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古代には、紀伊津を出航し、紀ノ川の河口から和歌浦湾にでると、すぐ右手に高津子山が見えたことでしょう。 この山は、いわば紀氏の故郷のランドマークであったと思います。 この写真は、山頂の木造の展望台が、夕映えにシルエットになって浮き上がる姿を 捉えたものです。 古代の遺跡の建造物を彷彿とさせ、私のイメージは1500年前、 山頂から、異国へ旅立つ家族や恋人を 不安と期待を込めて見送り、また嬉嬉として 迎える人々の姿を思い描くのです。 |
あとがき |
最近古代史ブームであるという。相変わらず各地で盛んに邪馬台国論争が論じられている。 私は邪馬台国が九州にあっても大和にあってもさして気にはしない。 しかし、たとえ最初に九州にあったのだとしても、そのままではあるまい。 日本列島の地形からして、いずれ大和へ遷都が実行されただろう。 神武東征に象徴される、九州から近畿への勢力の波及は恐らく、時代を異にする、 いくつもの勢力によって繰り返されてきたものと思う。 しかし、最近大陸(朝鮮半島)→北九州という単純な図式が成り立たなくなってきている。 山陰一帯の広い範囲が、朝鮮半島との深い交流で相互に結ばれていたことが、様々な遺跡の発掘により 明らかになり、にわかに注目を浴びるようになってきた。 いわゆる出雲勢力範囲が、島根地域の狭い地域にとどまらず、今まで以上に大きな勢力を 誇っていたことが明らかになってきた。今までも大和や和歌山の熊野に出雲文化の 痕跡が認められていた。山陰から瀬戸内、近畿に至る範囲がその勢力範囲であったとみるべきである。 後から大和へ向けて進軍した九州勢力が、瀬戸内海の覇権を納めつつ大和へ入ったものであろう。 ここで紀氏水軍がその主力となったと思うのである。 私が、紀氏に興味を持つようになったのは約20年ほど前に遡る。 NHK和歌山が特別番組として「古代紀氏水軍」(タイトルは私の記憶間違いかも知れません) を放映したときに始まる。内容は紀氏が古代水軍として名を馳せた後、農業に基盤を、 置くようになり、平野部にあった海の神をお祭りしていた「伊太祁曽神社」を今の山村部へ移し、 その後に「日前宮」を置いた有名な社地交代劇の話であったと思いますが、古いことなので はっきりとは覚えていません。何しろ当時、まだ紀氏という言葉すら知らなかったのですから。 しかし、これ以降、私の記憶の中には紀氏という言葉がはっきりと残りました。 また、私が小学生のころに、母が世界の童話全集を与えてくれた中に、日本神話の本が1冊あり 一通り読んでいました。このことがなければ、この年になってから、日本書紀や古事記の世界には 簡単には入れなかったと思います。 最近の古代史ブームの影響を受けたわけではないのですが、改めて記紀を読み直し、 紀氏に関する本を読んでみて、私の郷土において、このような壮大なドラマがあったことを知り、 ホームページで紹介させていただいた次第です。 |
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