亞珠梨 −夢幻奇譚
第一部 倭編 −2−

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2 反逆の部族


劉沙と名のる鬼は、ゆっくりと語りだした。


ーー江河(こうが)。
 そこは鬼たちの住むその世界の中で、もっとも古くから存在し、繁栄を続ける、歴史ある大国であった。
その名が示すとおり、国のほぼ真ん中に地を二分するように江河という大きな河が流れていた。
 その河から南側の地を、一角種の赤鬼羅(せききら)族が、北を二角種の瓦青鬼(がせいき)族という部族が、それぞれ統治していた。
創世の時代、天帝より大地の統治を命じられた時点においては、彼らももとはひとつの部族であったと云い伝えられていた。
 が、長い年月の中で、血の異なる種の間にさまざまな確執がおこり、やがて同じ大地に住む仲間でありながらいがみあう間柄となり、ついにはふたつに別れてしまったのであった。
両国の歴史は、そのまま戦いの歴史であった。
ここ数百年ほど本格的な戦争にこそ至ってはいないものの、ささいないがみ合い、こぜりあいは日常茶飯事で、またそれによって命を落とす者も少なくはなかった。
もちろん彼らとて、好んで争いを続けていたわけではない。両国の友好をとりもどすべく双方より幾度もの努力がなされ、しかしまた幾度も無駄に終わるという、むなしい過去のくりかえしでもあった。
 さて、現族長である赤鬼羅族二十八代目、子邑(しゆう)家の偕(かい)は、賢者として広く世に知られた人物だった。
 彼は長きにわたる交戦の史に終止符をうつべく、地道な努力を重ねた。また幸いなことに、瓦青鬼族の族長もまた少々気弱だが和を好む温厚な人物だったので、ここにきてついにふたつの部族は友好の契りを結ぶことと相成った。
 とはいえ、家臣の中には保守的な者や好戦的な者もいまだ数多く存在する。
 そこで偕族長は、至高界にあってこの世のすべてを支配する『天帝』に、ふたつの部族の仲裁を依頼することを考えた。
ところが、そんな時おりもおり、天からの使者と称する者が突然天上からの勅をもって偕の前に来訪した。公平なる天の下で、平和の盟を結ぶようにとの大命がくだったのである。偕は喜んでその命に従った。
 さて鬼族のあいだでは、部族間の契約の場には、双方より長とその伴侶だけが出向くという、古いしきたりがあった。しかし偕は長く胸の病を患っていたため、世継ぎである第一皇子九龍(くりゅう)が、長の代理として、正妃春蘭姫(しゅんらんひ)を同行して赴いたのであった。
しかしここから歯車が狂いだした。
 天の使者の見守る中、厳かに契約の儀式がすすめられた。ところが、いざ双方調印というその場面になって、九龍は突然抜刀し、瓦青鬼の長とその細君を一刀両断の元に討ちすてたのである。
 それはあまりにも一方的な、しかも最も卑劣な手段でなされた契約の破棄であった。
むろんその行為は、九龍ひとりの狂気の沙汰と許されるようなものではなかった。天命を無視した咎で、赤鬼羅族は謀反の落印を押された。
 そして族長を殺され怒りに燃えた瓦青鬼族は、天の代行者として、天誅の文字を記した旗をかかげて戦いを挑んできた。
赤鬼羅族はやむなく応戦したものの、天誅の旗の前には志気もあがらず、また信頼する世継ぎの皇子の乱心に、当惑し、混乱して、隊列は乱れ、相次いで敗戦した。
 そしてついに都は落ち、長の屋敷は落城して、族長以下子邑家の一族は無惨な最期をとげたのであった。


劉沙はそこまで話して、深く息をついた。
淡々とした語りぐちではあったが、そこには強い無念と失意の感情がうかがいしれた。
ものみなすべてが寝静まった深夜、亞珠梨は彼の部屋で、ひとり異空を越えてきた鬼族の劉沙と相対していた。
束の間に訪れた静けさの中、開け放した窓の向こうから、夜の音が聞こえてくる。
 遠い車のうなり。クラクション。そして闇の満つる音。
亞珠梨は劉沙が語り終えたあと、しばらく沈黙していたが、やがて静かに口を開いた。
