亞珠梨 −夢幻奇譚
4 ひとりぼっちの鬼 |
鬼の少年はしばし身動きもせずに亞珠梨を見つめていたが、やがてゆっくりと半身を起こすと、怪訝そうに辺りを見渡し、ぽつりとつぶやいた。
「……どこだ、ここは?」
自分の見知ったなにかを探すように、不安げな面もちで回りを見渡す。そこが住み慣れた世界ではないということは、すぐに気づいたようだったが、何故今ここに突然放り出されたのかは、わからない様子だった。
少年は、まだ幼かった。十二、三歳といったところだろうか。末の皇子とは聞いていたものの、これ程年端のいかぬ子供であるとは思ってもいなかった亞珠梨は、少々困惑して彼を見た。
(瑠叉那……といったな、確か)
瑠叉那(るしゃな)は女名だ。だがそう名付られた理由がよくわかる。瑠璃色の、仔猫の様にぱっちりとした瞳に、紅い唇、ほっそりとした顎は、まるで少女の様に可愛らしい。長い金色の髪は柔らかく波うち、仔鹿の様にすらりと伸びきった手足にも、まだ無骨な筋肉はさほどついてはいない。
ただ鋭く亞珠梨を見返しているその眼差しには、なよやかな乙女ではない、凛とした少年の快活さが溢れていた。
この年若き皇子に、部族の運命の全てを託さねばならなかった父王の心情は、察するに余りあるものがあった。さぞや無念であったことだろう。
しかも、託す相手はどこにいるともわからぬ、正体も定かでない、ただ噂に伝え継がれてきただけの見も知らぬ人間なのだ。死んでも死にきれぬ思いであったに違いない。
(それほどまでに大切な思いを、何故僕になど残す? この世のすべてを憎み、恨み、否定している僕に、どうして希望を夢見る?)
亞珠梨は苦々しい思いで少年を見つめた。
瑠叉那は不安な感情を押し隠すように、強い口調で尋ねてきた。
「ここはどこだ?」
返事をしない亞珠梨と高志の顔を交互に見比べ、いらいらしげに再度尋ねる。
「おい、ここはどこなんだ? おまえ達は誰だ?」
ふとなにかを思いだしたように、瑠叉那はきょろきょろと辺りを見渡した。
「劉沙……、劉沙はどこだ? 俺は劉沙の腹の中にいれられていたんだ。あいつはどうした? どこにいる?」
「あ……」
高志は思わずつぶやいた。瑠叉那はキッと高志をにらみつけ、居丈高に叫んだ。
「知っているのか、おまえ。劉沙はどこだ。どこにいる? 云え」
高志は困って口をつぐんだ。たった今目の前で死んでいったあの鬼ーー多分誰よりもこの少年に心を残しながら逝ってしまった大男のことを、どう伝えればよいのかわからなかったのだ。
瑠叉那はぐっと身をのりだすと、乱暴に高志の服の襟首をつかみ、ぐいと締めあげた。
「云えと言っているのだ。隠していると、ただではおかんぞ」
「あ……の」
「どうした! 早く云え! この……」
「彼は死んだ」
背後から亞珠梨が答えた。瑠叉那は振り返り、問い返した。
「なんだと?」
「劉沙は死んだ。もういない」
亞珠梨は冷酷なほどにはっきりと言って聞かせた。瑠叉那は一瞬大きく息をのみ、愕然として沈黙した。きりりと結んだ口元が微かに震えている。口を開けば泣き出してしまいそうなのを、必死にこらえているようだ。
「……おまえは?」
「亞珠梨」
「ここは人間界か?」
「そうだ」
「戦は……どうなった? 敗けたのか?」
「劉沙はそう言っていた」
瑠叉那はがっくりと地面に手をついた。きりきりと大地を握り締める。堅い土に尖った爪がつき刺さっていく。少年は大きな瞳を見開いて遠い彼方にある故郷を見つめていた。
やがて掠れ声でささやいた。
「……父上は?」
本当は、誰に聞くまでもなく、瑠叉那はとうにその答を知っていた。彼は今自分がこうして、たった独りで異郷の地にいることがいったいなにを意味するのか、愛しい家族が、仲間がどうなったのか、ちゃんとわかっていた。しかし、それでも口に出して問わずにはいられなかったのだ。
「兄上は、姉上は……、大臣達はどこだ? 乳母やはどこへいった? 都の民は……国はどうなったんだ? みんな、みんな、どこへ行ってしまったんだ? 俺をおいて。俺独り残して!」
