これはラブドエリスという名の祭王が残した物語りである。 不思議な祭王であったと誰もが語った。その出生は知れず、過去も知れず。しかし神と接することに躊躇しない、超越の意志を持つ者であった。
長い金髪は色が薄く、豊かにたくわえた髭とつながっていた。三十代の壮年にも見え、六十代の老いにも見える。その長身はいまだに鍛え込まれ、イルカ魚のような強靭さをたたえていた。
祭王は神の生理と生態に精通し、神の思考秩序に長じていた。神も世にある種のひとつであるという理屈を正しく理解している数少ない人間であった。 万物の霊長たる汎神族は、人間をはじめとするあらゆる生物に本能的な服従を強いる存在である。人は汎神族が世の摂理に属する生き物であることを頭で理解できても、その姿勢を神の前で取れることはなかった。祭王はそれが可能であるという一点においてすでに常人を凌駕していた。
彼は祭王という神聖職に就きながら、あたりかまわず陽気に口汚くののしることを常とし、また非常に色を好んだ。非公式な、あくまで非公式な記録ではあるが、その者は女性に祭の禁を犯させる危険な香りを身にまとっていたという。
この物語りは祭王が死す一夜の出来事である。 「祭王さま。どうか私をお召しくださいませ」
二十歳にはまだ遠そうな少女が床にひざまずき、両手を胸の前であわせた。 「あなた様の輝かしい御栄誉をこの身にお授け下さい」
少女は彼もよく知った娘だった。このビスト祭園で神食学を学ぶマスカルッツ国豪族イマン家の次女アディバースだ。黒いまっすぐな髪に、同じ色をした大きな瞳。少しだけ面長ではあるが、自分の魅力を良く知った化粧のたくみさで、逆にそれを美しさに変えていた。彼女の家は商才に長けた父のゴシュルフのカリスマ性により急速に発展を遂げた。娘を商材としか考えないその父は、アディバースを南の名門貴族コリタスン家に嫁がせることに決めていた。
しかしアディバースには恋人がいた。このビスト祭園の学生であるバルスという少年だった。彼らは若者らしい性急さで時間を惜しみ、逢瀬を重ねていた。
彼女が嫁ごうとしているコリスタン家は、従属生物の生産にもたずさわっている家だ。その家風は血の純潔に異常なまでのこだわりを持っていた。コリスタン家から結婚する者、またコリスタン家に嫁ぐ、養子を組む者はかならず異性との交わりがないことを証明しなければならなかった。
ラブドエリスは苦笑した。 けなげな乙女は彼を自分の計画に巻き込もうとしていた。動機はともかくとして、そのまなざしは真摯極まりない。
人の世において、祭王の位は極めて高い。
その国における神との正式交渉を統括する立場にあり、また神に関わる祭りの一切を許認可する権限を持っていた。同時に青少年の教育にも一部の責任を持ち、普段はいずれかの教育機関に籍を置いていた。
祭王の地位は望んでつけるものではない。ましてや人の選挙で決定されるものでもない。類いまれなる運と、神の加護がなければ果たせない種類のものだった。ラブドエリスの過去を知る者はいない。しかし彼の祭王就任においては、神々の間においてでさえ尊敬の対象となる希有なる才能。神々の戦士である護国法兵士・由美歌の推挙があったといわれている。これは極めて異例な事実だった。人々は彼の品行の破天荒さを、徳の高さのひとつの現われであるに違いないとむりやりに理解していた。飾り窓の帝王の勇名はあまりにも有名だったが、洒落や冗談で伝説の護国法兵士が人である個人を推薦することなどありえなかった。
その彼に身を請われた者、という事実を持てば、コリスタン家といえども純潔の契りについて沈黙するしかあるまい。 「神聖なるあなた様の御胸にいだかれることは、我が終生の望み」
その昔、彼はこんな台詞をいう人の娘と神のあいだに割って入り、神に意見したことを思い出した。神にとってその行為――神と人の間に生殖行為はありえない。それは神の習慣に基づく行為を指す――は、命を縮めることであったが、人である彼には関係のないことだった。 「アディバース。君はとてもすばらしい女性だ。魅力的だね」 パッと少女の顔が輝いた。 「だが、私は今夜約束があるんだ」 「も、もし望まれるのでしたならば、明日でも、明後日でも……出直してまいります」
彼の言葉に希望をつかんだ少女は、必死に食い下がった。
彼女は恋人を愛していた。しかし将来を見据えるだけの知恵も持っていた。コリスタン家は名門である。そこに嫁ぐことはシンデレラ・ストーリーだ。ちょっとだけ人間関係に苦労すれば、王侯なみの恵まれた経済力を享受できるのだ。
いまの恋人との、この瞬間の愛を貫く覚悟は彼女にはなかった。それは若さゆえの直情さと同じ程の周到な計算だった。彼女は会ったこともないコリスタン家の三男坊との結婚を選んだ。 「アディバース。申し訳ないが、明日はない」 「……はっ?」 「私は今日でいなくなる」 「な……んと?
