こいかこせ
恋過去世・神は記憶に恋をする 第二章
自分の記憶に恋をする。それは汎神族の危険な病だった。
記憶の中の先祖が人格を持つことにより、他者のように振る舞うのである。 それは「恋過去世(こいかこせ)」と呼ばれた。 人の多重人格とは明らかに違う。多重人格は現在の事象を主たる人格とは別の人格が処理していくものである。 汎神族の「恋過去世(こいかこせ)」は、既に十分な経験と実績を納めた人格を自分と不可分なまでに共有したときに、その人格が膨大な経験に裏打ちされた独立人格として働くのだ。
つまり自分以外の人格が頭の中に住むようなものだ。しかも現れる人格は自分を代表していない。そこが多重人格と決定的に違った。 その人格が異性であるとき、好ましく感じてしまうこともありうる。 なぜなら汎神族の記憶の遺伝は、出産に至るまでの過程で行われる。 すなわち父と母、そして祖先の若く性的な魅力に溢れるときの姿を知ることとなるのだから。 「由美歌様。私にできることはなんでしょう」 「おまえは罪の存在だ。ラブドエリスへの罰として生まれた命だ」 「そのとおりです。由美歌様。謙虚に贖罪の日々を送ります」 「彼の罪を自らの罪として悔い、己を責めつづける哀れな魂よ」 「しかし由美歌様。私は神の属性を得て、人のなかで生きることを誇りとしています」 「なんと」 「私のオリジナルであるラブドエリスの罪は、人の秤では止むをえなしと考えます」 「アプミリア。おまえに汎神族の救済を求めることは、私の傲慢かもしれない。しかしあえて言おう。私はおまえの助けを必要としている」 「喜んでこの身を捧げましょう」 「おまえには雪矢様の記憶に介入してもらいたい」 「記憶潜行をせよと」 「違う。いままさに雪矢様と対峙するのだ。雪矢様のいまの意識の中に潜入するのだ」 アプミリアは自分がそのような仕事をこなせるとは思えなかった。 女神は彼女の不安を知っているかのように、そっと手を取った。そしてアプミリアの右手の小指に指輪をさしいれた。 ピンクゴールドに輝く指輪は、とても美しかった。 不思議なことに指輪には真紅の糸が繋がっていた。 「……これは?」 アプミリアの問いに、女神は自分の小指をかざして見せた。そこには赤い糸を垂らした指輪が光っていた。 「私とおまえを繋ぐ指輪だ。私はいつでもおまえの隣にいる」 アプミリアはそれを見て胸をなで下ろした。 「これは基憶剥(きおくり)の弓矢だ。おまえはこれで雪矢様を射ろ。すべてはそこから始まる」 由美歌は儀礼用のように小さな弓矢を渡した。 そして輝くローブをはね上げるとアプミリアを抱いた。 「では行け。そして雪矢様をお救い申し上げろ」 「はい」 「ィィイイイィィィッッアアアアアアアァァァァン」 アプミリアは女神の高速言語に、意識が薄れゆくのを感じた。やがて彼女の身体は力を失い大地に横たわった。 「…………」 由美歌はアプミリアが雪矢と完全に意識結合したのを見定めると、自分の手から指輪を外した。 そして武装した従者に手渡した。その者はいかにも嫌そうに、指輪を自分の指にはめた。
アプミリアは、雪矢を矢で射る夢を見た。 シャーキンの温泉に潜み、獣とともに湯に遊ぶ雪矢を矢で制する夢だ。ありえない光景も彼女には現実のことだった。 汎神族を救えという由美歌の命令は、いかに神の創造物であるリ・ラヴァーにとっても不可能なことだった。 物理的になしえない、ということではない。リ・ラヴァーと言えども汎神族を眼前にしては、他のすべての生物が身をすくませるのと同様に、畏怖に魂が縮れてしまうのだ。 それを知る由美歌は、アプミリアに力を与える夢を見せた。 彼女の手で神を射り、雪矢を己が手中にする夢を。 達成感に満足し、自信に溢れたアプミリアの耳に、由美歌の声が心地良く響いた。 「おまえは特別な人間だ。リ・ラヴァー・アプミリア。雪矢様の救済は、おまえにしかできない」
