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被虐の系譜

 

 

被虐の系譜

 ブレーキの音に回りの森がざわついた。
 
流線形の車体にはね上げられた人の身体が激しく回転して宙に舞い上がった。
 遠心力に負けた手足が大きく広がり、羽ばたくようにうち振られた。体と服が縦に裂かれて飛び散った。どこにいたのかと驚くほどの鳥達が、落ちてくるその体をかすめて飛び立って行った。アスファルトに黒いゴムをこびりつかせて、スピンをした白い車は止まった。
 シートベルトの反動で、解矢は背もたれに叩きつけられた。ショックで身動きもできずにうずくまる。闇をつらぬくヘッドライトの明りが、道路わきの景色を妙な角度で照らし出していた。暗い車内で手足が冷えていく。警察を呼ばなくては。いや、先に救急車だ。会社に連絡しなければ。両親の顔、親しい友人の顔。どんどん頭が空白になっていった。車を路肩に寄せなくては。今のは間違いなく人だったのか。どちらに過失があった? 目撃者はいるか。被害者は生きているのか。
 人は死の瞬間に過去の記憶を走馬燈のように見るというが、それは絶望的状況におかれた自分を救うために、意識が解決方法を求めて過去の経験を照会しているからだという。死に等しいショックに見舞われた意識は自分自身を守ろうと同じ動作を見せた。そしてそれが成せないとわかったとき、自我は逃避を始めた。すばやく遠くかすんでいく。
 いや、現実から逃げている場合ではない。いま、間違いなく人をはねたのだ。解矢は激しくかぶりを振った。
 昼間の雨でうっすらと湿った道路は、遠くの街灯のあかりをいくつにもわけて、みずたまりを造っていた。ゴムの焼ける不快な匂いが、薄い霧にとけ込みただよっていた。
 車を降りた解矢はよろよろと、人がうずくまるそこに駆けよっていった。こんもりと、白と黒の不思議なオブジェに見えるそれは、間違いなく人間だった。
「ああっ、くそっ! あ、あの、君」
 膝をつき、恐る恐るその黒い塊に手を触れてみた。全身を覆っていると見えた黒いベールは見事な長い髪の毛だ。コートと一緒に飛ばされたのか、衣服がほとんど残っていない。
「ーーうっ、うん」
 動いた。動いている。彼女はまだ生きている。解矢はどっと血が顔に登ってくるのを感じた。生きている!
「うっ、あ、あん」
 まるで骨格を持たない柔らかいもののように彼女は身をよじった。どこかに溜っていた血がじわりと濡れたアスファルトに広がった。
 解矢は突然襲ってきた吐き気に、腹を胸を抱え込んだ。彼女の身体が変だ。腕が無い。いや、腹の下でうごめいていた。まるで別のいきもののように、傷ついた身体を無視してうねっている。
「君、苦しいのか、い、いま救急車を呼ぶから、がんばってくれ。死ぬな。死ぬなよ」
 恐ろしい。とても見ていられない。
「き、君。聞こえるか? 君」
 ためらいながら、黒い髪に手をのばした。
「ああっ!」
 髪の下から真紅の指が飛び出した。血しぶきをまき散らして、解矢の腕をとらえた。
 恐怖で視界が狭まった。
「お、おい。動くなよ! しっかりしろ。死なないでくれ」
「う、ああ、あ」
 彼女の体がうねった。腰が浮き、背を緊張させて左右にくねらせながら沈んでいった。横に重ねられていたすらりとした足が、擦り合わされながら、曲がっていく。
 解矢は魅入られたように動きを止めた。何かがおかしい。これが交通事故なのか? 彼女の息が荒いのはなぜだ? 苦しいのか?
 突然、思いがけない力で、掴まれた腕を引き寄せられた。彼女の上に覆いかぶさるように膝をついた。血の臭いが、香水とまじって陰惨な空気を作り出し、二人を包んだ。
「ああ、ーーあ、ああっ」
 彼女は解矢の指を自分の身体の下に引き込もうとしていた。解矢の胸の動悸が激しくなっていった。たったいま自分が交通事故を起こしたことを忘れてしまいそうだ。まるで、学生のように、あらぬ想像の虜になっている。
 いや、妄想などではない。
 彼女の片腕は、うっすらと血に染まった白い足の付け根にはさまれていた。腕の柔らかく薄い皮の下で筋肉がうごめいている。指が激しく使われているのだ。
 先ほどにも増して彼女の息づかいが荒くなった。いっときも身体の動きがとまらない。小刻みに顎が震え続けている。徐々に全身の緊張が高まっていった。解矢は胸に導かれた手に神経を集中した。生唾を飲み込んで彼女の胸に強く指を立てた。その下では心臓がけなげに脈打っていた。
 びくんと、全身が跳ねた。肉が湿った音をたてた。髪に覆われた顔が左右に振られた
「ひぃ、……ああぁぁっ……ああいいぃぃ」
 悲鳴とも嬌声ともつかない声が、血の泡を浮かべた唇の端から漏れた。
 一瞬、ゴムマリのように固く丸まった全身が、妖しく波うって伸びはじめた。解矢の腕を掴んだ左手だけで、彼によじ登ろうとするかのように、上半身をそらせていく。どろりと固まりかけた血が地面に広がった。
「き、君、君」
 ぐんっと腰がよじれ、髪が大きく振り上げられた。髪が割れて、夜目にも鮮やかな白い顔が現れた。はっと解矢は息を飲んだ。黒いゼリーのような瞳が濡れて見開かれた。
「いやっ、ーーああっ、あーー」
 目が会った瞬間、彼女は美しい曲線を描く喉を反らしてのけぞり、彼の腕を取ったまま固く倒れ込んでいった。
 血で固まった髪の毛が束になってその頬を覆っていった。熱い気配が急速にしぼんでいき、冷たい雨が肌に感じられた。
 じっとりと湿気を含んだ夜気が重く二人の体を固めていった。


 いつまでも息がおちつかない。解矢は自分の部屋で蹴つまづきながら、彼女をベッドに横たえた。ぐぼっと、湿った肉が空気と混ざる音がした。なま暖かい不潔な臭いが部屋に広がった。壁を殴りつけるように照明のスイッチを入れた。
「うっ」
 吐き気がこみ上げて、口を手で覆った。ぬるりと血が顔を汚した。ひどいものがベッドにあった。コートが広がり、無惨につぶれた腹部が呼吸とともに上下していた。
 体組織と内臓から流れでた内容物が、奇妙に鮮やかで立体的な色彩の海を造っていた。
瀕死の重傷を負った人間など、彼は見たことがない。破壊された全身とアンバランスな、美しく血色の良い顔が非現実的だ。
 しかし小さく開かれた口からはとめどなく血があふれ続けていた。
 解矢は洗面所に駆け込み、わけのわからない吐捨物をまき散らした。あまりのいきおいに脳や眼球まではみ出してきそうな錯覚を覚えた。血を吐けたら楽になると、残酷なことを想像した。
 意識が焦点を結ばない。白い洗面所の壁によりかかり、ずるずるとしゃがみ込んだ。天井の明るい照明が、手術室のライトを連想させた。時間の感覚が完全に欠落していた。 部屋に待っているものの事も忘れて、はいずるように寝室に戻った。
 彼女は死んだように、ぴくりとも動かず横たわっていた。いや、かすかに胸が動いていた。呼吸は続いている。まだ生きているのだ。解矢は息を詰めて近づいていった。コートが体を覆って、あわれな白い肌を隠している。血糊で固まったシーツをそっと指でなぞり、見えているものの感触を確かめてみた。
 不思議だ。彼女は眠っているように見えた。意識を失っているのではない。安らかな夜の眠りのように、静かに寝息を立てている。
 部屋のいたるところにこびりついたどす黒い血と異臭さえなければ、それは情事のあとの幸福なひとときの光景にも見えた。
 なぜ自分は彼女を部屋に連れ帰ったりしたのだろう。救急車も呼ばず、警察にも連絡をしないで。表沙汰にしたくないと、魔が射したのか。正常な判断をくだすこともできないほど気が動転していたのか。
 わからない。ただ、事故のときの彼女の異常な行動には、なにか尋常ならざるものを感じたことを覚えている。あれがすべての判断を狂わせたのだ。
 不謹慎なことを考えなかったとは言えない。
 そう、彼女の行為に目を奪われた、そして気づいたときにはもうマンションの駐車場に傷ついた愛車を入れようとしていた。彼女をコートと自分のスーツでくるみ、エレベーターでこの部屋までやってきた。
 部屋に入り、ドアを閉めたところで、驚くほどの血が流れだしたことをおぼえている。
 どうしていいかわからない。このまま彼女が死んだら、自分はいったいなにをしてしまうだろう。すぐに届を出さずに連れ去るなど、捕まれば申し開きの余地がない。
 かといって、今から病院につれていっても助かるとはとても思えない。素人目にも内臓が潰れてしまっているのが判るのだ。
 助かるわけがない。
 解矢の目が暗く淀んだ。昔、読んだ小説や映画のワンシーンが次々と脳裏をよぎった。
 どこかの湖に沈めてしまおうか。山に埋めてしまおうか。ばらばらにして家庭の廃棄物にしてしまおうか。
 それとも、いっそーー喰ってしまおうか。


