桜の枝の数は、誰も知らない。 紅をたたえた花びらが降る。 空気はぬるみ、甘露を垂らす。 そこは長い桜並木。 数えきれない紅桜が立ち並ぶ。 長い長い紅い回廊。 人の知らない季節の合図。桜は賢く感じとる。 今朝がそのとき。 桜は一度に花ほころんだ。 年に一度の夢の中。 やがて女神は現れた。 天から降ってくることはせず。 自分の脚で歩み来た。 人の作った道を堅くたしかに踏みしめて。 すうっ、と吸い込む冷たい霞は、白い呼気となって落ちる花びらをはねのけた。 神の身体に繋がれたまばゆい金の小片が、きらきらと白い朝日を反射した。 どんな人間よりも長身の若い女神は、爪先の切れた足袋から白い足指をのぞかせて、すい、すいっと歩み来た。 彼の柱の銀の髪筋は、長く透明に輝き霞を愛でる。 わずかに巻き起こったたおやかな風が、甘い神の体臭をあたりにふりまいた。 「……おいっ……」 「はよはよ」 人間の無粋な小声が並木の両側から無数に聞こえた。 家一件分の細い道である。 神の巨体が服をまとって歩けば、人の立つ余地もない。 人間たちは桜の樹の後ろに潜み、ござをひき、旗を寝かせて待ち構えていた。 男も女も大人も子供も、今日のために装っていた。額には極彩色の鉢巻きを巻き、先のとがった靴を履いた。 女は赤紫の紅をひき、男は眉に黒を入れた。 興奮した子供たちが叫びだしそうになるのを、母親は口を押さえて黙らせた。 身を伏せて隠れる人の数はものすごい。 数ケーメンツルと続く桜並木の、端から端まで潜むらしい。 女神は静かに、しかし乱れることなく歩みを進めた。 土の出た地面には小砂利も浮いているというのに、頓着することもない。 人に倍する神の高い目線からは、どのように桜の木々が見渡せているのだろう。 女神の通るその後を、舞い散る花びらが名残惜しげに追いかけていく。 紅のかけらが地面に落ちたとき、隠れた人間たちがわらわらと道に現れて、一心不乱に拾い集めた。 そしてすばやく桜の樹の後ろに立ち返ると、手にした杯に花びらを浮かべて、一息に飲み干した。 酒を呑めない大人や子供は、甘い紅茶に花びらをのせた。 「ほお……」 「ああっ」 そこかしこで、女神の祝福を喜ぶ嘆息が漏れ聞こえた。 人の動きと嘆息は、女神を追う静かな波となって、桜並木を進んでいった。 若い女神が毎年この日に現れるようになったのは、ほんの数年前からだ。 なぜ女神が開花の朝に並木を歩くのかは誰も知らない。 神が人のように花を愛でるのかすら、人間は知らない。 女神はときどき、くるりと回った。 左足を軸にして、踊り子のように見事なターンで。 渦を巻く髪と白い裾は、不思議なほどにゆっくりと漂った。 その口許におだやかで楽しげな色を見たと思うのは人の奢りだろうか。 女神が後ろを向いた瞬間に、人間たちは思いきり奇抜な恰好で飛び上がった。 一目でも神の目に触れようと、道のみぎひだりから蛙のように飛び上がった。 しかし女神はその光景をなんと思うのか、怒るでもなく笑うでもなく静かに歩みを進めていった。 人間たちは、女神が目の前から百メンツルも進むと、道の上で飲み食いをはじめた。 小さなテントの出店がばらばらと現れて、肉を使わない温かな食べ物を振る舞いはじめた。 女神の周囲はあいかわらずに清々しく、クンフが湧くほどに神秘的だった。 やがて興奮を高めた人間たちは、女神が後ろを向く時を待ちきれずに、道に出て飛び上がった。 中にはそのドレスの裾に触れそうなほどに近づく愚か者まで現れた。 「やっ……!」 一人の少女が見事なジャンプで宙に上がった。 