「事情はだいたいわかった。で、いったい僕にどうしろと?」
「助力を、わが赤鬼羅族の汚名をはらす助力をお願いしたいのです!」
「だけど、その話のとおりならば、罪はきみたちの側にある。申し開きの余地はないと思うが」
劉沙は赤ら顔をいっそう赤く燃え立たせて反論した。
「とんでもございません! 第一皇子九龍さまは、まこと聡明で、かつ温厚な御方でした。それに一族の誰よりも和を望まれておいでだった。その御方が、あの場であのようなことをなさるなどとは、拙にはとうてい考えらません。これは間違いなく何かの陰謀。九龍さまは、いえ我々赤鬼羅族は、罠にはめられたのでございます!」
「皇子はなにもしていないのだ、と?」
「でなければ、……やむなき理由があったのです。九龍さまは意味なき殺生をなさるような御方ではない。断じて!」
 劉沙は拳でどんどんと床をたたいて、必死の形相で弁明をした。
「どういう人物かはわかった。だけど、とうの本人はどう言ってるんだ? 言い訳や弁解はなにもないのか?」
「九龍さまは……」
劉沙は口ごもり、悔しそうにうつむいた。
「九龍皇子は、……その場で、立ち会っていた使者の手によってお手討ちにあいました」
「手討ちに?」
「はい。我々は使者の運んできたあの御方の、首だけの哀れなお姿を前にして、使者にこの話を聞かされたのです。……真のわけをお伺いするもかなわず、すでに延命を乞うことすらもできず……、皆なんという口惜しい思いであったことか……」
そのときの感情を思い起こしたように、劉沙はそのまま絶句した。膝の上におかれた両の手が硬く握りしめられ、ぶるぶると震えていた。
 亞珠梨はそんな鬼の様子には気にもとめず、首を傾げてつぶやいた。
「……なんだか、妙な話だ」
「妙、ですと? しかし拙は嘘など申してはおりませぬぞ」
「そうじゃない。つまりーーかりに九龍皇子が、本当にその使者の言った通りの乱行に及んだのだとしてもだ。その場で処罰するなんていうのは、あまりにも乱暴なやり方だ。申し開きも聞かずに手討ちだなんて……。だいたい、使者とは天帝の言葉を伝えるだけが役目。そんな権限はない」
「では、やはりあの事件には裏があると?」
「それは、わからない……。だがなにか知らされていない事実があるのは確かだと思う。少なくとも、九龍皇子に対するその使者の行動に関して言えば、賢明な処置だったとは、僕には思えない。充分審議の訴訟を起こす余地はあると思う」
「天に審判を依頼するのですか?」
「そうだ。不当な罰刑に対する再審の要求だ。天の審議が入れば、おのずとすべての真実が明らかになる。きみたちの言い分も聞き入れられるはずだ。ただ……」
「なにか問題が?」
亞珠梨は腕ぐみをし、劉沙を見た。
「こういった場合、血族がひとりでも残っていないと訴訟を起こすのは無理なんだ。第三者では原告としては認められない」
途端に、劉沙はぱっと顔を輝かせ、身をのりだして叫んだ。
「お身内はおります! 弟皇子、瑠叉那(るしゃな)さまが!」
「族長の一族がまだ生き残っているのか?」
「はい。末の皇子がいらっしゃいます。拙がこのたび参った目的のひとつは、この皇子のお命をお守りするため。汚名をそそぎ、赤鬼羅族を復興するためにも、瑠叉那さまにはなんとしても、生きのびていただかなくてはなりません。しかし瓦青鬼どもの追跡は執拗で、拙ひとりの力ではもう守りきれぬ。ーー先ほどの火の化け物も奴らのさしむけた刺客。奴らはあのように異形の者たちを使うのです」
「あれを、奴らが?」
「はい。こちらの世界にたどりつくまでに、再三追撃にあいました。それもすべて妖かしの魔物どもに」
 亞珠梨の顔がちらりと曇った。まっすぐに見つめてくる真剣な鬼の瞳を前にし、疑惑の感情をいだく。
(あれは……火焔地獄に存在する火の亡者だった。並の者にはこの世に呼び出すことすらできないはず……。鬼族の行者が? いや、行者ごときに簡単にできる技ではない。誰か強い仙者でもいるというのか? それとも……こいつの、嘘……だろうか?)