「おはよう。さあ、起きて。遅れるわよ」
 その声に解矢は目を覚ました。料理をする心地よい音と香りが部屋に漂っていた。いつのまにかベッドにもたれて眠っていたらしい。
「 ……うっ」
 無理のある姿勢をとっていたせいで身体が痛い。しかし部屋にただよう、えもいえないすてきな雰囲気が、それを苦痛に感じさせなかった。
 なにかいつもと違う。そう、彼女はだれだ?
 見知らぬ女性が彼のシャツを着てキッチンに立っていた。彼の部屋は大きなワンルームである。その姿はよく見えた。
「朝はちゃんとたべなきゃね。ほら早く起きて。さめちゃうわ」
 彼女は長い足を心持ち広げてさっそうと立ち、至極当然のように彼に呼びかけた。長い髪を大きく束ねて、左肩から胸にたらしたカジュアルな雰囲気は、若い恋人のように朝のキッチンになじんでいた。 
「君ーー」解矢は絶句した。
 突然昨日の記憶が蘇った。生きている! 彼女が生きている。そんなばかな!
「ねぇ、どうしたのよ。本当に遅れるわよ。今日やすむつもり?」
 解矢は無言のまま首を振った。彼女は華やかな微笑を浮かべた。
「コーヒー飲むでしょ。いまいれるわ」
 彼女が背を向けたすきに、震える手で毛布を剥いでみた。そこには、血で固まっているはずのシーツはなく、白い清潔な真新しい布の輝きがあった。
解矢はのろのろと立ち上がり、部屋に昨日の気配を捜した。しかしなにも見つからない。
「お、俺、ゆうべはちょっと調子悪くて……あまり覚えていないんだけど」
 かすれた声をのどから絞りだした。
「ああっ、君は……」
「ええ、いやね。私よ。西山 美那子よ。もう、さっさと寝ちゃうんだから」
 彼女はなにかを思いだしたように、くすくすと笑った。
「……ああ、ごめん。本当に……覚えてないんだ」
 夢だったのか? まさか。これほどはっきりと覚えている。いまでも両手には崩れた肉の感触が残っている。横目で彼女の体を見た。必ず異常があるはずだ。そんな解矢の様子を知ってか知らずか彼女はくるりとふりむいた。豊かな胸が大きくはずんだ。
「はい、おまたせ。時間がないわ。はやく食べちゃいましょう」
 跳ねるように軽やかに、彼女はトレイに乗せた料理を運んできた。いつのまにか窓が明け放たれていて、しずかに流れ込んだ風が彼女のよい香りを漂わせた。
「うふふふ、なに見てるのよ。へんなひと」
 彼女はくったくなく笑った。
 いつもどおりの出勤準備を終えた解矢は、ドアを閉めようとして鍵を取り出した。
「私が閉めておくわよ」
 美那子がにっこりと笑って言った。
「あ、ああ」
「ふふっ、いってらっしゃい」
 くすり、と笑い、美那子は彼にキスをした。
「い、いってきます」
 こんな台詞は学生時代以来だ。解矢はうわついた足取りで階段を降りた。
「悪くはないけどさ……」
 ひとり、そんなことをつぶやいていた。
「解矢! いってらっしゃい」
 マンションの外に出たとき、彼女がベランダから声を掛けてきた。彼女はなにかきらきらするものを持ち、しきりに振っていた。逆光に目が眩む。解矢は少しうれしくなり、片手を軽く上げようとした。
 そのとき彼女は手にしたもので、左手の手首をさっ、となでた。それはその瞬間、ギラリと凶悪な光を見せた。
 彼女の手首から、真っ赤な紐が垂れ落ちた。それは地面に当たって、霧のようなしぶきを散らした。驚くような大量の噴出が手首からほとばしった。
 美那子はひきつる解矢の反応を楽しむように、ほがらかに笑った。
 解矢は眼をそらしてそれを無視した。凍りつく表情を伏せて気付かぬふりを装った。心臓の鼓動が早くなりかけているのが、胸の奥で感じられた。
 あれは夢ではなかったのだ。


 解矢は小さな不動産会社に勤めるサラリーマンである。午前中の煩雑な業務が一段落したのを見計らって、資料室から市内の最新版住所データのフロッピィを持ち出した。
 同僚の目を盗んで自分のパソコンにセットした。彼女の名前「西山 美那子」で検索をかけた。平凡な名前である。それはすぐに見つかった。彼女の名前で賃貸されているアパートが市内にあった。
 午後になり、彼は商談に行くと会社に偽って、彼女のアパートに向かった。そこに行ってなにかがわかるとも思えないがじっとしていられない。今朝は当然のように部屋を送り出されてしまった。手首を切り裂くところは誰も見ていない。近所の人達には、きっと新婚の二人にも見えたであろう。
 午前中、自分のマンションに電話をいれてみると、いつものぎこちなく話しだす自分の留守録ではなく、若妻然とした彼女が出た。彼はなにも言えずに受話器を置いた。
 彼女のペースに見事にはめられている。このままいると彼女はすっかり居ついてしまうのではないだろうか。あの一夜のことさえなければ、軟派した女性にそのまま居座られたまぬけな男のはなしですむ。時間がたてば、解矢もきっとそれで納得してしまうだろう。そのほうが心地よいに違いない。なにしろ彼女は美人だ。
 しかし、あれは悪夢でもなんでもない。彼の車には見誤る筈もない、大きなへこみができているのだ。
 アパートはすぐに見つかった。そこは、白壁の瀟洒な三階建ての建物で、いかにも若い女性の好みそうな美しい外装を施していた。 敷地内の一角ではニレの巨木が重そうに枝をゆらしていた。足元には白い砕石が敷き詰められて、雑草ひとつみあたらない。駐車場をあえて排したそのたたずまいは、住宅街の中にあって、いやに牧歌的だ。
 解矢はなぜか肩の力が抜けた。そう、あの異常な出会いから、彼女の正常な感覚に疑問を持ち始めていたのだ。なにを予想し、期待していたのかは自分でもはっきりしない。
 そのまま立ち去ろうとしたとき、どこからか、人の言い争う声が聞こえた。男が女を激しくなじっていた。解矢はためらいがちに目線を漂わせて、声の主を探した。どうやら屋上にだれかいるらしい。
「やめて!」
 解矢は緊張して聞き耳を立てた。
「この悪魔め! 貴様、自分がいったいなにをしたかわかっているのか。貴様のおかげで、私は、私は破滅だ! 私がどれほど苦しんだかわかるまい」 
 あざ笑う女の声が聞こえた。
「いいわ。喜んで責任を取らせてもらいます」
 おかしそうに、見下すように軽やかな笑い声がひびいた。
「さあ、私の命で償うわ。どうぞ殺してください。どうぞ、あなた」
 解矢は屋上を振り仰いだ。逆光の中、長い髪がフェンス越しになびいていた。彼女だ! 美那子が。なぜ?
「きさ、貴様、私にできないと思って! 貴様の母親と同じだ。貴様のような化物は!」
 男が狂ったように両手をふりかざして、美那子に掴みかかるのが見えた。
 なにが起きているのだ。いったい昨日からこの世はどうなってしまったのだ。
「やめろーー!」
 解矢は目がくらむほどのショックにこぶしをふりかざし叫んでいた。大地が狂ったように支点を失って傾いていく。世界のなにかが欠落したように、時間が止まる奇妙な一瞬がすぎた。ざあっと、ニレの葉が豊かに搖れる中を人間が二人、音も立てずに落ちてきた。
 その身体はやわらかい。地面ではねるでもなく、二人は白い砕石を汚した。
葉のざわめきにまじってかすかに聞こえた服のはためく音だけがいつまでも耳の奥に残っていた。解矢はたった今、目の前で起こった惨劇に身動きもできずに立ち尽くしていた。
 いや、違う。解矢は彼女を見ていた。期待を込めて。そこに転がるもの。白と黒と赤の塊と化したように見える彼女が動き出すのを。
 不思議だ。誰もこない。彼らの声を誰も聞かなかったのだろうか?
 解矢は足が気妙にねじれた男の身体から視線をそらして、美那子の横にひざをついた。
 昨夜とおなじだ。彼女の身体が傷つき、血を流している。淡い桃色の皮膚がやぶれて肉が裂けている。その色は息をのむほど白い。
「…………」
 彼女の口から甘い息がもれた。
 ほら、彼女の指が自分の体をまさぐるように這いだした。


