川端康成『雪国』を読む。 | Topへ | |||||||||||||
この作品は、男性が読むと島村、女性が読むと駒子(または葉子)になって読むだろうから、読後感は大きく違うだろうと思う。 川端は、島村は自分ではない、また、駒子の悲しみは自分の哀しみだとも言っている。 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
10年以上前、 私はイギリス人フィリップさんと『雪国』を,日本語のレッスンの教材として、1年半以上かけて読んだことがある。 日本語を教える者としては、生徒が翻訳してくれると、彼がどこまで日本語の理解が出来たかよくわかって、教えやすい。 その時ことを思い出して記録に残したいと思う。 フィリップさんはその時までに10年ぐらいの日本語学習歴があり、私とは『天の夕顔』(中河与一)、『ビルマの竪琴』(竹山道夫)など既に読んでいる。 期間 2009・11・24~2011・4・27 週二回、一回1時間、1~2頁の進行 翻訳完了2011・10・20 2012・5・15 製本されたものを贈られる。 読み始めて2年以上かかっている。 |
左:新潮文庫(これを使った。解説:竹西寛子、伊藤整) 中:岩波文庫(川端康成の「あとがき」) 右:角川文庫(解説:澤野久雄、サイデンスティカー) |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
フィリップさんの翻訳、174頁 私家本で世界に3冊しかない。 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
川端康成は、まず、日本語の美しさを味わいたい。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」 主語を必要としない日本語独特の表現である。 ヨーロッパ語ではこんな芸当は出来まい。 サイデンステッカー 英訳 The train came out of the long tunnel into the snow country. Cheung 独訳 Jenseits des langen Tunnels erschien das Scneeland (長いトンネルの向こうに雪国が現れた) 抜けたのは、汽車か島村か、読者? フィリップさんは映画のカメラワークとして扱い Across the border through a long tunnel: the snow country. |
左:Edward Seidensticke r英訳 中:Tobias Cheung 独訳 右・叶渭渭渠 中文訳 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
文法好きの方に 「雪国であった」の「た」は単純に過去時制をしめしているのでありません、「た」という助動詞は、これが文語での「き、たり」のほか「つ、ぬ、たり、り、」を含んでいるので、過去、完了以外の意味を持っている。 寺村秀夫は叙想的テンスとして論じている。 『日本語のシンタクスと意味 Ⅱ』(くろしお出版) 付録 「タの意味と 機能」 |
日本語には主語が要らない。 日本語教師の世界では常識となっているが・・・ 三谷章『象は鼻が長い』『現代語法序説』(くろしお出版) 金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社) 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味』(くろしお出版) |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
異界への入り口としてのトンネル 桃源郷の入口が狭いように、また、アリスがウサギ穴に落ちるように、異界への入り口としてトンネルは相応しい。 島村にとって、(男にとって、また、読者にとって)異界漫遊の旅に出ているのである。雪国を異郷と見ると、そこからの帰路はこんな感じになる。 「島村はなにか非現実的なもに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれていくような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞こえはじめた。」83p この国では、すべてが瑞々しい。 「駅長さあん、駅長さあん」 これは後に「悲しいほど美しい」と表現された葉子の声である。英、独、中訳では上手く表せていない。 フィリップさん訳: ”Sta-tion ma-ster,Sta-tion ma-ster” 似た例:酔った駒子33p 「島村さあん、島村さあん」と、甲高く叫んだ。 「ああ、見えない。島村さあん。」 それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。 フィリップさん訳:右欄 雪国では、会話の言葉が、みな澄んで、生きている。 22023・1・15 |
”Mi-ster Simamura, Mi-ster Simamura." she called out in a high-pitched voice. "I can't see. Mi-ster Simamura." It was unmistakeablly the voice of a weman baring her heart and calling out to her man. |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
駒子との再会の場。 「あんなこと*があったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられとしか思えないだろうから、まず島村の方から詫びかいいわけを言わなければならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので・・・・」16p *新潮文庫版には注が付いている。 この半年の間に、島村と駒子はどんな思いで過ごしたであろうか?そして、今の心境は? それを忖度するは、文章の理解力ではなく、読む方の人生経験である。 人生経験といえば、これを書いた著者は、30代にしては、かなりの女性経験をした人物と思われる。 ちなみに「あんなことがあったのに」は サイデンスティカー訳:In spite of what had passed between them, フィリップさん訳:In spite of what had happened, |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
