亞珠梨 −夢幻奇譚
第一部 倭編 −1−  

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ったように燃え盛る炎が、夕闇のおとずれはじめた空を真っ赤に染めあげていた。

 その中で、赤鬼羅(せききら)族の都はいまや阿鼻叫喚のちまたと化し、激しい死闘がくりひろげられていた。
 泣き叫ぶ女こども。全身火だるまとなりながら断末魔の悲鳴をあげる者。また声をからしてはぐれた家族の名を呼ぶ男たちなど、それはまさにこの世の地獄とも言うべき光景であった。
都の中央にそびえ立つ族長の屋敷でもまた、せまりくる炎の前になすすべもなく、族長とひとりの臣下が壮絶な死をむかえようとしていた。
 老いてしわのきざまれた長の顔には、この場においてなおこの世に未練を残すように、無念の表情が強く浮かんでいた。
長はしわがれた声でかたわらの臣下にむかって叫んだ。
「早く行け、劉沙(りゅうさ)! ぐずぐずしていると壁が落ちる! せっかく開いた異空の道がふさがってしまうぞ!」
だが劉沙と呼ばれた臣下は、躊躇した。
「しかし、長、あなたさまひとりを残しては……」
「ばかもの! 余計なことを考えるな! わしはもうだめだ。病の胸を火に焼かれ、動くこともかなわぬ。どこに逃げたとて長くは持たぬ。足手まといになるだけよ」
「ですが……」
「それよりおまえはなんとしても生きのびて、われら最期の希望の星を、あの御方に託すのだ。あの御方はきっと力になってくださる。そして、せめて真実を天に示してくれ。われら赤鬼羅は決して謀反の徒ではないと。これはすべて欺かれた陰謀なのだと、天に証しをたててくれ!」
「長どの……」
 族長の強い命令を受け、劉沙は意を決した。唇をかみしめながら立ちあがり、眼前にそびえる広い壁に向かった。
 そこには不思議な空間が口をあけていた。
 白い漆喰の壁の中央に、ぽっかりと開いた黒い穴。
 その向こうには、底も果ても見えぬ深遠なる闇の世界が広がっている。
劉沙はなおも立ち去りがたそうに幾度かふりかえり、そしてやがてその中に飛びこんでいった。
残された長はすでに見えなくなった彼の後ろ姿にむけ、祈りをこめて叫び続けた。
「よいか、劉沙! 人間界、東の地。倭の国だ! そこに必ずあの御方はいる。あの御方。この世で最も偉大であった大仙人麗雅王さまの末裔が。伝説の仙者、亞珠梨(あしゅり)どのが! なんとしても探してくれ。そしてあの子を、瑠叉那(るしゃな)を……、たのむ。たのむ……」
がらがらと音をたてて燃え落ちる天井が、長の最期の声を無情にかき消していった。


  第一部 倭編 

1 人間嫌いの仙者


やわらかな五月の風が、中庭の低木の間をやさしく吹きぬけていった。
向陵高校のグランドはたくさんの学生達であふれ、皆それぞれクラブ活動に熱中していた。
 にぎやかな声があたりいっぱいに広まり、その脇を甲高い笑い声をあげながら、少女らの帰宅グループが帰ってゆく。
それはいつもの、ありふれた放課後の風景であった。
亞珠梨は、体育館の横の太い樫の木の根元で、幹にもたれ本を読んでいた。
春の光がふりそそぐその場所は、通り道からもややはずれ、人もあまり来ない。彼のお気に入りの場所だ。
ここで、幼なじみの高志がバスケット部の練習を終えるのを待ち、一緒に帰る。それは入学してからずっと続いていた習慣だった。
 亞珠梨の前に、ふと小さな黒い影ができる。亞珠梨は本から顔をあげた。
そこには小柄な、赤いリボンをつけた女の子がひとり立っていた。顔も名前も知らない娘だ。胸の記章は一年生の赤いバッジである。
少女はふっくらした頬を朱に染め、おずおずと口を開いた。
「え、と、あのぉ……」
だが亞珠梨は無言のまま、再び視線を本に戻した。少女は笑みひとつ浮かべぬ彼の態度に多少戸惑いながらも、果敢に話しかけてきた。