黒いひっつめ髪に、青や黄色や櫛をたくさんつけた、首がすらりと長い女の子だった。 彼女は女神の後ろから走りより、細い筋肉をたわませて、白鳥舞踏の華麗な開脚技で空を飛んだ。 間の悪いことに女神がくるりと振り向いた。 「ひっ」 少女の口から悲鳴が漏れた。 女神にぶつかる。 誰もがそう思った瞬間。少女の身体が空中にぴたりと止まった。 神の法呪が少女を止めた。 人間たちはそう思い、宙に浮く少女を見た。 「……うわっ……」 人々は悲鳴を上げそうになった。そこに見えた光景に度肝を抜かれて。 自らの口を押さえ、必死に悲鳴をかみ殺した。そして転げるように桜の樹の後ろにかけ戻った。 歩み去る女神の後ろに少女の身体は浮いていた。 その身体には首から上がなかった。 いつ切り取られたのか、だれも気がつくものはいなかった。 だらん、と垂れた四肢は力なく揺れていた。 若い首なし死体が空中に縫い止められていた。 やがて彼女の身体は、女神を追うように漂いはじめた。 白と桃色のはなびらが舞う中を、女神と首なし少女が進む光景。 人々は息を飲み、酒をあおった。 幾人かの少女ゆかりの男と女が、足音を忍ばせて、長い袖をひるがえして後からついていった。 「……ぃきぃぃっっっん……」 女神の口からかすかな音が漏れでた。 長い桜並木も、あと十本で終わろうとする場所だ。 女神はゆっくりと着物を脱ぎはじめた。白い肩がはだけて、二の腕を白絹が滑り落ちた。 人間たちに背中を向けたまま、一枚一枚と包み物が落ちていった。 朝日を浴びて柔らかな曲線が朝日にさらされていく。白い素肌は華麗な陰影に満たされた。 宙を舞う花びらが、傷一つない肌に吸い寄せられていった。 それまで肩より高く上げられることのなかった長い両腕が、羽ばたくように頭上にさしあげられた。 両足は爪先立ち、左右に大きく開かれた。 まるで身体のすべてを空気に晒すかのように、神秘の肌から陽炎が立ちのぼった。 大きく息を吸い、胸をそらして甘くかぐわしい香りを並木に漂わせた。 女神は祝福の法呪文をよばわった。 「明徳と明らかにするせきぞ桜のあらたに日を受くごとし。日々の新たに日めぐるさいわい。桜の礼節習う用なく虚無寂滅の見識いっさい倫理やぶれず乱れることなし」 その身に足袋一つの姿で、女神はふたたび歩きだした。 やがて桜並木を抜けた姿は、明るい日差しのなかでくるりと振り向いた。 人々は女神の立ち居振る舞いすべてに目を見張った。 手にした杯をすすり、キャンディーを頬張りながら、眼だけは別の生き物のように女神の姿を追いかけ、耳をそばだてた。 「げっぐ」 無粋な獣の声が人間の耳に届いた。 「この子の顔はおいしいわ。でも今日は食べてあげない」 じゃりじゃりとした獣の声が人語を語った。 その声は女神よりも手前から聞こえた。 人間と女神の間に、眼には見えない怪物がいるようだった。 そう、首を失った少女のあたりに。 「今日は由美歌様の花見の日。血で穢すのは粋じゃあないわ」 何かを口に含んだような、くぐもった声がその事を告げた。 「返してあげる。おいしい女の子」 少女の顎が、見えない袋から絞り出されるように、空中から現れた。 ずるり、とねばつく液体をまとわりつかせて、顔が、額が現れた。 降り積もった桜の花びらの上に、五体満足な少女が落ちた。 そのとき雲が流れて、太陽の日差しを遮った。 「…………」 少女は健気にも意識を保ち、己の頭を隠していた神秘の正体を見つめていた。 それは神の従属生物か。 かすかにゆらめく大気の中に、人々は昆虫にも似た漆黒の恐竜を見た。 「人の娘よ。名前はなあに?」 