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大きな川に沈む夕日は美しい。
暑くよどむ夏の空気が、水面を渡る風に吹き散らされていく。目に映る色のうつろいと、肌をなめる湿気の冷たさが夜のおとずれを感じさせた。
白い髪を結い上げた初老の女が、一抱えのススキを大事そうに抱きしめて歩いていた。たったいま川原に降りて刈り取ってきたものだ。
木作りの小さな家についた彼女は、長さをきれいに切りそろえた。玄関の前の大きな瓶にさして、両手で優しく白い穂先をふくらませた。
「ふうん」
三歩ほど後ろにさがり、穂の広がりがきれいにそろっていることを確かめると、満足そうな微笑みを浮かべて家の中に入っていった。
その女が川岸に住まいを置いてから長い年月が流れていた。
女の名前はミ・キャラといった。
若いころの彼女は、とてもきれいな娘だった。
かつてはその美しさで王侯貴族をもひざまずかせたものだ。
海辺の村レンスファで生まれ育った彼女は、健康的な引き締まった長い四肢を持っていた。豊かな髪の色は、赤カゲロウの淡い紅。細くとがった顎と、濃い茶色の瞳は異国情緒を漂わせて、見る者を魅了した。形のよい爪にはいつも細微な爪絵が描かれており、その図柄の趣味のよさが彼女のセンスを引き立たせていた。
小さいころから村の祭りで踊っていたというリズム感の良さか、その物腰は柔らかく、流れる優雅さを持っていた。
傲慢な性格も、男たちには魅力の一つにすぎなかった。
「青い石も赤い石も私には退屈ですわ。どなたか川原の黒い石をくださらないかしら」
しかし彼女の気を引くことに執心な男たちは、誰一人としてそんなことを真には受けなかった。当然だ。もし本気でそんなものを持ってくる男は，二度と彼女を抱くことができなかったことだろう。
ミ・キャラは娼館「喫茶の館」のナンバーワンだった。
男たちは列をなして入口に並び、汗ばんだ掌で札束を握りしめた。
一夜にわずか数人の幸運にもぐり込むために、若者も大臣も体裁を気にしなかった。
その日の夜。手紙で連絡のあったとおり、彼女の夫が旅から帰ってきた。
ミ・キャラの夫アンバーは、いつも旅に出ていた。彼女は彼の仕事がなにかを知らなかった。かつての彼女の生業がらか、あれこれ詮索しない習慣が身についていた。
夫がなんの仕事をしているかよりも、彼が家に帰ってきてくれる事実が大事だった。
「ただいま。ミ・キャラ」
「おかえりなさい。あなた」
ミ・キャラは少女のように頬を赤らめて男を迎えた。
およそ特徴のない地味な男だった。街で紹介されても、次に合う時まで覚えていられないような平凡さだった。黒い髪に黒い瞳。十人並みの器量に十人並みの体格。伏目がちの視線は、人に印象を与えることを嫌っているかに見えた。
「ああっ、腹が減ったよ。おまえの飯が食いたい」
「ええっ、ええっ。待ってね。すぐに食事にしましょう」
男は彼の定位置である、深い背もたれの椅子に腰掛けた。椅子はきれいに掃除されていて、昨日までも使っていたかのようだった。
「あなたの好きな鱒のシチューにするわね。お酒でも呑んで待っていてちょうだい」
ミ・キャラは初恋の女子学生のように、ちらちらと彼に視線を投げながら、氷室から酒の瓶を取り出して、ナッツを皿に用意した。
「ありがとう。ミ・キャラ。きれいな髪飾りだね」
「あら、このまえあなたが買ってきてくれた珊瑚の飾りじゃない。忘れたの？」
「そうだ。そうだったね。あんまり似合っていたものだから、君が選んだのかと思ったよ」
「あなたの趣味の良さよ」
「私はちっとも選んでなんかいないさ。なんだって君にはよく似合う」
「まあっ。あなたったら」
「いつも使っていてくれたのかい？」
「あなたからもらった髪飾りはたくさんありすぎて、毎日とりかえてもぜんぜんくたびれないの」
