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料理のために君のために

お料理ファンタジー

 

 れいに晴れ上がった木曜日の午後。十月だというのに、外はうだるような暑さが続いていた。
 
流通の街フォオは、照りつける日差しのなかで、シェスタにまどろんでいた。
 東西物流拠点としての役割とあいまって、巨大な市場を抱えるフォオは、良いものも悪いものも手に入った。
 もちろん食材もべらぼうだ。国一番の朝市が自慢の街だった。
 そんなフォオも、いまは朝の一仕事を終えて静まりかえっていた。
 まともな大人たちは、昼寝をしているか恋人と汗だくになっていた。
 通りには子供と犬しかいない。照りつける太陽を避けて、ほとんど店は閉まっていた。
 濃い影を落とす白い通りを、ラブドエリスは意気揚々と歩いていた。
 乾いた石畳を黒いブーツでスキップするごとに、鋼鉄のスパイクが軽快な音を立てた。
 彼が入っていったのは、夜の飾り窓のように、ごてごてと悪趣味なホテルだった。
「見ろみろギュリレーネ。すげぇシャケだ」
 色の薄い金髪を赤いハチマキでまとめた姿は、彼を知るものにはおなじみのいでたちだった。骨格はいかついが、締まった筋肉が印象をしなやかなものにしていた。うっすらと浮いた汗が、若々しい肌を輝かせた。
 ラブドエリスが持ってきた赤シャケは、猛禽類のような曲がったくちばしを持ち、目を合わせるのが恐ろしいほどの面構えをしていた。
「いったいどうしたの。また不正を働いたわね」
 椅子に座ってお茶を飲んでいたギュリレーネが、カップをテーブルに置いた。
 いつもの修道女姿で、背筋を伸ばしてたたずむ姿は美しいが、声をかけがたい迫力をまとっていた。
 大きなアーモンド型の眼が、しっとり濡れて光を反射した。
「ばかやろう。川を泳いでたから捕まえたんだ。天下のホローヌイ川だぜ」
「ホローヌイ川? そんな川はないわ……まさか二丁目のホローヌイ屋敷のことじゃないでしょうね」
「ホローヌイ爺さんの裏の川だ」
「あれは庭園じゃない。飼ってるのよ、そのシャケ」
「いや、だからよ。ちょっとパーティーをやりたいんだよ」
「私の知らないお祭りがあるの?」
「今日は特別な日だ。いい奴がいてさ。ちょっと祝いたい日なんだ」
「そう。私にも関係のある人かしら?」
「それがさ。食べ物の好みが少し変わった奴なんだ。俺のセンスじゃ自信がなくてよ。おまえのリッチな趣味を貸してほしいんだ。三時に市場で待ち合わせてる」
 夕方も近づき少しずつ活気の戻ってきた街。
 二人は大きな買い物バックを抱えて出かけた。市場のはずれの巨大なオベリスクが待ち合わせ場所だ。
 そこには垂れ眼でショートカットの女の子が立っていた。
 純白のタイトな尼衣が、ストイックで煽情的な少女だった。
 誰が見ても筋金入りの巫女だ。お茶に誘うには花束を背負うべきか、バルクのアイスクリームを抱えるべきか、ちょっと難しいところだ。
 それが証拠に、すぐ脇の歩道にしゃがみ込んだ軟派な若者たちも、少女に背中を向けて小さくなっていた。
 待ち合わせ場所に現れたラブドエリスたちを見て、高貴な美少女は脇をしめて右手を振った。

「はじめまして。お招きいただきましてありがとうございます。ラブドエリス様ですね? ひとめでわかりました。こんにちは、ギュリレーネ様。アリウス様の命代で参りましたミロウドと申します」
 控えめに頭を下げて、銀色の髪の少女は微笑んだ。
「あれ。どうもはじめましてミロウド……様? って、こいつは驚いた。なんてかわいいお嬢さんだ」
 ラブドエリスは失礼にも少女の耳に口を寄せて聞いた。
「アリウスは来ない?」
「ニューレの学会に総代として出発されました」
「ああああっ、なんだって。総代? 知ってるか? あいつ頭わるいぜ」
「ええっ……はっ。あっ、いえ」
 ミロウドはあたふたと手を振った。
「さてはアリウスとけっこう親しいな。あいつって黙って立ってりゃ学者様だからな」
 ラブドエリスは、にやりと笑った。
「ア、アリウス様はロスグラードの誇る博士です」
 この乱暴者っぽい男に、いきなり話しのペースをつかまれて、ミロウドは目を白黒させた。
「まーーーっいいや。きれいな巫女様。ショッピング行こうぜ」
 ラブドエリスはミロウドの動揺など、どうでもいいように言った。
 彼らは市場に繰り出した。