亞珠梨は内心不審に思ったが、その思いを口にはしなかった。劉沙の話を聞いただけでは、何が真実で何が正しいかも、まだ判断することはできない。彼の話をそのまま鵜呑みにする訳にはいかない。
それに、彼には事件に関わることに、いまだ深い迷いがあった。亞珠梨はふっと息をついた。
「訴訟の件はどうにかなるかもしれない。助力してやってもいい。だがそれ以上は……」
煮えきらない彼の態度に、劉沙は不安そうな眼差しを向けた。亞珠梨はその視線からのがれるように顔をそらした。
「……関わりたくないんだ、なにごとにも」
「亞珠梨どの、そんな」
「とりあえず明日にでも彼を呼んで、詳細を確かめてはみるが」
「彼……とは、誰のことでございますか?」
 劉沙は疑わしそうにたずねた。亞珠梨は皮肉っぽく笑ってみせた。
「大丈夫、信用のおける人物だ。この世の中の誰よりもね。僕なんかよりも頼りになるさ」
 劉沙は訝しげな顔をしたが、言い返すようなことはしなかった。
 亞珠梨はベッドから腰をあげると、劉沙にも立ちあがるように促した。そばに寄って立つと、鬼の背は見上げるように高く、胸板は大きな壁のようだった。
 亞珠梨はちょっと面くらい、呆れたように呟いた。
「鬼族って、みんな、きみみたいにでかいのかい?」
 ふいの質問に、劉沙はしどろもどろに答えた。
「は? あ、い、いえ、拙は特別でありましょう。武人の家系に生まれ育ちましたゆえ」
「まあ、確かに、大事な宝の番人には、きみほどうってつけの者はいないだろうな」
 亞珠梨はついと指をのばし、指先をそっと鬼の胸もとに押しつけた。その途端、劉沙はぴくりと体を震わし、硬直した。
「……気づいておいでだったのですか?」
「ああ。それが誰なのか、まではわからなかったがね。……包宝珠(ほうほうじゅ)の術か。それ使うの、大変だったろうな」
「はい。行者が数人、精魂使い果たして命を落としました。しかし、なんということはございません。それであの御方を守れるのなら、命を惜しむ者など一人もおりませぬゆえ」
 劉沙は誇らしげにきっぱりと言った。
 亞珠梨はそれを聞いて、困ったように悲しげな笑みを浮かべた。不思議そうな表情を浮かべる劉沙に背をむけて、しばしの間遠く窓の外を見つめていた。
と、急にくるりとふりむくと、がらりと一変して冷たく言いはなった。
「くだらないな。そうまでして、いったい何の意味があるというのだ?」
「亞……珠梨どの……?」
「他人のために己の命をかけるのか? 馬鹿げてる。そんな愚かなことに僕を巻き込まないでくれ! きみたちが何人死のうと生きようと、僕にはなんの関係もないんだ!」
劉沙は突然の彼の変化と暴言に、唖然とし、返す言葉もなく立ちつくした。亞珠梨はそんな鬼にむかって、開いた右手をさし向けた。
「もうたくさんだ。消えてしまえ、僕の目の前から!」
 叫ぶと同時に、ぱっ、と目も眩むようなまばゆい光がほとばしる。一瞬後、そこに劉沙の巨体はなかった。
(な……、なんだ……?)
劉沙は突然消え失せてしまった己の肉体に、ひどく動揺した。亞珠梨はひとりさっさと寝仕度をし、ベッドにはいる。頭の上まで布団を引っ張りあげ、拒絶するように背を向けた。彼の頭の中に、力ない劉沙の声が響いた。
(亞珠梨……どの……)
彼は長い沈黙の後、冷たい声でぶっきらぼうに答えた。
「……鬼の姿を世間にさらしてるわけにはいかないんだ。だから少し我慢してくれ。……おやすみ」
それっきり、部屋は静寂につつまれた。
劉沙は、どうしてよいのかわからず、しかたなく小さく頭を下げ、部屋の隅にいってうずくまった。巨体を縮め、胸をかかえこむようにして丸くなる。右手が無意識に胸にそっと当てられた。
そこに、眠っているのだ。
 大切な宝が。赤鬼羅族の、最後の希望の星が。
(いったい、いつ気づかれたのだろう? 私があの方をこの身にいだいていることを……)
彼の体の中には瑠叉那皇子が眠っている。『包宝珠の術』、それは大僧正や他の数人の力ある僧侶達が命の限りを尽くして行った秘技だった。
 劉沙の肉体が、盾となり、また蔵となってそのまま皇子を守るべき器となる。彼の肉体がある限りーーたとえ死んだ骸となってでも、皇子の命は守られる。安全は確保される。
(こうするしかなかった。血気にはやる瑠叉那さまをしずめ、無事にここまでお連れするには。そのために何人の仲間達が命をおとそうとも……)
なんとしても末の皇子を生きて託さなければならなかった。最後の頼みの綱、伝説の大仙人の末裔であるという、亞珠梨という人物に。
だが劉沙はここにきて、ひどく不安を感じていた。彼は亞珠梨という人物がわからなかった。はたして、頼っていいものなのか、大事な宝を託していいものなのかどうか。
 真剣に話に耳を傾けてくれながらも、肝心なところでは話をにごし、はっきりと返答をしてはくれない。優しそうな表情を見せたかと思えば、一変して冷酷無比に突き放す。
 しかし度々見せるあの技の数々は、大仙の末裔の名に恥じぬ、見事なものである。
(長は亞珠梨どのを頼れと言った。必ず力になってくださると言った。だが、本当に信じていいのだろうか? この御方をまかせてもいいのか……?) 
