カーテンを閉め忘れた窓から朝日が射し込んだ。 下着のままベッドに転がっていたカーベルは、瞼の奥が黄色い星に満たされるような痛みで目が覚ました。 「……うーーっ……」 乾いた口が気持ち悪い。顔を覆った髪の毛の煙草臭さに気が遠くなりかけた。 昨夜は大騒ぎをしてしまった。 イシマ将軍たちロスグラード自治軍がエルアレイに派遣されて三度目のパーティーだった。ショウカの丘に眠るだろう汎神族を救出する作戦を控えての壮行会だ。ホテルで行われた公式パーティーはよかった。つつましやかに良識ある宴に終始した。 問題は「ヨモの海」で行われた二次会だった。 イシマ将軍は誰かれかまわずに一気呑みをしかけるわ、アリウスはケーキの追加を勝手に頼みまくるわ。ミロウドは奇妙な料理ばかりを頼んで周りに勧めて、ひんしゅくをかった。 参加した兵士たちも、巨龍との戦いのストレスを爆発させて、ビールサーバーを六回はカラにしてしまった。 カーベルもすっかり調子に乗ってしまった。 インスフェロウが帰ったことにも気づかずに、飲んで騒いで歌いまくった。 「つぎ、次! 「男の子たちの四重奏」ね」 カーベルは呑むと歌が止まらないタチだった。
「……おはよーー……」 カーベルはゾンビロウのような足取りで居間に入った。 そこは不思議な香りで満たされていた。二日酔いでへろへろになった鼻にも刺激的な匂いだった。 「インスフェロウ? なにを作っているの」 対巨龍戦で法呪を使いまくった彼女は感覚が鈍っていた。通常の法呪使用と違い、対極大生物戦闘のような大規模法呪は、極度の緊張と溢れる反呪で、術者の五感に影響を残すことが多い。 時間がたてば戻る種類の障害だが、いまのカーベルは風邪をひいた人間のようなものだった。それでもこの香りは強烈だった。 「インスフェロウ?」 キッチンを覗き込んだカーベルは、大きな鍋で黄色みがかったスープを混ぜる怪人を見た。残飯入れには山のような野菜屑が積まれていた。ダシを取った後と思われるなにかの骨も山積みだ。 「うわ。怪しいわよ、インス。まるで毒リンゴを作っている悪役みたい」 「おはよう。カーベル。そう言うおまえは臭いぞ。シャワーを浴びてきたほうがいい」 「うん。おはよう。ねぇ、なにを作っているの?」 「秘密だ」 にべもなくインスフェロウは言った。 「えーーっ、なんで。いいじゃない。食べるものなんでしょう。お腹がへったわ」 食欲はないのに空腹だった。昨夜はつまみ程度しか口にしないで呑んでいたのだから当然だ。 カーベルは不思議と不気味のきわどい線にある鍋を覗き込んだ。インスフェロウは網でせっせと灰汁取りをしていた。
かなり脂が出ているようだが、彼は惜しげもなく灰汁といっしょにすくい出していた。ガーゼの袋がプカプカと浮いていた。中には植物性の葉や実が詰まっているようだった。 「……神秘的な香りね。インス。人の食べ物? 神様の食べ物?」 「汎神族の料理だ。内臓を健康にして、体調を整えるらしい」 「インスフェロウも食べたことはないのね」 「様々な文献に同じ名前の料理があるのだが、なぜかそれぞれに作り方が違う。どうも様々なバリエーションがあるらしい」 「いったいなにで味付けしてるの。とても複雑な感じ。なんだか辛そうだし」 「ああっ、辛いぞ。胃を刺激して食欲を増進させる」 インスフェロウはガーゼの袋を取り出すと、中身だけを残飯の山に捨てた。小さな山になったものは幾種類もの香辛料だった。 「クローブ、クミン、ローレル、タイム、シナモン、レッドペッパー」 インスフェロウはカーベルに解説してみせた。 「ふうん。どうして黄色いの?」 「ターメリックが入っているからだ。カーベル。じつはまったくわかっていないだろう」 「うん。シナモンとペッパーしか知らない。ターメリックなんて聞いたこともないわ」 「うこんだ。肝臓の薬に使うだろう」 「うこん? うこんうこん……うん……」 「まて。カーベル。よりによってこの料理を作っているときに、下品なジョークはなしだ」
