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日前宮
古代史を読み解く鍵は紀氏にある xxxxxxxxxxxx 2002.10.15 寺本東吾

現在リニューアル中に付き、文意がつながっていません、御了承願います。   
 古代史といえば、遺跡から推定する以外に方法はなく、後世に残された伝承の類で信じるに値するものは、
ほとんどないというのが現状でしょうか。
 しかし、記紀神話や各地の神社の伝承は、物証の乏しい古代を推測する手がかりを与えてくれる可能性を
秘めていると思います。 現在はこうした分野は宗教や民俗学の分野に入るのでしょうが、1500年の時を超えて
現在まで厚く人々に信奉された来た事実を思い起こせば、もはや単なる宗教施設ではなく民族の過去の歴史を
後世に伝える役割を担っている、タイムカプセルのような存在に思えてならないのて゜す。 
 ここで私が紹介するのは日前宮のことです。
和歌山市の人口の半数に相当する20万人が正月3ヶ日に参拝するのですから、地元ではよく知られた神社です。
 私の家からはこんもりとした森が見える距離にあり、子供のころから見慣れていましたが、紀氏や日本書紀との
深い関わりを知ってからは、一層関心を持って眺めるようになりました。

紀氏と関わりの深い日前宮はは伊勢神宮とも関わりがあった。
伊勢神宮の祭神の八咫(やたの)鏡は2番目の鏡で、最初の鏡は日前宮にある。


日本書紀に見る日前宮の由来

 日本で最も古い歴史ある神社の一つで、紀氏の氏神を祭っているともいわれ、 代々今日に至るまで紀氏の
直接の子孫である紀家が宮司を努めています。
 日前宮は正しくは日前・国懸神宮(ひのくま・くにかかすじんぐう)と呼ばれ、同一の境内に2つの官幣大社が
並ぶ日本で唯一の神社です。(資料1,4)それぞれの神社にまつられている祭神については諸説あるが、 社伝に
よれば日神(天照大神)が天の岩戸に隠れたとき、イシコリドメノミコトは天香具山の銅で鏡を鋳造したが、この時の
鏡が両神宮に伝わるもので、後から製作したのが伊勢神宮で奉斉する八咫(やたの)鏡であるという。
 (資料3)
 このことを裏付けるように日本書紀にはその由来が記載されている。 
 日本書紀 [ 第6段の一書(あるふみ:別伝) ]
   ・・・イシコリトメを鋳物工として、天の香山の金を採り、日矛を造った。また真名鹿の皮まる剥ぎにして、
   天のはぶき(ふいご)をつくった。これを使用してつくりたてまつった神は、紀伊の国に鎮座の日前神である。

 (資料5)      
 つまり、日本書記の記述によれば、有名な
天の岩戸神話のくだりで、八咫の鏡が製作されるまえに矛と鏡、
あるいは2枚の鏡(日矛鏡、日像鏡)が造られ、 何らかの理由により最初のものが気に入らず、新たに作成し直し、
それが八咫の鏡として伊勢神宮に祭られた経緯が語られているのです。
 従って、日前宮に奉納されることになった2点の鏡は、いずれも神宝の八咫の鏡に準ずるものと考えられる

 日本書紀は正式な国史として編纂されたものであり、なぜ、このような持って回ったような設定が必要だった
のか、また、とくに日神(天照大神)に対して日(前)神という名称からしても、ただならぬ神であると予想される。
 (日根氏はこの点に着目し、紀氏は実際は単なる豪族を越える存在であったが、後の政権により歴史上から
封印されてしまったと、独自の紀氏論を展開されている。 資料1)
 このような背景もあり、明治4年に官幣大社に位置づけされるまでは、伊勢神宮と共に朝廷から神階を贈られ
ない特別な神社として崇拝されたようです。(資料3)


浜の宮神社

  こちらの方はあまり一般に知られていない神社ですが、一度お参りされることをお薦めします。
日前宮と伊勢神宮とのただならぬ関係は上に説明したとおりですが、実はここ浜の宮神社には、日前宮の
2つの祭神と伊勢神宮の祭神である天照大神の3神がお祀りされているのです。つまり、日前宮の2神の故地
であると同時に、伊勢神宮の故地(元伊勢)でもあるのです。
 神武天皇が紀国造家始祖の天道根命に命じて2種の神宝を与えて浜の宮の地に鎮座せしめたのが、日前宮
の始まりとされています。後に今の秋月の地に遷座したのです。(資料2)>
 一方、伊勢神宮(内宮)の祭神である天照大神は当初皇居内で祀られていました。しかし、そのあまりの神威に
おそれをなし、崇神天皇6年の時に皇居の外に移してお祀りされることになりました。そうして各地を転々と移り
(斎宮)、途中ここ浜の宮の地を経て現在の伊勢の地に鎮座することになったのです。
 その経路は「倭姫命世紀」に表されています。(資料3)

日本書記の神武東征伝承にみる、紀の国

 はるか、九州は日向の地から出立した神武の東征軍は、瀬戸内海を制圧しながら進軍し大阪に到着します。
ここから、要害堅固の大和の地を支配する長髄彦の軍に、正面から攻撃をしかけて撃退されてしまうのです。
そこで、戦略を変更しいったん退いて南下し、 遠く熊野の地から北上して、今度は日を背にして大和へ進軍
すれば、日神の加護を得られると考えるのです。
 熊野に向かう途中、和歌浦にたちより、ここを支配していた名草戸畔の軍をうち破ったことや、長髄彦 の軍との戦闘
で敵の矢を受けて負傷した神武天皇の兄五瀬命が、雄の港(和歌浦のすぐ北の雄湊の地)で亡くなり、竃山
(和歌山市の竃山神社)に葬ったことなどが記載されています。
 しかし、実際は日根氏も指摘されているように、神武軍は、和歌浦から紀ノ川をさかのぼったと考えられます。
あるいは、ここで2軍に別れて紀ノ川を遡上するものと、南下して熊野から北上するものに別れたかもしれません。
大和に隣接し、しかも紀ノ川でつながるこの地をまず制圧し、拠点を確保することが戦略上まず、必要なことでは
なかったでしょうか。
 その場合、紀氏が元々この地の豪族であったとするよりも、神武軍として名草戸畔の軍に交戦したと考える方
が後の紀氏の発展を考えると自然であると思います。この後、この地を支配し、その象徴として神宝の日像鏡、
日矛鏡 を祭り、一つは天皇家、もう一つは紀氏の象徴として不離一体の神として日前宮にお祀りされているものと
私は推測します。


  
熊野本宮の門前に掲げられた「八咫烏(ヤタガラス)」の幟(全景はこちら)
日本書紀では、神武天皇が熊野の地に入ったときに、大和への先導をして、
軍を勝利に導いたとされる。
日本サッカー協会のマークにも八咫烏(ヤタガラス)が採用された。



    



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資料1
:紀氏は大王だった - 消された邪馬台国東遷と紀氏東征 sss著者:日根輝己 発行:(株)燃焼社
資料2:
和歌山県の地名ssss監修:安藤精一 発行:平凡社
資料3:
日本の神社を知る事典sss著者:菅田正昭 発行:(株)日本文芸社
資料4:神道の本ssssss発行:(株)学習研究社資料
資料5
日本書記(上) ssss訳:山田宗陸  発行:(株)ニュートンプレス


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