「髪飾りたちも君の髪が居心地いいんだよ」
「もお……！」
いつまでも続く彼の言葉はとても心地よく、いつまでも聞いていたかった。
「今度は長くいられるの？」
「そうだな。一週間はいられると思うよ」
「まあ、一週間も？ どうしましょう。私の浮気がばれてしまうわ」
「じゃあ、君の浮気の証拠を探すのに屋根まで探そうか」
「ええっ。ぜひお願いするわ。屋根に上がるときは、金槌と板を忘れないでね。最近、雨漏りがひどいの」
「……ちょっと焦げ臭くないか？」
「あっ！ きゃあきゃあ、たいへん」
ミ・キャラはくっきりと焦げ目のついたパイをオーブンから取り出した。
「もう！ パイったらやきもち焼きね！」
アンバーはそんな彼女を優しく見つめていた。
その夜、二人は食後の茶を飲んでいた
「私のこと好き？」
「もちろんだ。愛しているよ」
「私のどこが好き？」
「ぜんぶだよ」
「顔？ 性格？」
「魂までぜんぶだ」
ミ・キャラは彼の答えに満足して、椅子の背もたれに身を預けた。
歳をとり、性格が穏やかになったとはいえ、彼女は褒められることが大好きだった。
「……あなたはいつもやさしいわ。こんな私にもったいない」
「私はミ・キャラを愛しているんだ。君が自分を卑下したら、私までつまらない者になってしまうよ」
「でも……あなた。私たちは結婚してずいぶんたつはずなのに、まるであなたが幻のように思えるときがあるの。あなたのいないある日、ふと思うの。私はずっとひとりだったんじゃないかって。あなたは私の幻想だったんじゃないかって」
「ミ・キャラ。私はここにいるよ」
「そうね。私ったらばかね。幸せすぎてこわいの。私なんかにあなたのような素敵な人がいるなんて」
「まただ。頼むからやめてくれ」
ミ・キャラは両手の指を組んでくるりと返すと、まっすぐ前に伸ばして伸びをした。
「疲れたかい？」
「私ね……ううん。なんでもないわ」
「私に言うことでもあったのかい？」
ミ・キャラは照れたように笑って首を振った。
「なんでもないわ。もう寝ましょう。あなた」
ベッドの中でふたりはたわいもない話しをしていた。
しかしミ・キャラはなぜか上の空だった。
「ねえ、アンバー。私は私の昔のことをちゃんと話したことがなかったわね」
「うん？ そうだね」
「あなたは詮索しないのね」
「どうでもいいじゃないか」
ミ・キャラは片肘をついて身体を起こすと、アンバーの顔を上から見下ろした。
「どうしてだろう？ 私、あなたに聞いてほしいの」
「おかしいな、ミ・キャラ。いったいどうしたんだ？」
アンバーは手を伸ばすと、彼女の頬に、そっと触れた。
「アンバー。寝物語に聞いて頂戴」
私は悪い娘だったわ。ママの言うことを聞かない子だった。パパが戦争で死んでから、女手一つで私と妹を育ててくれたママ。でもまじめにこつこつと働くばかりで、いつも貧しいママを、私は軽蔑していたわ。
私には悪い友達がいたの。私から望んで近づいていった友達。だって私は若かったし、ママに似てきれいだったんですもの。ある日気がついたの。笑うだけで男の子は私に優しくしてくれるって。
とても良い気分だったわ。私の好きなことをして、わがままを言っても、みんながかわいいって褒めてくれるの。まるで魔法のような毎日だった。
もっともっとお金が欲しかったし、ちやほやしてほしかった私は「喫茶の館」に行くことに決めたわ。そこは私の街から遠く離れていたし、場末の飾り窓とも全然違った。きっと私は成功すると知っていたわ。
私は「喫茶の館」のマネージャーを家にまで呼びつけたのよ。信じられる？ でも私はそうする価値があると、自分で信じていたの。そしてやってきたマネージャーは、私と契約したわ。支度金だけで六万ワウもくれて。
最初、ママはレストランか劇場だと思っていたらしいわ。当然よね。自分の娘が娼婦になりたいから、娼館のマネージャーを家に呼びました、なんて想像できるはずないもの。