徒労 駒子が日記以外に、読んだ小説のことを、十五六歳から記録しているという話から;ー 「感想を書いとくんだね?」 「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出てくる人物の名前と、その人達の関係と、それぐらいのものですわ。」 「そんなもの書き止めといたって、しょうがないじゃないか。」 「しょうがありませんわ。」 「徒労だね。」 「そうですわ。」と女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。40p 島村は自分のやっているのもこんなことではないと思うのである。 徒労については新潮文庫版には注が付いていて、後に出てくる47pから83pの部分を最初に発表したとき、「徒労」という表題が付いていたこと、「徒労」の字句は12か所出てくる、とある。 私も駒子と同じようなことをしているのだが、果たして、徒労なのだろうか? 男女間の情念を描いていると見えるこの作品の底流には、雪国の冷気のようなものが流れていて、生きていることの意味まで問われている。 「無為徒食の島村は自然と自信に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをする」そんな男の物語なのである。 2023・1・19 |
左記の一部、英訳 サイデンステッカー訳: "You write down your criticisms, do you? " " I could never do anything like that. I just write down the author and the characters and how they are related to each other. That is about all. " "But what good does it do? " " None at all. " "A waste of effort." "A complete waste of effort," she answered brightly, the admission meant little to her. She gazed solemnly at Shimamura, however. フィリップさん訳: "Do you write down your impressions?, " " I can't write down things such as impressions. Titles and authors, and the names of characters that appear, the relationships between those characters , that sort of thing " "Writing down those kinds of things - there's not much point, is there? " " No point." "Tt's a waste of time." "That's right," the weman brightly, replied, unconcerned, but staring intently at Shimamura, . |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
駒子の魅力 『雪国』の魅力は、駒子という女性の魅力でもある。全編を通じてそれを表現しているのだが・・・ 例えば、駒子が島村の部屋で三味線の稽古をする場面; 忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。 (中略) だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。 勧進帳が終わるとほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。(中略) (中略) 細く高い鼻は少し寂しいはずだけど、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また、可憐に直ぐに縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下がり気味の眉の下に、目じりが上がりもせず下がりもせ酢、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼げだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたという、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しい皮膚は、首までほんのり上がっていて、なによりも清潔だった。 しゃんと坐り構えているのが、いつになく娘じみて見えた。 以下略 69p~72p 島村が駒子に惹かれたのは、美貌であることにもよるが、その清潔さ、凛とした自律性、自由さという性格による。 駒子も島村の中に自分の本性を受け入れてくれるものを見出したからである。勿論、島村は男性として惹きつけるものを持っていたのであるが・・・ |
ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった サイデンステッカー訳 Ah, this woman ie love with me -but he was annoyed with himself for the thought. フィリップさん訳 ”Ah, woman ie love with me .he thought, but felt miserable 「それがまた情なかった」の島村の感情をあなたは理解できますか? 英訳では、フィリップさん訳がよいと思いますが、凛としれ純粋な駒子の前で、自分が、みすぼらしく思えたのではないでしょうか? 駒子に似た人物像を最近読んだ、モームのCakes and Aleの中のロウジー見ることができる。 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