 街の明りに照らされて、低く垂れ込めた雲がほんのりと輝いている。解矢は荒々しくブレーキを踏み込んだ。全開にした窓から酒の臭いが煙のように流れ出した。
 マンションの地下駐車場のシャッターを、リモコンで開けて乱暴に乗り込んだ。自分の駐車位置に頭から突っ込み、車止めにタイヤをぶつけて車体を止めた。ショックのガスが圧縮されて悲鳴を上げた。
 ヘッドライトに浮かんだ白い人影が、手に持ったパンでボンネットを殴りつけた。
「ハイ。冷たいわ。黙っていっちゃうなんて」
 予感はしていた。帰ってきているに違いないと。
「知ってるわ。アパートに来てたでしょう。私の横で見てたの。あれ、解矢でしょう?」
 だからこそ退社後すぐに戻ってこれなかったのだ。シートベルトをはずそうとする彼の手を白い指が包んだ。
「待って。どこか汚れてもいいところにつれていって。ちょっとやっかいなの」
 美那子が窓から上半身を滑り込ませ、解矢に抱きついた。
「怪我は?」
 ためらいがちに解矢は聞いた。
「平気よ。もう治ったわ」
「……乗ってくれ」
 助手席ドアのロックを解除した。美那子は当然のように、シートに滑り込んで来た。
自分の背中とシートにはさんでしまった長い髪をさりげなく掻き出して、しっくりと腰を落ち着けた。もう長く交際を続けた恋人のように、彼のとなりを自分の指定席にしていた。解矢は黙って車を車庫から出して、美しい夜の国道に戻っていった。
夜の光は人の意識を混濁させる不思議なリズムを持つ。窓の外を流れる黄色や赤の艶やかな色の帯は、まるで下手なペイントを見ているように遠く頼りない。信号が赤に変わり、解矢の車が横断歩道の最前列に止まった。
「君は誰だ?」
 自分でも驚く素直さで、彼は聞いていた。
「なぜ生きている?」
 美那子は黙ったまま、じっと前を見つめていた。右手が手持ち無沙汰のように、髪の先で遊んでいた。解矢はじっと答を待った。美那子はプリアンプに手を伸ばして、ステレオのボリュームを上げようとした。解矢はインパネのリモコンを取り、それを邪魔した。
「そんなこと……聞かれてもわからないわ」
 ぶぜんとした面もちで美那子は答えた。
「私は痛いことが好きなのよ。ーーそれが平気な身体、なの」 
「なぜだ? どうして怪我をしていない? 俺は君を……たしかに」
「この車ではねたわ」
 おもしろそうに笑いながら美那子が言った。
それは息を大きく吐き出す奇妙な笑いだった。
「だって、わざとだもの」
 目に見えない塊を飲みくだすように、解矢は身をよじった。
 なにを言っているんだ? この女は?
「とっても気持ち良かったわ」
 解矢の視界の端に、冷たい光がひらめいた。美那子がどこからかナイフを取り出したのだ。
 ナイフ? いったいどこから出した? ノースリーブのホディコンシャスな軽装だ。今、彼女が鼻先で揺らしているそれは、細身ながら刃渡りがゆうに15センチはありそうだ。
「知ってる? 人間の身体で敏感な所って。たとえば、歯。あと指先も痛みを感じやすいんですってね」
 いったいなんの話しだ?
「でも、そんなところじゃなくても十分に痛いものよ」
 彼女はナイフを唇に持っていくと、血糊を味わうようにくわえた。左手の指で右手の上腕部を強く押し込みなにかを探っている。
「ああっ」
 その身体に緊張が走った。ぶつっと皮の破れる音がして、腕に鋭い金属が突き立った。いや、違う。刺さったのではない。肉を破って内側からとびだしたのだ。腕の中からなにかを引きずりだした。
 肉の中にナイフを隠している! ばかな!
 解矢は頬をこわばらせて、目をそむけた。どうしてそんなことができるのだ。ブレーキを踏んで逃げだしたい衝動を懸命にこらえた。
「私の両親はいつも喧嘩ばかりしていたわ。ううん……というより、一方的に父が母に暴力を振るっていたわ。私はいつもそれを見てどうして母がじっと耐えているのか不思議に思っていたわ。……こんな話聞いてくれる?」
 突然始まった、彼女の人間的な話題に解矢は躊躇した。
「ある日、父はいつもにも増してひどく母を責めたの。まだ小さかった私は本当にこわくて、母が死んでしまうと本気で考えたほどだったわ。もう自分で身動きすらできなくなった母を父はまだぶっていたの。私は泣きながら父を止めようとしたけれど、父に投げ飛ばされて。あとは恐怖だけで、逃げることもできずにうずくまっていたわ」
 美那子はスカートのすそをおおきくまくりあげて、ナイフをももにあてがった。
「でも、そのときに気づいたの。母はそれを喜んでいると。望んで暴力をうけているのだと。恐れていたのはむしろ父のほうなのだと」
「……おい。なにをする気だ。やめろ」
 解矢はうめくように言った。しかし彼の言葉を無視して美那子は白く輝く素足の腿に、血糊で輝きを失った刃を食い込ませていった。
「う……ん」
 軽く眉間にしわを寄せただけで、平然と柄をえぐった。ぽとっとなにかが足元にころがり落ちた。あっというまに固まりかけた血が細く糸を引いた。
「ごめんなさいね。シートを汚してしまったわ。さすがにこの一個だけは場所が悪くて、ちょっと辛かったの」
「な……なんだ? 石?」
「そう、さっきビルから落ちたとき、身体に食い込んだ石。まだ二、三個あるけど。とりあえずこれだけでいいわ」
 信号が赤に変わり、解矢は車を止めた。
「……傷なんて見えなかったが」
「そう。ときどき体の中に異物を残したまま、傷が治ってしまうことがあるの」
 ひかえめに笑いながら美那子は答えた。まるで、吹き出物ができたことを恥じらうような気軽さとはにかみで。
「あの男はだれだ。死んだのか?」
「昔、知っていた人よ。どこまで話したかしら? そう、母はたしかに楽しんでいたわ。それがわかるようになったのは、私も母と同じだと気づいてから。あるとき、私は身体の傷を恐れることはないと気が付いたの」
「子供の君にもそんな暴力を振るったのか?」
「そうよ。近所の人が警察を呼んだことがあるくらい。でも、自分と同じだと知っていればこそ、母は黙っていたのね。私が十八になった年に、母は身をもってそのことを教えてくれたわ」
 ほのぼのと、まるで遊園地の思い出話を懐かしむように、美那子はつぶやいた。
「大好きだった、ママ……自分の身体を私のためにくれたママ」
 車はやがて夜の海辺についた。ヘッドライトが照らすわずかの範囲にだけ、切り取ったように景色が見えた。車を降りた解矢の回りを塩風と、波の音が取り巻いた。すぐそこから海が広がっているのがうそのようだ。
「解矢。手伝って」
 ヘッドライトを背にした、美那子の美しいシルエットが近づいてきた。
 すっとナイフを彼の手に滑り込ませた。
 かさっと乾いた血糊が剥がれ落ちた。
 解矢は黒く固まり、こびりついた彼女の血を見つめていた。美那子が服の袂を開いた。その下にはなめらかな白い乳房があった。
 異常な興奮が全身を包み、理性が萎縮していった。激しい動悸で頭が空白になっていく。
「さあ、来て」
 解矢はナイフを手にしたまま強く彼女を抱いた。鋼の爪を持った獣の愛撫のように、その切っ先は彼女の肌を裂き、血を滴らせた。
「ああっ、解矢」
 美那子の口から甘い吐息がもれた。彼はむさぼり、激しく貫いた。握りしめた刃がその肌をえぐり、埋まっていた石を次々とえぐり出した。血の匂いが海岸に濃く流れた。
 漆黒の闇のなかで、ヘッドライトの光がそこにとどき、ふたりの姿を浮かび上がらせていた。その光景は無声映画の幻燈のように非現実的な浪漫に彩られていた。