悲痛な叫びだった。はからずもたった独り残されてしまった少年の、行き場のない怒りと悲しみに満ちていた。
瑠叉那は突然ガバッと身を起こすと、亞珠梨に飛びかかって喉元を締めあげた。
「おい! おまえ、仙人の末裔とやら。俺を、俺を元の世界へ戻せ! 戻せ、今すぐ!」
がくがくと激しく亞珠梨の体を揺すった。しかし亞珠梨は冷ややかな目で少年を見つめ、冷たくその手を払った。
「だめだ」
「何故だ? おまえなら出来るんだろう? 仙者なんだろう? さっさと術でもなんでも使って、俺を元の江河の国へ、あの世界へ戻せ。俺は帰るんだ!」
「だめだ。劉沙にきみを守ると約束した。不本意だが、しかたがない」
「約束なんかどうだって……!」
「戻ってどうするというのだ? 独りで何が出来る? きみは何もできない。己の身ひとつ守れない。今きみが戻っても、犬死にが待つだけだ。なんの解決にもならない。それは死んだ族長にとっても劉沙にとっても不本意なことだろう。きみの要求は子供のダダだ」
瑠叉那は返す言葉を失った。まさしく真実をつかれ、かっと頭に血が昇るのを感じた。しかしだからといって理性で感情を抑えられるほど彼は大人ではなかった。一層怒りが高まり、感情が爆発する。
「うるさい、うるさい! 黙れ、この野郎! 人間の分際で偉そうな口たたくな! 俺に命令するな! 俺は赤鬼羅族の皇子だぞ! 俺が帰ると言ったら、帰るんだ! おまえは大人しく俺の言う通りにすればいい。これは俺達鬼族の戦だ。おまえら人間には関係ない。人間風情が余計な口をだすな!」
瑠叉那は憤って、感情のままにまくしたてた。そんな暴言ともいえる彼の言葉を亞珠梨は黙って聞いていたが、やがて冷ややかな笑みをうっすらと浮かべた。
「……そうだな。確かに、僕にはなんの関係もないことだ。きみを守る理由も義理もない。きみを帰して、それで終わりだ。僕はなにも知らない。いいだろう、帰してやるよ、今すぐに」
「珠梨!」
それまで横で黙って傍観していた高志が、叱責するように呼んだ。きつい眼差しは、冷酷に少年を突き放そうとしている亞珠梨を諌めている。亞珠梨はしぶしぶと、なおも不満ありげにつぶやいた。
「……劉沙には一応助けられた。しかたがない……」
しかし瑠叉那にはそんな皆の思惑など理解できるはずもなかった。只々彼の心は家族を失った怒りと悲しみに支配されていた。
「なんだよ! 早く戻せって言ってるだろ! できないのか? 仙者だってのは嘘なのか。じゃあ、なんだって俺はこんなところにいるんだよ! おまえが、おまえなら力になってくれるからって父上が……、どうにかして……俺達を……、俺は……みんなと居たかったんだ。なのに……無理矢理……。なんで俺独りだけなんだ? 俺も……一緒に死にたかった。父上、姉上……」
最初勇ましかった言葉はだんだんと掠れ、いつしか涙声にかわっていく。言い分は支離滅裂だったが、それは深い悲しみと絶望に溢れていた。瑠叉那はもうこらえきれずにぽろぽろとこぼれる涙を、それでも頑なに隠そうと、両の手で顔を覆った。そのまま嗚咽を漏らしながら泣き崩れた。
二人はしばらくその様を見つめていたが、やがて高志が遠慮がちに言った。
「……なあ、珠梨。どうにか……ならないのか?」
ちらりと冷たい眼差しを向ける亞珠梨に、高志はおそるおそる提言した。
「あの、よぉ、俺、話の内容はよく……全然わかんないけど、こいつ大変なことにまきこまれて、凄く困ってるんだろう? で、なんとかしてやれるのはおまえだけなんだろう? 助けてやれないのか? ……こいつ可哀相だよ。父親とか、みんな亡くしたんだろ。まだこんなガキなのに」
高志は願う様に呼びかけた。
「なあ、珠梨?」
亞珠梨はじっと高志を見つめ、ぽつりと言った。
「助けてやれ……と、きみは言うのか?」
「あ、ああ……、まあ」
亞珠梨は眉をひそめ、しばしなにかを考えこむように下を向いた。その顔に何故か淋しそうな苦しげな表情が浮かんで消える。やがて苦渋に満ちた声で答えた。
「……それがどういう意味を為すのか、きみは知らない……。でも、きみがそう言うのであれば……」
