ラフカディオ・ハーンのシェイクスピア論(2) (1)へ | Topへ | |
私はハーンの8、9の文章を読んで、この箇所だけでも皆さんに伝えたく訳そうと思いました。約20年シェクスピアを読んできて、いつも端役が面白いと感じていたからです。 | ||
|
||
8. シェイクスピアの多才さの別の実例は、彼の端役たちに見ることができるだろう。 ー 劇に登場する道化、悪漢、召使い、守衛たちのことだが。そのような人物は従属的で、ステージに上がるのは殆どはとても短い間なので、シェイクスピアはこの場合単なる紋切型(mere
types)で済ますだろうと思うかもしれない。しかし、決してそんなことはない。これら人物のうち最も小さい者でも、どんな主役級の人物と同様に、明らかに生きて(alive)いるのである。チョンの間舞台に現れて、2,3こと喋って退場する人物がいる。それさえ彼らは、シェイクスピア悲劇の主役と同様に独創的(original)なのである。どうしてそれが分かるのか?次のように言ってもナンセンスとは見なされないだろう。ほんの短い間登場して、その声は町の通行人の声のような人物でも全く完成された劇的キャラクターとして、我々の前に登場させることは可能である。 9. これを説明しよう。シェクスピアは、どんな人物でも、一言発するだけで(by the utterance of a single phrase)でどんな役でも表現することができる。君たち自身の生活の中でこれに関係ある経験を考えてみてください。君たちのほとんどがそんな経験を持っていると思う。我々はあるお偉いさんに出合って、単なる知人として話し、彼らが敵であるか友であるか、彼らについて特別な見方をしない。ある日、彼らの誰かが驚くような意見(observation)を言うと我々は考え始める。その一つの意見で、それを言った人物との関係を変ってしまう。その変化は良い場合もあろうし、悪い場合もあろう。それ以降、もっと好きになったり、もっと嫌いになったりするかもしれない。何故か? わずかに話された言葉がその人物の本性を我々に開示しているという単純な理由からである。 シェクスピアは、ある人物を短い時間舞台に上げる場合、まさにそのようなやり方でその人物に喋らせてる。 その人物が話す片言隻句で我々は即座に彼の精神構造(moral compositions)を全て理解できる。だれも年を取るまでシェクスピアを十分には理解できない理由はシェイクスピアの言葉のほとんどはこの種のものであるからである。- 彼の人物の話すことは性格の開示なのである。 37作品全部がこんな言葉で作られており、人はいくら年をとっても、シェイクスピアの人物たちが述べている経験をすべて理解できるほど、この世で十分な経験を積むことはないであろう。言葉の意味を理解してもシェクスピアを理解できない。常に意味は言葉より比べられないほど深い。子供も物語を楽しむため読むことができる。しかし、知的訓練があり、人生の豊富な経験のある老年者のみがシェクスピアの中にある人間の性(human nature)を読むことができる。 どの劇もそれを不滅にしているのは劇の筋(story)ではない。- 筋が面白いとしても。それは劇の構成でもない。- それが優れているとしても。言葉の詩的技巧でもない。- それが驚くべきものであるにしても。それは生の事実の表現として、話されたりなされたりするすべての事柄の心理的意味なのである。 2020・4・5 |
||
|
||
10.シェクスピアは若者には十分には理解されることはないのだが、彼の作品の大部分は、彼自身が若者であった時に書いたのである。教育もない若者の作品が、経験もあり、高度な教育のある老年者にして、はじめて十分理解されるという不思議な事実は何なのか? 天才と並みの人(the ordinary mind)には差であるということだ。並みの人はただ学習と経験によってのみ知識に到達する。天才は直接、直観的に、学習によらず、同じ知識に到達する。その筋道、方法は並みの人間にはその性質を想像することは出来ない。彼の作品が何百人という先人の記憶のように見えるのは、シェクスピアのこの種の天分によるのである。彼は、彼のドラマに反映している何百という人物全部に会うことは出来なかった。彼の個人的な経験はそれほど広範囲なものではなかった。だから、作品は直観(intuition)の働きによるのである。- しかし、直観とは何か?勿論、我々はそれを知的本能(intellectual
instinct)と呼ぶかもしれない。しかし、知的本能とは何か? どんな本能も今では「有機的記憶」(”organic memory")と定義されている。(スペンサーの用語) 有機的記憶は特殊な心的傾向や能力が遺伝することを意味する。シェクスピアの直観は、だから、ある種の知的有機的記憶である。この世に、ある程度同様の才能を持った人がいたかも知れないが、我々の知る限りでは、シェクスピアの持ったような形でその天分を持つものは近代ではいなかった。 シェクスピアの知性(mind)は、他の知性の上にそそり立っており、巨木が、草の上にそそり立っているようである。 11. これからシェクスピアの演劇作品について出来るだけ手短に話そう。 申し上げたいのは、私は確信しているのだが、作品の制作日付や、上演史、また、シェクスピアの特殊研究で書かれているような無味乾燥なことに、君たちは頭を使う必要が少しもない、ということだ。少なくとも今のところはない。 君たちが最初にやるべきことは、ただ読む楽しみのために劇を読むことであり、好きになるようにすることである。