私は泣き叫ぶママを初めて見たわ。そして狂ったように殴りかかってくるママも初めてだった。私は顔を覆ってママが静かに泣き伏すのを待ったの。支度金のほとんどをママのクローゼットに入れて、私は迎えの馬車に乗ったわ。
街のみんなは私がどこに行くのか知っていたみたい。だって薔薇の花と生卵が両方投げつけられたから。
そして私は成功したわ。
すてきな毎日だった。つらいなんて思ったことは一度もなかった。みんなが私のためになんでもしてくれた。お姫様だって、私ほど愛されていないと思うほど。いつもいつもたくさんの人が、情熱的に私を愛してくれた。
ある日、妹が訪ねてきたの。
妹もそこで働きたいって言って。私は驚いたわ。
「あなたがここに来たら、誰がママの面倒を見るの」
「私もお姉ちゃんみたいにきれいな服を着て、おいしいものを食べたいわ」
「だめよ。だってあなたはママの傍にいてあげなきゃ」
「どうして？ おねえちゃんは家を出て好きにしているじゃない」
「私は体を張って仕事をしているのよ」
私は自慢の脚を組み替えて言ったわ。
「私だって！ 私だってきれいなはずよ」
そう言った妹の顔は、ほんとうにきれいだった。
私の記憶の彼女とは別人のようにきれいだった。
白い髪に紫がかった不思議な瞳。陶磁器のような白く艶やかな肌。
とても港街から旅をしてきたとは思えない清潔さ。
イステートは貧しい服を着ていたけれど、私にはわかった。
彼女はぜったいに売れっ子になるって。
私よりもきれいだって。
「だめ。ぜったいだめ。この仕事がどういうことかわかっているの？ 男の人とお喋りをするだけじゃないのよ」
「でも！ ……でも女の子ならできるお仕事でしょう？」
「なに言ってるの。ママが悲しむわ」
「おねえちゃんだけずるい。私にママを押しつけて」
もちろんわかっていたわ。私はずるい。私はわずらわしいママの世話を妹に押しつけている。だから私はここでこうしていられる。
そんなずるい自分をよく知っている。でももう戻れない。
暗い海とじめじめした霧しかないレンスファなんて大っきらい。あんな田舎街に帰ってパン屋で働く？ そんなこと想像しただけでぞっとする。
「お金を持っていってあげて。私にできることはそんなことだけ。親不孝な子供はわたしだけでたくさんだわ」
「ママは病気よ」
「なんですって。だいじょうぶなの？ 重い病気？」
「もう長くないって、お医者さんが言っていたわ」
「ちょっと、だったらどうしてあなたがこんなところにいるの？ 早く帰ってあげなきゃ」
「お姉ちゃんも帰ってあげて。おねがい」
「ええっ、うん。そうね。たいへんだわ。ご主人様に伺ってみるわ。なるべく早く帰るから、あなたは先に帰ってあげて」
「……うそ。お姉ちゃんは帰ってこないわ」
それは図星だったかもしれない。私は帰りたくはなかった。ただ街の人に親の死に目にも帰らない親不孝者と陰口を叩かれるのがいやだっただけ。
「まさか。たったひとりのママよ。すぐに後を追って帰るわ」
「……ずるい、ずるい、ずるい！ おねえちゃん、ずるい！」
「イステート……」
「呪ってやる。おねえちゃんなんて呪ってやる」
彼女の身体が不思議に光りだしたわ。目がらんらんと燃えだしたの。
私はその光景よりも、妹の言葉に打ちのめされた。
「貴き雅流様の御名にかけて、汚れなきギュリレーネ様の御爪にかけて。私の呪いを思い知るがいい。ぜったいにおねえちゃんをレンスファに呼び返してやる。魚の汁にまみれて醜く老い果てるまで後悔させてやる！ おねえちゃんに呪いあれ」
次の瞬間。妹の姿は消えていた。
私は法呪というものを初めて見たわ。
そして法呪の力というものも知った。
妹は、ママといっしょに病気で死んでいたの。