白く溢れる湯気の中で、雪矢の影が舞うように流れた。 アプミリアは自分が実体ではないことにすら気づいていなかった。神の法呪はすさまじい威力を持っていた。 「……ん……」 アプミリアは温泉の茂みの中から基憶剥(きおくり)の弓をひきしぼった。弓矢になど触ったこともない。ひどい構えのままに矢を放った。 ばよっ……ん。 弓のつるは、楽器のような音を立てて矢を飛ばした。 尾羽が肉眼で見えるほどの情けない速さで矢は空を飛んだ。 紅いガラス矢尻の重さで、鋭い切っ先が雪矢の背中に突き立った。 「あ……ああああっ……」 雪矢は芝居のような声で悲鳴を上げた。 「まさか……」 アプミリアは、矢が雪矢に刺さってから気がついた。 矢羽から青い糸が伸びていたことを。 そして糸は、アプミリアの髪に結ばれていたことを。 雪矢の意識が青い糸を通して彼女に流れ込んできた。 「のみこまれる……」 泉に崩れ落ちていく雪矢の姿を見ながら、アプミリアは意識が薄れていくのを感じた。
「…………」
アプミリアは、空を見上げている自分に気がついた。 神めがけて矢を射ったのだ。そして……。 「ここは……記憶の海……」 視線を下げると、そこには目に見える世界が広がることがわかった。 目に映るものの意味がひとつひとつわかりはじめた。 そして気がついた。美しい女神がいることに。 夢のように神々しい夕焼けの草原に、赤い髪の女神が立っていた。 背の高い草の穂を揺らす風が、海から陸に吹いていた。 幾重にも編み込んだ髪から長いほつれ毛が巻き出ていた。 風になびくほつれ髪はファッションらしい。その証拠に細い髪の筋の先端には金色の小さな髪飾りが無数についていた。 少女の時代を越えようとしている姿は、まろやかな肩の線を恥ずかしげに揺らしていた。 切れ長のまなじりに薄い茶の瞳。紅を刺した唇は、神の甘い呼気を漏らしていた。 「きれい……」 アプミリアは一目で女神に魅了された。 彼の柱が雪矢の愛する先祖。如月であると自然に理解した。 女神の美しさは想像を越えていた。 アプミリアを記憶の海に送り込んだ由美歌も美しかった。しかし目の前の如月は、それ以上に美しく、性的魅力も勝っていることがわかった。 アプミリアは、自分の中のなにかがむらむらと欲望の鎌首をもたげるのを感じた。 雪矢はこの女神を愛したのだ。 それは邪道なことであるかもしれないが、男神として無理からぬことと思えた。 実体を持たずに漂っていたアプミリアに、外部から由美歌の強制力が作用した。 彼女は意識が如月に近づいていくのを感じた。 由美歌の声が地平線の彼方からかすかに聞こえた。 「アプミリア。如月様とおまえを意識結合する。よく義務を果たせ……」
アプミリアが目を開けたとき。眼前に雪矢がいた。 如月の目を通して雪矢を見ていた。 美しい雪矢の姿に息を呑んだが、耐えられぬプレッシャーではなかった。それどころか彼の柱に対する優越感すら感じた。 雪矢は如月の名を呼び、アプミリアを抱きしめた。 「ああっ、如月」 彼女は美しい女神と同化していることを思い出した。 そして汎神族である雪矢の抱擁を平然と受け入れる自分に驚いた。どうやら意識結合は成功したらしい。 アプミリアは雪矢の首筋に唇を当てた。 柔らかなピンクの唇が肉の感触を得たとき。彼女は口の中に、鈍い血の味が広がるのを感じた。 「…………うっ」 はじめはそれが如月の記憶であると思い、不快な感触に身をまかせた。 記憶は生々しく蘇った。。 アプミリアのたくましい顎が獲物の強靱な皮を噛み裂いた 。動く肉が食われまいとして硬直した。