 不安が押し寄せてくる。しかし、今の彼にほかの選択肢はないのだ。一人ではもとの世界に帰ることもできない。また戻れたとしても、自分だけではとても皇子を守りきることはできないだろう。ここにいるしかないのだ。
 劉沙は胸に手をあてたまま、目を閉じた。いまだ緊張はとけてはいなかったが、疲れは驚くほどすばやく、彼を眠りの世界にひきこんでいった。
静かに夜はふけていった。


3 最期の願い


亞珠梨はぼんやりと空を見ていた。
 校舎と体育館を結ぶ渡り廊下の途中で、ひとり物思いながら長い間たたずんでいた。
 校庭のアカシアが綿毛を散らしている。風にのって、ふわふわと流れて、まるで白い雪のよう美しい。
 彼は自分が思いのほか、この世界を気にいっていたのだということを改めて感じ、苦い思いにとらわれた。
そばには劉沙が立っている。もっともその姿は誰にも見えず、亞珠梨だけがその存在を知っているにすぎない。
 こうして静かに並んでいると、劉沙の苛立ちが伝わってきた。朝早々と登校しながらそのまま何するでもなく、ただ空を眺めているだけの亞珠梨に、口にこそしないが、もどかしく思っているのがありありと感じられた。
亞珠梨は苦笑し、静かに語りかけた。
(そんなに心配しないでも、このまま無視したりはしないよ。夜まで待ってくれ。ちゃんと彼を呼んで、話をつけてやるから)
劉沙はちょっと照れくさそうに答えた。
(は……、すみません。しかし、いったい誰なのです、その御方とは?)
(彼はーー)
 と答えかけた時、高志がばたばたと音をたてながら渡り廊下を走ってきた。口がへの字に曲がっている。亞珠梨はくすりと笑った。
 高志はいつでも喜怒哀楽がはっきりしている。こちらが感情をうかがい知る前に、それは満面に現れ、楽なことこのうえない。
「珠梨! なんだよ、おまえ。ひとりでさっさと先に来やがって。早く行くなら一言声かけてけよ」
昨日のことをいろいろ問いただされるのがいやで、ひとり先に登校してきたのだが、高志は昨日の事件のことなどすっかり忘れた様子で、ただ置いてきぼりを食らったことに腹をたてているようだった。
「きみ、まだ寝てる時間だったから」
「バカヤロー、なら起こせよ」
「早く起こすと機嫌が悪いじゃないか。前に一度どなられた」
「お、おまえなー! 俺をなんだと思ってんだよ、まったく!」
顔を赤くして怒る高志を後目に、亞珠梨はふいと顔を背け、そっけなく言った。
「始業チャイムがなったよ。教室にもどろう」
「珠梨ぃ、このやろ」
 ぐい、と高志の手が亞珠梨の肩をつかんだ。その手が小刻みに震えている。亞珠梨は驚いてふりかえった。だがすぐにその訳がわかった。彼の手だけが震えているのではない。空気が、世界が震えているのだ。
ふたりは尋常ならざる気配を感じ、異変の訪れを察して身を硬くした。
 ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……。
 重く、低く、地を揺り動かすような振動が足の下から伝わってきた。
「なに? 地震……か?」 
高志が不安げにつぶやいた。あたりにいた数人の女生徒達が、小さく悲鳴をあげた。
(亞珠梨どの、危ない!)