 昼休みの会社ロビーでくつろぐ解矢のもとに、同期の戸川が駆け寄ってきた。
「やあ、どうしたい。しけた顔しやがって」
「ああ、戸川」
「今度の土曜日にホルスリゾートに行く件だけどさ。第二営業部の新人も来るんだとよ。テニスコートの予約があるから人数の確認しているんだけど。来るよな」
「悪い。だめなんだ。ちょっと約束があって」
「またかあ? どうしちまったってんだ。女は女。俺達との遊びは別って解矢さんじゃなかったのか? それとも、なにか、今度の女は半端じゃないってか?」
 にやつきながら解矢の肩を抱き込んだ。
「関係ないだろ。離れろよ。会社だぞ」
「なんだよ。まじなのか? そんなにいれ込むほど、すごい女なのかよ。会ってみたいな」「やめろったら、女なんかじゃないよ。いとこが入院したんで、交替で付添いなんだ」
「ほ。そう。まあ、いいや。そのうち熱も冷めるだろうさ。そうだ。このあいだ、おまえを尋ねてどこかのおやじが来社したそうだぞ。総務の松本さんから聞いたんだけど、外出しているって言ったら、じゃあ自分が来たことはくれぐれも告げないでくれって言い残して帰ったそうだ」
 解矢はあきれたように戸川の顔を見つめた。
「……ぺらぺらとしゃべって、口止めされたもないだろうに。で、名前は?」
 肩をすくめて、戸川が答えた。
「名乗らなかったとさ。なんでも、サングラスもはずさない失礼なおやじで、松葉杖をついていたとさ。酔って喧嘩でもしたか?」
「まさか。おまえといっしょにするなよ。他に特徴は?」
「おっと、もう一時じゃないか。午後一番で会議があるんだぜ。俺が聞いてるのはこんなところだ。あとは松本さんに直接きいてみてくれ。俺はもう行くぜ」
「戸川、悪いな」
 すがるような目で解矢が言った。
「なんて顔してるんだい。今度、飲みにいこうぜ。ーーあっ、そうそう。先週まで危篤だったおばさんにもよろしくな」


「解矢さーん。また来てちょうだいね」
 戸口まで送りだしてくれたホステスが明るく声を掛けた。戸川はいい気分で手を振り、そのスナックをあとにした。
 戸川はひとりで呑みに出たとき、解矢の名前を語ることがよくあった。別に解矢でなくともよいのだが、他人の名前を借りたほうが馬鹿になって楽しめて良い。この界隈では、解矢と言えば戸川のことだ。軽く一件寄っただけつもりが、すっかり深酒をしてしまった。千鳥足で暗い帰り道を歩いていた。
「おい、あんた。まちなさい」
 片足を引きずるように、黒っぽい服を着た男が近づいてきた。街灯のまばらなところを選んだのかその表情は伺えない。
「はあ? 俺?」
「亜別住宅の解矢ってのは、あんたか?」
「ああっ? ああ、そう、あ?」
 焦点の定まらない目をこらして声を掛けた相手を捕らえようとするが、うまくいかない。もっとも、だからなんだというほどの考えもまとまらないが。
「あの女は、まだおまえのところにいるのか?あの女は災いだ。おまえたちとは、相入れない。すぐに追い出せ。もし、おまえに正義があるなら。勇気をもって、殺せ」
「ええっ? なあに。こ、殺せぇ? 過激なこというな。おじさん」
 へらへらと戸川は答えた。
「ふざけるな。あの女といっしょに暮らしていて、なにも考えないのか?」
 男は小刻みに体を揺らしながらつめよってきた。かきむしるように戸川の胸ぐらをつかみ激しくゆさぶった。さして身長の高くない男である。頭は戸川の肩ほどしかない。下から見上げるようにして、血走った目を向けた。
 男は五十歳程度に見えた。しかし心労によるプレッシャーがそのまま表情に刻まれたかのようにかすれた表情をひきつらせていた。
「奴は怪物だ。人間ではない。痛みを糧にして生きるものなど、この世にいてはならんのだ! 痛みは生き物に与えられた自己保存の基本的生理だ。それを堪能しようなどとは、冒涜以外のなにものでもない! 異常だ」
 銘ていしている戸川には、男の必死の訴えこそ、よっばらいのたわごとに聞こえた。
「なあに? 宗教の勧誘? へへへーっ、俺も解矢もモルモン教でね。入んない?」
 ぱっと、男はとびのいた。
「お、おまえは、解矢ではないのか?」
「あはっ、俺は戸川ってんだ。知らんね。解矢ってだぁれだぁ?」
「ちっ」
 男は顔を隠すようにうつむいてすばやく暗闇にとけ込んでいった。
 しかしその動作が途中で凍りついた。男の全身を透明な緊張が包んだ。敵の気配を察した動物のように、小さな目から強い殺気をみなぎらせた。腰がすっと下がり、懐からぎらりと光る長いものを引き出した。
「ついているわ……」
 女の声が戸川のすぐわきから聞こえた。
「あなたの後を付けてきて解矢のお友達に会えるなんて」
 ふらふらと棒立ちになっている戸川の後ろから亡霊のように女の影が流れ出た。男がびくっと動きを止めた。
 女は男の握る刃に身体を押し付けるように割り込んだ。長い黒髪が戸川の目の前に広がり、次の瞬間視界を白いコートがおおった。
「美那子!」
 男の声がその名を呼んだ。目の前に割り込んだその身体を突き通して、刃物の先が戸川の鼻面に突きつけられた。
 同時に男と女のくぐもったうめき声が聞こえて、ガラスと金属のぶつかり、砕け散る音が路地に響いた。
 弾き飛ばされるように、戸川は尻餅をつき悶絶した。なにが起きたか全く把握できない。
頭からかぶせられたコートを引き下ろしたとき、すでにまわりに人影はなかった。ただ、汚水のような黒い血溜りが夜のネオンを反射して広がっているだけであった。
「……ああっ!」
 遠くで悲鳴と足音が交錯していた。女は男を見失ったのか、激しく走り回っていた。
酔いもふっ飛んでしまった。きょろきょろと泥棒猫のように、辺りを見渡して警戒した。 ただの喧嘩があったという雰囲気ではない。解矢の名前が出ていたことを思い出す。
「解矢め。いったいなに、やばいことに首を突っ込んでやがるんだ。冗談じゃないぞ」
 あたりに人影は見えないが、そろそろと後ろ向きに後退して、この場を去ろうとした。うしろを向いて逃げ出す勇気など、とても持ち合わせていない。それが悲劇を生んだ。
 どかん、と全身を突き飛ばされるような衝撃を背中に受けた。
「ふっ!」
 ショックで肺から空気が押し出されて、声にならない悲鳴がもれた。一瞬遅れて女の甘い香りが風となってふきかかってきた。誰かが後ろにいる。なにかを堅く握りしめて、荒い息をしている。息を吐く忍び笑いがもれた。
「なんてすてきな夜。たぶん、あの人も殺せたわ。ごめんなさいね。関係ないあなたまで」
「……おい……」
 戸川は弱々しく呟いた。急速に全身の力が抜けていった。膝ががくがくと震え、しびれるようにふぬけていく。しかし、身体はなにかに支えられて落ちていかない。
 自分の胸からつき出た強じんな鋼に、肋骨がよりかかっているのだ。
「うおおおっーー!!」
 戸川の悲鳴が夜の闇に吸い込まれて行った。