「意味って、どういうことだ?」
亞珠梨はその問いには答えず、やや間をおいてから言った。
「少し……考える。とりあえず戻ろう、学校に」
「え、が、学校って?」
突然身近な言葉が返ってきたので、高志は面くらった。尋常ではない出来事の連続に巻き込まれていたので、最も日常的なその世界のことをすっかり忘れていたのだ。だが思い出してみれば、すべては学校の渡り廊下から始まったのである。
彼は真っ先に回りを見渡した。大地から現れた手。そこに引きこまれていった自分と、その後を追った亞珠梨。鬼の大男。そして突然空中から現れ出た一人の少年。これだけの異様な事態に、さぞや大騒ぎになっているに違いない。
「え?」
高志は愕然とした。そこは見慣れた場所、あの渡り廊下のある中庭の一角である。しかし目に入ってきたのは、高志が考えていたのとは全然違った光景だった。
そこには誰もいなかった。あの時、突然大地が割れた時、まわりには確かに自分以外にも何人もの生徒達がいた筈だった。なのに今は誰もいない。
いや、それだけではない。あの騒ぎを聞きつけて、他の生徒や教師達が集まってきていてもいい筈だ。それが普通の筈だ。だがこの静けさは何なのか。
おまけに、裂けた大地も壊れた廊下も、まるっきり何もなかったかのように、いつものままなのである。
(ど、どうなってるんだ? 夢……だったのか?)
そんな筈はない。見おろせば、そこには鬼の少年が泣きながら力なく座り込んでいる。高志の戸惑いを察したのか、亞珠梨が言った。
「僕達が地面の下に消えた瞬間から、僕達の時間と空間をシールドして世界から遮断したんだ。戻るときに少し時間軸をずらしたから、今はまだあの事件より一時間位前だ。すべて世はこともなし、だよ」
「は…………あ?」
なにがなんだかわからず、高志には目を丸くした。そんな彼にはかまわず、亞珠梨はふうと小さくため息をついて、瑠叉那を見下ろした。
「さて、他の奴らが登校してくる前に、こいつをどうにかしなくちゃな」
瑠叉那は涙に濡れた顔をぐいと袖で拭い、気丈ににらみ返した。
「俺を都に戻せ!」
亞珠梨は呆れた顔をしたが、それでも突き放すようなこともせず、ついと指を伸ばすと瑠叉那の額に小さく何かの図形を描いた。口の中で何やらぽそりと呟く。その瞬間、瑠叉那の体の回りに薄い真珠色の膜が現れ、それが彼を包んだまま、みるみる収縮していった。
大きなシャボン玉ぐらいのサイズになって、ふわふわと空中に漂う。中で瑠叉那が大騒ぎしている。亞珠梨は指先でツンとつついた。
「きみはうるさい。しばらくその中で頭を冷やせ」
そう言うと、無造作にそれを掴んで自分の胸に押しあてた。それはぽうっと微かな輝きを放って、亞珠梨の体内へと吸い込まれるように消えていった。
亞珠梨が顔をあげると、高志が半ば呆れたように凝視していた。
「なにをしたのか聞きたい?」
「……いや、いい。どうせわかんねえし」
高志はハアと大きく息をついた。
「やっぱ、俺、夢見てんのかなぁ。もうなにがなんだか、頭グチャグチャ」
「……夢にしてもいいよ」
「え?」
「なんでもない。それより、現実の問題。汚れた制服の対処について」
「制服ぅ? ……うわ、なんだ、こりゃ!」
高志は思わず悲鳴をあげた。何かの粘液のように白濁したゼル状の液体が、体のあちこちにへばりついていた。手を上げると、それは生き物のようにドロリと固まって地面に落ちた。
「うえぇ、気色わるぅ。 勘弁してくれ。どうにかしろよ、珠梨」
「どうにかって、どうしろって言うんだ。僕はクリーニング屋じゃない」
「そういう魔法はないのかよ。こう、パッと元に戻す」
「…………」
亞珠梨は冷たい目で高志を見、そして無言のまま立ち上がると、彼を残してスタスタと歩きだした。高志は慌てて後を追った。
「お、おい、待てよ、珠……。あ、えーと、……亞珠梨?」
と、その言葉を口にした途端、高志は一瞬奇妙な感覚を味わった。まるで夢の中にいるような、また同時に夢から覚めた時のようなおかしな気分だ。現実と夢が交錯しているような感覚。
(あ……れ?)