劉沙が声なき声で叫ぶのと、亞珠梨達が立っている地面がぱっくりと口をあけるのと、まったく同時であった。
 落雷のような激しい号音とともに、渡り廊下の床をまっぷたつに裁断して大地に亀裂が走った。
 それは長さこそ二・三メートルほどの小さなものだったが、裂け目は深く果てしなく、奥は深淵なる闇に続いていた。
「きゃあああっ!」
 少女達の甲高い叫び声があがった。
 愕然と見守る皆の前に、裂けた大地の中から、すーっと青白い一本の『手』が、現れ出たのである。
それはまさしく人の手だった。だが白蝋のごとく生気がなく、不気味なまでに蒼白である。おまけに、その下には、腕というよりはぬめった白蛇のような長い管がつながっていた。
 手は招きするように蠢きながら、くるくると一、二度回った。そしてぴたりと一瞬止まったかと思うと、亞珠梨の足めがけて一直線に襲いかかってきた。それはまるで鎌首をもたげて獲物に飛びかかる蛇のように、素早く確かな動きであった。
 亞珠梨は本能的に後ずさった。その時、体が背後から何者かにがっちりと抱きかかえられ、ふわりと空中高く持ち上げられた。
「わっ!」
 目の前にそびえていた太い樫の木のてっぺんまで、一気に跳びあがる。それが誰の仕業なのかはすぐにわかった。
(きみか、劉沙。驚かせるな)
(間一髪でしたな。危なかった)
見おろすと、手は突然とらえるべき相手を見失って、空しく宙をまさぐっていた。
 まわりの生徒たちが、きやあきゃあと大騒ぎをしながら逃げまどっている。その中に、ひとり硬直したようにその場に立ち尽くす高志の姿があった。
亞珠梨は大声で叫んだ。
「危ない! 逃げろ、高志!」
 しかしその声が届く前に、手はその新たな対象物を目的の獲物として認め、しゅっと風を斬って飛びかかった。 
「わあぁっ!」
「高志!」
 手はがっちりと高志の足首をつかまえると、今度はものすごい勢いで大地の裂け目の中へと戻り始めた。大柄な高志の体を軽々と引きずっていく。見る見るうちにその姿はずるずると地面の下に引きずり込まれ、あっと言う間にかき消えてしまった。そして亀裂は餌を飲み込んで満足した生き物のように、ゆっくりと口を閉じ始めた。
「高志!」
 亞珠梨は彼の後を追わんと身をのりだした。しかし頑強な劉沙の手でしっかりと押さえつけられた。
(いけません、亞珠梨どの)
「離せ! ぐずぐずしていると入り口が閉じる!」
(だめだ、あの中は危険です。御身が)
「離せぇっ!」
バッーー!
 亞珠梨の全身から激しく白い火花がとび散った。
(つうっ!)
 あまりの熱さに、劉沙は思わず手を離した。その一瞬の隙に、亞珠梨は迷うことなく閉じかけた亀裂にむかって飛び降りた。右手につかんでいた枝がぼきりと音をたてて、根元から折れた。
(亞珠梨どのぉ!)
劉沙の声は、亞珠梨の耳には届かなかった。


 大地の中は、闇の世界だった。
ひとかけらの光もない、まったくの暗闇。空気の流れも、時間の流れさえも止まってしまったかのような淀んだ空間。
 その中を、高志の体は深く深く底にむかって引きずり込まれていった。すがりつくものを探して手探りで宙をまさぐっても、何ひとつ手に触れるものはない。すごい早さでひっぱられてゆく。
(くそぉ、なんなんだよ、これぇ!) 
高志はなんとかして逃れようと試みたが、余りの勢いに体をばたつかせることさえおぼつかなかった。どんどん落ちて、地球の中心にまでたどりついてしまうかのような錯覚におそわれる。
(どこまで行くんだ、いったい)
 不安になって思わず下を見る。その瞬間、ひくっと息がつまった。
 闇の底、遠く遠く下の彼方に、不気味に蠢いているものがあった。
 それは海の底にいるいそぎんちゃくのように見え、だがもっとずっとずっと巨大なものだった。
 ざわざわと音をたてて、白く細い触手が何千本、何万本とうごめいている。そして今足首を捕まえている手は、そこから伸びてきている。触手の一本一本が、すべて手なのだ。
 それが皆、仲間のとらえた獲物の到着を待ちわびるように、もどかしそうに手招きしていた。
高志はぞっとした。この勢いでは、すぐにもあそこに着くだろう。化け物の正体などわかる由もないが、それがなんであれ、あれに捕らえられたら命がないと本能的に感じた。
「う、わぁ、た、助けてくれぇ」
 高志は悲鳴をあげた。しかし声は喉にはりついたようにかすれ、言葉にならなかった。
 と、その時、上からものすごい早さで落ちてくるひとつの光に気がついた。見つめていると、小さかった光はどんどん近づいてくる。それが何か見きわめる前に、聞き慣れた声がぽーんと高志の耳にとびこんできた。
「高志!」
「珠梨!」
高志は驚き、目を見開いて光を見た。落ちてくるように自分に向かってくるその輝きは、亞珠梨だった。
 ゆらゆらと揺れる光につつまれている彼は、全身から白い炎が燃え立っているように見える。その姿は恐怖と絶望に支配された闇の中にあって、たったひとつの希望に思えた。
 高志は無我夢中で彼に手をさしのべた。亞珠梨は矢のような勢いで真横まで降りてきたかと思うと、高志と並行して降下しながら、握りしめていた樫の枝を、触手にむかってふりおろした。
 パシィッーー!
