松村 恒 宮垣様
大分と前のご投稿の再掲のようですが、いろいろと示唆に富む文章です。
聊斎志異の講読をずっと続けていらして、その実績が背後の裏打ちをしているのではと想像しました。
私は中国語を学び、漢詩が音読されているのを知って、普通話音での音読を始めました。(しかしこの考えは間違いではないにせよ、万能ではないことにのちに気付きました)
台湾では、幼年青少年向けの本には、注音字母がついていて、ピンインとはちょっと違いますが、自分で発音調べをしなくてすむので、安価なこともあってしこたま買い込んで、練習しました。
しかし訓読法は国語学の重要な一部であることを知り、あだやおろそかにできないとも思い始めました。
しかし自分で、中古時代の漢文受容のさまを探るにあたり、音読一辺倒を、今度は逆に捨て去りました。『金言類聚抄』の解読を通じて、たとえば今昔物語集などの和漢混淆文があらわれてくることを思い、先人が編み出した訓読法に深い敬意を持つようになりました。
なお訓読みたいな漢文読解法はウィグルにもあります。
また明治時代のある時期には、英文が訓読されていました。
こうした諸事情を考え合わせると、倉石武四郎博士のように、訓読を玄界灘に投げ捨てた、とばっかりいってもすませられないような気がします。
宮垣様の御文章は (1) とありますので、是非続きも再掲してくださるよう、お願い申し上げます。
大分と前のご投稿の再掲のようですが、いろいろと示唆に富む文章です。
聊斎志異の講読をずっと続けていらして、その実績が背後の裏打ちをしているのではと想像しました。
私は中国語を学び、漢詩が音読されているのを知って、普通話音での音読を始めました。(しかしこの考えは間違いではないにせよ、万能ではないことにのちに気付きました)
台湾では、幼年青少年向けの本には、注音字母がついていて、ピンインとはちょっと違いますが、自分で発音調べをしなくてすむので、安価なこともあってしこたま買い込んで、練習しました。
しかし訓読法は国語学の重要な一部であることを知り、あだやおろそかにできないとも思い始めました。
しかし自分で、中古時代の漢文受容のさまを探るにあたり、音読一辺倒を、今度は逆に捨て去りました。『金言類聚抄』の解読を通じて、たとえば今昔物語集などの和漢混淆文があらわれてくることを思い、先人が編み出した訓読法に深い敬意を持つようになりました。
なお訓読みたいな漢文読解法はウィグルにもあります。
また明治時代のある時期には、英文が訓読されていました。
こうした諸事情を考え合わせると、倉石武四郎博士のように、訓読を玄界灘に投げ捨てた、とばっかりいってもすませられないような気がします。
宮垣様の御文章は (1) とありますので、是非続きも再掲してくださるよう、お願い申し上げます。