こいかこせ
恋過去世・神は記憶に恋をする 第三章
その瞬間にファーランは死んだ。
泉が間欠泉と化して、湯を吹き出したのだ。 「があああっ!」 雪矢は左腕に熱湯を受けて飛びのいた。 大地のすさまじい圧力をくぐり抜けて、噴水のように飛びだした湯は、岩をも割る圧力で大気を切り裂いた。 硫黄を含んだ白い湯は、雪矢の腕をカカシのようにへし折った。濃い無機質と塩の奔流が骨を粉砕し、肉をスープに変えた。 「……イッ……アアッッ」 高速言語の音域で悲鳴を奏でた。 泉に倒れ込んでいく少女の姿を視界の端に捕らえながら、雪矢はかすれる意識を繋ごうとして法呪文を唱えつづけた。 灼熱のマグマ成分のために白濁した湯は、少女を飲み込んでいった。 本来ならば鍋のなかの若鳥のように、スープに煮溶けるはずの肉体だった。 ゼラチンと化して溶けて消えいくはずのファーランの身体は、雪矢の医療法呪の余波を受けて、形を崩すことはなかった。 しかし同時に生きつづけることもなかった。 ファーランは死んだ。
やがて長い時間が過ぎた。 焼けることも溶けることもなかったファーランの身体は、湖の底の木の切り株のように姿をとどめた。 いつしか肉は石に姿を変えていった。火山の滋養が少女の細胞に染み渡り、古い体液は染みだしていった。 かつては若い汗と潤いできらきらと輝いていた肌が、宝石の輝きで覆われていった。 活きた火山であるビスチク火山は、たびたび強い地震にみまわれた。 彼女の身体は地震のたびに、泉の底を離れて漂った。 やがて彼女は、イチイの樹につかまった。 イチイの樹もまた温泉のプールの中で、結晶化した生命だった。 イチイの根にからめ捕られた少女の身体は、長い時間をかけて、結晶を融合させていった。ファーランの記憶は、きらきらと光り輝きながらイチイの幹を昇り、枝先にひろがっていった。 雪矢はファーランの変遷をずっと見ていた。季節が代わり若葉が黄色く色づく繰り返しを越えて、少女の変身を見守った。 彼の傷は癒えて痛みは失われた。しかし少女を目の前で失った驚きはいつまでも心に刺さっていた。 ある日、雪矢はイチイの葉を食べた。そこには少女の味があった。少女の愛の記憶が全身に染み渡り、切ない恋の物語を繰り返し見せた。 ファーランは恋人の愛の告白を胸に人生を終えた。 奇妙なことだ。少女の本能は自らの死を知っていたが、理性は自分の死を知らなかった。 言葉樹に変身したファーランは、恋人の愛の言葉を知る幸せな幽霊だった。 怨霊が恨みだけを現世に残して、原因も目的も見失ってもなお触れるものすべてを滅ぼそうとするように、少女はただひたすらに幸福な気持ちだけがほこほこと結晶した幽霊だった。 雪矢は言葉樹に頬を寄せた。 キャンディーのように甘い少女の匂いが漂った気がした。
アプミリアは少女の哀れな運命に涙が止まらなかった。 愛しい恋人の告白を受けて得た人生の終わり。幸福な一生であるのかもしれない。しかしこれから約束されていた、長いふたりの人生を楽しむことなく散っていった魂。 「ふふふっ」 ファーランは自分の哀れな運命も知らずに微笑んでいた。 幸せな瞬間だけを記憶して、ふわふわと漂っていた。 アプミリアは少女を見つめた。彼女は獣たちと同様に、雪矢の記憶としては異質だ。異質であるがゆえに、アプミリアを生み出す力となった。 逆に言うと、少女の存在はアプミリアという記憶の代償割り付けを破綻させる力にもなるのではないか? 「この子の死を幕引きにできないかしら」 アプミリアは考えた。この世界は雪矢のものだ。彼は傷つくことはあっても、けっして死にはしない。 汎神族の持つ先祖の記憶にも死の瞬間はない。 それは当然だ。