさせんばかりにして叫んだ。
「俺達ははめられた。だけど、俺にはその無実をはらすだけの力がない。あんたの言った通り、俺独りでは何もできない。でもこのままなんて絶対に嫌だ! 死んでいった父上や兄上や、みんなの無念をはらしたい。仇をうちたい! だから、だから……」
 彼はくっと唇を噛みしめ、絞り出すような声でいった。
「なにとぞ……お願いつかまつります。御力、お貸しくださいませ。亞珠梨仙者どの」
 深々とひれ伏す。亞珠梨は黙ってその姿を見つめた。あの負けん気の強い瑠叉那が、プライド高き鬼族の皇子が、こうして頭を下げ、頼み込んでいる。先程まで居丈高にぞんざいに振る舞っていた彼が、言葉をつくろい、地面に這いつくばってまで嘆願している。それは、どれだけ彼にとって辛い行いであろう。苦い決断であろうか。
(それでも……かまわぬ程に、悔しい……か)
 亞珠梨は深く嘆息した。
「手をあげたまえ、瑠叉那皇子」
 瑠叉那は顔をあげ、すがるような眼差しを向ける。亞珠梨はゆっくりと語った。
「獅伯が真実を調べてくる。明日になれば、全てとはいかないまでも、何がしかがはっきりするだろう。その上で、僕にうてる手ならば、うとう。出来得る限りの助力はする」
「本当に……? 助けてくれるのか? 何の関係もない俺達を?」
「もう知らんぷりする訳にはいかないぐらいまき込まれてしまったよ。それに……」
 亞珠梨は苦笑いを浮かべて高志を見た。
「奴にもきみを助けるよう言いつかったしね。彼に感謝するんだな」
「……礼を言う。一族になりかわって」
 瑠叉那はもう一度深く頭を下げた。しばし沈黙が漂う。亞珠梨は瑠叉那を前に立たせて額に指をあてた。 
「さて、窮屈かも知れないが、もう一度僕の中に戻ってくれ。ここが一番楽にきみを保護していられるんでね」
そう言って再び瑠叉那を自らの中へと取り込んだ。今度は瑠叉那も、出せ出せと胸の奥で大騒ぎすることはなかった。
 代わりに、彼の心が流れ込んでくるのがわかった。敵意の消えた瑠叉那からは深い信頼や感謝の念が伝わってきた。そして彼自身の、呆れるほど純粋で素直な性格も。
 きらきらと輝く瑠璃色の瞳と同様に、綺麗で汚れない心を持つ瑠叉那。少しわがままで、奔放で、気の強い、しかし優しい少年、瑠叉那。きっとこの少年は、全ての世界を愛し、そして全ての世界から愛されてきたのだろう。老齢な父も、兄や姉達も、皆惜しみなくこの少年には愛を与えてきたのだろう。
 その愛は本物。なんの作為もない。自分を取り囲むあらゆる虚偽とはまるで違う、本当の愛……。
亞珠梨は胸が痛んだ。その苦痛に顔が歪むほどに。
「珠梨、どうした? どこか苦しいのか?」
高志が心配そうに顔をのぞき込んだ。亞珠梨は悲しい笑みを返した。
「ああ、苦しい。きみの愛情が苦しい。きみのその優しさが、僕をうちのめす」
「珠梨……」
「でもそれはきみのせいじゃない。きみを夢見と定めた僕のせいだ。きみはただ、僕が望んだ通りに僕を愛しているだけなのだから」
「な……、いったい何の話だ、珠梨?」
高志は問い返した。だが答の代わりに、亞珠梨の熱い抱擁が返ってきた。細い腕を彼のがっしりした肩にまわし、強く抱きしめてくる。高志は戸惑った。十年間共にいた亞珠梨は、どちらかと言えばいつもシニカルな程冷静で、感情を激しく現すほうではなかった。嬉しい時も悲しい時も、端正な面立ちにうっすらと笑みを浮かべるような、そんな男だった。
「珠梨……、どうしたんだよ、おまえ?」
うろたえながらも、泣いている子供をあやすように優しく背を撫でた。亞珠梨はしばしその優しさを甘受した。やがて自分からその胸を押し返すと、静かに微笑んだ。
「帰ろう。いろいろあって疲れただろう?」
「んー、ま、ハードな一日だったよな、確かに。で、明日はどうするんだ? 学校さぼるのか?」
「今日も半日さぼっただろ。二日も続けるとやばいよ」
「でも、あいつが、毛利とかいう奴がいるだろ? まずいんじゃないのか?」
「きみが気にやむことはない。奴が狙ってるのは瑠叉那と僕だけだ。それに……」
 亞珠梨はすっと一歩後ずさり、高志から離れてじっと彼の目を凝視した。
「きみは今ここで、全てを忘れる。瑠叉那のことも、毛利のことも、今日起きたことは全て忘れる。きみはなんにも知らない」
「どういうことだ? おい、おかしな真似はよせよ、珠梨! 俺は何も忘れたりは……!」
 言いかけて、高志は気を失った。その体を受けとめて、亞珠梨は耳もとにそっとささやきかけた。
「おやすみ、高志。良い夢をみてくれ。僕のために……」
 闇がひっそりと二人をつつんだ。

    
  
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