「その……これ、ちょっと早いんですけど、お誕生日のプレゼントなんです。受け取ってください、東条さん」
そう言うと、きれいにラッピングされた小箱を目の前に差し出した。
 亞珠梨はちらりとそれをいちべつしたが、なんの興味も示さず、黙って本を読み続けた。少女は当惑し、困ったように立ちつくした。
「あの……」
言いかけた言葉が、唐突にさえぎられる。
「邪魔だよ」
「え?」
「読書の邪魔。きみが影になるんだ。そこどいてくれないか?」
少女は慌てて、ぴょんと横にとびのいた。そして少しの間、話の続きを待っていたが、それっきり彼の口からは何の言葉もなく、差しだした小箱も忘れられたままだった。
 完壁に無視されているのだと気づき、少女は泣きだしそうに顔をゆがめ、くるりときびすを返すと、ぱたぱたと走り去っていった。
亞珠梨はただの一度もその後ろ姿に視線を向けようとはしなかった。何事もなかったかのように平然と読書を続けた。
 と、突然大きな明るい声が響いた。
「こらぁ、見たぞ、珠梨」
亞珠梨はその声に、ぱたんと手の中の本を閉じ、ふりかえった。初めてその端正な顔立ちに笑顔が浮かんだ。
「高志、練習、終わったのか?」
亞珠梨が笑みを向けたその先には、赤いバスケットボール部のユニフォームを着た、ひょろんと背の高い少年が、腰に両手をあて、眉をしかめて見おろしていた。
「終わったのかじゃねえ。またやったな、珠梨。おまえ、もう少しその性格どうにかならないのかよ?」
亞珠梨は切れ長の瞳をきょとんと見開いて問いかえした。
「その性格って?」
「だーかーら、その極端な人見知りのことだよ。おまえな、いくらその気がないからって無視するこたぁないだろうが。可哀相に、泣いてたぜ、今のこ」
高志は、もういない少女の消え去った方向を見て、呆れたように首をふった。
「まったく、俺以外の人間には挨拶もろくにしやしねえ。高二にもなって、幼稚園児よりしつけがなってないよ、おまえは」
高志は有無を言わさずにまくしたてた。
「おまけに返事どころか愛想笑いひとつしねえし。無愛想で、そっけなくて、礼儀知らずで、ほんっとに呆れっちまうぜ、俺は」
やってくるなり言いたい放題の彼に、亞珠梨は口をとがらせ、つまらなそうに反論した。
「……愛想笑いなんかしたくない。どうでもいい奴はほっとけばいいじゃないか」
「バァカ、なに言ってんだよ。それが潤滑な人間関係の基本ってもんだろうが」
「大きなお世話だよ」
亞珠梨はぷいと顔を背けた。
 高志はふうと大きくため息をついた。
「んとに……、おまえの人間嫌いは重症だな、珠梨。だから女にはもてても、友達のひとりもいないんだぞ。まったく……。おい、もうちょっと待ってろ。いま着替えてくるから」
 彼は呆れたようにもう一度嘆息し、体育館へと戻っていった。
その後ろ姿を目で追いながら、亞珠梨は思った。
 確かに彼の言うとおりだ。
 友達は高志だけ。他には異性にも同性にもそう呼べるものはひとりもいない。端正な容姿にひかれて何も知らぬ女たちが寄ってはくるが、それはただの憧れだけ。冷たさに気づけば、皆彼から離れていく。
 だが、そのことに不満も悲しみもない。むしろ自分から、他人とかかわり合いになることを避けているのだから。
亞珠梨はきゅっと唇を結んだ。
(誰もいらない。……ひとりだけ、高志だけいればそれで充分だ。生きてゆくには……)
ふわりと風がそよぎ、亞珠梨の細い漆黒の髪を宙に舞いあがらせる。
 と、その中に一瞬キナ臭いような匂いを感じて、亞珠梨は眉をひそめた。
 何かの燃えるような、強い異臭だ。木々や、建物や、そしてそれに混じってーー動物の血肉の焼けるおぞましい臭い。
 思わずあたりを見わたしたが、別段変わった様子はなにもなかった。
 熱かった太陽がようやくかげり始め、部活を終えた学生達が次々と姿を消してゆく。後片づけをする一年生のわずかな声。グランドに徐々に静けさが訪れていく。
(気の……せい、か?)