 樫の木の枝は鋭い刃を備えた剣のごとく、一刀両断のもとにその手をなぎはらった。触手の腕は、手首の付近からすっぱりと先を切り落とされ、苦しそうに身をよじらせて身悶えした。そしてあわててするすると本体に戻っていく。高志の足に残った手首は、力の源を奪われるとすぐに跡形もなく霧散した。
 亞珠梨は高志の体を抱き止め、空中で停止した。やっと二人が止まったのは、あとほんの数十メートル先に化け物が迫る、そんな場所であった。
 異形の怪物は突然の事態に戸惑っている様子で、せかしなくザワザワとざわめいている。亞珠梨の口から思わず安堵のため息がもれた。
「よかった。まにあって……」
 抱きあう二人の胸が、お互いにドクドクと激しく高鳴っているのがわかる。高志は今更のようにがくがく膝が震えるのを感じた。
 ふと気づくと、亞珠梨がじっと自分を見つめていた。瞳が逢うと亞珠梨はあわてて目をそらし、早口に言った。
「早く戻ろう。この空間はよくない。死の臭いがする」
「珠梨……」
「僕から絶対に離れるな。いくぞ」
高志の背中にまわした手にぐっと力を込めると、亞珠梨は上昇した。落ちて来たときほどのスピードではないものの、けっこうな早さで二人は遥か上空、地上への入り口にむかって昇りはじめた。
亞珠梨の腕の中で、高志はほっと一安心した。と同時に、それまでは恐怖の影に隠れていた疑問が、たくさんわきだしてくるのを感じた。
 あの化け物は何物で、この不可思議な空間はいったいなんなのか。だいたい、これは本当に現実のことなのか。夢などではなくて。
 そしてーーこの空間を自由に行き来する彼、珠梨は、いったい何者だ? ついさっきまでは、自分とまったく同じただの高校二年生で、普通の人間で、幼なじみで、そして大切な大切な親友の珠梨だった。それだけだったはずなのに。
「珠梨、おまえ……」
 だが彼の疑惑をかわすかのように、亞珠梨は高志の言葉をさえぎって別のことをつぶやいた。
「入り口がすぐに見つかればいいけど……」
「……入り口って、さっき落ちた亀裂のことか?」
「ああ。多分もう閉じてしまっているし、この闇の中から探すのはちょっと骨がおれる」
「そ……か」
 なんと相槌をうってやればよいのかわからず、高志は気のぬけたような返事をかえした。その返事を不安とうけとったのか、亞珠梨は彼を励ますように微笑んでみせた。
「大丈夫、必ず帰れるから。心配しないで」
高志は慌てて否定した。
「し、心配なんかしてねーよ」
「そう?」
「そうだよ。ちょっと、いろいろあって、びっくりしてるだけで、ひびってるわけじゃないぜ」
 つんと顎をあげて強がってみせる高志に、亞珠梨はにっこりと笑った。はりつめていた二人の緊張が少し和らぐ。高志はたずねた。
「あれ、なんだったんだ? あの怪物」
 一瞬亞珠梨の表情がかたくこわばったが、すぐに彼は静かな口調で答えた。
「亡者どもの集合体。現世に強い未練や執着を持つ迷魂が、寄り集まることで邪悪な形に変化したんだ。なにかのきっかけで現世への入り口を見つけると、生きている人間をひっぱりこもうとする。たいていは海とか川とか、そういう流動的で入り口の開きやすい所にでてくるんだけどね」  
「そういえば俺、前に海の中から手がでてる心霊写真、雑誌でみたことあるぞ。あれか?」
「そうかもね」
「げぇ、気色わりぃ。俺その手の話、弱いんだ。もうやめようぜ」
「なんだよ、自分で聞いたくせに。ーーなあ、あのまま奴にとっ捕まってたらどうなったか、聞かせてやろうか?」
「いいよ。そんなの」
「きっと手という手に、ギタギタにひきちぎられて内臓とかもぐちゃぐちゃになって、完璧スプラッタ状態で」
「……やめろ。もういい。おまえ、なにも言うな」
 見ると高志はすっかり顔色を失っている。亞珠梨は言われたとおりに口をつぐんだが、くすくすと声を殺して笑った。横目でうかがうと、高志が恨みがましくにらみつけている。その顔を見てもう一度亞珠梨は笑った。
