紀氏・・・強力な水軍を擁した謎の古代豪族 xxxxxxxxxxxx 2002.5.1 寺本東吾
2007.3.14 改定
和歌山市内の大きな書店に行くと郷土の歴史のコーナーに「紀氏」に関する書物が見られます。
その中で、特に次に挙げる2冊はお薦めしたいものです。


1.「
謎の古代豪族 紀氏 - 紀伊国がひかり輝いた時代 編集:(財)和歌山県文化財センター 発行:清文堂出版(株
2.「
紀氏は大王だった - - - 消された邪馬台国東遷と紀氏東征」 日根輝己著  燃焼社

それぞれ、この謎の古代豪族について違った視点からのアプローチですが、いずれも並々ならぬ熱い情熱を注ぎ、
再び歴史の表舞台に 「紀氏」を登場させようという強い意志を感じるのです。
そこに書かれていることを、私なりに解釈し、まとめてみました。

 制海権を確保すること。
 それは良き津(港)を確保することでもあります。
 大陸や朝鮮半島に船団を送り込み、先端の技術を日本に持ち帰るという重要な任務。
 この国が単一の国家として成立した当初から、大和の玄関口とも言える紀ノ川河口に勢力を
張っていた紀氏は、同時に強力な水軍を有し、この任務に当たっていたようです。
 卑弥呼の女王国から大和朝廷に政権が移行するまでの、謎の3〜4世紀の期間は大阪湾には
まだ港が十分に整備されておらず、 一方この和歌浦に注ぐ紀ノ川の河口(紀伊津)は、天然の良港
として機能していたのです。
 5世紀前半には、紀伊津の北の丘に巨大倉庫群が建ち並んでいました。(鳴滝遺跡)これは、米倉
ではなく、貿易に関わる文物の一時収納庫とみられ、その巨大さは朝廷と紀氏の威信を示す効果が
あったと思われます。
 紀氏(きうじ)は、この和歌浦からやがて大阪湾を含むベイエリア一帯の開発と支配を進めていきます。
 5世紀末になると、有名な難波津や堺大津の港が開港していきます。
 この時代まだ帆船はなく、手漕ぎのボートのようなものだったのですが十人を越える漕ぎ手を擁して、
大陸まで航海するのならば、途中に何ヶ所もの水、燃料、食料の補給基地が必要になります。
 紀氏も瀬戸内海沿岸や九州の要所を一族で押さえていたようです。

 紀氏のこうした広範囲な活躍を示す、残された考古学的資料としては、
ss
1.
紀伊津の北に位置する鳴滝で発見された上記大倉庫群がある。
   
5世紀前半の倉庫群としては、他に類を見ない規模て゜、発見当時、大変な話題になったようである。
   ( → 専門家の見解) )
   古墳時代の倉庫は従来10〜20m2のものが一般的であるが、ここ鳴滝遺跡のそれは、はるかに大きく、
  全部で7棟の倉庫跡が発見されたが、1棟あたり実に61.6〜80.8m2にも達している。
   この発掘の2〜3年後には大阪難波津跡からも、100m2サイズの倉庫が16棟という大規模な
  倉庫群が発掘された。こちらの方は5世紀末と推定されている。
   古代には、大陸(朝鮮半島)との交易のルートとして、日本海を渡る道、北九州から瀬戸内を通る道、
  太平洋を通り紀伊水道を登る(南海道)の3つのルートがあったと考えられる。
   紀伊津は瀬戸内の道と南海道の道の起点であり、上記倉庫の発見は古代の紀伊津の重要性を
  証明するに余りある発見となった。
   鳴滝遺跡の倉庫群は5世紀前半とみられ、難波津に先行する形で存在していた点が、ポイントとなる。
  やがて5世紀後半になると、瀬戸内を通るルートが一般的になり、難波津が一大集約港としての重責を
  担うことになっていく。 
  