 彼らが滞在していたフォオの街は、ロスグラードから近く、東西の様々な物資が入り乱れていた。
 店々にはおよそ見たこともない料理や食材が山積みになっていた。
 彼らは祭りのような人ごみをかきわけながら、大きなバックに食べ物を仕入れていった。
「うわあ。なんだ、このピンクの雑炊は」
 ラブドエリスが大声を出した。屋台の女将は、きっと夫よりも太い腕で巨大なレンゲを振り回した。
「ケチャップにミルクを入れたらピンクになるに決まっているじゃない」
「それを米に混ぜたのか」
「食べるの食べないの?」
「喰うぜ」
 ラブドエリスは小振りのどんぶりで、湯気のたつ雑炊を五秒でかき込んだ。
「喰ったぜ」
「は、早いですね」ミロウドが驚いて言った。
「むう……まあ。その。腹が減っているとき向きだな」
 女将が耳ざとく聞きつけて、キィと怒った。
「なんだい、あんた! なら、これをお食べ」
 ラブドエリスは、出されたパスタスープを見てのけぞった。
「ちょっと待った。俺が悪かった」
 ギュリレーネまで、こぼれ落ちそうなほど眼を見開いた。
 黄金色のスープを泳ぐパスタのようなものは、白く太いうえに、毛が生えていた。
 とんでもなく長い白毛虫が、ゆらゆらととぐろを巻いているようだった。
「ほら、食べてみなさい。私の料理にケチをつけられて黙ってられないわね」
「女将。人の食べられる物にしといてくれ。その鯨の寄生虫はなんだよ」
「寄生ちゅーー? あんた、すね気うどんを知らないのかい。麺の毛にスープがからんで絶品だよ」
 ラブドエリスはギュリレーネに耳打ちした。
「スネゲウドンってなんだ? 毛虫を縦につないだものか?」
「魚でダシをとったスープみたいよ。麺はふつうのパスタと同じく植物性だと思うわ」
 ギュリレーネも初めて見る食べ物だった。
「私がいただきます」
 ミロウドがにっこりと笑って、どんぶりを受け取った。
「あら、まあ。いやだわ。巫女様のお口に合うかしらね」
 女将は、急にしおらしくなって頬を染めた。
「ずぞぞぞぞぞっ」
 ミロウドは思いっきり音をたてて麺をすすった。
「ミ、ミロウド様。お下品だぜ」
 ラブドエリスが道路からミロウドを隠すように立ちふさがって言った。
 女将が軽蔑の目でラブドエリスを見た。
「やだね。この野蛮人は。すね気うどんは音を立てて食べるのがお行儀ってもんだよ」
「そんなこと知るわけないじゃん……」
 ラブドエリスはちょっと悲しかった。