「えっ?」
 誰かに呼ばれた気がして、解矢はテーブルから目をあげた。グラスの中の氷がかちんと音をたてて回った。
 また、いつのまにか酒を飲んでいた。最近自分の行動がわからない。そうだ。初めて美那子を抱いた夜のことすらおぼろげなのだ。 わけのわからない不安にさいなまれる。どんどん自分を見失って行く。電話のベルが鳴っていた。いつまでたっても止まらない。美那子かもしれない。留守録にしておかなかったことを後悔しながら席を立った。
「はい。解矢です……もしもし?」
 受話器の向こうからは、街のけんそうだけが聞こえて来た。
「……もしもし?」
 いたずら電話かと気分を害しながら、一応問いかけてみた。
「……かい……や……」
 かすかに彼の名を呼ぶ男の声がした。乾いた口で話しているように、ひどく不鮮明だ。
 電話が遠いのかと、強く耳に押し当てた。途端に受話器を取り落としたらしい、ひどい音が彼の耳を殴りつけた。そして、それきり電話は切れてしまった。
「……なんだってんだ」
 戸川の声に似ていた。しかしこんないたずらをする奴ではない。気にしないでおこうと肩をすくめて受話器を置いたとたん、再び電話が鳴りだした。
「もしもし! 解矢? あたし。美那子よ。今、六番街に来てるの。ねえ、迎えに来てちょうだい」
 がっくりと解矢は、肩を落とした。
「さっき電話したか?」
「ええ? いいえ。なに言ってるの? いいから早く来てね。角の赤いビルの前で待っているわ。すぐよ」
 そして彼女は一方的に電話を切ってしまった。とりつくしまもない。
「……しかたのない」
 いまいましく思いながら腰を上げた。壁にかけてあったはずの皮ジャケットをとろうとした。が、それはいつものところにはなかった。車のキィもチェストの上にない。いい知れぬ不安感にとまどい、彼は部屋のまん中で立ち尽くした。
 殺風景だった白い壁には、趣味の良い絵が数枚かけてあった。造りつけのクローゼットもいつのまにかきちんと整理されている。空いていたスペースは女もので埋まっていた。
 いつからかここは男と女が愛し合い、暮らすための部屋になっていたことに気が付いた。


 その夜、解矢は待ちぼうけを喰わされた。車のなかで三十分も待たされ、もしやと思い、部屋に電話を入れてみると、美那子が出た。
「だって遅いんだもの。タクシーで帰ってきちゃったわ」
 しゃあしゃあと言い訳をした。さすがに腹を立てた解矢が抗議しても、簡単に謝るだけでまったく意に解していない。
「私、お風呂に入っているから、勝手に入ってきてね。のぞいちゃだめよ」
「誰の部屋だと思っているんだ……」
 解矢の話も聞かず電話は切られてしまった。


 解矢はしばらく夜の街を流して部屋に戻った。暗い照明のついた玄関でなにかを踏んだ。
「うっ?」
 その感触にぞっとした。まるで人の足を踏んだようないやらしい感触だった。それは見たことのある男物の靴だった。なにか詰め物をしているらしい。ひどくいやらしいものに感じて本能的に迂回した。もたれかかるように造り付けのシューケースに手を掛けた。そこには美しい花が飾ってあった。
 もちろん彼女がおいたものなのだろう。しかし、なにか違和感があった。椰子のみ大の肉質の塊がざくろのように割れて、ありふれた蘭に似た花がのびていた。その下からは髪の毛のような根がのび、水盤で搖れていた。
 かれこれ二時間は立っている。しかし美那子はまだ、風呂に入っていた。しかも、なにか肉でも持ち込んでいるのか、かすかに生臭い匂いが漂っていた。
「風呂で酒盛りなんかしてるとぶっ倒れるぞ」
 解矢は、あきれて声をかけた。
「へいきよ。仕込みをしているの。ちょっと防腐剤臭いけどがまんして」
 陽気な声で返事が帰ってきた。
「なにをしているんだ」
 解矢は風呂の扉を開けようとした。
「開けないで!」
 鞭のように鋭い声が飛んだ。解矢はびくっ、と手を引いてしまった。
「話さなかったっけ? 私って芸術家なのよ。制作中は人に見られたくないの」
「俺のシャワーはどうするんだ」
「ごめんっ。今日だけ我慢して」
 解矢は、部屋に立ちこめる異臭に顔をしかめながら窓を開けた。彼女のやることなすことがすべて気に触る。いらいらと胸を圧迫する不安感で神経が擦り切れていく。
 部屋のあちこちに悪夢のようなモニュメントが飾られていた。なにかの動物の骨を使っているらしい。
「なにがアーティストだ……」
 その夜、解矢は夢を見た。
 自分と美那子はどこか狭い場所で身を寄せあっていた。その床はぬめぬめと光る肉質のなにかでおおわれていた。なま暖かいそのなかで身をよじるのがひどく心地よい。いったいここはどこなのだろう。この肉はどうしたのだろう?
 彼の手で鋭いナイフがきらめき、動物の内臓のようななにかを切りさいた。自分の腕が機械的に上下して目の前にころがる動物の腹を解体していく。それは不思議な光景だ。
 ふと解矢は手にしたナイフに見とれた。すばらしいナイフだ。肉の厚い鋼鉄をくさび型に削り出したようなフォルムは冷たく凶悪だ。えぐるようにくり出されるそのきっ先は、足元にすがる美那子の身体をも傷つけて行った。死んだ肉と彼女の生きた肉が混じりあってきざまれていく。首を振り、倒れ伏す彼女の若い顔が中年の婦人に変わった。
「ママ」
 いつのまにか後ろに立った美那子がささやいた。上を向いた顎の線が震えている。
 彼女は解矢の手からナイフを奪い、婦人の肉を切り刻んでいった。脇にはひどく見慣れた男の顔が転がっていた。そう、顔だけが。
 突然、景色が一転した。
 視線が低い。自分が子供になっているらしい。しかし、時々見る自分の子供時代のそれではない。まるで、見知らぬだれかの昔のように、新鮮で驚きに満ちていた。
 まったく知らない情景が、次々と現れては消える。幼い友達との楽しい遊び。大好きだった、近所のおねえさん。幼稚園の先生。  子供の一日は、とてつもなく長い。夕方までの、すばらしい時間を夢中になって遊ぶ。解矢の知らない若い男女が公園の入口に現れた。彼はうれしくて、友達に別れをつげるのももどかしく、彼らの元に駆け寄った。
 いとおしそうに二人は彼を向かえた。
 パパとママだ。
 二人は彼の名前を呼んでいるが、声が聞こえない。ひどくなつかしく、悲しい気持ちが溢れてきた。そう、自分はもう彼らに会えない。それがとても申し訳なく、悲しい。
 会えない? なぜだ。
二人はもう亡くなっているのだろうか? いや違う。彼らがもう自分に会えないということを、知らないのが悲しいのだ。
 自分をだれより慈しんでくれた。自分の成長をだれより楽しみにしてくれた。かけがえのないパパとママに二度と会えない。


「はっ……!」
 解矢は悲しみにいたたまれず飛び起きた。
「パパ、ママ!」
 暗闇に向かって、狂ったように手を差し出した。まるでそこに見えるはずの二人を掴もうとするかのように。だらだらと涙が頬を伝い落ちた。じんと頭の奥がしびれている。こうべをめぐらして窓を見ると、カーテンごしに日の光が漏れていた。
「もう、朝か」
ぐったりと疲れた体をひきずり、重いカーテンを開けた。いつもどおりの白い朝日が部屋に広がった。
「……美那子?」
 今、気づいたが美那子がベッドにいない。
「なあに。呼んだ? 解矢」
 風呂の扉が開き、彼女が中から顔をのぞかせた。
「まだ、やっているのか? ふやけちまうぞ」
 あきれて解矢はかぶりを振った。
「解矢ったら夕べはさっさと寝ちゃうし、することないじゃない。私はきれい好きなのよ」
 そういって彼女は扉を閉めてしまった。
「……会話になっていないぜ」
 解矢は頭を抱えてしまった。いや真剣に考えてはいけない。無駄だ。