ちっ、という顔でカーベルは言った。 「ピクルスシードを入れたほうが早いんじゃない」 「なんだそれは」 「ほら、ピクルスに使う香辛料がブレンドされて売っているヤツ」 「商品名じゃないか。酸味が強そうだな」 「うん。そう。たぶん」 「よく知らないで言っているな」 カーベルは悪びれる風もなく笑った。 「ねえねえ。カルダモンは入れないでね」 「どうしてだ?」 「だって、あれってお通じにそのまんまの匂いがつくんだもの」 「どうしてもそちらに話しを持っていきたいようだな。残念だが入っている」 「いったいなになになにが入ってるの。これって香辛料のごった煮? それともホウキにかけたらお客さんを追い返してくれるの?」 「近いものがあるな。他に入っているものはスジ肉、鳥の骨つきもも肉、コーヒー、蜂蜜、ニンニク、とうがらし、ウスターソース、トマト、タマネギ、人参、ワイン、ラズベリージャム……」 「台所にあるもの全部入れたって感じじゃない。本当に神様の食べ物なの」 「米樹(汎神族の主食である様々な料理の味がする樹の実)には、よく似た味のものがある」 「たしかに元気にはなりそう。スープは濃そうだけど、さらさらしているのね」 「冷めるとダシ取りに使った骨のゼラチン質で少し固まるがな」 「ふうん。不思議」 インスフェロウは、フフライパンで軽く炒めておいた肉と野菜をスープの中に入れた。 「いまから具を入れるの?」 「初めに入れた肉や野菜は煮溶けていて素材の味などしないからな」 インスフェロウは使いおわったボールや包丁を、ちゃっちゃと洗いながら言った。 「作り方を説明しようか」 「ううん。いらない。食べたくなったらお願いするから」 灰色の怪人はなにか言いたげだったが、ぐっと我慢して微笑んだ。 「もうすぐできるぞ。シャワーを浴びてこい」 「はあい」 「はい、は短くだ」 「はいはい」 「はい、は一回」 「ハイ!」 「……叫ぶな……」 くらんくらんした顔でインスフェロウが言った。
「いっただきまーーす」 熱いシャワーを浴びてすっきりしたカーベルは、白いブラウスを着て食卓についた。 冷たい水をタンブラーに用意するくらいは彼女にもできた。 目の前には先程の黄色いスープと、ひらたいパンが並んでいた。 「……で、どうやって食べるの?」 「パンにスープをかけて、ナイフとフォークで食べる」 「ふうん? あっ!」 チン、と音を立ててナイフが床に落ちた。 「……ごめんなさい」 「いま、わざと落としたな」 「わかった?」 カーベルは小さく舌をだしてナイフを拾うとテーブルの端に置き、手でパンを千切りはじめた。 「ほら、戦食が続いたじゃない。このほうがおいしく食べられるのよ」 パンをスープにひたして口に入れた。 「かっ……らーーい!」 黄色いスープは猛烈に辛かった。しかし不思議と口にも胃にも心地よい刺激だった。 「辛いけどおいしい。不思議ね。食欲が湧いてくるわ」 「薬膳のような物だからな」 「んーーーっ。おいしい」 カーベルは後ろで束ねた長い髪を振り回して笑った。インスフェロウはそんな彼女の様子を見て金色の目を細めた。 「幸福そうだな」 「だっておいしいんだもの。大好きよ。インスフェロウ」 カーベルは皿のスープの一滴までパンで拭き取って食べた。 「汗かいちゃった。もっともらっていい?」 「ああっ、好きなだけ食べろ」 カーベルはいそいそとスープを手鍋に移しだした。 「温めなおすのか?」 「ううん。ビドゥ・ルーガンにおすそ分け」 「そうか」 インスフェロウは「やられた」という顔をして言った。 「くれぐれも自分で作ったなどと言うなよ」 「へへえ」 頬を染めてカーベルは家を出ていった。
「ただいまぁ」 その日の夜、カーベルは大きな包みを持って帰ってきた。 自分の部屋で茶を飲みながら紙の束を読んでいたインスフェロウは、居間の明かりをつけてカーベルを迎えた。 「遅くなっちゃった。ごめんなさい」 カーベルはテーブルの上で紙の箱をガサゴソと開けた。 「おみやげよ。インス」 「なんだ? 甘い香りがする」 「ジャン!」 彼女は誇らしげにラッピングを剥がした。そこには大きなラズベリーケーキがあった。 「これはすごい。高かっただろう。いったいどうしたんだ」 「ビドゥのプレゼントよ」 「まて。わらしべ長者したのか。ビドゥ・ルーガンに買わせたな」 「インス、好きでしょう? ラズベリー」 「おまえは……」
にこにこと笑うカーベルは、これっぽっちも悪いとは思っていないようすだった。 インスフェロウは彼女を諭すべきか、言葉を選んだ。 「あしたはショウカの丘の神の救出作戦だ。早く寝たほうがいい」 「いまお茶をいれるね。寝る前にケーキを食べたら太るなんて言わないでしょう?」 カーベルはケーキを切った。自分用に薄く一枚。インスフェロウ用にその三倍は厚く。 インスフェロウは金色の瞳を、きらりと輝かせた。どうやら本当に好物らしい。 「食べて、インスフェロウ。あなたのためのおみやげよ」 カーベルは彼を見つめて微笑んだ。 インスフェロウはビドゥ・ルーガンの顔を想像してしまった。 「いただこう」 少しだけ誇らしい気持ちのインスフェロウだった。
了
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