 たっぷりと買い物をした一行は、街の北にある食堂に着いた。
「ここだ。炎火苑。いい名前だろ? ここにしようぜ」
 ラブドエリスが笑った。
 ギュリレーネが白いフードを肩に落として言った。
「きっとパクリよ。この名前。最後の一文字違いってやつね」
「準備中って書いてありますが」
 ミロウドが言った。
「だからいいんじゃねーーか」
 ドッカンと、扉を蹴り開けてラブドエリスは店内に入った。
 あわてて店の主人が駆け寄ってきた。
 太った雇われ店長は、店を守ろうと身体を張って立ちはだかった。
「ラ、ラ、ラブドエリスの旦那」
「よお、大将。頭から湯気が立ってるぜ」
「きききょう、今日はまたいい妖気で」
「こら。字が違うぜ」
「よ、陽気で。旦那」
「陽気で旦那。ようきでだんな……ようきでだいどころ。よう、貸せよ台所」
「はあ?」
「いいじゃねえか。また厨房を貸してくれ」
「い、いやだあ!」
「いやだとお?」 
「ラーララブド……」
「おめえ。ラブユーなんて言ったら押し倒しちまうぞ」
「でも……でも、だんな」
 あまりの店長の動揺ぶりにギュリレーネが言った。
「かわいそうに。前科があるわね。ラブドエリス」
「そうなんですよ。奥様。聞いてくださ……」
 そこまで言ったとたん。ビュン、と鋭い爪がひらめいて、店長の残り少ない前髪を宙に散らせた。
「奥様なんて、ここにはいないわ」
「ひえええっ」
 自分の不幸をあきらめたのか、店長は転がるように店を出ていった。
「ひどいですわ。ラブドエリス様」
 驚いたミロウドが言った。
「だいじょうぶだ。ちゃんと一晩分の金は置いていからさ」
「後片付けはしないんでしょ」
 ギュリレーネがため息をついて言った。
「今夜は貸切りだ。なんでも作っちゃおうぜ。まずはみんな勝手に飲み物を用意しようぜ。そして食前酒で乾杯だ」
「いいわね」
 ギュリレーネは、ぴちぴちと跳ねる川ミミズ・パッズの、前か後ろかわからない首を、ちょんと切り取った。
 ちゅーーっ、と鮮血がしたたり、銀の杯に赤いゼリーのように溜まった。とがったきれいな爪が、レモングラスをぱきぱきと割って散らしていった。
 ラブドエリスは、香りの良いピルスナータイプのビールにビターを垂らして、なにやら黒っぽいビールカクテルを作った。
 ミロウドは、その匂いに閉口しながら、薔薇の花が一本まるまる入ったワインをグラスに注いだ。
「じゃあ。楽しい夜のために、プレ乾杯だ」
「乾杯」
 ギュリレーネとミロウドもチンとグラスを合わせた。
 三人はバックの中から、買ってきた食材を取り出した。
 ミロウドは笹の葉を広げて魚をテーブルに並べた。
「この秋刀魚は活きがいいですね。お刺し身にできます」
「そうなの? これは?」
 ギュリレーネは鼻を鳴らして不思議そうに聞いた。彼女の臭覚は人間の比ではない。逆にそれが人間の基準を計りかねていた。彼女にはどれも生で食べられると思えた。
 ミロウドは、秋刀魚の目をじっくりと見ると、二匹ほどを取り上げた。
「これは焼いたほうが良いですね」
「そう。じゃあ、この二匹をいただいて良いかしら?」
「ええっ。どうぞ」
 ギュリレーネは秋刀魚の尻尾を人指し指と親指でつまみ、すっ、と持ち上げた。
 尖った顎を真上に向けて、秋刀魚の小さな頭を軽く咬んだ。甘咬みの歯ごたえを楽しんだあと、するりと丸飲みしてしまった。
「……えっ……」
 ミロウドは目をまんまるにして息を呑んだ。
 ちゅっ、と指先を舐めたギュリレーネは。そんな彼女を無視して、もう一匹取ろうとした。
「こら、行儀悪いぞ」
 ラブドエリスに言われて、ギュリレーネは素直に手を引いた。
「うお! なんだこりゃ。この豆、腐ってるぜ」
 ラブドエリスが手にした、稲の藁に包まれた豆から異臭が立ちのぼった。
「ふうん。なにかの菌を積極的に繁殖させた食べ物なのね。おもしろいわ」
 にゅーーーっ、と糸を引く不思議な食べ物だった。ギュリレーネは、しきりに匂いを嗅ぎながら、興味深そうに糸を引いて楽しんだ。
「ええと、この黒いソースをかけて食べるんだとさ」
 ラブドエリスは漆黒のさらさらとしたソースをかけて、ぐちょぐちょと混ぜ合わせた。いくぶん粘りはやわらいだようだった。
 恐るおそる数粒を口に入れてみた。
「…………にゃんというか…………」
 口が粘ついた。
「少なくても健康には良さそうだぜ。珍味だな、こりゃ」
 ギュリレーネもスプーンですくって口にした。
「ん……! むっ」
 あわてて両手で口の回りを掻きむしった。