死ぬ前に妹は、家のわずかな財産を処分して、雅流様の従属生物ギュリレーネ様にお願いしたの。私をこらしめてくれと。
ギュリレーネ様は、ちょうど人間の娘の協力を欲しておられたわ。
気がつくと、私は雅流様のお城にいたの。そして長い時間眠っていたわ。
ある日、目が覚めると、私の前に神様が立っておられたわ。
レンスファの雅流様よ。私は目がつぶれるかと思ったほど、雅流様はおきれいだった。
黒くて長いつやつやの髪、私の倍もありそうな高い背丈。まるで奇跡を知る彫刻家がお造りになったようなお顔。息をしているとも思えなかったわ。
「おまえの身体を二十一年間借りた」
天から降ってくるような清らかなお声で、雅流様は私にお言葉を下さったわ。
「そして実験は成功した。時間循環確立に寄与したおまえの役割は大きい。人の娘よ。豊かな魂を持つ自由な意志の者よ。私はおまえに感謝する」
忘れもしない。雅流様が私にそうおっしゃったのよ。信じられる？ 神様が私にお礼を言うなんて。私はその御言葉だけで一生生きていけると思ったわ。
「おまえの残りの人生は長い。心安らかな日々を送ることを望む」
大きな眼のびっくりするほどきれいな女の人が私にたくさんのお金をくれたわ。きっとそれがギュリレーネ様だったのね。
雅流様のお城を出た私は「喫茶の館」に帰ったわ。でも知っている人は誰一人いなかった。そして私は歳をとりすぎていたわ。もう四十三歳だったもの。男の人は誰も私を選んでくれなかった。
私は毎日泣いたわ。昔、私にプレゼントをくれた人達が、私に目もくれずに、若いだけできれいでもない娘の元に通ってくるのを見ているのはたまらなかった。
そこへあなたが現れたわ。
あなたは何日も泊まってくれたわね。私のためにたくさん贈り物をくれた。あなたは知らないでしょうけれど、あなたは雅流様に少し似ているのよ。すごいわ。
そんなあなたが私に愛していると言ってくれたわ。私がどんなにうれしかったかわかる？ あなたのためならなんでもしてあげたいと思ったほどよ。
「私はあのころから君にぞっこんだったからね」
アンバーが言った。
「うれしかったわ。とても。ねえ、信じられる？ 私が誰かのために何かをしてあげたいと思ったのって、その時が生まれて初めてだったのよ」
「急にそんな話しをするなんてどうしたんだい？」
「そしてあなたは私と結婚してくれた」
ミ・キャラは自分の言葉に酔うようにつぶやいた。
「花嫁衣装を着せてあげることはできなかったけどね」
「ううん。私がどんなにうれしかったか、きっとあなたにはわからないわ。私はぜったいに結婚できないと思っていたんだから」
「結婚できない？ こんな美人がかい」
「娼婦を嫁にするなんて、男の人は考えもしないわ。娼婦はいやしい商売ですもの」
「私はそうは思わないが」
「あなたのご両親がご健在だったら、きっと反対されたはずよ」
「私は気にしない」
「私の元に来てくれた人たちは、朝になると帰っていくの。いそいそと帰る人。どうしよう、って顔で帰る人。みんな待っている人がいるのねって、そのときに気がつくの。宝石をたくさん持っている私にはいないのに」
「それは私も同じだよ。君がいるからこの家に帰ってこれるんだ」
「私はあなたに感謝してもしつくせないと思っているの」
「おかしなミ・キャラ。私には当たり前のことを、さもおおごとのように言うね」
「あなたは少し変わっているのよ。自分で気がついていないだけ」
「変わっている……知らなかったな。私はミ・キャラしか眼中にない」
アンバーは真面目な顔でキスをした。ミ・キャラは目を閉じてうっとりと身をまかせた。
この人は私のもの。そんな満足感がミ・キャラを心からなごませた。
「愛しているわ。あなた」
「私もだよ。ミ・キャラ」
窓の外はまだ暗かったが、山の峰に紫色の朝日がかかりはじめていた。