なぜそのような?」 それゆえにアディバースは必死だった。
祭王の部屋は広い。そこは生徒たちの寮と同じ棟にあったが、建物の四分の一は彼のために費やされていた。客観的に見ると祭王の屋敷に生徒が居候しているかのようだった。そんな環境で、彼がいままでトラブルを起こさなかった、ということが、既に学園七不思議に数えられていた。
生徒の部屋の五倍はあるラブドエリスの居間は、照明がおとされて暗かった。 しかし薄暗闇の中でも見える調度品の数々は、統一性こそないものの、かなりに趣味が良かった。 ラブドエリスはおごそかに言った。 「赤イカ頭の東の島の中指にかけて」 「えっ?
は?」 「縛ることを許してくれるならば、すばらしい体験をさせてあげよう」 見る見る少女の顔色が変わっていった。 「し、縛る……のですか。でも、そんな」 赤くなったり青くなったり、それはちょっとした見物だった。 「残念だが君が期待していることではない。法呪でくくらせてもらう」
言うが早いか、ラブドエリスの口から短い法呪がほとばしり、少女の回りに藍色の物理障壁が展開した。それはとても軽いものであったが、法呪の素養を持たない彼女にとっては、岩壁にも等しく動きを奪ってしまった。 「あれ……なにを……」 「君を抱くことはできないが、違う形で君の望みをかなえてあげられると思う。
こんなことは予定になかったが、最期に美しい淑女の頼みをむげにしたとあっては、雅流にあわせる顔がないからな」
……雅流……それは少女の耳には神の名に聞こえた。ならば呼び捨てにする名ではない。いやこの祭王は正体がしれない。神をもその知の糧にするやもしれない。 「よし、アディバース。私は今夜のこのことを私一人の満足のためにおこなうつもりであったが、君に語り継いでもらうことを託そう。そうすれば君が私に請われたと、君が語ることは自由だ。君にとって事実は些細なことだろう?」
少女は懸命に頭を働かせた。ラブドエリスは良い条件を出してくれているのかもしれない。身をまかせずに済むのなら、それに越したことはない。少女らしい潔癖さと、女性らしいしたたかな計算が、激しく頭の中を駆け巡った。 「……アディバース」
そんな彼女の心を見透かしたように、ラブドエリスは笑いながら言った。 「若い君に聞くのは酷かもしれないが」 「はい」 「満足できる死とは、なにであると考える?」 「死……満足できる……ですか?」
突然に話題が変わり、彼女は言葉を失った。 「そうだ。言い換えると、受け入れられる死とでも言うべきか」
アディバースは想像もしていなかった質問に頭を切り替えられないでいた。女を抱く抱かないの話しから、突然に死の話しに振られるとは、あまりに世の摂理の両極端ではないか。いや偉大な祭王の考えの中にあっては、そのふたつは表裏一体なのかもしれない。アディバースは懸命に、彼を満足させる答えを考えた。ここで彼の関心を失うわけにはいかない。 「ええっ、と。その、愛のために死すことでしょうか?」 「あい、のため?」
ラブドエリスは首をかしげて聞き返した。 「あっ、いえ。正義のためでしょうか?」
祭王は深いため息を吐いて、ゆっくりと背もたれに巨躯を沈めた。 「そ、そう」
アディバースは頬を紅潮させて、大きな身振りとともに声を高めた。 「夢。ええっ、夢のためにこそ死ぬべきです!」
ラブドエリスは所在なげに身をよじり手を組み直した。そして申し分けなさそうにつぶやいた。 「少女よ。夢というものは生きていないと、かなえられないものではないのか?」 「えっ……ああ」
問答に失敗したことを知った少女は、気の毒なほどに落ち込んでしまった。それは男の歓心を誘う女のそれなどではない。純粋な傷心だった。 「アディバース。君はかわいいな。冥土の土産に抱いてしまおうか」
少女のけなげな様を見て、ラブドエリスはおもわず普段の奔放な地を出してしまった。 「ラ、ラブドエリス様?」
アディバースはすばやい切り替えで、期待に輝いた目を彼に向けた。 「……うっ……俺ってやつぁ」
ラブドエリスは彼女に聞こえない声でつぶやいた。あらためて居ずまいを正して彼は言った。 「少女よ。私の考える満足できる死とは」 「は、はい」 「浪漫に満ちた死だ。つまり自己満足できる死だ」 「……はっ……」
アディバースは言葉を失った。まったく理解できなかったのだ。
ラブドエリスは手にした紅い宝石をしきりとさすりながら言った。 「昔、私には異種の優れたパートナーがいた。彼女は神の従属生物であり、高い知性を持っていた。彼女とは、とある一柱の神の実験を担う者同士として、幾多の戦いを共に切り抜けてきた」