記憶の遺伝は、生殖とともに行われるものなのだから。 雪矢は自分の想いに浸り、恋人を独占する幸福に酔った目でアプミリアを見つめていた。 如月が……アプミリアが……彼のもとを去ることはないと信じている。 それは真実だ。アプミリアは雪矢の中にいるのだから。雪矢が望むかぎり、アプミリアは存在しつづける。決して死ぬことのない恋人……。 しかし記憶の中の存在である少女は死を知っていた。正確に言うと雪矢が少女の死を目の当たりにした。言葉樹から得た少女の記憶と、雪矢の眼前で起こった少女の死は不可分に統合されていた。 少女は死を得ることを雪矢は知っているのだ。
アプミリアは如月の記憶を探った。 そこにあるのは、生々しくたくましい生き物の生の記憶だけだった。 また牛の反芻を思い出すのはうんざりだ。 「……うっ……!」 アプミリアは突如襲ってきた排泄感に背筋が凍った。 イメージの中で馬糞の山が見えた。 「じょ……じょーーだんじゃ……」 ところかまわずに排泄する草食動物の記憶だ。 「はあっ、はあっ、はあ」 冷や汗を浮かべながら、アプミリアは自分を取り戻した。 如月の記憶の中で少女だけが、自らの死を得る瞬間を持っていた。 少女の死とともに如月の記憶を封印してしまい記憶の連続性を絶つ。 記憶樹から得た断片的な記憶もまた如月とともに葬り去る。 もちろん如月を思い出すことはできるけれど、その記憶の果てには、如月との別れが待っている。それは繊細な雪矢にとって耐えられない追憶に違いない。 アプミリアはこれがベストのプランと思えた。
「雪矢様。私は幸せです」 アプミリアは雪矢の腕に身をあずけてささやいた。 雪矢の端正な顔が天から降るように近づき、真紅の唇が優しく重なった。 「…………っ…………」 アプミリアは意識が遠のいた。 ファーストキスなのだ。 その相手が汎神族。 甘酸っぱく香る神の匂いが口のなかに広がった。 人より低い体温が、舌を冷たく痺れさせた。 「如月。私はこのときをどれほど夢見ていたことだろう」 「ああっ、雪矢様」 「如月。あなたが獣の声を持とうが、羊の匂いを持とうが……私はあなたを愛する」 「私はあなたの姿を見たときに愛を感じました。一粒の雨が軒先の花瓶に波紋を広げる奇跡のように、出会うべくして出会った運命」 「いつまでも離さない」 雪矢は幸福に酔った。なにものも彼の幸せを妨げるものなどなかった。 「私は永いながい時を越えて、あなたのひとしずくをお待ち申し上げておりました。あのときからずっと……」 アプミリアはファーランの「記憶を思い出した」。 少女の運命の瞬間を。
泉が湯を吹き出した。 「があああっ!」 雪矢は左腕に熱湯を受けて飛びのいた。 大地のすさまじい圧力をくぐり抜けて、噴水のように飛びだした湯は、岩をも割る圧力で大気を裂いた。 硫黄を含んだ白い湯は、雪矢の腕をカカシのようにへし折った。濃い無機質と塩の奔流が骨を粉砕し、肉をスープに変えた。 「……イッ……アアッッ」 高速言語の音域が悲鳴を奏でた。 泉に倒れ込んでいく少女の姿を視界の端に捕らえながら、雪矢はかすれる意識を繋ごうとして法呪文を唱えつづけた。 アプミリアは法呪文を走らせた。 「見るべき姿は幻身代。娘の姿はファーランを包みて如月を映す」 雪矢に偽りの記憶を見せた。 いま温泉に飲み込まれようとしているのは少女ではなく、如月の姿だった。 「如月!」 雪矢は腕を伸ばした。 指先がかろうじてアプミリアの指先を掴んだ。 熱湯の泉に落ちかけた少女を掴みとることことに成功した。 雪矢は自分がこれほどの力を持っていたことに驚いた。 渾身の力で少女を引き上げた雪矢は、彼女の絶望的な怪我に目をそむけた。 