2.
和歌山市大谷古墳から出土した、馬胄(馬かぶと→写真 )がある。
   朝鮮半島南部からもたらされた物で、日本で最初に発見されて大いに話題を呼び、現在でも2例しか
  見つかっていない。一方朝鮮半島では南端の伽耶(かや)からは集中的に発見されており、紀氏の朝鮮
  半島との交易を直接示す、貴重な資料となっている。
   もうひとつの馬冑は、遠く離れた埼玉県の「さきたま古墳群」の中の将軍山古墳から出土した。
   ところが、ここでまったく無関係と思われた埼玉と紀州を繋ぐ接点は意外なところから現れたのである。
   「さきたま古墳群」の中で最初に作られたという稲荷山古墳から出土した「
稲荷山鉄剣」の銘文の解釈を
  巡って種々の説が現れたが、その中で、鉄剣の製作者を「記ノ乎獲居臣」と解釈した、つまり姓を「記」名を
  「乎獲居臣」と初めて解釈した東洋史学者の
宮崎市定氏の説は説得力がある。
   宮崎氏によれば、当時「記」と「紀」は同じ意味で使われており、記ノ乎獲居臣は紀ノ乎獲居臣と考えても
  差し支えない。さらに「常陸風土記」には「筑波の県は、古くは紀ノ国と謂う」とある。 筑波は今の茨城県で、
  埼玉とも近く、さきたま古墳群と紀氏との関係が読み取れる。 言い換えれば、当時紀氏は東国まで勢力範囲を
  伸ばしていた可能性を示唆している。

3.
同じく大谷古墳の石棺が、遠く熊本の「阿蘇溶結凝結岩」で制作されていること。
  紀氏が九州との交流があったことを示す。

4.
和歌山市車駕之古址古墳で出土した金の勾玉がある。
  
これも日本ではただ1例の出土となっている。類似のものは朝鮮半島では広く見つかっている。
  

なぜ、大和朝廷が生命線とも呼べる河川を含む制海権を一豪族の紀氏に委ねたのか?
調べれば調べるほどに、畿内に接する田舎の一豪族が、大和朝廷の指令のもとに、 港を整備し
大陸との交易にあたっただけとは、考えにくいのです。
国が統一され、環境が整ったから、あるいは朝廷から指示を受けたから、「これから我が紀氏は
水運を生業とするのだ」などと悠長なことをいっている氏族ではとうていないのです

それは、かれら紀氏は、3〜4世紀の謎の時期に、実は建国に大いに関わっていた大豪族であった
からかも知れないのです。それは、次のページで紹介していきます。

やがて、6世紀に入ると紀氏は中央の政治界(大和)で活躍する紀臣(きのおみ)と、紀伊の国造として
地元和歌山の地方官として活躍する紀直(きのあたい)に別れていきます。紀臣はやがて紀貫之の
ように貴族化そして文人化していきます。






鳴滝遺跡の発見に寄せる専門家の見解
 
   ・貿易倉庫ではないか。これだけ巨大な倉庫を持っていた紀氏は、大和政権支配下の一豪族というより、それと、
    対等の力を持っていたと考えられるのではないか。大谷古墳と関連づければ、紀氏は朝鮮との交流権を一手に
    握っていたとみることもできる。

                                              ( 同志社大学  森 浩一 資料3)
  ・建築史上の画期的な発見だ。倉庫ぐらいしか考えようがないが、規模が大きすぎて戸惑っている
                             ( 京都府埋蔵文化財調査研究センター  福山敏男  資料3)

  ・ 紀氏と大和朝廷との結合は極めて特殊なもので、互いに依存しあう関係にあった。ところがその紀氏活躍の遺構
   はこれまではほとんど隠滅して見るを得なかった。しかし、私は何等かの形でそれが再び世に現れることを期待して
   いたのであったが、(省略) 千数百年前の遺構の一つをまざまざと見ることが出来るのは、一研究者として無上の喜
   びである。  
  
                                                            
 ( 宮崎市定  資料5)


馬冑  (重要文化財  文化庁所蔵 和歌山市立博物館保管)

その他の参考資料
   資料3
  「日本の遺跡発掘物語6古墳時代U(近畿)」より「鳴滝遺跡と大谷古墳」溝上 瑛 (→写真) 
    資料4  「謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本」    宮崎市定著  中公文庫(→ 写真)
   資料5  「古代大和朝廷」                   宮崎市定著  中公文庫(→ 写真)


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