ラブドエリスは感傷に更ける遠い目を少女に向けた。 「銀ログム種の――イタチに似た人なみの体格を持つ巨躯の生物である――雌であり、われら人と種こそ違うものの、彼女は優れた魂の持ち主であった。しかし彼女はある戦いで命を失った」
法呪による攻撃はことごとく退けられた。
その怪獣はありえない存在だった。 「ラブドエリス! だから言ったのだ。無益な感傷は正義などではないと」
ギュリレーネはぎりぎりと歯ぎしりをたてながらラブドエリスを非難した。
人の城は通路も狭い。その回廊での戦いは困難を極めた。ラブドエリスの操る射出兵器は壁や天井を削り、瓦礫と粉塵が自らの視界と行動も制限した。強力な攻撃法呪も使えなければ、防御を展開することさえ思うに任せなかった。
白いローブ姿の女性が、凶悪な殺気を振りまきながら、人に有らざる速度で走り移動していた。人の修道子女に似たその姿は、大きすぎる目を除くと、かなりに美しいと言えた。 「わるい。つきあわせちまった」
短デュウを左手で撃ちながら、ラブドエリスは神の子供を背負い直した。 彼の背で泣く神の子。名前を笹味と言った。
人の子と同じだ。子供はその愛らしさゆえに罪を犯させる。 「ド畜生なマイシマグの腿毛野郎に災いあれ」ラブドエリスがうなった。
このようなことは、記録にある限り知られていない。 マグス国間商会の創設者にして、会長マイシマグは、前代未聞の望みを持った。
奴隷の身からわずか一代で、七カ国に拠点を持つ商会を築き上げた立志伝中の人。齢を重ねて、いまは老衰に至ったと聞く。白髪すら失われた百十歳。その彼がおよそ人にあるまじき大望に捕らわれた。
神の子を我が手で子を育てる。 それは人の記録に記されたことのない言葉であった。 「だからってよ。ほんとうにさらってくるか?ふつう」
ラブドエリスがこのことを知り、笹味を救出したのは、ただの正義感だった。
ギュリレーネは、その彼に引きずられてきたにすぎない。彼女は雅流という名の神の従属生物だった。神への冒涜は許せない。しかし所詮は見知らぬ神の事情だった。本来なら彼らが関わりあう問題ではない。 「護国法兵士にまかせておけばよかったのよ」 「ばかやろう。だってよ、母神の志乃絵様に面と向かって頼まれちまったんだぜ」 「だからどうして頼まれるのよ。どうして頼まれたからって、やらなくちゃいけないの。断ればいいじゃない」 「ギュリレーネ。おまえ、俺が人間だってこと忘れてないか?」 「……にんげん……?」
汎神族の威光は、あらゆる生物に等しく作用する。人は高い知性ゆえに、他の生物よりも神の呪縛を受けやすい。つまり逆らえないのだ。 ラブドエリスとて、他の神の意志を受けて動いている場合でもなければ、神の懇願に抗えようはずもなかった。 「……あなたにしては気の利いたジョークね」
ギュリレーネは、笑うような呆れるような複雑な表情を彼に向けた。 「それでもこんな凶悪なライオン獣を相手にする義理はないわ。早くこの長い回廊を抜けなくちゃ。そうしたら全身の毛穴から血を吸い出して殺してあげるわ」 「聞くけど。あいつをか?」 「あなたにきまっているじゃない」
シャーーッ、という獣じみた威嚇音を言葉に混ぜながらギュリレーネは言った。
通常のライオン獣の三倍はありそうなその怪獣は、狭い回廊での迎撃戦を目的に創られたらしい。回廊一杯に巨大な顎が開き、何者もその進路上に寄せ付けない必殺の防御を敷いていた。洞窟のような喉の奥から数え切れない蛇状クンフが吐き出された。 「……ミィ……」
ラブドエリスの背中で笹味が泣いた。それは高速言語による悲鳴だった。保護者を呼ぶ悲しい泣き声だった。ラブドエリスには意味するところを理解できなかった。しかし神の従属生物であり、高速言語を解するギュリレーネの胸を打つことはできた。
笹味は六歳。人間で言うと二歳のかわいらしい盛りだ。仔猫を憎く思う者がいないのと同様に、丸みを帯びたその容姿は、あらゆる雌の心をつき動かさずにいなかった。
もし母性本能というものがギュリレーネにあるとしたら、いま彼女の喉の奥にせりあがってきた、飲み込むことのできない不思議な塊は、まさしく愛に満ちた衝動だった。 「こいつ強いぜ!」
ラブドエリスが悲鳴をあげた。彼は全力で戦っていた。幾多の戦いを勝ち抜いてきた彼らは強い。間違いなく強力な戦士であった。その攻撃が不可思議な障壁によって斜流されていく。動物の野生に根差した根源的な法呪をライオン獣は操っていた。 「ガガガッ」
腹の底まで響く咆哮が回廊に轟いた。
圧倒的な優位にあるにもかかわらず、ライオン獣は奢ることを知らなかった。淡々と着実にラブドエリスらを追い込んでいった。 「ラブドエリス。この怪獣を倒す必要はない。笹味様をお連れして逃げなさい」 「ギュリレーネ」 「基層圧縮界で魂も肉も閉じ込めてしまいなさい。構築できるでしょう?」 「ぬかせ! あれって時間かかるぜ」