じわりとにじむ脂肪の味と、破れた血管から吹き出す血の香りが口のなかいっぱいに広がった。 「ごぉあああっ!」 アプミリアの口から獣の吠え声が轟いた。腹を震わせる自分の声に血がたぎった。 肉食獣の鋭い牙と爪を振るう快感が、すさまじい闘争本能のままに全身を駆け抜けた。 心臓が破れそうなほどに鼓動した。体温が上がり、人の五倍もの速度で時間が過ぎ去っていった。人の幼子が、這うことから立つことを覚えるほどの時間で、青春を駆け抜けていった。 風がなぶる首筋のたてがみと力強く揺れる太い尾が、狩る者の誇りを誇示した。 すべては当然のことだった。なにひとつ気に病むことではなかった。 次の瞬間。腹の底から、ゆるゆると食べ物がこみ上げてきた。 アプミリアは自分が嘔吐するのかと躊躇した。しかしそれはうまかった。 「ぐふぅ」 腹のなかで発酵したガスが鼻から抜けていった。 草食獣の巨大な胃が、大量の草を消化していく。 ちょうど良い具合にこなれた草を、ふたたび噛みしめる快感に恍惚となった。 反芻する半消化の草のなかのバクテリアが、歯の間でプチプチと弾ける気さえした。 唾液が口の端からスーーッと糸を引いて垂れていった。 そんなアプミリアを雪矢はいとおしげに見つめていた。 「これは……獣の記憶……!」 我に返った彼女は、自分の中にある野性の記憶におののいた。 わき起こる原始の満足感には抗いがたい魅力があった。 言葉樹から得た記憶のかけらを身のうちに整理統合するというのはこのことなのだ。 アプミリアは心のなかに奇妙な衝動が沸き起こるのを感じた。 「雪矢様と永遠に過ごしたい……」 その気持ちは耐えがたいものだった。 「雪矢様。どうか私を愛してください」 「もちろんだ。如月」 「私はあなたのために美しくなります。あなたを驚かせ、満足させるために不思議な記憶をお話しします」 「愛している。如月」 雪矢はタイナオを胸に抱きしめた。そして優しく横たえようとした。 「ああ、雪矢様。おたわむれを」 雪矢がソノ気になっているのがわかった。 アプミリアはにっこりと笑いながら、彼の柱の体を両手で押し退けようとした。 汎神族の性行為がどのようなものか知らないが、彼女はぜったいに遠慮したかった。なぜなら彼女自身が処女だったから。 「いとしい如月よ。丸苺のような唇をおくれ」 「どうか、どうか……。恥ずかしさに気を失いそうでございます」 などと言う台詞は、ますます相手をその気にさせることにアプミリアは気がついた。 「情けをおくれ」 「やめろっっつてんのがわかんないの。ゲンジ蛍の光グソ!」 雪矢はぎょっとして動きを止めた。 「ああっ……私ははかなくなりそうです……」 アプミリアは目をつぶり、よよよっとたおやかぶった。 いまのは彼女自身のセリフだ。 しかしアプミリアは自分のなかに沸き起こった凶悪な衝動の正体を理解できずに困惑していた。言葉は口をついて流れだした。 「雪矢様、私はあなたをもっと知りとうございます」 「私のすべてをさらけだそう」 「あなた様の身体に手足を伸ばしとうございます」 「ああっ、如月」 雪矢の胸に触れたアプミリアの指が、茸の菌糸のように細く伸びて、雪矢の肉に食い込んでいった。 「あなた様の血をすすりとうございます」 アプミリアの牙が雪矢の柔らかい首筋を噛み裂いた。 「あなた様のはらわたに卵を産みとうございます」 アプミリアの尻から伸びた長い卵管が、湯気を立てる内臓に白い卵を几帳面に並べていった。 「あなたの目を吸いとうございます……」 アプミリアの口が藪蚊のように形を変えて、眼球に突き立とうとした。 「ああああっ!」 アプミリアは口を鷲掴みにすると、力まかせに引きちぎった。 たちまち変身がとけて、娘の姿を取り戻した。 