「如月……ああっ……きさらぎ」 おろおろとうろたえて涙を流す若い神に、瀕死のアプミリアはささやいた。 「雪矢様……貴い御腕を傷められたのですね。おかわいそうです」 「なにを言う。如月よ。自分の傷よりも私を気づかうか」 「あなた様がご無事であれば、私は永遠に生きられます」 「記憶の中のおまえではだめだ。生きて笑うおまえでなければいけないのだ」 「……雪矢さま。私はしあわせでごさいます」 「如月、如月」 「もし……私をクンフほども愛しいとお感じくださいますなら、どうか晴れやかな笑みをくださいませ」 「おおっ、だめだ。だめだ。おまえを失うことはできない。我が身が病に犯されようともおまえを生かさずにはおれない」 雪矢は混乱していた。 記憶の中のアプミリアが死ぬ道理はないのだ。だが少女が泉で命を落としたことは事実だ。 そして気がついた。 アプミリアを遺伝記憶の束縛から解き放ち、一柱の人格として独立させたのは、他でもない彼自身が言葉樹を食したことによるのだと。動物たちの記憶を得て、泉に沈んだファーランの記憶を得たことが原因なのだと。 アプミリアは彼の望み通りに変化した。記憶の中の、問えども応えぬ人形ではない。 彼と自在に会話を行い、感情のほとばしりに表情を返す女性として。 そしてそのことが、彼女の死という、かつてはあり得なかった結果に繋がる道だったことに。 「如月……ああっ、おろかな私を許してくれ。わかっていたはずなのに。こんな結末を迎える可能性があることを知っていたはずなのに。私は欲望に目がくらみ、取り返しのつかないことをしてしまった」 雪矢は身を起こしてつぶやいた。 「……いいや。まだだ。まだ諦めることはない」 その瞳はうつろでガラス玉のようだった。 「如月。おまえを生まれ変わらせればいいのだ。おまえは成長することを知っている。もう一度赤子から始めればいいのだ」 「雪矢様?」 「もう一度、母君の胎内に戻り、無垢な赤子から美しい今のおまえへ時を刻むのだ」 「雪矢様。いかようにしてそのようなことを」 「私が……私が母君になるのだ」 雪矢の姿が不気味に膨れ上がった。 水死体のように無様に腫れ上がった顔の上を、幾柱もの神々の顔が通りすぎた。 よせては返す波のようにイメージか広がり、如月の母親である藤紫(ふじむらさき)の顔が出現した。 「…………」 あまりのことにアプミリアは言葉を失った。なんという想像力と意志の強さであることか。 雪矢は藤紫の顔で笑った。声をあげて笑った。 雪矢は記憶の海から母親の記憶をたぐり寄せた。しかし当然のことながら藤紫にアプミリア出産後の記憶はない。それはあたりまえだ。記憶の遺伝は、懐妊した時点で完了するのだから。 雪矢の意識はすぐにそのことに気づいた。 しかし強固な彼の意志は、たちまち過去の記憶を探って、娘の成長を見守ったことのある先祖のものを見つけ出した。 もはや雪矢にとって記憶の主体は関係なくなっていた。 自分に都合のよい記憶だけを、つなぎ合わせて事実を造りだしていった。 アプミリアの身体がみるみる歳を遡っていった。 「よいわ、よいわ。如月。幼く愛しい娘よ。我が腹に戻りてふたたびこの世に生を受けるのだ」 「……だめ……! やめ……て」 アプミリアは悲鳴をあげようともがいた。しかし急速に変化する身体の仕組みに息もつけない。 雪矢は藤紫を使って、アプミリアを時間の輪に閉じ込めようとしていた。 生まれてから死ぬまでの時間をループさせて、永遠の命をとどめようとしているのだ。輪がとじられたなら、アプミリアは自力で脱出することは不可能だろう。 「雪矢様……私は赤子になっても記憶をとどめます。あなた様の仕打ちを呪いまする!」 アプミリアの必死の叫びに、雪矢は動きを止めた。 「……なんと。それはなぜだ。おまえは自分を殺すつもりか。そのようなことは許されない」 「雪矢様。どうかお考え直しを。幼子の身体ではあなた様の愛に応えられませぬ」 「かまわぬ」 絶叫した雪矢の瞳は黄色く濁っていた。すでに理屈は通らなかった。 アプミリアは身を翻して雪矢の手を振り払った。十一歳のしなやかな身体で走りだした。たちまち靴が脱げて、下着が下がった。