ギュリレーネは高速言語による法呪構築をおこなうことができた。それでも二十ビョウの時間が必要だった。ましてラブドエリスでは五百ビョウ近い時間を必要とした。 「逃げながら詠唱していけば良いでしょう。私が脚を止める。死んでも笹味様をお守りしなさい」
ギラリと光る虹色の瞳がラブドエリスを射すくめた。 「やってやるぜ」
ラブドエリスは背中の笹味を背負い直すと、ギュリレーネの柔らかい肩を叩き、走り出した。たちまち攻撃法呪の閃光がひらめき、背後からラブドエリスを照らし出した。 「そが為す禁の在り所は諸衆知りて森羅万象知りてあり。凝り固めし魂あらざれば、四方諸悪毀流す」
えーーっと、と言いそうになる言葉を飲み込んで、ラブドエリスは法呪文を思い出した。こんなに長い法呪を操るのは、かなりに困難なことである。しかも逃げながらだ。
やがて長い回廊も尽きた。その先は開けた中庭に続いていた。回廊の外はライオン獣のテリトリー外である。人の兵士が待ち受けるのみだ。これは戦いようがある。逆に言うと、ここでライオン獣を止めなければ倍する敵を相手にしなければならないということだ。 「基礎を弾き層成す御身を囲み畳みて属する界より毬丸き輿の現し身にささげ奉らむ」
回廊の出口で振り返った彼が見たものは、ライオン獣の顎に捕らわれたギュリレーネの姿だった。上下する顎の中で、彼女の華奢な身体が翻弄されていた。
しかも既に意識がないのか、人の姿を失い、輝く毛皮をまとった銀ログムの正体をさらしていた。 「…………!」
ラブドエリスは彼女の名前を呼ぶのを、奥歯をかみ締めて堪えた。法呪文は一字一句誤ることはできない。それは法呪の失敗を意味する。 「がががぁぁおおおぉぉっ!」
口の端から血しぶきを撒き散らしながらライオン獣が迫り来た。 ――その血の味。鯨よりも高いぜ――
ラブドエリスの光る瞳が怒りをほとばしらせた。
ざわり、と空気が針のごとく殺気をはらみ、捩じ曲げられた空間定数が視界を歪めた。人の狂気にも似た、歓喜がよどむ醜悪な気配が周囲を圧倒した。ラブドエリスの法呪はたがを外された樽のように、後戻ることを知らずに拡散を始めた。人知を超えた波動が、穴から這い出す沼魚のようにあたりを浸していった。 「ありよりましき仇なす怨敵凝り懲りて我が手のなかに光と成れ」
暗くよどむ空間の歪みの中で、ラブドエリスの呪が白い光をにじませた。
アディバースは口を両手で覆って声が漏れるのを耐えた。
祭王の意外な悲劇は、敏感な少女の心をいばらのように引き掻いた。彼の悲しみのすべてを知ったとは思わないが、彼女なりにラブドエリスが神に従う敬虔な人間であることを理解した。 「神の御加護を……」
アディバースは無意識につぶやいていた。 「祭王様。ライオン獣は、どうなったのでしょう?」 好奇心に抗えずに少女は聞いた。
その質問を待っていたかのように、ラブドエリスは唇の端を歪める特徴的な微笑みを浮かべた。 「ここにいるさ。基層圧縮されて」
そう言って彼は手にした、長方形の宝石を目の前にかざした。 「きれい……」
アディバースは状況も忘れて、おもわずつぶやいた。 「美しい。そうだ。美しくなくては困る。これが私の死なのだから」
ラブドエリスは憑かれたかのようにささやいた。 「祭王さま?」
とまどったアディバースが聞いた。 「アディバース」 「は、はい」 「見なさい。この色を」
ラブドエリスは器用に人差し指の先で宝石を回してみせた。その色の海のように青ざめた蒼であり、一辺からは憤怒の血の色にも似た赤色が迫っていた。 「すこし……こわいです」
アディバースは素直を感想を言った。 「はじめ、この石は白かった。呆然として色を失ったように。やがて少しずつ赤味を帯びてきた。己の境遇を知った獣が怒りをたぎらせるかのようにだ」
よく見ると端正な祭王の横顔を、アディバースはじっとみつめた。 「そして今は」
彼は石を透かして彼女をみつめた。 「恐怖と冷たい怒りが塊を覆い始めた。いままでにない凍り付くような青だ」 「怒り……」 「ライオン獣は強かった。回廊というライオン獣のテリトリーで戦って勝つことができたとは思えない。ただ、ド畜生のマイシマグのために戦うライオン獣 に殺されることはがまんならなかった」
ラブドエリスはにっこりと微笑み、少女を見つめた。 「動機を除けば、ライオン獣は強く崇高な獣だった」 「あの、いったいそれが……」
アディバースは彼の話しの筋がつかめずに当惑していた。 「生き物はやがて死に至る」 「……はい」 「私は私の死を、自分の意志の元に置きたい。そう考えるのは贅沢というものだろうか?」 「それって。でも……じ、自殺は罪、と教科にありましたが」 「自殺? やはり自殺だろうか?」 「…………」