だが妙な胸騒ぎをおぼえ、緊張は消えなかった。不安を感じながら、本を鞄に戻し亞珠梨は立ちあがった。
 その時、突然目の前の景色がゆらりと揺らいだ。
 一瞬めまいに似た感触が彼を襲う。
 なにもない空中の一部分がねじられたようにぐにゃりと歪んで、そこに奇妙な気流の渦を描きはじめた。
 地響きのようなかすかな振動が、風にのって伝わってくる。
 やがてねじれた空間の中心部分が、向こう側からゆっくりと何かにこじ開けられ、そしてその奥から低いうなりにも似た声が聞こえてきた。
『……亞……珠、か?……』
亞珠梨は硬直し、その場に凍りついた。
『……仙者、亞珠梨。……麗雅王(れいがおう)……大仙の末裔……亞珠梨どのか?』
 亞珠梨の顔からすうっと血の気が失せ、蒼白になった。
「ちがう……」
『亞珠梨どの……』
「やめろ!」
彼は声を震わし、ねじれた空間に向かって絶叫した。
「ちがう! 僕は珠梨だ。東条珠梨という人間だ! 仙者なんかではない。ただの人間なんだ!」
『……亞……』
「消えろ!」
その叫び声に反応したかのように、亞珠梨の体のまわりが一瞬ぱあっと白く発光した。
 その瞬間、ふっと声は消え失せ、そして同時に歪んだ空間も瞬時にして元に戻った。
辺りは、静寂につつまれていた。
 なんの異変もおきてはいない。いつもと同じ、いつもと変わらぬ平穏な世界、平和な風景。ひきつった表情で立ちつくす亞珠梨の姿以外には。
彼は、高鳴る胸の鼓動をおさえた。息が荒い。冷たい汗が一滴頬をつたう。しばらくの間、身動きひとつせずに彼はその場に立っていた。
耳を澄ましても、もうなにも聞こえてはこなかった。まるで束の間の夢ででもあったかのように、すべては消え失せていた。
 しかし耳の奥にはいまだあの声が残っている。
 低く太く、うなるような声。
 恐ろしい声。そしてーー聞きたくない言葉。
 ーー『仙者、亞珠梨』ーー
(ばかな……。いったい誰だ? この世界にその名を知るものなど、いない筈なのに……)
亞珠梨は思い起こして身震いした。
 そのうち、高志が制服に着替えて戻ってきた。呆然としてたたずむ亞珠梨に、不思議そうに声をかける。
「なんだ、どうかしたのか?」
 亞珠梨はかすかに口の端をあげ、ゆっくりとこうべを振った。
「いや……、べつに」
「おい、走ろうぜ。まだ六時のバスまにあうぞ。次の待つのかったるいじゃん」
「ああ」
亞珠梨は静かにうなづき、すでに走り出している彼の後を追って駆け出した。
走りだした亞珠梨の体のまわりを、風がぐるりと渦を巻いてつつみこんだ。まるでなにかが彼をひきとめようとでもするかのように。
亞珠梨はそれを振りきって全速力で走った。
 風につかまらないように。いま見た悪夢に、つかまらないように……。


 二十分ほどバスに揺られ、降りたところは、閑静な住宅街の入り口であった。
 辺りはすでにうっすらと闇につつまれ、道端の街灯には白い明りがともり、寂しげな銀の光を落としていた。
亞珠梨と高志は、並んで家路をたどりながら、しばらくは他愛のない雑談をかわしていた。が、そのうち突然思いだしたように、高志がしみじみと呟いた。
「なあ、おまえが引っ越してきたのって、確か俺たちが六歳ん時だったよなあ、珠梨」
亞珠梨はちらりと高志を見やった。
「そう……だったっけね」
「そうだよ。俺しっかり覚えてるぜ、初めて会った時のこと。がっかりしたもんな。せっかく遊び仲間ができたと思ったのに、なーんだ、このホニャホニャした奴って」
「ひどいな。なんだよ、それ」