高志はしばらくすねたようにそっぽを向いていたが、ふいに真顔になって、真剣な口調で云った。
「戻ったら、全部話せよ、珠梨」
 その言葉に、逆鱗に触れたように亞珠梨は鋭い瞳を向けた。だが高志も負けじとにらみ返した。
「いいか、珠梨。俺達の間に隠しごとはなしだ。なにもかも話してくれ。ここはどこで、どうしてこんなことになったのか。それに……おまえのことも、だ。おまえの言うことなら俺は信じる。おまえがスーパーマンだろうが、超能力者だろうが、全部信じてやる。だから隠さずに話せ。聞かせてくれ、珠梨!」
 だが亞珠梨はなにも答えず、ただ黙って高志を見つめているだけだった。その瞳には深い哀しみの色があった。すべての辛い感情をひたすら押し隠して生きてきたような、そんな底深い苦痛の影があった。
ふと亞珠梨は上空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……光だ」
 高志もつられて上を見た。確かに、上空の闇の中にぽつんと一カ所、明るく輝いている場所がある。亞珠梨はその方向にむかって飛んだ。近づくにつれ、それは自分たちが落ちた大地の裂け目で、そこから光が差し込んでいるのだということがわかった。
 そして、その裂け目に、己が身と剣とをつっかいにして必死に閉じるのを防ごうとしている鬼ーー劉沙の姿があった。
亞珠梨がこちらの世界にきてしまったために、彼を隠していた術の効力が失われたのかもしれない。彼は片側の地を両肩に背負い、もう一方に剣をつきたてて、それを太い両腕と足で満身の力を込めて押し返している。体中の筋肉に、血管がくっきりと浮き出していた。
 鬼は昇ってくる亞珠梨たちの姿を見つけて、うれしそうに叫んだ。
「亞珠梨どの、ご無事でしたか!」
「劉沙!」
「早く! 早く出てください! もう余りもちませんぞ!」
「わかった! もう少しこらえてくれ!」
 亞珠梨はスピードをあげた。高志がしがみつく手にぐっと力を込めて云った。
「俺、あいつ、見たことある! あの鬼、知ってるぞ!」
 昨日かけた忘却の術が完全なものではなかったのか、そんなことを彼は叫んだ。
 ようやく劉沙のもとに着くと、亞珠梨は先に高志を地上に押し出し、それから自らも這いでようと、まだ握りしめていた枝を投げ捨てて亀裂に手をかけた。
 その時、急にがくんとすごい力で足をひっぱられた。突然の事にこらえる間もない。亞珠梨はずるずると、また闇の中へとひきもどされた。
 落ちてゆく亞珠梨の腕を、劉沙が間一髪ではっしとつかんでひきとめた。
「う……ぁ、つぅ!」
 上下から引っ張られ、身がふたつにひきちぎられそうな激痛が走る。歯を食いしばって下を見ると、そこには先ほどの怪物の手が再び伸びてきて、足首をつかみ、底へひきずり落とそうとぐいぐいと引っ張っていた。
 だが今度の手は一本ではなかった。足をつかんでいる手そのものはひとつだったが、その下にはたくさんの手が幾重にも絡まる蔦のようにからみつき、太い触手となって力を増大させていた。
 さらに、見る間に同じような手が下からたくさん伸びてきて、亞珠梨の体に十重二重に巻きつきはじめた。その物凄い力には、さすがの亞珠梨もこらえるのが苦痛であった。
 腕をつかんでいる劉沙の口から、くくぅっと、くぐもったうなり声がもれた。亀裂を押さえるのと亞珠梨をひきとめるのとの両方で、彼もすでに限界に近いのだろう。亞珠梨は劉沙にむかって叫んだ。
「劉沙! 手を離せ!」
「なにを……!」
「こいつらを焼き払う。離せ! 大丈夫だ!」
 劉沙は一瞬躊躇したが、素直に言われたとおり離した。見る間に亞珠梨の体がすうっとひきこまれ、青白い触手の群れの中に埋没してゆく。
 と、その瞬間、ブワッと激しい炎が触手の塊の中心から勢いよく燃え立った。
ジュ……シュッシュッシュッ!