しかし、もし君たちが人が学校のテキストを読むように ー すべての言葉の意味を、用語集や辞書やシェクスピア文法を用いて調べながら、読むようなら、好きになることは出来ない。シェクスピアを読み始めるには、研究しては駄目。それは始め方が間違っている。初めのうちは、すべてを理解しようとしないこと。 難しい所に煩わられず、やり過ごせ。 直ぐに理解できないことは皆飛ばしなさい。それでも劇の筋の運び(action)が分かるようになり、言わんとしていることが大体分かってくる。そうすれば君たちは魅力を感じるようになり、魅力を感ずればもっと知りたくなるだろう。文法や辞書なしに、細部を理解しようなんてしないで、シェクスピアを全部読んだら、その時、君は、最も興味を引き、長く楽しんだ作品を研究する準備ができたことになり、何から始めても大差ないと思う。-君の本の好みが良いガイドである。 しかし、最高の文学の基準に従って、劇を分類して、若干の助言をしておこう。 2020・4・6 |
||
|
||
12.シェクスピア劇は悲劇と喜劇と、悲劇でもなく喜劇でもなく、両者の組み合わせのようなドラマから成っている。 というのは、シェクスピアは、すべての因習を破り、古典芸術のルールに従わす創作し、彼に最も効果的と思えるやり方で組み立てているからである。シェクスピアの用いている喜劇という言葉も広い意味を持っていることも理解しておかなければならない。我々は喜劇といえば、楽しいとか、愉快だという概念を含んでいると考えがちであるが、シェクスピアの喜劇のあるものは、とても怖く、悲劇のように恐ろしい。Measure for Measureはその良い例である。シェクスピアの場合は、次のような明確な区別があるある。即ち、彼の喜劇は死で終わらす、彼の悲劇はいつも死で終わる。申すまでもないことだが、これはドラマについてのギリシャ人の基準には沿っていない。 13.しかし、他に申し上げるべきことがある。それは、ギリシャ人は悲劇を喜劇の遥か上位に置いたが、その点に関しては、シェクスピアの悲劇はギリシャ人の理念と合っている。彼の偉大な悲劇は、彼の偉大な喜劇より遥かに優れたおり、彼の4つの悲劇は、どんな言語で書かれた悲劇の中で最高のものである。その4つとはOthello,Hamlet,Macbeth、King Learである。 14.シェクスピアを読むのに、これら(*4大悲劇)から始めるべきだろうか?それは読者の性格や能力によると申し上げたい。ある者は怖く、恐ろしいものは嫌いで、ある者は、美しく、優しく、楽しく、幸せなものにより喜びを見出す。勿論、4つの悲劇は皆読まれるべきだ。それについては疑問はない。問題は何から始めるべきか?学生にとって、最初に楽しいということがとても重要なので、悲劇の一つを最初に読むことをお勧めできない。悲劇が好きだと思っているなら別だが。 その場合どの悲劇を読むべきか?どれが最も偉大なのか?それは、King Learである。確かに恐ろしい物語であるが、これらの悲劇は皆恐ろしい。しかしながら、King Learの物語は、日本人の親に抱く感情から特に不快であるだろうから、Macbethを読むのがより良い選択かも知れない。 以上 2020・4・7 |
|
|
|
||
高木登さんから宮垣弘へ 『ラフカディオ・ハーンのシェイクスピア論』翻訳、 ちくま文庫の小泉八雲コレクション『さまよえる魂のうた』( <シェイクスピア戯曲の研究の最善の方法は、 <シェイクスピアを読む場合、 どんな作品を最初に読んだらいいかということに関して、 <『ハムレット』とか『ジュリアス・シーザー』のような作品は、 <研究のためにどんな作品を選んだらよいか> 最後に<シェイクスピアほど研究に値する作家は、 宮垣から高木登さんへ、 ハーンのシェクスピア論お教えいただき、 池田雅之編訳 がどんな本から訳出されたものか、 高木登さんから宮垣へ ちくま文庫のあとがき、編訳者の池田雅之の解説によれば、 訳出にあたってのテキストは主にアースキン教授が編纂した『文学の解釈』1,2巻(共に1915年)と『人生と文学』(1917年)で、「シェイクスピア再発見」は前者で、Note on the Study of Shakespeare (Interpretation of Literature,Ⅱ, 1915)となっています。 2020・4・10 |
||
|
||
ハーンの東大での講義模様
ラフカディオ・ハーンハーンの東大の講義を簡潔に示す文章がありますので、訳出しておきます。 A History of English Literature 第5版(1941年)のPreface より 序文 ラフカディオ・ハーンハーンは1896年9月から1903年3月まで、東京帝国大学の英文学の講座を担当した。彼は週12時間教えた。 - 5時間をミルトン、テニスン、ロセッティなどの講読、4時間を文学の様々なテーマの講義、3時間を英文学史の講義に充てられた。 3年間コースで、東大での7年間の間に、このコースは2度行った。この本は、2度目のコース、1900年9月から1903年3月、に出席した学生(*田辺隆次と落合貞三郎)のノートから編集したものである 講義に当たって、ハーンは、原稿を持つことなく、小さなノートをポケットから取り出して見るだけだった。このノートには日付とタイトルが走り書きされていた。(*写真左) 学生たちは先生の話を注意深く聞き、長い言葉を、しかも、全部、一語一語書き取ることに努めた。(*ハーンの話し方も学生が筆記しやすいようにゆっくりしたものと想像される。) なお、下記論文がネットで読むことができます。。
|
||