「だって、おまえ、女の子みたいだったじゃないか。俺のおふくろだって、最初間違えたんだぜ。可愛いお嬢さんって」
 高志は思い出してくすりと笑った。
 その頃はここいらもまだまだ空き地ばかりで、近くに一緒に遊べるような子供はいなかった。右隣に越してきた若い夫婦に同い年の子がいると聞いた時、本当に高志は喜んだのだ。
 それから十年。二人はいつも一緒だった。まるっきり違う性格なのに、仲が良かった。まるでお互いがその分身ででもあるかのように。
だからこそ、高志は自分以外の人間を極端に敬遠する幼なじみのことを、心から危惧していた。
「おまえ、俺には最初からすぐに慣れたのに、どうして他の奴らにはだめなんだろう? 変だよな」
高志は不思議そうにつぶやいた。亞珠梨は苦笑し、肩をすくめた。
「またお説教なら聞きたくないよ」
「そ、そんなんじゃないけど。ただ……俺といる時のおまえなら……、友達なんていくらでもできるのにと思うとなぁ」
そう言って深くため息をつく。
「おまえ、知ってるか? みんなおまえのこと、めちゃくちゃいってんだぜ。顔はいいけど性格が超悪いとか、冷たい奴だとか。暗いだの、陰険だの、もう好き勝手に言いたい放題」
亞珠梨は小さく笑った。
「へえ、そう? ふうん」
「ふうんって……、おまえくやしくないのかよ?」
「別に。あたってるじゃないか」
「馬鹿言えよ。ーーおまえさ、そんな誤解されて、孤立して、悔しいと思わないか? 淋しくないのか?」
「淋しい? 僕が? ふん。考えたこともないね」
「だっておまえ、ときどきそういう顔してるじゃないか」
「よせよ。勝手な思い込みだね、そんなの」
「そうじゃない。俺にはわかる。目が、淋しいって言ってんだよ」
「もういい。黙れ、高志」
「素直じゃないぜ、おまえは。ほんとうは誰よりも甘ったれのくせに……」
「黙れっていっただろ。余計なお世話だ。ほっといてくれ」
亞珠梨は眉をひそめ高志をにらみつけると、ふいっと顔を背けた。高志はそんな彼の拒絶の前に、憮然としつつもしかたなく口をつぐんだ。
 しばし沈黙が続く。ふたりは気まずい雰囲気のまま、しばらく無言で歩いていた。
 やがて亞珠梨が、苦々しげに口を開いた。
「……いいんだよ、別に。……誰もいらない。君だけいれば、僕はそれで満足だ。生きてゆけるんだ……」
彼は足元の地面ばかりを見つめながら、独り言のように語った。それはまるで自分自身に言いきかせているかのように、厳しい口調だった。
「人間なんて嫌いだ。男も女も、家も、学校も、この世界も、みんな嫌いだ。なにもかも嫌いだ。本物なんて、何一つないんだから。何もかもが僕の……、僕の……」
そこまで言いかけて、色の薄い唇がきりりとかたく閉ざされる。切れながの黒い瞳が、せつなそうに細められた。
「珠梨……」
高志は口をつぐんだ。何を言っても、亞珠梨の耳に届かないように感じたのだ。話の輪が途切れ、ふたりはむっつりと押し黙った。
 夕暮れの住宅街をただ黙々と歩き続ける。
その時、前方の街灯の薄明り中に、突然ぽっかりと奇異なものが浮かびあがった。
ふたりはハッとして、足を止めた。
それはまるで大きな火の玉のようだった。ぼうっと揺らめきながら、空中に浮かんでいる。だが赤く燃える炎ではない。火の玉のように見えたそれは、真っ暗な闇でできた丸い、穴、だった。
穴の回りの境目の景色がぼやけ、陽炎のようにぼんやりとゆらゆら搖れている。そして呆然と立ちつくす二人の前で、穴はみるみる大きくなっていき、やがてそれは人の背をも飲みこむ程の、闇に通ずる巨大な裂け目となった。