アンバーは空気の匂いを嗅ぐような仕種で顔を上げた。
「どうしたの？」
「いや、なんでもない。ちょっと外の空気を吸ってくるよ」
「ええっ」
「寒いから待っていてくれ」
「はい、あなた」
外に出たアンバーは、小石を踏みしめて家の裏に回った。
あたりに人の気配がないことを確かめると、どこからか黄色い宝石を取り出して法呪文を唱えた。宝石はたちまち光りを放ち、人の姿に変わっていった。
人の姿は羽化する蝉のように、光りのかけらを脱ぎ捨てて若い男に変身した。
「ううっ。すげえ、変な気分。基層圧縮されるのって、わけわかんない感じだな」
姿を現した色の薄い金の髪の男が言った。その者はたくましい戦士の気配を発していた。両腕をぶんぶん振り回して、身体の調子を整えることを無意識のうちに行っていた。
「ここにいる女がくそったれな時間循環の臨床実験体？」
「そうよ。雅流様の偉大な実験の成功に立ち会った者よ」
アンバーは口を動かさずに、女性の声で言った。
彼の姿がかすかに透き通っていた。その内側に銀色に輝く獣の毛皮が見えていた。
二足歩行をするイタチにも似た、銀色の神の従属生物。
銀ログム種の雌体は極めて貴重な種だ。高い知性と、優れた法呪の才を持ち、神と人の心に長けていた。
「彼女の青春を奪っておいて、余生をプレゼントしてやるのか。本当に勝手な。おまえたちって」
現れた男が鼻面にしわをよせて言った。
「ラブドエリス。いまから少しのあいだ、あなたにアンバーの役をやってもらうわ」
「よお。いつまでミ・キャラにかかわり合うんだ？ もう十五回も来てるぜ。雅流は何回か行ってやれって言ってたんだぜ」
「…………」
「前もここに来るのは、今度が最後とか言ってなかったか？」
ラブドエリスはからかうように笑った。
「最後よ」
「夫の役を延々とやるなんて、お人好しだよな」
「なんど言わせる気？」
「銀ログムが人間の女に情をうつしたか？」
「雅流様はお優しいから」
「雅流の命令？ おまえの趣味だろ？」
アンバーが怒った顔でかぶりを振った。
「同じ種のくせに。おまえが率先してやるべきことよ」
「なんで今になって、俺が行かなきゃいけないんだ」
「彼女に触れてあげて。人間の男として、キスをしてあげてちょうだい」
「自分でやればいいじゃないか。いままでだって万もキスしてるって暗示をかけているんだろ？」
「会えばわかるわ。彼女は重い病気に犯されている。とても暗示がかかりにくい状態になっているわ」
「わかったよ。ちゃっちゃとアンバーの皮を被せてくれ」
アンバーは法呪を展開して、ラブドエリスの姿を自分と同じものに変えた。それは見事な変身だった。およそ人の目には違いがわからない。
「いい？ 抱きしめてキスをするだけよ」
「おう。抱くんだろ。得意だぜ。ギュリレーネ」
ラブドエリスが家に入ったのを確かめて、ギュリレーネは人間の女性を模した、いつもの姿に戻った。
彼女の鋭い嗅覚は、家の回りに潜む幾人かの男たちの気配を捉えていた。アドレナリンの匂いをぷんぷんさせた、つたない暴徒のようだった。
「そこの茂みに隠れる男たち。出てきなさい」
ギュリレーネは当然のように命令した。
「なんだ。おまえは。ミ・キャラの友か」
見透かされたことを知った男たちが六人、手に抜き身の剣を握ったまま現れた。
「ミ・キャラの保護者よ。用向きは私が聞こう」
「私は彼女の古い友人だ。彼女に会いたい」
「殺気をまき散らして女性を訪ねるのか。人間とは不憫な生き物ね」
男たちは、無表情なギュリレーネをどう扱ってよいかわからない様子で、話さなくても良い言葉を続けた。
「どけ、女。奴に償わせるのだ」
「私には彼女を守る義務がある。悪く思わないでちょうだい。あなたが理性にしたがってこのまま帰ってくれることを望むわ」
「私はミ・キャラのせいで破産した。大臣の地位も失った。一族は散り散りになり血も絶えた」