「……ああっ……如月」 しかし雪矢はひどい有り様をさらしたままだった。 彼女に喰われ犯された姿のままで地面に転がっていた。 「獣の記憶が同化している……」 自分以外の記憶をコントロールして意識と身体を保つことが、とてつもなく困難であることに気がついた。ましてや人間の意志はそのようなことするようにはできていない。 アプミリアの中に溢れる獣たちの記憶は、アプミリアや如月本人の記憶と同列に発現していた。彼女は使命の困難さに絶望した。 「くすくす」 笑い声がした。 それは人の声だった。自分の中から溢れた記憶ではない。 「私の他にだれかいるの?」 アプミリアは立ち上がって周囲を見渡した。雪矢は彼女の足にすがりついた。 周囲の景色は秋の草原だった。雪矢にとって草原のイメージは大切なものであるらしい。 ととと、と少女が歩いていった。緑の草を踏みしめて、軽い体重を小さな足跡に残して。 足首までかかるピンクのローブをまとい、小さな素足には草で編んだ清潔なサンダルを履いていた。 薄いブラウンの髪を、肩までにまっすぐ切りそろえていた。前髪は眉毛の下で、線を引いたようにカットしていた。 はしばみ色の瞳がくるくると動き、光を集めて輝いた。 化粧はしていない。下唇の真ん中に、真紅の紅が一点ぽつんと置かれていた。 歳のころは、人の娘で言うならば十三、四か。 子供から大人に変わりゆく、ちいさなゆらぎの中にあった。 少女は歩き立ち止まり。地面の上のなにかを探すように視線をさまよわせた。 そのしぐさが小動物のようでもあり、ひどく心を動かした。 「かわいい……」 地味な顔の少女だった。しかしかわいらしい気配を持った女の子だった。 それは彼女がとても幸せそうな表情を浮かべているからだろう。 「ハイ。お嬢さん。捜し物は私のこと?」 アプミリアは、自慢の斜め三十五度で微笑んだ。 「……お……」 置いてきぼりをくらった雪矢が情けなく右手を上げた。 アプミリアは少女の手を取ってやさしく握手をした。 「かわいそうに。とてもに冷たい。おねえさんのハートはこんなに熱いのに」 自分の胸の少女の手を押し当てた。 「あなたの手と頬を温めるために、私の胸はふたつあるのよ」 そして丸い頭を包み込むように抱きしめた。 「へん……ね」 アプミリアは直観的に異常に気がついた。少女はなにかが異質だった。 少女に雪矢の記憶の匂いがしないのだ。 奇妙に緑の青臭さが漂っていた。涼しげでありながら、女性の身体が持つ血の匂いを帯びていた。 雪矢の遺伝記憶から生まれたアプミリアは、男神の記憶のフィルターがかけられているせいか、ひたすらに清く、かすかに乳の香りがした。それは人や汎神族という種の違いを越えた、生き物として共通に持つ感覚に訴えるものだった。 少女の不自然さは、アプミリアの女の部分が敏感に臭ぎとったものだった。 「あなたはだれ?」 アプミリアが聞いた。 少女は彼女をみつめて首をかしげた。 「言葉を話せないの?」 「…………」 少女は不思議そうにアプミリアを見返した。 「あなたは人間ね」 アプミリアは彼女に感じる違和感の正体に気がついた。少女の存在は記憶の断片ではない。もっと体系立てられた全存在としての人間の記憶だった。 「あなたはなぜここにいるの」 雪矢が少女の全ての記憶を食べたとでもいうのか。彼女は湯に溶けだしたわずかばかりの記憶によって構成された存在などでは断じてなかった。 なにより不思議なのは、少女の気配がとても幸せそうなことだった。 歪みすさんだ愛に満ちた雪矢の世界とは違う、透き通った幸福感に彩られていた。 「あなたはとてもしあわせそうね」 アプミリアが言った。少女はきれいな瞳をきらきらと輝かせて笑った。 雪矢が追いついてきてアプミリアにすがった 「ああっ、如月。