 きっと目にはみえない髭に納豆の糸がついたのだろう。人間の眼には若い女性に見えるギュリレーネだが、その実体は銀ログム種と呼ばれる、巨大イタチに似た獣だった。
「ひどい食べ物。でもおいしいわ。気に入った」
「おまえって、発酵モノが好きだよな」
 ラブドエリスは、前足のような両手の動きにおもわず吹き出した。
「そうかしら?」
「その黒いソースを残しておいてくださいね」
 ミロウドが言った。
「秋刀魚のお刺し身にかけるとおいしいそうですよ」
 おっかなびっくり秋刀魚の内臓を取り出す手つきがあぶなっかしい。
「ミロウド様。刺し身って魚を生で食べることなのか?」
 ラブドエリスが意外そうに聞いた。
「あら、おいしそうじゃない」
 ギュリレーネが目を輝かせて言った。
「なんだか今日はやる気満々だな。ギュリレーネ」
「おいしいものがたくさんあってうれしいわ」
 にっこりと笑って彼女は言った。
「そいつはなによりだぜ」
 ラブドエリスは、野菜をたくさん入れたスープを作りながら笑った。
「とても不思議な香りですね」
 ミロウドは、ラブドエリスが作っているスープをうさん臭そうに覗き込んだ。
 彼が作っているスープには、およそ見たことのないなにかが入っていた。緑の皮に黒い稲妻模様の入った、果肉の赤い代物だ。
「ラブドエリス。これは……どこから手に入れたの?」
 ギュリレーネは鼻をひくひくと動かしながら、驚きの表情を浮かべた。
「おう。苦労したぜ。ミロウド様。これな、神様たちが食ってる米樹って実のひとつだ」
「神様の食べ物ですか」
「少なくても俺の知ってる神様は、こんなの食ってたな」
「でもこれはフルーツみたいですが」
「米樹ってよくわからん樹でさ。汎神族が作った樹らしいぜ。いろんな実がなるんだ。甘いやつ、塩辛いやつ、堅いのに柔らかいの。羊肉やラン貝みたいな味のもあった。毎年、苗に流行りすたりがあるんだとよ」
「一本の樹に色々な実がなるのですか?」
「そう。で、それを取ってきて、やたらとこぎれいに切りわけて、並べたりまぜたりして食べるんだ」
「焼いたりはしないのですか?」
「焼いた味がするんだよ」
「えっ?」
「樹になっているときから調理したみたいな味がするんだ。知らなかった?」
「……それは不思議です。神様はあたたかい食べ物は取らないのですか?」
 ミロウドは、垂れた目尻を細めて聞いた。
「茶は飲むな。あったかいスープも飲むけれど、それよりも器にどうやって並べるかを考えているみたいだったぞ」
「その貴重な米樹の実を煮てしまったわけ?」
 ギュリレーネが呆れて言った。
「あれ? おまえはよくスープにしてなかったっけ?」
「せっかくミロウド様に食べていただくなら、そのままのほうが良いでしょう」
「いいえ。ギュリレーネ様。私はギュリレーヘネ様の食べ方のほうが口に合うと思います」
 ミロウドは子供の頭ほどもある塩の結晶を取りだした。
 そして短い法呪文を唱えると、堅く鋭い物理障壁を指先に張りめぐらせた。
 石鹸の泡のような虹色が流れる障壁の表面に、ピリピリと静電気の火花が散った。
 そっ、と人指し指を立てると、熱いナイフをバターにさしいれるように、岩塩の表面が浸食されていった。やがて岩塩の結晶は、大きなボール状に加工された。
「ミロウド様。それはいったいなんですか?」
 ギュリレーネが聞いた。物理障壁にこのような使い方があるとは彼女も知らなかった。
「ロスグラードに住まわれる汎神族・聖火香(せいかこう)様に捧げる供物に使う料理です」
「そんなものをパーティーで作ってもいいの?」
「聖火香様もきっと許してくださると思います」
 ミロウドは意味ありげに、にっこりと笑った。
 塩のボールに、皮をむいた南国の果物を八種類も並べた。そしてローレルと粉末にしたカルダモンとアジョアンをたっぷりとふりかけて、蜂蜜でコーティングした。
「温度を上げたオーブンに入れて、すぐに火を消します。すると表面だけが焦げて、中はほくほくのカディオンができあがります」
「おおーーーっ」
 ラブドエリスが拍手をした。
「じゃあ、次は俺のサンドイッチだぜ」
 荒びき玄米を混ぜたベーグルブレッドに、ざっくりと切れ目を入れて、黒豚の生ハムとゴーヤのピクルスを交互にはさんでいった。パラフィン紙に包んであった固いメルティングチーズを、ごつい骨割り包丁でスライスすると、焼き物に使う半円形のへらの上に小山と積み上げた。
「どうするんですか?」
 不思議そうに聞くミロウドにウィンクすると、へらをそのままこんろの上にかざした。たちまち溶けだすチーズを、垂れそうになった部分から、器用にパンに塗っていった。
「そして仕上げはこれさ」