ミ・キャラが売れっ子だったことの証だ。自分に入れ込んで破滅した男たちがいたことは、おそらく彼女にとって誇りとするところだろう。
「助平ね。あなた」
「わしを愚弄するか！ 悪しき淫売を成敗するのだ。そしてわしの宝石を取り返すのだ。奴は私の地位石を奪いおった。そのせいでわしは王に罰せられたのだ」
「地位石？ ああっ、あのルビーのことね」
「知っているのか？ 女」
「あなたが長居しすぎて、借金のかたに置いていった石ね」
ミ・キャラが雅流の城に来たときに持っていた宝石だ。ミ・キャラがアンバーから結婚指輪にもらったと信じている石だ。それはギュリレーネが暗示をかけて信じ込ませたものだ。
「悪いわね。あれはもうあなたのものじゃないわ」
「力づくでも返してもらうぞ」
そのとき二人のみすぼらしい騎士が貧馬に乗って道の向こうから現れた。
「まぁてまて。ミ・キャラに仇成す者ども」
ちょうど昇りはじめた朝日を背にした姿は、白馬の王子に見えなくもなかった。しかし台詞がよくなかった。
「ミ・キャラを成敗する正義は我のものぞ」
呆れて見つめるギュリレーネの脇の茂みがガサガサッと音を立てて割れた。
「き、貴様らもミ・キャラに喰われたクチか」
驚いて飛びのいた彼女の足元に、死にそうなほど弱った禿げ頭の老人が転がり出てきた。あまりの衰弱ぶりに彼女が気配を感じなかったほどだ。
「し、しかし引っ込んでおれ。ミ・キャラの財産は私が貢いだものだぞ」
すさんだ禿頭の男は、かつては高価だったろうぼろぼろのマントを羽織っていた。
「貴様ら、あとから出てきてなにを言うか。地位石を奪われたわしが優先だ」
男たちはてんでに勝手なことをわめきあった。
「おねがいだぁ。ミ・キャラに合わせてくれえ」禿頭が泣き声でいった。
「ええい。力づくで押し通るぞ」
六人組みと貧馬の騎士は武具を構えた。
「……よくわからないけれど。一歩も家には入れないわ」
ギュリレーネはうなじの毛を逆立てて戦闘体勢に入った。
ギュリレーネは肩を切られて血を流していた。
彼女は一人も殺さなかった。自らは痛手を受けながら、全員を傷つけることなく法呪で捉えたのち、一人一人にミ・キャラから愛の告白を受けたとの幸福な暗示をかけて追い返したのだ。
「信じて。私がずっと愛していたのはあなただけよ」
ミ・キャラの言葉を胸に、男たちは帰途についた。
ギュリレーネが再び家に入ったとき、ラブドエリスはベッドから出ていた。
「あっ……」
彼はズボンを太股まで上げた情けないポーズで固まった。
「……なにをしていたのよ」
「しまった」
ラブドエリスは舌打ちして居住まいを正した。ベッドでは口もとまでシーツにくるまったミ・キャラが穏やかな寝息を立てていた。
「ラブドエリス。おまえという男は……」
「まて、待った。ギュリレーネ。ちょっと待て！」
ヒュンヒュンと風を切って襲いかかってくる彼女の鋭い爪をしのぎながら、ラブドエリスは悲鳴を上げた。
「だからさ。聞けよ。こいつ、もう死ぬぜ」
ギュリレーネは手を下ろしてラブドエリスを見上げた。
「死ぬ匂いがしている。俺の勘は当たるぜ」
「……知っているわ」
「おい、ギュリレーネ。血が出ているぞ」
傷を見ようと伸ばした手を振り払い、彼女は言った。
「もちろん知っているわ。それは明後日よ」
「知っているなら、どうして男たちを追い返したんだ」
「女性の尊厳を犯す者は許さない」
「だって、この女。本当にひどい奴だぜ？ 男たちからむしれるだけむしっておいて、あたりまえって顔するタイプだ」
「あなたも法呪に焼かれたいの？」
ビュッ、と容赦のない爪がラブドエリスの顔面を襲った。引き千切られた前髪が宙に舞った。
「ばかやろう。なに熱くなってるんだ」
「誰が熱くなってるっていうのよ」
ぎらぎらと瞳を燃え立たせてギュリレーネは言った。