 亞珠梨の体に巻きついていたたくさんの触手が、彼の体から放たれた真っ白な炎に焼かれ、一撃のもとに塵と化した。もし手に口がついていたならば、さぞや壮絶なる悲鳴があがったことだろう。
 自由になった彼の体に、一瞬の間もおかずに、またどっと別の手が絡みつく。そしてそれがまた彼の放つ白炎に焼かれ、瞬時にして消え去る。
 同じことを三度繰り返し、ようやくさすがの化け物も恐れをなしたのか、四度目にはすぐに襲いかかってはこないで、様子をうかがうように遠巻きにざわざわと揺れていた。 
 その隙に、亞珠梨は亀裂へとまい戻った。裂け目はもう人一人がやっと通れるほどにまで閉じており、劉沙の突き刺した剣と、彼が間に入って両手で押しとどめているのとで、どうにか開いている状態だった。
 亞珠梨は大急ぎで這い出した。それを見届け、劉沙は自分も脱出するために満身の力で亀裂を押さえていた手を緩めた。支える力のひとつがなくなった途端、裂け目が急速にぐぐっとふさがり、つっかえ棒として差し込まれた頑強な剣が、弓のように丸くしなった。
「急いで、劉沙」
 亞珠梨はせかした。しかしどうしたことか、劉沙は眉をしかめ、なかなか上がってこない。
「なにをやってるんだ! 早く!」
「足になにかが……」
「つかまれたのか?」
 亞珠梨が中をのぞき込むと、一本の手が伸びて劉沙の足首を握っているのが見えた。獲物を逃すまいとしつこく食い下がっているのだ。亞珠梨は小さく舌打ちした。
「待て、今はらってやる」
 亞珠梨は身を屈め、劉沙の体の隙間から手を差し入れた。
 その時、キーンと甲高い音が耳をつんざいた。と同時に、劉沙にどん、と激しく突き飛ばされて、亞珠梨は後ろにふっとんだ。
 一瞬何が起きたのかわからなかった。それまでつっかえ棒代わりに亀裂に挟みこんであった剣が、とうとう限界を超え、ついにまっぷたつに折れたのだ。最後の支えを失った裂け目は、ず……んと低く重たい音とともにその口を閉じた。
「うぐぅっ!」 
大地に厚い胸をはさまれ、劉沙は絞り出すような悲鳴をあげた。うなる口から真っ赤な血がほとばしった。
「劉沙!」
「くぅ……ぐ……」
亞珠梨はもう一度大地を開かせようとして、地面に手をあてた。しかし劉沙はその手をつかみ、苦しげな息の下から云った。
「もう……、もう無駄です。骨が、肺に……」
亞珠梨は蒼白になって、鬼の手をふりはらい再度地面に触れた。その上に、劉沙の大きな手が力なく覆いかぶさってきた。息も絶え絶えに、彼は最後の力を振り絞るように訴えた。
「亞珠梨ど……の、皇子を、瑠叉那さまを、私の中から、出してください。そしてどうか……、あの方を……、頼みます。どうか」
「劉沙……」
「た……の……、亞……」
ひくっと劉沙の喉が鳴った。開いた口の中に、どくどくと湧き出すように血が溢れてくる。瞳の焦点が失われてゆく。
(最期か……)
 誰の目にも、すでに手遅れであることは明らかだった。亞珠梨は断腸の思いで見切りをつけた。そしてくっと堅く唇をかむと、命の火消えゆかんとしている鬼の胸に手をあて、大声で叫んだ。
「血肉の檻よ、我が声を聞け。扉を開け! その躯に眠る宝珠を解放せよ! 消えろ!」
 かけ声とともに、鬼の巨体は一瞬にして霧のように消え去った。
 同時に亞珠梨は力を込めて手をひいた。その手に導かれ、空中の見えないポケットからひっぱりだされるかのように、一人の少年が腕をつかまれて現れ出た。 
パ……ン、とかすかな音がして、シャボン玉がはじけるように彼をつつんでいた透明な気泡がはじける。
 ふわぁっと、長い金色の髪が宙に舞う。薄い若草色をした衣の裾がひらひらとなびき、宙を舞う少年の体の回りで花びらの様に踊る。少年の体はそのままどさりと地面に投げ出された。
 それからしばしの間、少年は眠ったままだったが、やがて小さくうなり声をあげると、ゆっくりとその目を開けた。
 眠っていた視神経を揺り起こすかのように二・三度パチパチと大きく目をまばたかせる。そして意識と視界がはっきりと甦ってくると、眼前にいる亞珠梨を瞳にとらえた。
それは、紫がかった深い蒼の、瑠璃のような瞳であった。


  
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