如月よ」 雪矢は少女を無視しようとしていた。しかしこの世界は夢とは違い、記憶によって構成されているために、都合よく少女を消すことはできなかった。 アプミリアの直観は、少女の正体と存在に真っ赤なサイレンを鳴らしていた。 「雪矢様。この者は何者なのですか。どうしてこれほどに雪矢様の中で鮮やかな姿を保つのですか」 「如月。おまえはなにも気に病むことはない」 「いいえ。私も女。雪矢様には私だけを見ていてもらいとうございます」 よく言うよ。と心のなかで舌を出しながら彼女は言った。 「その者は死者だ。泉に焼かれて死んだ娘だ」 「嘘です。この者はとても幸せな目をしています」 「記憶の海で嘘はつけない」 「しかし雪矢様の遺伝記憶に、死者の記憶がある原理はございません」 「娘は汎神族ではない。人間の女だ」 「あなくちおし。人間の娘ごときがこれほどに美しく記憶されるとは」 アプミリアは如月の記憶で言葉を紡いだ。如月は意外ときびしい性格だったらしい。 「正直にお言いなされ。この小さな娘を飼っておられたのでありましょう」 「違うちがう」 「ならばなぜにこの者の生と死を知るといわれるのですか。道理に合いませぬ」 彼らが言い争っている様を、少女は興味のない笑顔で見ていた。アプミリアは気づいていた。少女の幸福な愛情は雪矢に向けられたものではないことを。 「雪矢様。白状なさいませ。少女との関係を。よもや人間をけがらわしい欲情の相手としたのではありませぬな」 「違う。聞いておくれ」 「ええい。けがらわしや。事の真理を聞くまでは指一本触れることを許しませぬ」 「わかった。愛しい如月。その娘の記憶をともに見よう。私がなぜ娘の死を知るかを見よう。おまえは私の潔白を知るだろう」
幸福な死の瞬間を抱いて少女は眠っていた。 彼女は自分が死んだことを知らなかった。 恋人の愛の告白を得た幸福な瞬間に死んでしまったあわれな魂。 彼女は自分のことを、よくは覚えていなかった。 ただ幸せな気持ちだけが、この世に残った亡霊だった。 少女の名前はファーランと言った。 温泉が湧きだす泉のほとりで少女は恋人を見ていた。 残念ながら愛しい恋人はこの場にはいない。 少女はささやかな法呪の才能を使って、遠知鏡に彼を映し出していた。 今日はファーランにとって特別な日だった。 この地の神・雪矢の贄として選ばれた日なのだ。 汎神族・雪矢は、数年ごとに若い男女を贄として求めた。人間たちはそのことを喜び求めに応じた。 贄となった者たちは、半数が街に帰り半数は戻らなかった。 街に戻った者たちは一様に記憶の多くを失っていた。言葉を失うことはない。しかし子供のころを忘れたり、恋人同士の甘い記憶をなくしていた。 今年は娘を一人望まれた。人間たちは雪矢が素敵な恋をしている者を好むことを知っていた。 街はファーランを選び送りだした。ファーランは恋人との愛を大事に思ったが、それ以上に汎神族への敬愛が勝った。ファーランは小さな胸の奥に誇りと恐れを抱きながら、雪矢の待つ温泉に来た。
雪矢は白装束に身を包んだファーランに言った。 「娘よ。おまえの記憶が美しければ、私はおまえを喰うだろう」 「眩しく気高き雪矢様。私はあなたの血に潜むことを喜びとします。ただひとときの栄光であったしても」 「おまえは恋を成就するに違いない」 それは宣言だった。雪矢にとってファーランが恋人の言葉を待っていることを知るのはたやすいことだった。そして人間には測れない技で、少女の恋に味方することも容易であった。 ファーランは泉のほとりに腰を下ろして遠知鏡を開いた。後ろには白く長いマントを垂らした雪矢が守護者のように立っていた。 恋人はファーランに「今日はとても良いことがあるから遠知鏡をごらん」と、告げていた。 ファーランは彼女にとって二重に大きな意味を持つ今日を、眠れないほどに胸をときめかせて待っていた。