祭王に問われて、答えるすべを少女は持たなかった。 「この塊に捕らわれた獣は」
ラブドエリスは宝石を光にかざした。 「解き放った瞬間。怒りに燃えた瞳で私を見つけるだろう。そして圧倒的な力で、私をかみ砕くに違いない。自分の死の瞬間を私は見ることになる」 「そんな。それは……それはやはり自殺です。偉大な祭王様ともあろう方が」
少女はとまどい、彼の考えを理解できないでいた。それでも彼女の直感による感触、つまりこの行為が自殺に過ぎないことを彼に伝えようとした。 「君は正しいのかもしれない」 ぽつりとラブドエリスはつぶやいた。 「おそらく君のいう通り、私のしようとしていることは愚かしいことなのだろう」
少女は懸命にうなずき、彼の翻意をうながした。
ラブドエリスは、パッと輝くような笑顔を彼女に向けて言った。 「でも、実はさ。もう基層圧縮解除をやっちまったんだ」 「はっ? ええっ!」
彼は輝き出した宝石を部屋の中央のテーブルに置いた。 「さ、祭王様、ラブドエリス様!」 あわててアディバースは両手をばたつかせた。
ラブドエリスはリラックスしたようすで椅子に身体を沈めた。両肘を肘掛けにあてがい腰を落とし気味に座り、いまにも眠ってしまいそうな姿勢だった。しかしその指先は落ちつかなげに服をもてあそんでいた。 「祭王様」
アディバースは、実は彼が震えていることに気がついた。青い光に包まれた宝石を見つめる目は冷静だが、手と脚は持ち主の意思に反して小刻みに震えていた。 「わるい。酒、呑んでいいかな?」 「…………」
じっと見つめるアディバースの視線に照れるように、ラブドエリスはあらかじめ用意していたらしい小さな酒瓶を懐から出すと、グッと一息で開けた。 「っかぁーーーーっ、この一杯のために生きてるーーってかあ」
よほど強い酒なのだろう。ラブドエリスは空になった酒瓶を高く掲げると、頭を激しく振りたてた。 「あははは。わるいな。一人でやっちまってさ」
宝石の光りは徐々に強くなり、やがて輪郭がおぼろげになってきた。 「祭王様。お願いです。もう一度お考え直しを。あなた様のような方をむざむざと失うのは国の損失です。あなた様はいつも私たちに生きることの大事さと勇気を説いておられたではないですか」 「そうさ。生きなければだめだ。どんなときでも生き延びる命根性の汚さが必要だ」 「ならば……そうお思いになるならば、馬鹿なお考えは」 「馬鹿はないだろう」
くすくすと笑いながらラブドエリスは彼女の言葉をさえぎった。 「自殺じゃないんだ。アディバース。うまく伝えられないかもしれないけれど、私はその瞬間を見たいんだ。恐ろしくないと言えばうそになる。私は震えているよ。でもそれ以上にうれしいんだ。このときが来たことが。そして興奮している」
愛する人を待つ乙女のように上気した眼がアディバースに向けられた。 「初めて女を抱いた時だって、こんなに興奮しなかった。若いバカな頃に、半年分の稼ぎをぶちこんで、落ちぶれ貴族様の娘を一晩買った時だって、これほど心臓は鳴らなかった。もっと非道いあんなことやこんなことや……」
アディバースは祭王の悪行三昧に目の前が暗くなる思いだった。 「そうだ。これほど心臓が鳴ったのは、彼女がライオン獣に食われたのを見た時くらいのものだと思う」 ギュリレーネ。その名前をアディバースは知らない。 「その方を愛しておられたのですね」 「いや、種が違うからな。愛するという言葉が当てはまるかはわからない」 「祭王様。まさかその方の後を追うおつもりですか?」
少女らしい発想で、しかし意外とするどい視点で彼女は言った。 「ダシにさせてもらうよ。話しとしてはロマンチックだろう」 「御自分を納得させるために……ですか?」 「納得? 私がか?」 「ええっ、だって……」 「そうか。そうかな? おそらく少しは自殺っぽいことへの罪悪感があるんだ。私にも」 「自殺です! 絶対に自殺です。祭王様。御自分の理性に忠実になるべきです。常に考えろとは、あなた様がいつも私たちに教えていたことではありませんか」
話しているうちに少女は不思議な気持ちの高揚を感じた。 「私たちはどうすればよいのです? 残される私たちは。あなた様をどのように尊敬申し上げれば良いのです」
ついっ、と彼女の頬に涙が流れた。 どきり、とさせる少女の涙も、いまのラブドエリスには関係なかった。 「首を切り落とされた時」
ラブドエリスは、生徒に説明する教師のような表情で少女を見つめた。 「身体を離れた頭は、どこまで意識を保っているか。考えたことはないか?」 「……ありません。そんなこと……」 「私はたくさんの命を奪ってきた。男の命、女の命。クンフ、従属生物、龍ども、虫から知性ある獣まで。数え切れない」