やがて夜が来た。待ちわびたように、美那子は大きなごみの袋を二つ引きずって部屋を出た。人目をしのぶように袋を抱え、わざわざ二丁も離れたごみ置き場まで運んでいった。
 すでに出ていた袋をかき分け、一番下に隠すように自分のものを押し込んだ。そのうえから強い香水をかけた。袋から漂う匂いを隠すためか、犬猫、鳥を近づけないためか。
「残念だわ。悲しい。解矢さえいなければ、二・三日にわけてたのしめたのに」
 美那子は両手についた動物質の脂の匂いをせつなげに吸い込み、つぶやいた。中で柔らかいものが崩れるように、袋がへこんだ。
「感じるわ。あなたの無念を。とてもたのしませてもらったわ。すてきだった」
 美那子は、立ち去り難いように目をふせた。
快楽を思い出したように肩が震えた。両目が潤み、するどい爪が自分の腕を傷つけた。
「でもあなたは弱い人ね。悲しみすぎる。悲しみは甘ずっぱいわ。くやしさ。おそれ。怒りもみんなすてきだけれど、ひとつひとつの偏りはきらい。私の好きなのは、もっとすべてが混ざりあった心の痛み。うずくような、叫び出したくなるような後悔。自分の身体の痛みでは得られない貴重な快感」
 息がはずみだした。蘇ってきた快感に身体がうずき、頬に紅がさしていった。
「あなたの涙は素敵だった。苦い後悔の血も」
 車のライトが遠くのカーブをまがって現れた。美那子は反射的に電柱のかげに隠れた。黒い服を着た彼女は夜目にほとんど見えない。そのまま人目を忍んで部屋に戻っていった。


 その夜、解矢は部屋に戻らなかった。えたいの知れない恐怖にさいなまれて、街中のホテルに入った。
 自分の身体を平気でえぐる美那子の姿を思い出すたびに、暗い戦りつが身体を駆け抜けた。いまでも、あの美那子が部屋にいる。彼女を追い出して、二度とあわないで済ませる方法を考えるまでは部屋に帰れない。
 途中で買った酒の瓶を取り出し、コップにもあけずにそのままあおった。一人でじっとしていると、ますます自分を見失いそうだ。
「……戸川、奴ならわかってくれる」
 思いだしたように、戸川の部屋に電話を掛けてみた。親友の彼なら自分の苦境を理解してくれるに違いない。一笑に伏すなどということはあるまい。
 しかし戸川は電話に出なかった。
 数日が過ぎた。ずっと出社していない。たまった有給休暇のおかげで、おそらくまだ解雇はされていまい。上司からはマンションに電話が入っていることだろう。
 美那子が出ているのだろうか? 会社ではどんな噂が広まっていることだろう。それを考えると少し、愉快な気持ちになった。
「だめだ……。しっかりしろ。解矢。逃避している場合じゃないぞ」
 カーテンを閉めたままの部屋で空元気を振り絞ろうとしている自分が愚かしい。つけっぱなしのテレビからニュースがながれている。
 ふと、聞き覚えのある単語が聞こえた。何気なく注意を向けてみる。
「……川氏と思われるばらばら死体発見がされてから、まる二日が経過しました。まだ、頭部は発見されません。発見現場のここ、狩傘廃棄物処理場には連日多くの報道関係者が詰めかけ……」
 不骨なレポーターが興奮した様子でまくしたてていた。
 誰だって? 今、なんと言った?
 解矢は電話に飛びつき声を振り絞った。
「もしもし、フロント? 新聞を、ここ二・三日の分を持ってきてくれ。すぐにだ」
 届けられた新聞の第一面には、息を呑むショッキングな見出しが踊っていた。
『狂気! バラバラ殺人』『ミンチ殺人・きざまれた体』『悪魔の晩餐。切り裂かれた肉』 さらに、被害者の写真が掲載されていた。
「……戸川」
 足ががくがく震え、椅子に倒れ込んだ。見慣れた顔がそこにあった。いったいどういうことだ。なぜ、こんなタイミングで戸川が殺されたのだ。
 電話のベルがけたたましく鳴った。心臓が気管をやぶったように息がひきつった。
 一瞬、解矢は電話の後ろに悲し気な目をした戸川が立っているのを見た気がした。
「……なぜ俺が……」罪悪感を覚えるのかと、いまいましげに舌うちをして受話器を取った。
「解矢様。奥様からお電話です」
 フロントがそういって通話を切り替えた。
「ハイ、解矢。探したわ。ひどいじゃない。ずっと私のことほおっておいて」
「……どうしてここがわかった? 美那子」
「戸川さんが教えてくれたわ」
 くすくすと笑いながら、美那子は言った。
「戸川? いつだ? 奴からなにか連絡が来ていたのか?」 
「さっき教えてもらったの。あなたがいきそうな所がどこかって。すぐわかったわ」
「……さっき? 今日か? 戸川は……生きているのか?」
「なにをいってるのよ。ばかね」
 電話のむこうで美那子は明るく笑った。その手は戸川のシステム手帳をもて遊んでいた。
「ここにいるわ。はやく帰ってきてよ」
「そこにいる? でも、新聞に……新聞を読んでいないのか? 替わってくれ。美那子」
「だめよ、電話にはでられないの。あなたに会いたいわ。とても愛しているの、解矢」
「なにを……」
 ぶつっと電話は切られた。
「もしもし、美那子!」
しかし、電話は沈黙したままだった。


