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   、日本語は世界に誇れる言語の一つであると思っているが、言語としての唯一の問題点と思うのは、漢字の読みなのである。
「国語文法」「日本語文法」との乖離も気になる。
 

  
 
振り仮名・ルビ

細々と20年、外国人に日本語を教えてきて、日本語は世界に誇れる言語の一つであると思っているが、言語としての唯一の問題点と思うのは、漢字の読みなのである。非漢字圏の人は、漢字そのもの習得が日本語学習の一つの壁になっていて、やっと、漢字の音読み、訓読みを覚えても、文中で出合って、どちらで読んでよいかわからない。、
例えば:「昨日私達二人は銀座へ買物に行きました。」日本人なら「きのう わたしたち ふたりは ぎんざへ かいものに ゆきました。」と簡単なのだが、昨日を「さくじつ」と読むか、「きのう」と読むかわからない。二人がなぜ「ににん」でないのかも分からない。
文字と発音の関係の不合理な(不可解な)結びつきは、何も、日本語に限っていない。英語は最たるもので、スペルの通り読まないのが英語というものと、一種のあきらめが生じ、慣れていく。日本語の漢字の読みもそれに似ているが、その程度が大きく、2字以上の熟語には、標準的な音読み、訓読みの知識では絶対読めない語も多い。何十年も日本語の世界で暮らした日本人でも読めないものも多く、漢字検定なるものにも人気がある程である。
外国人のために(日本の子供たちのためにも)漢字にルビを振った読み物が多く欲しいのである。そうすることによって、和漢混合の日本の言語に親しんで行く。明治の頃の新聞が総ルビであったこと思いだして欲しい。今は、小学生新聞に総ルビが振られている。仮名さえ読めれば、読めて、辞書も引け、また、読んでいるうちに、漢字に親しんで行く。
『怪人二十面相』を例に引くと、写真は昭和11年初版の一部で、これには総ルビとなっている。これが良いのである。一方、現在流布されるている、たとえはポプラ社版(2005年)では、該当の箇所では:決して、十分、殊に、お巡りさん、捕り物、茂みの中、駆け上がる、塀、取り巻き、梯子、持ち出す、がすべてひらがなで表記されている。漢字を減らして易しい読み物と思わせるためなのであろうか?
児童や外国人に日本語を広めようとする人に、漢字の使用は通常の日本語文通りとし、振り仮名を振った読み物を増やして欲しいのである。

なお、漢字の習得に時間がかかることから、その使用を制限する動きが、敗戦後の国語政策のようであるが、その可否についてはここで議論しない。また、振り仮名は、それを言語遊戯的に使うことを含め、長い歴史を持ち、今も盛んで、これを見てゆくと、ユニークな日本語世界が浮かび上がるのだが、これもFBで扱うには大き過ぎるテーマである。

  • 大西 小生 少年マンガは総ルビなのが外国人には良いようですね。言語遊戯的なルビも多いですが。
  • 宮垣弘 漫画は素晴らしい教材ですね。正しい日本語を使ってほしいですが・・・
 
 

  
   2015年9月9日

原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』講談社現代新書 2012

  日本語を外国人に教える仕事をしてみて、悩まされるのは文法に2種類あるということであった。一つは、我々が学校で習った「国語文法(学校文法)」で、品詞分解や、活用形(未然、連用、終止、仮定(已然)命令)といった体系である。他は、外国人に日本語を習得させるために発達した「日本語文法」である。外国人には最初は文法を教えることなく、文型を教え、これを積み重ねることによって話せるようにする。その中で規則性をとりだしたのを「日本語文法」と言う。この文法は『象は鼻が長い』で有名な三上章から始まった考えが、日本語を外国人に教える教師に支持され発展してきたものである。その特徴の一つを挙げれば、日本語には主語がいらないということであり、学校文法と大きく異なる。
  日本語を教えて分かることは、「学校文法」はほとんど役立たないし、こんなのを教えていたら、日本語がしゃべれなくなってしまう。大方の日本人が英語をしゃべれないのは、文法に気をとられ過ぎるからで、外国人に日本語を教える場合も、余り文法を意識させずに導入するのが良いのだが、それをリードする教師の方はその規則性が理解していなければならない。本書はその「日本語文法」のエッセンスを見事に要約して、読みやすい一冊にまとめ上げている。日本語に興味の日本人にもとても楽しい読み物となっている。(文法学者の論争など紹介しないところが良い)
  「来た」「行った」などの形を「タ形」と呼び、一般には過去を表すのに用いられるが、他に様々に用法があることを自覚するだけでも面白いし、また、「来て」「行って」などの形を「テ形」と呼び、日本語学習初期に学ぶのであるが、この「テ形」の豊かな用法を示しながら、本文を終えている。
(なお学校文法は古文を読む際に威力を発揮するので、そのレベルに達したら、教える方が良いと思う。)