ラブドエリスは腕を伸ばし、遠視の年寄りのように、身をのけぞらせて手のひらを見つめた。まるで汚らわしいものでも見るかのように。 「動くこの手が命を握り潰したんだ」 「祭王様。人はだれしも殺生をする罪深い生き物です」アディバースが言った。 「この手は」
ラブドエリスは、爪を立てるような凶悪な仕草でこぶしを閉じた。 「神も殺したんだ」 「…………」
アディバースは、その意味するところが分からず、なにかのきわどい比喩なのだろうと考えた。人として当然の反応と言えた。文字どおりの意味があると理解するほうがおかしい。 「はじめは恐怖と殺気をまきちらして、刃を振るっていたに違いない。切られたものこそ不運だ。憎しみの瞳ににらまれながら死んでいったのだから。でもいつからだろう。相手の攻撃力を奪えれば良いと考えて、理性の中で命をさらうことを覚えた」
ラブドエリスは考えを探るように、眉を寄せて言った。 「正面きっての戦いでは、自分が切られるときがわかる。それは一瞬のことだが、身体の動きと流れの中で、やられた、と思うんだ。自分の姿勢が反応が次の攻撃を防げないと理解する。相手の武器が自分の身体を斬り壊していく。それを見ている自分がいる」
新しい酒瓶が椅子の後ろから取り出された。 「しかしだ。別の見方をすると、これは自らの意志により得られる死の可能性なのではないか? 自分よりも強い何者かは、確実に私を死にいざなってくれるだろう。安心して見ていれば良い。その瞬間を見つめて脳裏に刻むんだ。これは一生に一度の浪漫だとは思わないか?」
アディバースは居心地が悪そうに腰をよじらせた。 「私は……女だからかもしれませんが……わかりません。私が誰かに殺されるなんて想像もできません。私なら、そのときでも生きることしか考えません、きっと。ぜったいに嫌です。そんなこと」
アディバースは自分の心を確かめるように、言葉を選びながら言った。 「女の子は修行でも苦行なんてしません。神に近づくためでも、男性のように自分の身体を損なうような荒行はしません」 「そうか?」 「だってそんなことをしたら、赤ちゃんを産めなくなるかもしれません」
ラブドエリスは彼女の言葉に目をむいた。なんと自然な感情であることか。まさに彼女言う事は真理に違いない。男性が荒行をも辞さないのは、所詮、子供をその身体で育てられない事を知っているからなのかもしれない。種の命題である子孫繁栄は、女性こそ主役に間違いなかった。
ラブドエリスは浪漫と思っていた自分の計画が、なにか子供じみた考えのように思えてしまった。 「……まいったな。そうか。きっと君は正しいよ」
アディバースは説得に成功したかと、パッと顔をほころばせた。 「では、祭王さま」 「それでも」
彼女の言葉をさえぎり、ラブドエリスは子供のような笑みを浮かべた。 「やってみたいのさ」 「祭王様!」 「チャンスは幾度もあるものじゃない。次の機会が満足できるとは限らない。そしてこのライオン獣は……私にとって意味深いものだ」
アディバースは言葉を失って両手を合わせた。 光があふれ始めた。 テーブルに置かれた宝石が、ぎらぎらする光に取り囲まれた。
照明のない部屋は、刺すような光の奔流に激しく色を変えた。 「やめてください! おねがい」 アディバースが悲鳴を上げた。
ラブドエリスの顔が、白く照らし出された。 「……クッ……」
その口元から笑いとも鳴咽ともつかない音がもれた。口元は不敵に歪められて、笑いを張り付かせているが、それは凍り付いた表情に過ぎない。 「来よ。尊敬すべき最強の獣。我が……を食らった強き顎で我を倒せよ」
光はやがて霧のように、実体を帯び始めた。テーブルの上にもやもやとした得体の知れない塊を集め始めた。 「……ひっ」
アディバースの口から悲鳴が漏れた。
塊は活動映画の幕のように、動く獣の姿を映し始めた。どこか遠くの出来事のように頼りないものではあるが、そこに映し出されたライオン獣は、真っ青な光を全身にまとわりつかせて、狂ったように暴れまわっていた。檻に閉じ込められた怪物が、半狂乱になっているかのようだ。血を撒き散らしながら吠え、歯噛みし、触れるものすべてを掻きむしった。 「いいぞ。我が死よ。それでこそ託すにふさわしい」
両手をぶるぶると震わせながら、ラブドエリスは歓喜に燃える瞳で身を乗り出した。
光は見る見るうちに強まり、解呪が着実に進行していることを示した。ラブドエリスは最高の見世物でも見ているかのような陽気さで酒瓶をあおった。しかしその間も一瞬たりとも視線は宝石から離さなかった。このショーの一部始終を脳裏に刻みこもうとするかのように。