ラブドエリスは正面から彼女の殺気を受けとめて生唾を飲み込んだ。
「熱くなんてなってないわ」
翌日、ミ・キャラは倒れた。
そしてベッドに伏したきり、一歩も歩けなくなってしまった。
彼女は長く病魔に犯されていた。そのことは彼女自身、よく知っていた。
ミ・キャラの顔には灰色の死の影が、濃く立ち込めていた。
駆けつけた親しい住民たちはベットの回りに集まり、彼女の人生の最期を豊かなものにしようと微笑みかけていた。
「あなた……」
「ミ・キャラ。私はここにいるよ。愛するミ・キャラ」
アンバーは彼女の冷たい手を握り、優しく名前を呼んだ。
「ああっ。あなた」
「ミ・キャラ。私を一人にしないでくれ。私はどこに帰ってくればいいんだ？ おまえのいない家に、なんと言って入ればいいんだ？」
「あなた、愛しいあなた。悲しまないで、私まで切なくなるわ」
「私は……出ていっていいか？ おまえのそんな姿を見ていられない」
「私が眠ってしまったら、どうかいつもどおりに旅に出てちょうだい。後のことはホフマンさんたちがきちんとしてくれるわ。私ったらあなたのお金で互助会に入っていたんですもの」
さもおかしいジョークを言ったように、ミ・キャラは苦しい息の下で笑った。
「無理だよ。ミ・キャラ、無理だ。おまえと一瞬も離れることなんてできない。どうしていままで平気で旅に出ていられたんだろう」
ミ・キャラの命の鼓動が遠くなっていく。アンバーが両手で握りしめた細い指先が、寂しく熱を失っていく。
アンバーの熱い涙が、ミ・キャラの指を濡らした。
彼女は、その手を自分の顔に押し当てた。そしてアンバーの手に、彼の涙に濡れた自分の指に、ゆっくりとキスをした。
「あなたのにおい……やさしくて……つよい。だいすきな……におい」
「……ミ・キャラ！」
「私のアンバー……やさしいアンバー……いつまで……もいっしょ……」
ぱたりと手が落ちた。
それきり彼女の息は止まった。
「ああっ。ミ・キャラさん」
手伝いにきていた主婦が嗚咽を漏らした。
彼女は死んだ。
アンバーは目を閉じて立ち尽くしていた。
「あの……アンバーさん。なんと言えば良いか」
人の良さそうな、初老の町内会長が悲しそうに涙を浮かべて言った。
アンバーが再び瞼を開けると、その目は虹色のガラス細工のように光が渦を巻いていた。
「ア、アンバーさん……」
皆が目を瞬いた瞬間。
アンバーのいたところに、白い修道女の姿をした者が立っていた。
「私の仕事は終わった」
あまりのことに言葉もない人間たちをゆっくりと見回すと、神の従属生物は威厳を持って簡潔に言った。
「ミ・キャラを丁重に葬るように」
ギュリレーネは、くるりと踵を返すと、一仕事終えた人間のようなさりげなさで玄関から出ていった。
あとには呆然と立ち尽くす人間たちが残された。
そしてミ・キャラは冷たくなっていった。
外にはラブドエリスが明るい太陽の光りを浴びて待っていた。
「優しいアンバーは、女に化ける妖魔だったのか」
「アンバーはミ・キャラといっしょに行ったのよ」
「地獄へか？」
「墓場へよ」
ギュリレーネはじっと立ち尽くしたまま、家の前を動こうとしなかった。
「どうした。いこうぜ」
「ねえ、聞いていい？」
「あ？」
彼女はとても神妙な顔で聞いた。
「私は良いことをしたのかしら？」
ラブドエリスはまじまじとギュリレーネの顔を覗き込んだ。
奇妙なほど真剣な瞳は、熱を帯びて見えた。
「俺だったらうれしいぜ」
ラブドエリスは笑った。
「……そう……」
「良い嘘だったな。ギュリレーネ」
「……ふぅん……そう」
彼女は軽く咳払いをして視線を外した。
太陽にむかい、不思議な音でため息をついた。
「そう」
そしてとても誇らしげに胸を張った。
了
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