それは一瞬にして消えた。不思議と感じる間もなかった。
その時、先を歩いていた亞珠梨が急に立ち止まり、くるりと振り向いた。ひどく青ざめた顔である。喉元から絞り出すように苦痛に満ちた声で低く呟いた。
「……違う。僕は……東条珠梨だ。ち……」
「お、……おい、珠梨!」
亞珠梨ががっくりと膝をつく。高志は驚いて駆け寄った。
「珠梨! しっかりしろ。どうしたんだ?」
高志が差しだした手にすがりながら、亞珠梨は苦しげに言った。
「きみが、そんなふうに呼んではいけない。僕は……。夢が、壊れる……」
それだけ言って、亞珠梨は気を失ってしまった。
5 使者の追撃
(見つけたぞ、仙人!)
「うわっ!」
突然大きく頭の中に響きわたった声に、亞珠梨は驚いて跳び起きた。気がつくと、そこは白いカーテンに囲まれたベッドの上だった。
「ここは……?」
置かれた状況を把握する前に、シャッとカーテンが開いて若い女性の顔が現れた。
「あら、目が覚めたのね。どう、気分は?」
見知った顔。保健の養護教諭である。どうやら、ここは学校の保健室らしい。高志が驚いて運びこんだのだろう。
「まだ顔色悪いわね。どうする? 家に帰る?」
教師はまだ呆然としている彼に心配そうに訊ねた。亞珠梨は小さく首をふった。
「いえ、平気です。教室に戻ります」
「そう? 無理しなくてもいいのよ。貧血だって、馬鹿にできないんだから。ちゃんと朝食とってる? 睡眠は?」
気遣っていろいろと質問してくる教師を、亞珠梨は適当にあしらって身づくろいをした。汚れた制服の代わりに、ジャージの上下が置いてある。袖に高志の名前がローマ字でつづられてあった。
「それ、お友達が持ってきたのよ。服、吐いて汚れちゃったんですって? 持ってくれば、洗っておいてあげたのに」
高志がいろいろと一人で骨を負ったらしい。亞珠梨は想像してくすりと笑った。
戸口で、亞珠梨はふりかえって教師に訊ねた。
「先生、誰か居ませんでした? 僕が、目を覚ます前に」
「え? 別に誰も……、ああ、担任の毛利(もうり)先生がいたわね。心配して様子を見にきてたから」
「毛……利?」
「ええ、そうよ。きみ、二年のB組でしょ? 体育の毛利先生」
不思議そうに問い返す教師を後に、亞珠梨は軽く一礼して保健室を出た。授業中の静まりかえった廊下を歩きながら、考える。
(毛利だって? 誰だ、そいつは? 担任は杉原だぞ)
それは危険な暗号のようだった。なにかが警告していた。異常な事態の訪れ、これからやってくる嵐の前兆。
顔を上げると、前方の階段の下に男が一人立って、こっちを見ていた。若い男。すらりとした長身、けっこうな男前の、しかしどこか得体の知れない、怪しい香りのする男だ。男はにやにやしながら、亞珠梨が近寄ってくるのを待っていた。
亞珠梨の胸の奥で、瑠叉那皇子が悲鳴のような叫び声をあげた。
(あ、あいつ! あいつは……!)