記憶の混乱が奔流となって襲いかかった。 素足で駈ける彼女の足元から記憶泥を吹き出した。 人のかけら、獣のかけら、夕日が生える海原に雪山の猛吹雪。 雪矢の身体か、ぐりゅり、と歪んだ。 若草の匂い、消化物の匂い、汗の匂い、海の匂い。 腐る魚の匂いが胸に広がり、吐き気と食欲が一度にわき起こった。 石焼きのような灼熱の砂漠と、剃刀にも似た吹雪の刃が左右から吹きつけた。 色と景色が花火のようにきらめき、分岐して消えていった。 そして闇が訪れた。 「……あっ……」 アプミリアは雪矢を見失って歩を止めた。 息をするのもはばかるような漆黒の闇が周囲を満たした。 闇の中をなにかがすさまじい勢いで飛んでいた。 彼女にはそれがなにかわからなかった。 目に見えない亡霊が走り回っているかのようだった。 亡霊は幸福と不幸をまき散らしながらアプミリアを翻弄した。 「きぃ……ひ……ぃい…………」 かすかな声が狂気の呪いを吹き散らした。 走る女の長い髪が、肌をかすめていく恐怖。 脂にまみれた子供の手形が、冷たくすがりついてくる。 ぎりりっ、と歯ぎしりが鳴り響いた。 それはアプミリアの悲鳴だった。 これは記憶だ。汎神族の持つ記憶を見る感覚である染覚を持って感じれば周囲は意味を持つのであろう。 しかし神の創造物でありながら、人としての肉体と能力を持つ彼女には、押し寄せる記憶の情報も恐怖の奔流でしかなかった。 じりじりと熱を帯びて、五感が焼き焦がされていく。 書物にしか記録されていない太古の記憶が、臭い泥のように肌にべとついた。 水っぽい汚泥の中に、細くぬるぬるとしてかけらが無数にうごめいていた。 指を伸ばしても、胸で握りしめても、手のひらをいやらしい感覚がはい回った。 雪矢の興奮が伝わってきた。 狩りに挑む猛獣の歓喜と、喉笛を食いちぎられまいとする雌鹿の恐怖が渦を巻いてふりかかった。 「ゆきやさま」 アプミリアは絶叫した。しかし声はどこにも届かずに、ずるずると流れるかけらに呑まれていった。 「雪矢様。私をどうするおつもりですか。これではあなたを愛せませぬ」 「おまえは死のうとしている」 アプミリアは息を飲んだ。ばれている。 「私はおまえを記憶の底に閉じ込めよう。私がおまえを愛した記憶を遺伝するために」 「私はすでにあなた様の御心に住んでおります」 「そうだ……それなのに、おまえは死ぬことで、私から逃げだそうとしている」 「私はいま恐怖しています。美しい記憶としてあなた様の記憶に留まりたいと望みますのに」 「ふふーーっふぅふうううっ」 もはや言葉をなさない原初の興奮が雪矢を包んだ。 獲物を倒す喜び、恋人を我がものとする喜び、報酬を得る喜び、他者を陥れる喜び、眠りをむさぼる喜び、腹を満たす喜び、大地と自然の美しさに祈る喜び……。 記憶の中の、ありとあらゆる喜びが見つけられ、捜し出されて意識を埋めつくした。 「きさ……ら……ぎ……ああああっ」 雪矢の声は歓喜に満ちた。感情が理性を覆い尽くした。 アプミリアの言葉は、喜びを増す音に過ぎなかった。 彼女は使命の失敗を確信した。リ・ラヴァーごときが、汎神族の記憶の病を救えるわけがなかったのだと。 アプミリアは薄れゆく意識のなかで自分の失敗を知った。 「……由美……歌さま……もう、だめ……です。申し……わ……け……」 せめて彼女の言葉が雪矢の記憶に残ればと、謝罪の言葉を口にした。 由美歌の期待に応えられなかった自分を責めた。 法呪の発現は、時として予想もしない連鎖で起こる。