 ラブドエリスは、懐からガラスの瓶を取り出した。
「人肌が最高なこのソースはな、ちょっと手に入らないぜ。なにしろちょいとクンフ愛護協会からクレームものの一品だからな」
「えっ……法律に違反するものですか?」
 ミロウドが眉をしかめた。
「まさか。法律には関係ない。でも作り方はすげぇぜ。リンゴと二本足クンフを壺に入れて封をするんだ。そのまま半年間放っておく」
「そんなことをしたらクンフが死んでしまうじゃないですか」
「そうだ。封をして一週間もたつと、リンゴを食いつくしたクンフが外に出ようとして、壺ががたがた揺れるそうだ」
「うわあああ」
「おまけにキーキー鳴く声が「だしてーだしてー」って聞こえるんだとよ」
 ミロウドは手にしたワイングラスを、かたんとテーブルに置いてしまった。
「これは熟成タイプだけど、通な奴らは二ヶ月目の早出しも食べるんだとよ。まだ原形が残ってるようなヤツ」
「……しらふで食べるには勇気がいりそうです」
 ミロウドは大鍋で塩水を沸かすと、黄色いパスタを茹ではじめた。
 ラブドエリスは興味深そうに聞いた。
「ミロウド様、ソースはなにさ」
「エスジェルというパスタ料理です。大カマキリの卵をねりこんだ麺は、そのまま食べても味の濃いものです」
 ラブドエリスは、ぐらぐらと煮立つお湯の中に指を入れて、麺を数本引き出したかと思うと、ちゅるりと食べてしまった。
「ほんとだ」
「あっ……指……」
 汚いと火傷、の言葉がミロウドの中で交差した。
 ラブドエリスは指先を濡らした塩湯を、シャツの裾で拭いた。
「あっ……あ」
 しかもミロウドのシャツの裾でだ。
「すげーーっ味。羊のバターでも入ってるみたいだ。ソースなくってもいいな」
「え、ええっ。トマトをつぶして混ぜるんです」
「とまとぉ? トマトを生で食べるのか? やめてくれ。俺の分にはそんなものをかけないでくれよな」
「トマトを生で食べないのですか」
「知らないのか。トマトって、人の見てないとこでは動物なんだぜ。内臓とかもあってさ。高いところから落としたら、臓器をぶちまけて死んじゃうんだぜ」
「…………え? はあ?」
「気にしないで。ミロウド様。酔っぱらいの言うことだから」
 ギュリレーネが生サンマを齧りながら言った。
「酔っぱらいって……ああっ! 指酒を飲まれたんですか?」
「んっ?」
 赤い顔をしてラブドエリスが振り返った。
「甘くてうまいじゃねえか。このピンクの酒」
「それは、手と足の指を洗うお酒ですよ」
「指を洗う?」
「神殿で食事をする前の作法です」
「……これって使用済み?」
「え、ええっ。私が……つかいました」
 ラブドエリスはこほん、と咳払いをした。
「ああっ。その、なんだ。これが夜で二人きりなら、ウィットに富んだ男と女の会話も楽しめるというものだ」
 と、いいながら、ラブドエリスは器に残った指酒をがぶがぶと飲んでしまった。
「さすがはロスグラードの誇る法呪使い。触れた酒まで強く力を帯びている」
 ギュリレーネが翻訳した。
「うへへへ、たまんねえぜ。きれいなねーちゃんの指を洗った酒だとよ」
「気にしないでくれ。美しい巫女さん。所詮はけだものの言うことだ」
 ラブドエリスは肩をすくめて、ふっ、と笑った。
 ミロウドがまじめな顔で言った。
「失礼ですわ、スタリオン様。精力がつきませんでしたか?」
 がしゃしゃん、とハデな音を立ててラブドエリスは片膝をついた。
 スタリオン(種馬)な鼻息をたてて彼は奮いたった。
「い、言うぜ。お姫様。今年は種も畑も天地無用ってかあ」
「私は清らかな巫女です」
「おいおい、キナくさい巫女様。少し焦げ臭いぞ」
「あ……あっ! たいへん。ドリアが」
 浮世のあれこれを知っているらしい耳年増な巫女様は、バタバタとオーブンに駆け寄った。
 耐熱グローブを左右逆にハメながら、蒸かした黒い麦にホワイトソースをかけた奇妙な料理を取り出した。
「よかった。器からこぼれた青チーズが焦げただけですね」
 丸い額に浮かんだ汗をぬぐってミロウドは笑った。
「ラブドエリス」
 ギュリレーネがミロウドを見ながら言った。
「いま、彼女のおでこををペロリとなめたい、と思ったでしょう」
「おまえこそ、あの耳たぶを齧り取りたいと思っただろう」
 ギュリレーネはゆっくりとラブドエリスを見上げた。
「ちょっとね」
「なんだか一生懸命でうまそうだな。彼女」
「ふふふっ」
「おい。ギュリレーネ。いま笑わなかったか?」
「私だって笑うわ」
 複雑に口もとを歪めて、たしかに彼女は笑った。
「そりゃ、知らなかったぜ」
「うかつだわ」