その言葉の続きを聞く前に、男は向こうから声をかけてきた。
「やあ、やっとお目覚めだね、東条珠梨くん」
亞珠梨は鋭くにらみかえした。先ほど頭の中に響いてきた声の主がこの男であるということはとうにわかっていた。問題はこいつが何者かということだ。
いつのまにか担任の座にすりかわり、それを皆に難なく誤認させ、そしてーー自分を亞珠梨だと知っている、この男が。
男は相変わらず小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、何も言わない亞珠梨に話しかけた。
「きみぃ、返事くらいはするものだよ。私はきみの教師なんだから。それとも」
男は横を通り過ぎようとする亞珠梨の耳元にささやく。
「お偉い仙者様は、私風情に挨拶もできないということかな。ええ? 亞珠梨どのよ」
亞珠梨は足を止め、ふりむいた。
「いったい、何の話ですか、毛利先生?」
男は狡猾そうな眼差しを冷たく光らせて、無言のまま笑っている。亞珠梨は小さく頭を下げ、冷ややかに言った。
「失礼。授業に戻りますので」
背中に刺すような視線を感じる。それはずるがしこい獣の眼だ。こっそりと背後から忍び寄って、毒のある牙で襲いかかる邪悪な蛇。魔の世界の者。
亞珠梨は、胸の奥で瑠叉那の怒りと恐怖を感じた。
(あいつが誰か知っているのか、瑠叉那皇子?)
(あ、あいつは……使者だ。天帝の。……俺の兄者を殺した奴だ)
(使者だと? あの男が?)
(ああ。きっと俺を追ってきたんだ。俺を、殺す為に……)
馬鹿な、と亞珠梨は思った。毛利と名乗るあの男からは邪悪な気しか感じられなかった。邪な悪の臭い、凶々しい血塗られた気配があった。とても天を司る天帝が送りたもうた使者とは思えない。
なにより、何故使者が瑠叉那を追って、この世界に現れなければならないのか。劉沙の話していた状況から考えても、今回の使者は只のメッセンジャーとしての意味合いでしかなかった。それが瑠叉那皇子の兄、九龍を処刑し、更にその一族の最後の生存者瑠叉那までをも手にかけようとしている。まるで理屈に合わない。妙な行動である。
亞珠梨はざわざと全身が総毛立つのを感じた。今回の一件には間違いなく何か裏がある。そして自分はそれに引き込まれてしまった。もう無視することは出来ないだろう。
教室に戻ると、真っ先に高志が不安げな面もちで駆け寄ってきた。
「珠梨! 大丈夫なのか、おまえ?」
亞珠梨はこくんとうなづいてみせた。高志は束の間ほっとした表情をみせ、そして声を潜めて耳元でささやいた。
「なあ、なんか……おかしいんだ。担任が急に杉原じゃなく知らない奴になってて、それで、皆それをなんとも思ってない。なんの説明もない。これ……俺の頭が変なのか?」
亞珠梨は口の端で笑った。
「うん、変だ」
「う…………」
「冗談だよ。きみは正常だ。でもきみも巻き込まれた。まあ……半分は僕の責任だな。きみのシールドを解くのを忘れていたんで、奴の術が効かなかったんだろう」
高志は少し困った顔で文句を言った。
「また訳のわかんないこと……。頼むから俺に理解出来ることを話してくれよな」
「OK、ではまず授業をサボって、家に帰ろう。このままでは、状況が不利になる一方だ。それに」
「それに?」
「服もどうにかしたい。これ、汗臭いんだ」
高志はむっとして口を尖らせた。
「悪かったな、臭くって」
バスが朝のラッシュ時とは違って身軽そうに走ってきた。亞珠梨と高志は二人で乗り込んだ。中は数人の乗客がゆったりと座っているだけだった。高志は落ちつきなく、何度ももぞもぞと座りなおした。
「これだけ堂々とトンズラってのも変な気分だな」
「良心の呵責を感じる?」
「そういう訳じゃないけど……」
