白隠禅師
 (1685~1768)

「大悟十八度、小悟数知らず」
白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。
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    私は白隠禅師の坐禅和讃が好きで唱えない日はない。
 仏法の本質を見事に表していると思っているからである。

  白隠については、原田祖岳の著作で
     白隠禅師坐禅和讃講話
     延命十句経霊記験

   で触れているが、後者の叙述が余りにも饒舌で、私の白隠理解とかなり違うので、この人をもう少し理解したいと思い、積読の下記の二書をひもどくこととなった。

   2024・8・12

    

ウィッキペディアを参考に:
   白隠年譜
  • 1686年 (1歳)駿河の原宿で生誕。幼名岩次郎
  • 1700年(14歳) 地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家する。沼津の大聖寺息道に師事する。
  • 1703年 (17歳)清水の禅叢寺の僧堂に掛錫するが、禅に失望し詩文に耽る。雲棲祩宏の『禅関策進』によって修行に開眼、諸国を遊方する。美濃(岐阜県)の瑞雲寺で修行。
  • 1708年 (22歳)越後(新潟県)高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州(長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる。
  • 1710年 (24歳)京都の北白川で白幽子という仙人に「軟酥の法」を学び、禅病が完治する。
  • 1716年(40歳) 諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷。
  • 1763年( 77歳)三島(静岡県)の龍澤寺を中興開山。
  • 1769年 (83歳)松蔭寺にて示寂。

  
     芳澤勝弘『白隠禅画を読む』ウエッジ 2012

 白隠の残した禅画、戯画を美術としては、あまり好きではないが、これを糸口に白隠に接近できるのではと、買い置いたものである。沢山の画像が一部カラーでも掲載されているが、よく見れば、その筆の運びには迷いがなく、画力というものも身に着けておられる。

序章 広く親しまれている「『坐禅和讃』が、白隠禅の核心であるように考えるのは、いかがなものかと思います。」と、その理由を述べているのに衝撃を受ける。
著者は、四誓願の実践、「上求菩薩」「下化衆生」を白隠の本質と見る。

第一章 白隠漫画
  画と賛、画は見ればわかるが、賛は何を意味しているのか分からない。これを当時の流行歌、狂言、謡曲などの江戸の庶民文化の知識で読み解いて行くのである。解説が無いと何のことかわからないし、何時、誰かに書き与えたものだが、どんな状況で作られたものか分からないので、何のことか分からない。

  一例を挙げれば、右図の左側に画は、人が、鳥刺し竿で、上の木の草鞋を取ろうとしています。左の賛は「ばかやい そりや鳥ではない、わらじだわやい」と画の外から子供が叫んでいるらしく、右の賛には「なんでもはいてくりよと思うて思うて」とあります。 この絵に著者は6頁咲いているのですが、男の台詞が、狂言「鴬」の文句を踏まえている、片方の草鞋は達磨大師の隻履の故事を表しており、この画は、達磨の宗旨を得よう、見性しようとする姿を現していることになります。
  これは比較的分かり易いの意味不明のものが殆どです。一種の謎解き、公案として与えられたものでしょう。


第二章 白隠禅画のキャラクター

  布袋ー
大道芸人の姿で描かれといることが多い
      
メビウスの環花話も出てくる。
  お多福美人 ―お多福の由来から始まる。
  鍾馗 ー邪気を払る力を持つという。
        
本書表紙の画は、煩悩を断ち切るための絵

 
いずれも白隠の化身、自画像であり、分かり易すく面白い。
 衆生済度のために描かれていることがわかる。(他の絵も同様であるが・・・)

第三章 文字絵の意味
   
「へのへのもへじ」のように字を崩して絵にするやり方であるが、テーマに菅原道真(天神様)と柿本人麻呂が取り上げられているのが興味深い。純和風のものも禅の世界に引き入れ、民衆に近づけようとしたようだ。(右欄図参照)

第四章 白隠禅画のモノ
   
擂鉢、盆山、茶釜、唐臼

第五章 富士山と鷲頭山

   
四、五章すばらしい解説で納得。

第六章 軸中軸と劇中劇

第七章 方便・からうそ・おもちゃ

第八章 「心」を描きあらわす

  この章は唯識や禅を少し齧った者には分かり易い。特に観音図はよく分るのだが、どうして白隠はこんな細密な絵を描いたのだろう。絵描きとして楽しむためだろうか?

おわりに ー 私と白隠

  どの出会いから、白隠自筆刻本集成の話、禅画墨跡の調査へ進む。5年かけて4000点を調査。1050点に絞って、『白隠禅画墨跡』3巻にまとめる。
 著者の思想的な遍歴は述べられていない。そもそも強烈な求道の気持ちがあったわけでもない。
 白隠研究の基礎資料を纏ま画られるのにご苦労され、膨大な資料が後世の我々のために残された。

読後感

  白隠の残したおびただしい禅画は今の人が見てもほとんどが意味不明であろうが、著者の探求によって、明快になったものが多い。当時の文化の広い知識と白隠禅への深い理解があってはじめてできることである。すばらしい謎解きなのであるが、求道とか見性に無縁の人には、これでも理解できないだろう。
白隠から絵を貰った人は、その謎解きに迫られる。一種の公案のようなものである。
読む前に多少の抵抗感があった白隠の絵にも、読んだ後では、親近感生じるようになった。

  2024・8・18
 


左:鳥刺し図 右:来信図


渡唐天神図

  
   『禅林法話集』有朋堂 1925(この本を買うのは2度目)

  この本には、一休、沢庵、白隠が納めれれている。
 白隠は次のものが収録されている。


 夜船閑話」
    
白隠が禅病を患い、白幽子の下に救いを求めて行った時の話。宝永7年(1710)白隠24歳?本書は30年後の書かれている。有名な「軟酥の法」が出てくるが、全編広範な囲哲理が散りばめられている。
     2024・8・24


   
「遠羅天釜」

巻之上 鍋島摂州侯の近侍に答える。
  40頁延享5年
 
禅の要諦を縦横無尽に説く。
  
枯坐黙照を戒める。
  実生活の中の禅。

 一人の人に当てた書簡にこれだけ多くの言葉を費やした白隠に脱帽

   2024・8・27


巻之中  遠方の病僧に贈る
  14頁
  
病苦にあたり、それを契機ととして、さらに、正念工夫して、大悟、病苦を克服した事例を、数例挙げる

おうよそ辨道工夫のため、病中ほど良き事あるべからず

 
最後に「軟酥の法」を説く。

  2024・8・28

巻之下  法華宗の老尼の問いに答える。
  34頁、後半漢文

  自心の参究を各方面から説く。
無念、無心に、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えるべし。
  延享4年

  同僚のためにと、以下漢文。


「遠羅天釜続集」


   「辺鄙以知吾」
   「さひ藻草」