旅を続けるアリウスは困ったシチェエーションにはまった。 「ううーーん。うーーーんん」 街道で持病の癪に苦しむ若い女性を助けたのだ。 20歳に手が届くかどうかのお嬢さんだ。旅でくたびれていたが、かすれた色あいの青のドレスが育ちのよさを物語っていた。 上品な漆黒の髪をアップにまとめて、ベージュのフードを被っていた。とび色の瞳が細い身体によく似合っていた。苦痛に歪む顔すら可憐に見えるかわいらしい女性だった。 彼女は乳母だという老婆と旅をしていた。 彼女の容態が落ち着いたのは、もう日も暮れかかった夕方だった。彼ら三人が宿場町に入った頃には、すでに部屋の空きはなくなっていた。 旅なれたアリウスは、近くの農家に一人分ほどの宿代を払って、三人の寝床を確保した。 「あ、あの……」 夕方から妙に落ち着きのなかった彼女は、夜半にとうとう音を上げた。 「アリウス様……あの……私……あの……」 アリウスはちょっと呆れながら彼女の言葉をさえぎった。 「キャミオスさん。トイレですね」 それはそうだ。アリウスといっしょになってから、彼女はずっと用を足していないのだ。 乳母は何度も茂みに入って用を足していた。いまは歯の抜けた口を開いて大いびきをかいていた。 「この手の家の造りだと、トイレは外ですね」 「…………」 キャミオスは恥じらいと困惑に視線をさまよわせながら、アリウスに無言のプレッシャーをかけた。 「……僕でよければ、ごいっしょしましょう」 彼女は見るからに、ほっとした表情で上着を羽織った。 二人は農家の庭に出た。石と木で作られた家は平屋ながら大きい。母屋と納屋がコの字に並んだ造りだ。母屋の一角が馬房となっており、家族の一員である馬獣が大事に飼われていた。 納屋では鶏と豚が、農機具といっしょに暮らしていた。 納屋の一角にトイレがあった。人間と家畜の排泄物は貴重な肥料だ。大事に蓄えられていた。 トイレの場所は匂いですぐにわかった。 木の破片を繋いだような扉を開けると漆黒の闇が広がっていた。アリウスは着火蝋を使って小さな火をおこした。 「ひっ……」 キャミオスは小さな悲鳴を上げた。 そのトイレは地面を掘り下げた大きな穴だった。穴の上に木の柱を四本ほど横に走らせて、足場用の薄い板を何枚か乗せただけの造りだった。 下に溜まった排泄物とおぼしきなにかが、板の隙間から丸見えだった。 「典型的な畑作農家のトイレですよ」 アリウスは彼女の恐怖がわからないではなかったのでアドバイスをした。 「僕が見張っていますから外でしませんか?」 しかし彼女は、蒼白な顔に決死の表情を浮かべて首を横に振った。 「ア、アリウスさま。どうか私の手を握っていてくださいませ。でも決して見ないでくださいませ」 そして彼女はトイレに足を踏み入れた。薄い足場板は、細いキャミオスの体重でもたやすくたわんだ。 「きゃ……きゃあああ」 大声を出すのもはばかる様子で、彼女はかわいらしい悲鳴を上げた。 「け、けっしてこちらを見ないでくださいませ」 しかし白い指先は、爪が食い込むほどにアリウスの手を握っていた。 「うーーん。困ったな」 アリウスは照明を持つ左手と、彼女の手を握る右手を突き出したまま、顎を上に向けるというアクロバティックな態勢を強いられた。 キャミオスは、一歩ごとに足場を確かめながらなんとか所定の位置についた。 しゃがみこみ、我慢していたものを処理した。 「ふう……」 キャミオスは、ほっとしたため息をついた。 トイレに立ちこめる臭気で、自分の匂いも気にならない。 「出ます」 安心した彼女は、お姫様のようにのほほんと宣言した。 「はやくこっちへ」 アリウスが強い言葉で言った。 「え?」 ほにゃん、とした彼女の足元で、なにかが動き出す音がした。 「バスッ! ブスウウゥゥッ」 顎を持つ獣の声ではない音がトイレの下から響いた。 アリウスが言った。 「だいじょうぶ。万が一落ちても、人は食われないから。でも初めての人は見ないほうがいい。はやく出てください」 「な、なんの音でしょう?」 「いそいで」 「はい」 「知ってますか? 人の排泄物はそのままじゃ肥料にならないんです。でも自然はうまくしたもので、処理してくれる益虫がいます。でもちょっと強烈だから見ないほうがいい」 「それがトイレとなにか?」 アリウスの忠告を理解できずに、キャミオスはトイレの中を見てしまった。 「ぎゅあふふふっ」 隙間だらけの足場板の下で、犬ほどもある巨大ミミズ蟲が、彼女の排泄物をめぐってのたうち回っていた。 「……キっ……」 「ああああっ、あぶない!」 アリウスは、真っ白に気絶しようとする彼女を力いっぱい引き寄せた。ふたりは抱き合うように地面に転がった。 彼はふるえるキャミオスを安心させようとしてよけいなことを言った。 「安心して。ミミズ蟲は食用にもなる良い蟲です。ほら今夜のハンバーグ。あれもミミズ蟲を使ってます」 「…………」 キャミオスは彫像のように白い表情を張りつかせたまま意識を失った。 「あ、いえ。食用は牧場で飼ってるんですよ」 しかし言葉は耳に届かず、彼女は朝まで目を覚まさなかった。
了
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