何となく所在なさそうである。亞珠梨はくすりと笑い、からかってやろうと口を開きかけたその時、突然バスが大きくぐらりと揺れた。
尋常な揺れ方ではない。うねる波に飲まれた小舟のように、右に左に激しく揺さぶられる。昼の日差しにまどろんでいた乗客達は、座席から放り出され、ごろごろとあちこちに転がった。
運転手はがっちりと握ったハンドルを必死に動かしているが、それはなんの効果もなかった。車内が騒然とする。そのうち、一人の乗客が大声をあげた。
「み、見ろ! 浮いてるぞ!」
皆がいっせいに外を見る。その言葉通り、バスは地面を離れ、数メートルほどの高さまで浮かんでいた。街路樹の枝が間近に迫り、電信柱のケーブルがぶつかりそうな程そばで揺れていた。
改めて悲鳴が巻き起こる。亞珠梨と高志は必死に座席の背に捕まりながら、息を飲んでその光景を目にしていた。
亞珠梨は立ち上がって横の窓を全開すると、高志の腕をつかんで緊迫した様子でいった。
「高志、来い。ここから出るぞ」
「で、出るって、と、飛び降りるのか?」
「そうだ。これはあいつの、瑠叉那皇子を追ってきた者の仕業だ。僕たちを狙ってる。バスごと地面にたたきつける気だ」
「な……!」
亞珠梨は高志の腕を掴んだまま、ぐいと窓から身を乗り出した。下を見おろすと、思ったよりも高い。それは既に三階建てのビルの高さをゆうに越えたほどの位置にあった。
高志がのぞき込んで心許なげに呟いた。
「こ、ここから……飛ぶのか?」
亞珠梨はためらった。確かに、少し高すぎる。降りるだけならば何ということもない。高志を抱えていたって、掠り傷一つなくすむだろう。しかし、眼下にはたくさんの人の目があった。既に大勢の者達が集まって、この異様な事態を一心不乱に見守っていた。その群れの中にふわりと飛び降りることが、どれほどバカげた仕業であるか、考えるまでもない。
その時、ふと気づくと窓の外枠に小さな蜘蛛が一匹張り付いているのが見えた。どこかへ飛行の旅をしている途中、偶然このバスに降りたってしまったのか、尻から透明な細い糸を出して風になびかせている。
亞珠梨は手を伸ばすと、その小さな蜘蛛の子を捕まえた。
「きみに助けてもらおう」
そして呆然と見守っている高志を引き寄せて告げた。
「いいか、飛べといったら横の窓から外に向かって飛び出せ。躊躇している暇はないぞ。わかったな」
無言のままこくんとうなづく高志に、亞珠梨はぎゅっと堅く彼の手を握りしめた。
「必ず、うけとめてやるから」
「……わかってる」
彼は右手の甲に蜘蛛を乗せると、窓枠に足をかけて這い出した。もう片方の手で桟を捕まえて身を支え、右手を空に向けて差し出す。
「ほら、行くんだ!」
蜘蛛は促されるままに、再び風に乗って飛び始めた。細い細い銀の糸が長く伸びる。亞珠梨がその端を掴むと、糸はするするっと生き物のように手に絡みついた。亞珠梨は叫びながらバスの窓を蹴って飛び出した。
「いまだ! 飛べ、高志!」
その声を受けて高志も飛び出した。慣性の力が失われて体が落ちる前に、亞珠梨の腕ががっしりと高志の体をとらえた。二人は小さな蜘蛛が出した糸に引かれ、すうっと空に舞い上がった。
亞珠梨は青い天空にむけて凛とした声を張り上げた。
「五月の風神、気流を統べる神よ! 僕達をその流れに乗せて運べ! 悪しき力の及ばぬ大地まで!」
彼の言葉に答えるように、一陣の風が吹き、二人を大空高く持ち上げた。そして花びらを運ぶように優しく運んでいった。
亞珠梨達が乗っていたバスが、謎の浮遊の末落下し、大破した奇妙な事件が、その日のマスメディアを賑わせた。だが、そのうちの二人の乗客が空に消えていった事実を語る者は、不思議と誰もいなかった。