 数日ぶりに浴びたまぶしい太陽の日に、目をしばたかせらながら、解矢は車をマンションに向けて走らせていた。自分でも愚かしいと思う。まるで罠にはまりに行く魚のようだ。なぜ、この数日、隠れていたのだ。のこのこ出向いていくなど全くいままでの行為に反するではないか。
 自分の部屋に向かっているのに、どんどん緊張が高まる。まるでこれから戦いの場に引きずり出される奴隷のようだ。マンションに近づくにつれて、警察の車両が増えてきたような気がする。いや、事実制服姿の警官が手帳を手に、そこここの民家に出入りしていた。聞き込みだ。
 胃がきりきりと痛んだ。幸い彼のマンションには、まだ順番が回って来ていないらしい。 解矢は地下の駐車場に車を入れた。
 エレベーターを呼び、降りて来るのを待った。やがて到着したそのなかには、中年の男性が乗っていた。解矢は礼儀として男性が降りて来るのを待った。しかしその男性はうずくまるように壁にもたれたまま、降りようとしなかった。解矢は遠慮がちに乗り込み、部屋のある十二階のキーを押した。見かけない顔だ。白々とした照明のせいか強い陰影が全身を覆っていて、顔はわからない。
 美那子に会ったらなにをすれば良いのだろう。不安が胃を一口づつ食いちぎっていった。
 自分で鍵を開けていた部屋のドアも、いつのまにかチャイムを鳴らすことに慣れてしまった。彼女と暮し始めて長い日々が過ぎたわけではないのにだ。
「おかえりなさい。おかえりなさい、解矢」
 美那子が清楚な服装で玄関に現れた。
「あら、お客様もごいっしょだったの?」
 後ろに人の気配を感じて振り向こうとした瞬間、激しく突き飛ばされて玄関に転がり込んだ。美那子は解矢をささえようとしていっしょに膝をついてしまった。
黒っぽい影が素早い動作でドアの内側に滑り込み鍵をかけた。二人は下から見上げるかたちで男の顔を見た。美那子の顔にさっと緊張が走った。
「誰だ……!」
 解矢は無意識に美那子をかばおうとして、彼女の前に立ちふさがった。
目の前に立つのは、さきほどエレベーターでいっしょだった男だ。いつのまに解矢のうしろについていたのか。白っぽいコートの前がかすかに開かれて、冷たく濡れた光を放つ長い刃物が取り出された。
「……生きていたの」
 美那子が解矢の後ろに隠れるようにしながらつぶやいた。
「解矢というのはあんたか」
 美那子を無視して男は口を開いた。ぶっそうな訪問者らしからぬ落ち着いたものごしだった。眼差しには知的な光をたたえていた。
「戸川君は、君の犠牲になったんだぞ」
「戸川? どうしてあなたは戸川のことを知っているんだ。だいたい戸川は生きているぞ」「その女の口車を信用しているのか。だまされるな。新聞で報道されているとおりだ。彼はその女に殺された。楽しみのためにだ」
「殺された? たのしみだって? あんたはおかしいぞ」
「違う。悶え苦しむ魂を、苦痛と絶望をもて遊んだのだ。昔、自分の母親を殺したように」
 解矢は美那子を振り返った。
「現に俺のホテルを戸川から聞いたといっているんだ」
 あのホテルは飲み会のあとに解矢がよく利用する場所だ。戸川とあと数人のごく親しい友人しか知らない。
 美那子の様子がおかしい。悩ましげに寄せた眉の下で目が潤んできている。顎が上下して息が荒くなってきた。
「しっかりしろ、美那子! 戸川はどこにいるんだ。答えろ!」
 解矢は擦り足で奥の部屋に戻ろうとしている美那子の肩を掴んで壁に押し付けた。
「解矢……」
 視線がうっとりと搖れていた。
 ーー悶えていやがる! ーー
 かっと頭に血が昇り、解矢は彼女の頬を殴りつけた。ばしっと肉の音が狭い空間にこだまし、髪が黒い血しぶきのように飛び散った。
 反射的な動作だった。彼女の目は暗い暴力の衝動を喚起する。解矢は生まれて初めて人を殴った。
 それはすさまじい快感だった。どっと血が顔面に昇り、歓喜に目が眩み我を忘れそうになった。無意識に腕を振りあげて、再度白い首筋に手の甲をたたき込んだ。
 彼の硬い拳の下で、柔らかい肉が皮下脂肪の上をずれるのを感じた。組織を破壊するおぞましい感触がぞくりと腕を這い昇った。
「やめろ! 馬鹿者。この化物を喜ばせるだけだ」
 男はさらに殴り続けようとする解矢の腕を後ろからはがいじめにした。
「見ろ。この汚らわしい化物を。自分の体を傷つける暴力を待ち望んでいるんだ」
 床に座り込んだ美那子は、ななめに体を揺らし、美しい絵画のように二人を見上げた。
彼女の香りが障気のように二人を押し包んだ。全身から発する雰囲気は、色っぽいとか魅力的だという言葉では言い表せない吸引力を発散していた。その目線は、解矢を止めた男をすら釘付けにしてしまった。
 加虐の衝動が血管を走り回り、全身がどす黒く膨れ上がっていく気がした。
 この女を引き裂いてやりたい!
「ほら、戸川さんが見ているわ。解矢。君も楽しめって」
 美那子の血に濡れて光る唇が、作り物のように、美しく言葉を形作っていった。
「あの人は私達といっしょにいるわ。あのひとの怒りも苦痛も私のもの。そして感じるわ。解矢。あなたの戸川さんを失った悲しみを」
「いったい、なんの話だ」
「あなたもあの日感じたでしょう? 戸川さんの無念と心の痛み。私といっしょに戸川さんの肉と内臓にくるまれて眠った夜に」
 予感はしていた。あの夜が夢ではなかったと。戸川をばらばらにするのを手伝ったと。
「彼の……ものは私の中に留まっているわ。彼のあれがあなたを感じて、助けを求めているわ。この胸を開いて、ここから出してくれといっているわ」
 美那子は自分の胸に手を当ててつぶやいた。「そして、あなたの動揺が伝わって来る。あなたの心が、苦痛と後悔に身をよじって苦悩しているわ」
「やめろ。美那子……」
 泣きだしそうなたまらない気持ちで、解矢は言った。
「ほら、彼が見ているわ」
 立ち上がった美那子が、シューボックスの上の水盤をくるり、と後向きにした。
「うっ……! うわあっ! うああぁっー!」
 解矢は絶叫した。
「おおああっー!」
 それは戸川の生首だった。美しい花をつける椰子の実のように思っていたそれは、頭を割られた戸川の首だった。眼かがぽっかりと暗く光を溜め、解矢を見ていた。
「そこからじゃないわ。解矢。あそこよ」
 彼女は踊るように両手をあげ、くるりと一周して見せた。操られるように、解矢はその指先を視線で追いかけていった。
「…………!」
 あの、モニュメントが、いたる所に飾られていた。なにかの骨のようなモニュメントである。
 あれは、すべて……戸川だったのか。
『俺は戸川の残骸のなかにいたのか』
 解矢は意識が黄色く濁っていくのを感じた。
「ああっ、すてきよ。あなたは純粋ね。解矢」
 ゆるゆると肩で笑い、美那子は解矢のもとに這い寄ってきた。猫のようにけんこう骨を交互に浮かせながら握った手を前に出した。
「化物!」
 男は叫んで、美那子に体当りをかました。薄暗い中で、まわりの光を集めたように、ぎらりと光った刃が美那子の顔面につき立った。声もなく美那子の体が反り返り、男の手から刃を奪い取った。その体は反動できりきりと回り、壁に激突した。両手がだらりと下に下がり、動きが止まった。
 首が折れてしまったように顎は真上を向き、どこに刺さったかも見えない刃だけが、墓標のように天井を指していた。
「くっ……!」
 男はうめくように悪態を付き、コートを脱ぎ捨てた。その内張りには、猟銃を改造したらしい不骨な銃が縫い止められていた。訓練を積んだ確実な動作で安全装置をはずし、銃口を美那子に向けた。わずか数メートルも離れていない。外れるはずもない銃弾は号音とともに美那子の腹部を打ち抜いた。
 人間の体を作る貴い組織が一瞬にしてぐずぐずの汚物と化して壁を汚した。
 全身をハンマーで殴りつけられたような、常識を越えたさく裂音が、解矢の意識を現実に引き戻した。
 ばかな! 今、彼の目の前で人が殺されようとしている。美那子が!
「やめろ! やめ……!」
 夢中で男の腕にしがみついた。
 今まさに発射されようとしていた銃口が解矢の体重で押し下げられた。
「離せ!」
 男の怒号と、爆発のような発射音が同時に起こり、部屋の空気を鞭に変えた。
 解矢は激痛を予想して全身を緊張させた。
「ーーがっ!……」
 男の口から悲鳴が漏れて、体が崩折れた。
 解矢のわずかに残った理性が、男の手から銃をもぎ取り、奥の部屋に放り込んだ。
なにかを踏んだ感触で足元に目をやると、一瞬のうちにそこは血の海と化していた。膝をついていた男が耐えられなくなったように、身を横たえた。その口からはこらえきれない苦痛のうめきがもれていた。
 解矢が外した銃弾は、兵器の無情さでその主人の足を砕いていたのだ。
