私のギリシャ  Topへ
   失われた時を求めて

古典ギリシャへの憧れは、すべて翻訳に拠った。
ギリシャ語にはちょっと試みたが頓挫した。
冠詞の変化が暗記できないようでは、前に進まない。
 

  
   レーヴィ希臘彫刻史』原隨園訳 創元社 1942

  私のギリシャへの憧れを辿って行くと、この本に行き当たる。高校時代、この本の写真を何度見たか知れない。
  この本の後ろ半分は300を越す大小の写真で、これを繰り返し眺めたのである。
  本文を読んだ記憶はない。

 ギリシャ文化の高さが如何なるものであったか、直観的に分かった。人類がこのレベルにもう一度達するには、15世紀のイタリア・ルネッサンス最盛期ミケランジェロの時代まで待たなければならない。
  私は、ここに、少なくとも美術の黄金比があると思った。

  懐かしくなって、ネットの古本屋を検索したら、やはりあって、昔のママの姿で入手できた。



 清明というのが、一番の印象で、文化を理解するには、言葉を必要としない。
  日本語を解さない外国人んが日本美術を通じて、日本文化に接近するようなものである。

 しかし、これがベースに、ホメロス、プラトンへと誘われ行った。
 多くの西洋人がギリシャ古典を自分たちの文化のルーツにしたい気持ちがよくわかる。

 本文の方には、原隨園による「希臘の歴史と文化」という小論文もついていて、いつか読んでみるつもりである。

 2022・7・11

  ギリシャ彫刻の写真を見ながら、ギリシャ文化の真髄のようなものを汲み取ったという経験を思い出して、ヨハネ福音書の「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉が神なり」Logosロゴス、言葉、というものを見直す必要を感じた。
言葉を通じなくとも良い世界が、その前にあると。

 2022・7・16
 

  
     『 ギリシア抒情詩選 』 呉茂一訳  1938

 当時、高校生の私が手にしたのは、薄い岩波文庫であった。

  花さうび
  花のさかりは
  ひとときか。

  過ぎされば
  尋ぬれど
  花はなく、
  あるはただ茨のみ
。     
               ― 読み人知らず


    ・・・・
  野路草は
     露が育てる
  月と空との
     子だといふ
   ・・・・・

              ―アクレマーン


 こんな、墓碑や碑文の断章を訳した呉茂一の訳文に、ギリシャへの思いを馳せた。

  
  この岩波文庫は増補され、更には、
    『ギリシア・ローマ抒情詩選』となって、現在も生きているようである。

  呉茂一の訳文に惹かれ、『イリアース』 『オデッセイア』
へと続く。
  

   2022・7・13
 


  
   イリアス
オデッセイ
 

  
   ギリシャ悲劇  


   プラトン