声もなく、愕然として見入っていた二人は、同時にひくっと息を飲んだ。その闇の中、大きな穴のむこう側から、奇っ怪なるものが出現したのである。
のっそりと姿を現したそれは、ゆうに二メートルはありそうな大男であった。
 背丈だけではない。幅もすごい。がっちりとした体躯に、盛り上がった全身の筋肉。太い腕、太い足。
 そしてなによりも奇異だったのは、男はあきらかに人間ではなかった。それはどう見てもーー鬼、であった。
頭頂からつきだした太い角。分厚い唇からはみだしている、獣のような牙。おとぎ話や伝説の中で聞かされていた、恐ろしい鬼の姿そのまま。
 おまけに、人よりずいぶんと赤黒い肌は全身が傷だらけで、血にまみれて、ぎらぎらときらめいていた。
鬼は地面に降り立つなり、どうっと大きな音をたてて転倒した。その音に我にかえって、高志が驚愕の悲鳴をあげた。
「うわ、うわあぁっ!」
彼は思わず亞珠梨にすがりついた。小さく深呼吸すると、震える声でつぶやいた。
「な、な、……なんだよ、これぇ」
だが亞珠梨は声もなく、蒼白の面もちで肩を微かに震わせて眼前を見入っていた。
地面に倒れふした鬼は、しばらくの間微動だにせずに転がっていたが、ぴくりと背中の筋肉が動いたかと思うと、やがてゆっくりと半身を起こした。
深紅の瞳で、しっかと目の前の人間達を見据える。だが姿とは裏腹にその目に凶暴な光はなく、かわりに深い知性と、そしてたいそう緊迫した心情にあふれていた。
 鬼は荒く息をつきながら、かすれた声で言った。
「貴公らに、たずねる。ここは、人間界倭(やまと)の国か?」
問いただす鬼の唇から、紅の血がとろりとながれでた。
ふたりは呆然として返す言葉もなかった。空想の産物であるはずの鬼が突然目の前に現れ、そして自分たちに問いかけている。その信じがたい現実に、考える力が失われてしまったかのようだ。
鬼は返答をえられぬことに苛立ちを感じた様子で、再び問いかけてきた。
「ここいらに、亞珠梨という御方はおらぬであろうか? 風に伝え聞いた。この地、このあたりにおられるらしいと……」
 亞珠梨の体がぴくりとひきつる。高志ははっと息を飲み、こわごわと友人の顔をのぞき込んでつぶやいた。
「……亞、珠梨って、……まさか、おまえのことか……、珠梨?」
だがその答はなかった。
 亞珠梨はくるりと身をひるがえすと、高志のほうに向きなおって、すっと白い手を伸ばし、叫んだ。
「ごめん、高志!」
とん、と手のひらが軽く高志の額を打った。途端に彼の体からすうっと力が抜け、高志はあっさりと気を失った。
 亞珠梨は崩れ落ちる彼の体を受け止めると、胸に抱きかかえたまま地面に膝をついた。そして、きっと鬼をにらみつけ、一言叫んだ。
「帰れ!」
鬼は思わぬ展開に、しばし不思議そうに目を細めて彼を見つめていたが、やがてゆっくりと云った。
「貴公が、亞珠梨……どの、か?」
「違う!」
亞珠梨は強く否定した。しかし鬼は、苦痛にゆがんだ顔をわずかにほころばせて、確信に満ちた口調で語った。
「ああ、間違いない。先ほど聞いた声も確かにその声。異空の道は我らの願いを聞き届け、正しく亞珠梨どのの元へと我を導いてくれたのだ。多謝。……そうか、貴公が……、貴公が亞珠梨どのであらせられるか。やっとお見つけした……。太古の昔千年の時を生き、広く世につくされた偉大なる大仙人ーー麗雅王さまの末裔。伝説の仙者どのよ」
鬼は傷ついた体を重たげに起こすと、地面に手をつき、うやうやしくひれ伏した。
「あらためてご挨拶申しあげる。拙は江河赤鬼羅族の劉沙(りゅうさ)という者。族長の命により、亞珠梨どのに御拝謁つかまつりたく参りました」