彼は商業的な成功を夢見て都市に出た。 学校で学び、商社に入社した。汚職の誘惑が多い法呪具流通業の中にあって彼は清廉潔白な姿勢で仕事に励み、多くの成功を得た。 遠知鏡の中の彼は、商業誌の映像インタビューを受けていた。 ファーランはそれが自分のことのように誇らしく、心を踊らせて鏡に見入った。彼はこの姿を見せたかったのだろうか。それはすばらしいプレゼントに思えた。 「やあ、ヒュー。君の素晴らしい業績には脱帽だよ」 「ありがとうございます。貴誌はいつも講読させていただいております」 「はっはっはっ。まいったな。先に褒められてしまったよ。ところで君の成功の否決はなんだい?」 「お客様のご要望と私の望みを重ねて、これをかなえようとすることです」 「ちくしょう! なんて優等生だい! それは本気かい?」 「ちょっとだけ儲けさせてくだされば」 「あっはっはっはっ。そうこなくっちゃ。私は君が大好きになりそうだよ。ところでヒュー。友人としてぶしつけな質問を許してくれるかな」 「お尻のほくろの数以外なら」 「わっはっはっ。なんて下品なヤツだ。僕が聞きたいのはそんな種類のことさ。ずばり。君はまったく色恋沙汰に無縁だね」 ファーランは息を飲んで画像をみつめた。 「君はちょっとした有名人だ。街のなかでプライバシーなんて気の利いたものはないよね。誰でも君のことを知っているから。レストランで君が頼んだメニューが、次の日のハプのメインディッシュになるってきいたぜ」 「まさか。そんな」 「冗談だ。でも君が女性と食事をしているところを見た者がいないっていうのはどういうことだい?」 「……それは、スカウンさん。僕には恋人がいるからですよ」 「なんだって!? これはトップシークレットだ。映像をご覧の皆様。これで放映を終了させていただきます。ぶぃーーーーーっ」 ファーランは心臓が喉元まで飛び上がるのを感じた。 ーー恋人ってーー 「と、言うのは冗談として。チャンネルを変えたあなた。一生後悔しますよ。おっと見てないか。いや、しかし驚いたよ。ヒュー。なんてビックなニュースだろう。君と娘を結婚させようとしていた王族・貴族は資産計画が狂ったんじゃないかな」 「だから、やめてください」 「冗談だってば。で、その幸運なシンデレラはどこの誰だい?」 「言いにくいんですけど……」 「うんうん」 「スカウンさん。あなたのお嬢さんなんです」 「ううーーん」スカウンは椅子ごと後ろにひっくり返った。 「じ、冗談です。スカウンさん」
「なんだ。新しい息子をなんて呼ぼうか楽しみだったのに」 「僕の恋人は、とてもやさしい娘です」 「うんうん」 「僕は彼女がいたからがんばれました」 「意外と陳腐なことを言うね」 「こんなに好きになってしまうと、シンプルな言葉しか思いつかないものなんですね」 「素敵な彼女が故郷で待っているんだね」 「いまでも僕を待っていてくれるといいのですが」 遠知鏡を覗いていたファーランは、激しくうなずいた。 私はここで待っていると。 「これはビックなドキュメントだ。私は偉大なヒューの愛の告白を見ているんだね。もし君がよければ、このインタビューを勇気の場にしてくれないか」 「スカウンさん。ありがとうございます」 「かわいい恋人の名前はなんだい?」 ヒューは照れながらも強い瞳で言った。 「ファーラン……ファーランという子です」 「ファーランか。良い名前だ」 「ファーラン。愛している。どうか私と結婚しておくれ」
続く
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