 骨のきしむ不快な低音が壁に響いた。動きを止めていた美那子の体が一部だけ震え始めた。背中に添ってたれた髪が血の糸を垂らしながら搖れていた。
 軟骨の潰れる音とともに、上を向いた顎がゆっくりと降りてきた。刃物の柄が壁を引っかき、神経をさかなでする音が流れた。解矢は目を覆った。いや、見たくないと必死に考えても体が全く動かない。恐怖映画の一シーンを見るように、目が耳が全神経が美那子の動きに集中していった。
 左目につき立った刃はどうみても、数十センチはくいこんでいた。しかし、それを全く意に解していないことは、らんらんと輝く右目が語っていた。まるで、吸血鬼のように男の苦痛を嗅ぎ取って、歓喜にうち震えていた。その口元にはみだらな期待にうごめく舌先を見えかくれしていた。腹筋がつぶされたためか、重心を崩しながらゆっくりと右腕を伸ばし始めた。優しく慈しむように男の傷に手を当てた。
「……やめろ、やめてくれ」
 男は油汗をながして苦痛に耐えながら、美那子の腕をはらおうとした。しかし、美那子はそれにかまわず傷口ににじりよると、そっと血にまみれた唇で口づけをした。
「うわああっ!!」
 男の絶叫が部屋にこだました。美那子が傷口に咬みついていた。そのまま犬のように激しく首をふり男の足を振り回した。
 頭をよせるようにして争っていた二人の体が二つの弧を描いて離れていった。男は心臓が動きを止めるほどの激痛に身をよじり。美那子は男の苦痛を己の快感として。そう、接した手から美那子の体には男の激痛が流れ込んでくるらしい。声にならない悲鳴をあげる男の顎が動くたびに、美那子の腕はびくんびくんと痛みを堪能していた。
「ぐぅ、……ああ!」
 男は最後の力を振り絞って、美那子に飛びかかった。体重を乗せた一撃で床に押し倒し、左目から刃を引き抜いた。刃に止められていた血が奔流となって飛び散った。
 じたばたと逃れようとする美那子を、体の下に押え込んだ。刃を逆手に持ちかえると、いっきに彼女の首に叩きつけた。
「やめて!」
 初めて美那子の口から拒否の悲鳴が漏れた。それにかまわず男は刃をくい込ませようと力を入れていった。片手であらがう美那子の力には限界がある。刃はずるずると血糊で滑りながら、肉に食い込んでいった。
「か、解矢。手を貸せ。こいつをおさえつけろ。いくら不死身でも首をはねれば生きていられないはずだ。解矢!」
 呆然とうずくまる解矢は考える力もなく、男の言われるがままに、美那子の横に這いよって行った。 
「や……めて」
 美那子の目に絶望の色が浮かんだ。傷つけられた声帯で必死に声を絞りだした。
「助けて……お父さん!」
男の手が一瞬、止まった。
「美那子! 死ね」
 顔を背けるようにして、男は体重を乗せていった。美那子の顔がどす黒く変色していく。
「…………」
 空気が流れない喉からは、もううめき声ひとつ聞こえない。
 彼女は死ぬ。助からない。解矢は床に座り込んで呆然とその光景を見ていた。心臓の停止、脳波の停止。彼女にとっていったいなにが死なのだろう。
 美那子の唇が動き始めた。花をくわえたような血の泡がしずくとなって滴り落ちていく。丸く開かれていた唇の両端が三日月のようにつり上がっていった。
 不思議だ。男はもうどれほど首に刃をあてているのだろう。これほどの暴力も美那子には快楽に過ぎないのだろうか。
 ごくっと嫌な音がした。喉が潰れたのだろうか。生き物の組織が壊れる音だ。
「美那子、死んでくれ。頼む。頼むから死んでくれ」
 男が涙を流している。どうしようもない想いに身をよじりながら、それを果たせない悔しさに涙している。
「……おとうさん」
 いつのまにか男の手から力が抜けていた。美那子の喉は声をだせるほどに回復していた。
「……いま、おかあさんが言ったわ。解矢があなたの苦しみを継いでくれるって。いまでも愛しているって」
「愛しているだと? おお、そうだろうとも愛している! だからおまえたちは死ななければならないんだ! 美那子!」
 突然、男は立ち上がった。彼女の言葉が男の狂気に最期の力を与えた。傷ついた足をかばいもせずに飛び上がると、美那子を横抱きに担ぎあげてベランダに向かってかけだした。 男の意図を察して美那子は初めて本気であらがった。ここは十二階だ。いかに彼女といえど助からない。
だめだ。いやだ。おまえに美那子は渡さない。美那子を殺すのは俺だ。俺が思い付くかぎりの暴力をもって殺すのだ。
 美那子は俺のものだ。
 解矢は床に落ちた銃を拾い上げて、狙いをつけた。男は美那子の腕を取り、フェンスを乗り越える瞬間だった。うなるような掛け声とともに二人の体が宙に舞おうとした。
 号音が白い壁に反響して、意識を眩ませた。青白い硝煙のむこうで美那子の腕がはじけた。男はその腕のかけら捕まえたまま視界から消えていった。
 男の最後の言葉は誰にも聞こえなかった。 あとには肉塊と化した美那子が倒れていた。
「…………」
 解矢の手から銃が滑り落ちた。半分切れた糸に操られる人形のように、美那子のもとに近付いていった。
「美那子は俺が殺すんだ……」
 無意識の言葉が口をついて出た。焦点を結ばない意識が、理性を圧した欲望を白状させた。
「血と肉を混ぜてやる。組織を裂いてやる。考えられるかぎりの暴力で俺が滅ぼしてやる」 その狂気を待ちこがれていたように、美那子はうっすらと眼を開けた。
「解矢……、きて」
 唇の端が歪むようにつり上がり、微笑みを形作った。
「俺に口をきくな!」
 解矢は美那子の腹を蹴りつけた。血しぶきが飛び散り、ミンチと化した肉がむき出しになった。その血肉の臭いが解矢を完全に狂わせた。彼女の髪を鷲づかみにして、身体を持ち上げた。
「が、……ああっ」
 美那子の口から初めて悲鳴がもれた。
「くらえ。くらえ! 化物め!」
 解矢は引き裂くように服を脱ぎ捨てた。そして熱く力をこめたこわばりを、裂けた腹に正面から突き入れた。なま暖かく湿った音をたてて、解矢は肉のなかにもぐっていった。それは脂肪層を、筋肉をえぐり、子宮にまでとどいていた。
「か、解矢。ああっ、解矢!」
 美那子は彼の頭にしがみつくように、その暴力を受け入れた。その眼はたちまち快楽にうるみだした。口からは唾液がたれ、眉間に深い悦楽のしわが刻まれた。
「うっ、うう」
 激しいつきあげを繰り返しながら、きつく締め付けられる快感に解矢は躊躇しだしていた。まるで、腹控のすべてが圧力をかけてくるようだ。
「き、美那子。貴様……」
「ああっ、すてきよ。解矢。もっと……」
 いつもの甘い声が耳元でささやいた。その顔は情事の興奮に紅潮した健康なものだった。まるで、まともなセックスをしているようなとろけて出る喘ぎだった。
『喰いちぎられる!』
 全身に鳥肌がたった。激しい締め付けが襲い、解矢はあっさりと果ててしまった。はじかれるように彼の身体は床にころがった。
 脳天を突き抜けるすさまじい痛みに身体を九の字に折り曲げてうずくまった。快感と痛みが脂肪の固まりをこじあけるようにじわじわと全身を這い回った。
 ぎりぎりと歯を鳴らし、蒼くかすむ瞳を美那子の濡れた視線とからめた。解矢の目を待っていたかのように、彼女の腹の傷は口を閉じていった。
「……うふふ、すてきだったわ。解矢」
 火傷をしそうなため息をつき、美那子は垂れ流すようにつぶやいた。ほとばしりを直接、子宮に受けたその感覚をかみしめているかのようだ。
「赤ちゃんができちゃうじゃない」
ずたずたの服のまま、きれいな指が白い腹をなで回した。
 解矢は床に倒れたまま、立ち上がることができなかった。意志に反して感覚が混濁していく。平衡感覚がずれて身動きができない。
「解矢、解矢。あなたはすてきね。お父さんよりずうっとすてきよ。いつまでもいっしょよ。解矢。そして、この娘を育てましょう」
 彼女の息を吐き出す奇妙な笑いが遠くに聞こえていた。解矢は意識を失っていった。しかし、彼を捕らえた狂気は、恐怖も苦痛も理性のあがきも一切を否定して彼につぶやいた。
『彼女を殺すのは俺だ…………』


 解矢は正当防衛を主張しつつも、三年の実刑判決を受けた。美那子が無傷にもかかわらず、父親を殺してしまったとして。解矢の攻撃は過剰な行為と解釈された。
 面会を許されるようになってから、美那子は意外にも二、三週間と開けずにやってきた。彼女はいつも差し入れをしていった。
「来年の二月に生まれるわ……女の子よ。名前はなにがいい?」
 美那子は腹に優しく手を当てて、しあわせそうに眼を細めた。
「ねぇ……聞いてる? 私たちの子供よ」
 その唇がきゅっ、とつり上がった。
「うふふふ……きっと……とても私に似ているわ。解矢」



 

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