鬼は額をこすりつけんがばかりに低く頭をさげ、口上した。
「お願いでございます! なにとぞ、われらが願いをお聞きとどけくださいませ、亞珠梨どの!」
必死の様相で嘆願する。だが亞珠梨はきりっと唇を噛み、首をふった。
「……違う。僕は……仙者などではない。ただの人間だ……」
「お聞きくださいませ、亞珠梨どの」
「その名で呼ぶな!」
亞珠梨はヒステリックに叫んだ。
「違うと言ってるだろ! 帰れ! 消えろ! 僕はなにも聞きたくはない! なにも関わりたくない!」
「亞珠梨どの……!」
 その時、突然背後の穴から猛烈な勢いで三つの赤い炎が飛び出してきた。
 それはまさしく火の玉だった。だが、ゆらゆらと闇を浮遊しているような生優しいものではなかった。悪意と邪気に満ちた、危険な魔の世界のものだった。
 火の玉はこうごうと音をたてながら凄いスピードで荒れ狂ったように宙を飛び回っていたかと思うと、くるりと弧を描いて猛然と亞珠梨にむかって襲いかかってきた。
「うわぁっ!」
「亞珠梨どの!」
鬼がひらりと飛びあがった。その巨体からは信じられないような素早さで、腰から幅広の刀剣を引き抜くと、見事に一太刀で炎を二つ切りはらった。
 シュバッーージュシュゥ……。
 火の玉は白い水蒸気をあげて霧散した。
しかしやいばを逃れた残りの一つが、執拗に亞珠梨に襲いかかった。
「わっ…………!」
亞珠梨はわが身と高志をかばってとっさに腕を差し出した。その手が、燃える白銀のように輝く。炎は白いきらめきに触れるや否や激しくはじき飛ばされ、ぱっと空中でくだけ散った。ひゅんと鋭い風がおき、亞珠梨の左頬をなでる。白い肌から、ひとすじの血が流れ落ちた。
「亞珠梨どの、ご無事か?」
鬼は刀剣を構えたまま、たずねた。だが返答を待つ間もあらず、闇の穴の奥からごうごうと低い音が鳴り響き、不気味な振動が熱い風にのって伝わってきた。
 気配が漂ってくる。新たに何かが訪れようとしている。鬼は全身の神経をはりつめ、身構えた。
バシュゥゥゥッーー!
闇の穴から燃えるような熱気が吹きだし、音がいっそう高く響いた。
(来る!)
二人は同時に確信した。
ごごうっと赤い炎が激しく燃えたって穴から吹きだしたかと思うと、その火の中に、ぎらりときらめく大きな三つの眼が浮かびあがった。
 一つがそれぞれ子供の頭ほどもありそうな、巨大な眼。それが獲物を探す獣のように、ぎょろりと不気味に眼球を動めかす。
 眼を持つ炎の化け物は、空間に開いた裂け目からすさまじい勢いで吹き出し、そして徐々に恐ろしい形相の姿形をなしていった。
「化け物め! 我を追ってきたか!」
鬼は亞珠梨たちをかばうようにして、彼らの前に身をのりだし、剣を構えた。だが亞珠梨はそれを制し、叫んだ。
「そこをどけ! 道を塞ぐ!」
その声を受け、すばやく鬼がとびのいた。亞珠梨は炎吹き出す闇の空間に向かって、凛とした声で叫んだ。
「閉じろ、異空の輪! 火炎の亡者を己の世界なる深き淵へと連れて去ね!」
 一瞬、回りの空間が言葉に共鳴するように、キイィンと耳障りな高いパルスを含んで揺れた。そして、ご、ご、ご、と低い地響きの音ともに、かすかな振動が起こり、炎と熱風でふくれあがっていた穴が、ゆっくりと閉じ始めた。
 まわりの空間を巻き込むようにして、歪んだ渦を描きながら、少しづつ閉まっていく。炎の顔をした異形のものは、その強い流れにひきこまれ、無理矢理穴の中へとひき戻されていった。
「ギィイィィィッーー! グエエェーー!」