黄色い眼が笑って聞いた。 「メ、メイルウトです。神様」 透き通る恐竜は、くぐもった笑い声をあげた。 「メイルウト。来年はもっと高く飛んでごらん。そのために一生懸命練習してごらん。きっと良い一年が巡りくるわ」 「はい。神様」 「由美歌様は努力する者を愛するわ。そして一つ事に秀でた者を他に語らうわ」 「私のような、つまらない踊り子でも?」 「種の限界に挑む技はなんであれ貴いわよ」 「ありがとうございます。神様」 健気な少女は、頬を赤らめて神の従属生物に感謝した。 「そしてね。十分に生きたら私に言いなさい」 「はい?」 「私があなたを食べてあげるから」 「…………」 楽しげに笑いながら、恐竜は少女の頭をなでつけた。 「我とともに巡らん」 堅くたくましい二本足で花びらを踏みつけながら、女神の元へ歩いていった。 女神の前に立った不思議の獣は、背負っていた奇妙な器具を地面におろした。 「なんだろう、あれは?」 人間たちは、はじめて見るその器具に興味を引かれた。 「荷車じゃないか?」 「でも車輪が縦に並んでいるぞ」 「しかも二個だけだ。あれじゃ倒れてしまう」 それは細く大きな車輪が前後にふたつだけついているという、およそ奇妙な代物だった。 車輪と車輪のあいだは、きらきらと輝くパイプのような金属で複雑に結ばれていた。 ふたつの車輪の中間に、黒い椅子がついていた。 片方の車輪のちょうど真上に短い横棒がついていた。 女神が手をかける横棒は、握り柄のように赤い布が巻きつけられていた。 磨き上げられた銀の輝きは、日の光を受けて宝剣のようにまぶしくきらめいた。 人間にはそれがなにかまったくわからなかった。 女神は並木道の端から紅の回廊を見渡した。 どこから取り出したのか、素肌の上には薄皮のつなぎを着込んでいた。 奇妙な器具にまたがり、ふたたび並木に向かって深呼吸した。 宴会を始めた人間たちは、あわてて桜の樹の後ろに駆け戻った。 「いざや」 女神の高く細い声が放たれた。 そして両足が地面から持ち上げられた。 次に起きた光景を見て、人間は驚き感動した。 「みろ。あれを」 「……おおっ、おお。法呪だ。神様の法呪だ」 なんと女神は二つ車輪の器具に乗ったまま動きだしたのだ。 最初はすこしふらついたけれど、それはたしかに立っていた。 若く力強い女神の足は、車輪の横から突き出した足置きのような棒を、ゆっくりゆっくりと踏んでいた。するとたちまち車輪がからからと回りだし、奇妙な器具は女神を乗せたまま、音もなく進み始めた。 いったいいかなる法呪によるものか。二つの車輪は倒れることなく動いていた。 女神は驚くほどの速さで、並木道を戻り始めた。 二つにまとめた長い髪が、風に流されてどこまでもたなびいた。 女神が通りすぎた後には、ほのかな汗の香りが漂った。 そのあまりの速さに、膳の片付けが間に合わない人間たちは、杯を散らして転げるように道端に身を伏せた。 そして目の前を、ふたつの車輪が通りすぎる奇跡に声を失った。 それは一瞬の出来事だった。 人々が我に返ったとき、女神の姿は消えていた。 人間たちは深い感動と興奮に包まれて、若い女神の奇跡を讃えた。 その年は、酒と料理が倍も売れたという。 神が花を見るのか、人が神を愛でるのか。 美しい自然と、神秘の超越者を肌で感じる希有なひとときは、人間に活力と想像力をもたらせた。 花を見、神を見、祝福を与え合う祭の名を、人は「ゆみかみ」と言った。
了
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