いまやライオン獣の姿は実物を見るほどに鮮明になりつつあった。その巨体は部屋の四半分を占めるかと思えるほどだ。人が戦って勝てるようなものでは断じてなかった。アディバースは絶望で息が苦しくなるほどだった。自分をくくっている法呪がその身を守ってくれることを疑ってはいない。祭王自らが立てた法呪である。それは彼女にとって絶対だった。信じる力は法呪を強くする。
音を立ててライオン獣を閉じ込めた法呪の消失が始まった。暴風のような轟音が室内を満たし始めた。基層圧縮された空間が、気圧の差を埋めようと空気を欲した。余剰呪が稲光のようにひらめき空気を焼いた。 「ぎゃおおおっ」
魂まで縮み上がりそうな雄たけびが響き渡った。 「…………!」 アディバースは悲鳴すらあげられずに眼をつぶった。
いよいよライオン獣が現し身をさらし始めた。
黄色く光る狂気の瞳は怒りと恐怖にひきつり、抑圧された攻撃の衝動は、絶え間ない咆哮となって周囲を圧した。 「いいぞ。いいぞ……」
ラブドエリスは恍惚とした表情で、ライオン獣の襲撃を待っていた。
彼はいまや興奮の頂点を過ぎ、超然とした表情さえ浮かべていた。乗り出していた身は、いつしか椅子に深々と背中を預け、両手は肘掛けの上でリラックスしていた。 「ギュリレーネ……べつにおまえの後を追うわけじゃねーぜ」
その瞳は既にライオン獣しか見ていない。彼は恍惚とした表情を浮かべて、つぎにおこるだろう惨劇を待った。 その視界はどんどん狭まっていった。
彼の時間はどんどん間延びしていく。
眼前の脅威に注意を集中させることの快感は、いまだかつて知らない充足感を彼に与えた。多くの命を断った彼の手は、意外なほど白く美しかった。その指を口元で組む姿は、乙女の祈りの姿にも似ていた。
ズシッと床が鳴った。 ライオン獣の片足が堅い木の床を踏みしめた。獣はその感触に躊躇した。 「祭王様。お逃げください!」
アディバースの悲鳴にも似た叫びが言った。 ライオン獣は彼らの前に実体化した。
状況を把握できずに視線をさまよわせ、鼻をひくつかせるが、その間も唇までめくれた凶悪な歯列はうなることをやめない。 「…………」
ラブドエリスはなにも語らずに、じっとそのようすをみつめていた。まるで恋人を見るような優しいまなざしで。
血も凍るような青い光に包まれた獣は、正面に座る人間に気がついた。黄色い視線がラブドエリスを捕らえた。 「来よ」
ラブドエリスは静かに立ちあがった。私はここにいると。 「ぐるるるっ」 それに応えるように、小山のような怪物は脚を踏み出した。
そのとき宝石の光が色を変えた。激しい赤の光が吹き出し始めた。
視界の端でそれを認めたライオン獣が、ぎゃっと不気味な悲鳴を上げた。 「どうしたけだもの。私はここにいるぞ」
ラブドエリスは両手を広げてその襲撃を促した。
しかしライオン獣は、彼の事など眼中にない様子だった。後ろに幽霊でもいるかのように、おそるおそる赤い光を振りかえった。 「か、かみさま……?」
アディバースは赤い光の中から姿を現そうとしている人影に気がついた。女性に見えるなにかがライオン獣に続いて実体化しようとしていた。ラブドエリスからはライオン獣の陰になり、その姿が見えていなかった。 「ッィイイィーーーーーン」
高速言語の響きが、赤い光の中からほとばしった。 「ぎゃひん!」 その声を聞いたとたん、獣はおよそライオン獣の名に値しない悲鳴を上げた。
肩越しに光の中の小柄な女性を認めたとたん、獣ははじかれたように走り出した。向かった先には状況が見えていないラブドエリスがいた。 「来よ」
ライオン獣は彼に向かって、跳躍するように襲い掛かった。
怒りと恐怖に見開かれた瞳は、部屋の光を映して虹色にかがやき、耳まで裂けた唇は、真っ赤な喉までさらした。そこに並ぶ鉄杭のような白い牙の列。鋼鉄すらかみ砕くと言われる顎は、岩が動いているかのような錯覚を覚えさせた。
ラブドエリスの視界のすべては、ライオン獣に占められていた。一瞬が永遠のように流れていく。あらがうことのできない暴力が、人間など紙人形のように噛み砕く破壊の力が、我が身を滅ぼすために迫っていた。
スローモーションのようにやってくる死。己の生命が尽きようとするこの一瞬。
己の尊厳を満足させる、誇り高き強者による一撃。 「おまえが私の死」
本能が閉じさせようとするまぶたを、強靭な意志で開いていた。自分の身体が砕かれる瞬間、意識の失われる、その一瞬までをすべて見ていたかった。見ることを感じることをやめずに残さず味わいたかった。
一生に一度の死を、自分の意志の元で能動的に体験し記憶したかった。 怪物の巨体がラブドエリスを覆った。 「ぎゃん!」
その声はライオン獣の口から出た。
ラブドエリスの身体は人形のように弾き飛ばされて、アディバースの近くに転がった。 「きゃいん、きゃいん」