閉じていく穴の、歪んだ渦に身をねじられて、化け物は壮絶な悲鳴をあげた。這い出ようとして必死にもがき、かなわず、その身を引きちぎられながらも、しばらくの間激しく抵抗していた。
 が、やがて閉じようとする空間の力に負け、化け物は闇の奥へと引きずり込まれて消えていった。
闇の穴は消滅した。
完全に閉じた後も、しばらくの間低い号音が響いていた。が、それもいつしか消え、あたりはまた静かないつもの世界へと戻っていた。
いや、そこには鬼が残っていた。異空の道から、異世界から訪れた、異形の来訪者が残っていた。
 亞珠梨と鬼は、どちらからともなく顔を見あわせ、にらみあった。さきに沈黙をやぶったのは、鬼のほうであった。
「もう戻れませぬ!」
 先を制される前にといわんがばかりに、鬼は身をのりだして叫んだ。
「あの異空の道は、行をつんだ僧が五人がかりで成したもの。拙には開くことはできませぬ。もう元の世界には戻れぬ。あなたのお力無くしては。亞珠梨どの、よもやこのままお見捨てにはなされませぬな? お力になってくださいますな? 仙者どのよ!」
その脅迫めいた言葉には、あとのない切迫した事態にあることが強く現れていた。亞珠梨はそんな鬼の迫力に押され、しかし、よしと了解することもできずに、困惑し、沈黙した。
その時、腕の中で高志がうめき声をあげた。
「う……ん」
かけた術がとけかかっている。亞珠梨はしかたなく鬼にむかって言った。
「わかった。話だけは聞く。だが力になれるかどうかはわからない……。僕は……」
あやふやな返事だったが、鬼はうれしそうに顔をほころばせた。
「でもこの場ではまずい。とりあえず、姿を消させてもらうぞ」
亞珠梨は言いおわるやいなや、ふっと小さく息を吐いて、それを飛ばすように鬼に向けて指ではらった。途端に、鬼の巨体がすうっと消え失せてしまった。
 鬼が消えるの見届け、亞珠梨は高志の額に手をあてて、つぶやいた。
「きみは何も見なかった。目が覚めた時、そこはいつもとなにも変わらない。何もなかったんだ、高志」
そう言い終わると同時に、高志が小さくうめいて目をさました。
高志はしばし亞珠梨の腕に抱かれたまま茫然としていたが、わっと叫んであわてて身を起こした。
「な、なんだ? 俺、なにやってんだ? こんなとこに寝そべって」
「あ、その、え……と、貧血おこしたんだ」
「貧血ぅ? 俺が? んな、ばかな……」
 高志は眉をしかめ、不思議そうにつぶやいた。いぶかしげに額を押さえ、途切れた記憶の糸をたぐるように考えこむ。ふと頭をあげ、亞珠梨の顔に目をとめた。
「血が……でてる」
亞珠梨はそう言われてはじめて、先ほど負った傷のことを思い出した。
 高志の手がすっとのびてきて、そっと頬に触れた。がっちりとした大きな手。それが傷をいたわるように優しく頬にそえられる。高志はそのままじっと亞珠梨を見つめた。
「なにが……あったんだ?」
記憶の削除が完全ではなかったのか、それとも本能的に異変を感じとったのか、彼は神妙な様子でたずねた。亞珠梨は無言のまま首をふった。
しかし高志はそんな答には満足せず、問いを重ねた。
「なにがあった? 珠梨、おしえてくれ。どうしたんだ?」
 探るような眼差しだった。瞳の奥までのぞきこむように。亞珠梨は射すくめられたように身動きできず、ただ彼の目を見返していた。そして確信した。彼と、そしてこの世界と、別れなければならないことを。
 遠からぬ未来に……。 




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