夢の中の独り言のような声がした。 耳には聞こえるのに意識を上滑りするかぼそい声。 それは男性の声だった。 「……かい……け」 身体中の穴という穴に泥を詰め込まれたような無感覚の世界。アプミリアはその声が人間の男のものであることに気がついた。 「……引け。赤い糸を引け!」 アプミリアは自分が錯乱したのかと手で顔を覆った。そして小指にはめた指輪から赤い糸が伸びているのを思い出した。 「赤い糸を引け。力強くだ。おまえが呼べば俺たちはすぐに行く」 声はたくましい男の声だった。 アプミリアは半ば無意識のままに糸を引いた。糸は音を立てて千切れた。 千切れた糸がねじれをほどくように弾けて回った。 繊維の一本いっぽんが、先端から虹色の光をまき散らす様が手に取るようにわかった。 息を呑む彼女の前に二人の人影が現れた。それは女神につき従っていた従者たちだった。 「このバカ力め! 赤い糸を引きちぎるような奴は、命のローソクと、垂らして悦ぶローソクをバースディケーキにミソクソいっしょだぜ」 神の従者とも思えぬ悪態をついて、男の従者がローブを脱ぎ捨てた。 女性の従者はマスクを下げて顔を出した。 「味噌と糞が似ているというのは本当なのかしら」 「なに言ってんだ。赤い糸の話しだぜ」 「あなたが興奮して糸を握りしめてるから切れたんじゃない」 「だってよ。この糸いまいち感度悪くて。アプミリアの様子がよくわからなかったんだ」 「未熟なだけよ。自分の属性にある者と赤い糸で交感したら、そばかすの数までわかるものよ」 「俺のクローンっても、ほら女の子だしよ。照れるじゃないか」 アーモンドの形をした大きな目の女性が吹き出した。 「……ラブドエリス。あなたのジョークは笑えるわ。てれる? 皺のない脳味噌が眩しくて干上がっちゃう?」 「ギュリレーネ。おまえのはちっとも笑えないぜ。照れるってのは初恋の女の子の前で、鼻から牛乳吹き出したときの感情だ」 アプミリアは突然に現れた二人が仲たがいしているのを見てどうして良いものわからなかった。 「あ、あの。由美香様の従属生物ですか」 「ちがう!」 ふたりは絶妙のハモリングで否定した。 ギュリレーネが言った。 「さあ、雪矢様を鎮めるのは手伝うわ。後はあなたがケリをつけるのよ」 「わ、わたしですか?」 「ほらよ。由美歌様からプレゼントだ。基憶剥(きおくり)の弓矢だ」 ラブドエリスは法呪具である弓矢、すなわち法呪により活性化し、威力を発揮する特殊なそれをアプミリアに渡した。 「この矢は、雪矢様にまとわりつく御柱本人以外の記憶を一時的にだが、ひっぺがすそうだ」 「えっ、それだけですか?」 「ああっ、それだけだ。あとはなんとかしてくれ」 「お手伝いいただけないのですか」 ラブドエリスは、うっすらと汗を輝かせた肌を光らせて言った。 「心配するな。雪矢様をすっ裸にひん剥いてやるんだ。おまえはいい線行ってるんだ。自分を信じてがんばんな」 ギュリレーネが言った。