ライオン獣はラブドエリスなど眼中になく、窓に向かって一目散で駆け寄った。
それを追うように、赤い光の中から、攻撃法呪の白い閃光が飛び、ライオン獣のたてがみを焼き散らした。 「ぎゃぎゃっ!」
巨体はガラスを窓枠ごと砕き、あっという間に闇に消えていった。 それは一瞬の出来事だった。 「さ、祭王さま……」
アディバースは呆然として、倒れるラブドエリスを見た。その身体には負傷の後はまったくない。
したたかに床に叩き付けられたラブドエリスは、うめきながら上体を起こした。 「なんなんだ……」
そのときになって、彼は始めて赤い光の中に立つ人影に気がついた。 「ラブドエリスーーー」
白いマントを羽織った女性らしきものが、彼の名を呼んだ。
真っ赤な怒りに全身を震わせた、少女とも大人ともつかない姿が、光の中から歩み出した。ライオン獣すら裸足で逃げ出す凶悪さを発散させる美しい乙女。
人並みはずれて大きなアーモンド型の眼と、針のような犬歯がのぞく小さな唇。 「うそ……まさか」
ラブドエリスは自分に近づいてくるその姿を、幽霊でも見るような目でみつめていた。 「ラブドエリス。たった一度でもおまえの子供を産んでみたいと思った私が信じられないわ。基層圧縮の対象固定すら満足にできない能無しに」
その女性は炎を身にまとった雪女の風情で、音もなくラブドエリスの前に歩み寄った。
細い腕を伸ばすとラブドエリスのむなぐらを掴み、軽々と頭上に持ち上げた。 「や、やあ。げんき?」
母親に持ち上げられた子供のように、ラブドエリスはどきまぎと片手を上げて挨拶した。 「ギュリレーネ」 「……なにイカレた格好しているのよ」
言うが早いか、彼女の爪がひらめきラブドエリスの顔面と胸元を切り裂いた。
血しぶきがはぜるかに見えたその一瞬。白いなにかの破片が大量に飛び散り床に落ちた。 「祭王さま! そんな」
アディバースは変身した彼の姿を見て、驚きの声を上げた。 いや、変身が解けて正体をさらしたという言葉が正しい。
そこにはどう見ても二十代の若者が立っていた。 「なにか楽しんでいたようだけど、茶番は終わりよ。私たちはやらなくちゃいけないことがあるでしょう?」 「ああっ、ああ。まったくだ。そうだ。そのとおりだ。ギュリレーネ」 ラブドエリスは彼女に抱きつき肩に顔を埋めた。 「なによ」 「おまえの言うとおりだ。ギュリレーネ」 「人の匂いがうつるわ、はなれなさい」
ふたりはまっすぐに窓に向かった。 「あ、あの」
取り残されたアディバースが声を上げた。 「アディバース。心配しなくても大丈夫。ライオン獣は始末して出て行くから」
若者の顔のラブドエリスがウィンクをして言った。 「いえ、あの。そうじゃ……」 「ばかね。おたのしみの最中だったんでしょう?」 「そんなんじゃねーよ。おまえそういう目で俺を見ているのか?」 「レディの前で話す話題じゃないわ」
ラブドエリスは、アディバースの前まで戻り法呪文をささやいた。たちまち彼女を包んでいた物理障壁は粉々になり霧散した。 「アディバース。俺は行かなきゃいけない」
さきほどまで死を楽しんでいた者とは思えない、生き生きとした瞳で彼は言った。 「祭王さま。行かれるとは。どちらへ。いつお戻りになられるのですか?」 「もう帰らない」
祭王の地位を捨てる? そんなことをできる人間がいるとは彼女には信じられなかった。 「これをあげよう。俺の祭王としての最後の仕事だ」
ラブドエリスはアディバースの唇にそっとキスをした。 「さ、祭王さま」
恋人以外とキスをしたのは始めてだった。真っ赤になって視線をさまよわせた。 「これは役得。次のが仕事だ」
ラブドエリスは彼女の喉元にそっと口を寄せた。 「あっ」
強く吸った唇が、ちゅっ、と音を立てて離れた。 「ほら、さっさとしなさい。お嬢さんが困っているじゃない」 ギュリレーネが窓際に立った。白い月明かりに浮かび上がった姿は、奇妙に透き通っていた。銀色に輝く毛皮がなまめかしく動いたように見えた。 「アディバース。内緒だぜ?」 ラブドエリスはもういちど口づけをすると、ギュリレーネの元に駆け寄り、そのまま振り向きもせずに窓から飛び出した。 「信じられない」
ギュリレーネは、誰に言うともなくつぶやくと、彼を追い窓から消えた。
アディバースは首筋にくっきりと残ったキスマークに触れながら、これからの自分のストーリーを考え始めていた。もうラブドエリスのことなど、どうでもよかった。
ただ、祭王の野望が、ちょっと棚上げになったらしい、という思いだけが頭の片隅をよぎった。
了
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