「できた!」
 ラブドエリスが宣言した。
 テーブルの上には彩り豊かな料理がたっぷりと並んでいた。
 ギュリレーネが微笑んで言った。
「これならミロウド様にも恥ずかしくない、ってところかしら? 
でも人間のパーティーにしては奇妙な食べ物が多いわね」
「あら、ギュリレーネ様。違います。これは私のパーティーではありません」
「そう。まだ誰か来るの?」
 ラブドエリスはテーブルナプキンをくるりと丸めて白いシャツの襟首から垂らした。ネクタイのつもりらしい。
 そしてテーブルの上の壺にさしてあった花を、すっと持ち上げた。それは赤いリボンのついた花束になっていた。
「ばかやろう。おまえの誕生日だぜ。ギュリレーネ」
「……………………」
「おめでとうございます。ギュリレーネ様」
 ミロウドも照れくさそうに、小さなコサージュをさしだした。
 ギュリレーネはのろのろと手を出して、ピンクの花束を受け取った。
「……人に……誕生会という祭があることは知っているわ」
「でも自分のは初めてだろう?」
 ラブドエリスがスパークリングワインを派手に抜きながら言った。
「乾杯しようぜ。ギュリレーネ」
「するとなに。食べ物の趣味が少し変わった奴って、私のこと?」
「俺は正直者だろ?」
「さいてい」
「お、怒ってらっしゃるのですか。ギュリレーネ様」
 ミロウドがうろたえて言った。
 ギュリレーネはミロウドに微笑みかけた。
「いいえ。ちっとも」
「悪くないだろ?」ラブドエリスも笑った。
「とてもいいわ」
「乾杯だ!」
 その夜、ギュリレーネは銀ログム種に伝わる唄を、初めてラブドエリスの前で歌った。

 花を見、神を見、祝福を与え合う祭の名を、人は「ゆみかみ」と言った。



 

 

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