「来るわ。油断しないで。タイミングを合わせるのよ。三センツ数珠(じゅず)の四往復カウントで法呪展開」 「おう」 ラブドエリスはアプミリアを後ろから抱きしめるようにして、弓のつがえ方を教えながら法呪文を唱えた。、 「層を重ねて圧するは樹。頬に含むは言涼葉露。幾重に貫く武器矢の強。四重与力の輪ぞ生ず」 お盆のような光の輪が四枚出現した。それはアプミリアの正面に縦に並んで浮いた。 「ィィイイヒイィィィィン」 雪矢の意味不明な高速言語が宙を舞った。 すでに景色と区別がつかないまでに肥大化した雪矢が、ゆっくりと彼らを押し包もうとしていた。 瞬きするごとに、彼らの周囲は雪矢で覆い尽くされたかと思うと、荒野の只なかのように放り出された。自然界の音と神々の音楽が、荒々しい調和を持って彼らを襲った。 真球を描く結界が三人を水のなかの空気のように守っていた。 ラブドエリスが言った。 「囲まれてるぜ。アプミリア。俺が矢の進路をクリアにする。合図と同時に与力の輪を通して基憶剥(きおくり)を射れ」 「わかりました。合図は?」 轟音の中でラブドエリスが言った。 「ダイナマイトバディ・あっはあーーん、だ!」 彼は両手に構えた突撃デュウを乱射した。 アプミリアの正面に立ち、矢の進路を邪魔するクンフの群れを蹴散らした。 オレンジ色の銃口炎がフラッシュのようにあたりを照らした。 アプミリアは弓に基憶剥(きおくり)の矢をつがえた。 細く紅い矢は、三叉の矢尻を、腐らない鉱物油で光らせた。 「いくぞ。3・2・1・バディッ!」 ラブドエリスが身を伏せた。 アプミリアは弓を射った。 紅い矢は宙に浮かぶ与力の輪を次々とくぐり抜けた。 シャボンの膜が弾けるように、濡れた光が矢に絡んだ。 法呪の輪を通過するごとに切っ先が力を宿した。 基憶剥(きおくり)の矢は、紅い光の尾を引いて、雪矢の額に突き刺さった。 「おおおおっあああああ」 悲鳴とも雄叫びともつかない声が轟いた。 矢は雪矢の記憶を削ぎ落とした。 基憶剥(きおくり)の不思議な力は、彼自身の記憶と遺伝記憶を見分けて、雪矢にまとわりつく遺伝記憶だけを灰色に固めていった。 まるでコルクの樹から皮を剥がすように、固まりとなった遺伝記憶がむしり取られていった。 奥から雪矢の色鮮やかな記憶が姿をあらわした。 神とも牛ともつかない記憶の中の生き物たちが、生きる喜びの叫びを上げて四方八方に散っていった。いやらしい記憶泥の匂いが、海の波に洗い流された。 人間が視覚として理解できない汎神族の様々な知識が、クンフの姿を借りて虚空に消えていった。 あとには草原と磯の香りだけが残った。 それは血の匂いだったのかもしれない。 かよわいほどに細く頼りなげな雪矢自身の記憶は、羽をむしられた小鳥のように寒さに震えた。 「…………」 雪矢は細い両手で自分の身体を抱きしめていた。 背中からは恐怖と後悔の汗が流れていた。 「正気に戻られたか」 ラブドエリスが言った。 アプミリアは衣服を失い全裸となっていた。 胸の奥のうずきを押さえられなかった。それが彼女の意志なのか、如月の記憶によるものなのかはわからない。 アプミリアは雪矢の元に進み、汗に濡れた背中にキスをした。 「……雪矢様……私はここにいます」 雪矢は苦悩に歪んだ顔で、そっとふりむいた。 「私は……ひどいことをしてしまった」 神の涙が頬をつたった。 「おまえを失うことを恐れるあまり、おまえの魂を我が虜にしようとした。それは怨霊が魂を己が内に閉じ込めて、未来永劫の責め苦を与えるに等しい。なんと罪深いことであろうか」 「雪矢様。おろかな私にはあなた様の深い御心は測りかねます。でもいいのです。すべては私への愛の御印と知りますから」 「如月……ああっ」 「あなた様の愛を……身に受ける誉れに心が高ぶります」 アプミリアは感じた。ファーリンに如月の命の炎が揺らぎ始めるのを感じた。 「如月……私の如月……」 雪矢はキスをした。 アプミリアは甘酸っぱい神の香りに包まれて幸せに満たされた。 愛を確かめあう瞬間は、ファーリンの幸福の絶頂と重なった。 ヒューの言葉を胸に抱いた、その時と同じに広がる豊かな魂。 ファーリンの愛の絶頂は、死の瞬間に通じた。 アプミリアは、雪矢を愛することを夢見た。 それは人であるリ・ラヴァーにとって困難なことではなかった。 人は汎神族に絶対の愛と尊敬を感じるものなのだから。 「……雪矢……さま……」 アプミリアの身体から力が消えていった。 溢れる記憶の奔流が細い糸となって、少女の魂を色薄くした。 「如月……? 如月……」 雪矢はか細い少女の身体をかき抱き、体温を伝えるように命を与えようとした。 しかし少女は己の甘い記憶に従った。 「わたしは幸せです……愛していただけたことが、こんなにもうれしい……」 「如月。如月。そうだ。私はおまえを愛している。おまえと会えたことを呪いとさせないでおくれ」 「……私はあなただけを……愛してまいりました……あなたの、お言葉は……私を……わたし……を……」
死なせるの。
「おおおおおっっああぁぁっぃぃいいぃっぁぁああああんんん」 高速言語の絶叫が鶴のように天に昇った。 雪矢は如月を……アプミリアを……ファーリンを抱いて天を仰いだ。 そこには美しい紺碧があった。 頭上に広がる青は水面。 それは甘い記憶にたゆたう魂、ファーリンの幸せの記憶。 水の中から見上げた空の青だった。
アプミリアは、涙に濡れた瞳で目を覚ました。 ゆっくりと持ち上げた右手の甲で、自分の存在を確かめるように涙を拭いた。 やさしい女神の声が彼女に話しかけた。 「みごとだった。アプミリア。雪矢様は救われた」 「由美歌さま……悲しい結末でした。私は胸が張り裂けそうです」 大地に横たわったままの姿でアプミリアは言った。 「つらい思いをさせたな」 「私は正しい道を歩めたのでしょうか? これが許される解決方法だったのでしょうか?」 「すばらしい直観に満ちた手際であった」 「由美歌さま。もし許されるのであれば、真に正しい雪矢さまの道がどのようなものであったのかをお教え願えませぬでしょうか?」 「それはむりだ。アプミリア」 アプミリアは静かに身体を起こすと、女神に向かって正座して居ずまいを正した。 「リ・ラヴァーの身で傲慢なる願いは百も承知の上でございます」 「アプミリア。私をかいかぶってはいけない。汎神族は万能ではないのだ」 「はっ? このような結果になることをご存じだったのではないのですか?」 「いいや。想像もしなかった」
「まあ。でも、それは……」 「もし私があらかじめストーリーを描けたとしたなら、雪矢様もまたいずれかの時点でおまえの正体に気づいたことだろう。そうなれば計画は失敗していた」 アプミリアは鼻から牛乳の気持ちを味わった。不適切かもしれないが。 「……すると、まさか、由美歌さまは、私がなにをすべきかお考えも持たずに、雪矢様の記憶とリンクされたのですか?」 「さすがはラブドエリスのリ・ラヴァーだ。想像を越えた手段に訴えたな」 人の少女にも似た、くすくす笑いを浮かべながら由美歌が言った。 「す、すると。完全な解決方法は、用意されていなかったのですか」 「おまえのおこなった手段は満点と言ってよいと思う」 「ゆみかさまぁ」 情けない声でアプミリアは女神を責めた。 「雪矢様にかわって礼を言う。またいつか私を助けておくれ。アプミリア」 由美歌はマントに下がった千歳鶴の折り紙を指で持つと、ふぅと息を吹きかけた。 たちまち千歳鶴は、千羽にも増えていった。 由美歌は、鶴たちから垂れ下がった紅白の太いよじり紐を握ると、凧のような速さで空に舞い上がった。 見るみる姿の消えていく女神から、高速言語による歓喜の歌が高く細く流れだした。
了
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