いい女 「君はいい子だね。」 「とうして?どこがいいの。」 「いい子だよ」145p 「君はいい女だね。」 「どこがいいの。」 「いい女だよ。」146p いい子はa god girl , いい女はa good wemamとしか訳しようがなく、サイデンステッカー訳もフィリップさん訳もそうなっているが、日本人にはもう少し含みのある意味を持っている。 素直で気立てのいい子、小股が切れ上がったいい女の用例でも分かるように、 いい女は、美しく、小粋で、気立てもよく、女性としての魅力をたっぷり持った女性のイメージである。 島村が、さらに絞って、女体の性的な魅力を指して言っているのではないか、と駒子は思ったことで、駒子は烈しく反応し、「悲しいわ。」といって部屋を出て行くことになる。 駒子の最も嫌なのは 男にに弄ばれているのではないかという思いで、「笑っている」という表現が何度か出てくる。たとえば、最初の出合のあと; 「あんた笑っているわね。私を笑っているわね。」 「笑ってやしない。」 「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくても、きっと後で笑うわ。」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。」36p 物語は、島村への信頼が深まり、 「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげていいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけど。」82p という所までゆくのだが・・・ |
いい男 島村がどんな男であったか? 駒子が惚れたのだから、きっといい男だったのだろう。 この判断は女性読者に委ねたい。 二度映画化されていてその時の配役は
私は、映像化せれたものは何も見ていない。 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
フィリップさんの『雪国』論 2年がかりで翻訳したフィリップさんはこの作品をどう見たであろうか? 翻訳には序文が付いていて、この作品についって、1頁費やしているが、前半は、舞台となった、新潟の風土について、また、作者が湯沢温泉に実際に行ったことなど述べた後、次のように言っている。 All of this comes across in the novel. But real story is simply the parallel lives of the main characters, and the distance between them. 私の意訳;以上のことは小説に出てくる。しかし、物語の本質は、単純に言えば、主人公たち(駒子、島村、葉子)の並行して流れる生と彼らの間の距離である。 lives は命、生命、生活、人生、一生、これがparallelというのは、並行して、交わらないが、対応して流れているという感じ。 そのdistanceは距離、隔て、遠近で、これは、男ー女、階級、境遇、嗜好、東京ー湯沢、心理的距離、日常―非日常・・・ これらの関係が、偶然とはいえ、燃えるような恋情をもたらし、彼らの生を照らし出したのであるが、フィリップさんはこの恋情には触れてない。 この小説に殆どプロットがないのは、主として川端が、プロットより、painting images, hinting at meaning and creating atmosphere に関心があったからだ、としている。 2023・1・25 |
フィリップさんは専ら日本語レッスンの一環として読んだので、作品論を闘わせたことなかった。 余勢をかって、引き続き、『伊豆の踊子』読んだ。これは3か月で読み終えている。 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
『雪国』のパロディ 昔、和田誠(1936-2019)が『雪国』の冒頭の部分のパロディを書いていたのを思い出して図書館から借りた。 『倫敦巴里』話の話題 初版昭和52年 13刷昭和56年 のもの。 全頁、パロディで、その中に『雪国』もあって、31名の著名人の似顔絵とその人なら、こう書く(言う)とだろうという、一種の文体模写で、一人1頁。 登場人物は昭和の香りのする人たちなので、名前だけでも記録しておきます。 庄司薫、野坂昭如、植草甚一、星信一、淀川長治、伊丹十三、笹沢佐保、永六輔、大藪春彦、五木寛之、井上ひさし、長新太、山口瞳、北杜夫、落合恵子、池波正太郎、大江健三郎、土屋耕一、川上宗薫、田辺聖子、東海林さだお、殿山泰司、大橋歩、半村良、司馬遼太郎、村上龍、つかこうへい、横溝正史、浅井槙平、宇能鴻一郎、最後は谷川俊太郎。 私は、和田誠を谷川修太朗『マザー・グース』4巻の挿絵、と彼自身の翻訳『オフ・オフ・マザーグース』で親しん着たので、例として、谷川俊太郎のものを掲げておきます。 2023・1・21 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
川端康成の自画像 1968年、ノーベル賞受賞の式典のスピーチ 「美しい日本の私」は、川端康成が、作家としての自分を公の場で示したもので、一種の自画像とも思える。 その自画像は、多くの先人たち示し、その日本文化の延長上に、自分もあるのだと言っている。 自画自賛とも、最大限の自己弁護とも取れる。 本文は: 道元禅師の歌 春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪きさえて冷(すず)しかりけり から始まって、以下 明恵上人 ー 西行 ー 良寛 ー 芥川龍之介「末後の目」ー 一休禅師 ー 維摩居士 ー 利休 ー 『伊勢物語』『源氏物語』など ― 女流歌人 ー 明恵・西行 これらの人の歌などと日本文化に触れ、最後、西行法師のことばとして 「吾またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。」を引き、 「日本、あるひは東洋の「虚空」、無はここに言ひあてられてゐます。私の作品を虚無と言ふ評論家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思ってゐます。道元の四季の歌も「本来の面目」と題しておりますが、四季の美しさを歌いながら、実は強く禅に通じたものでせう。」 と終わっている。 このスピーチの中には、16もの和歌が引用されており、、川端の文章は、和歌を長く引き延ばし散文にしたものだと思えば理解しやすいかも知れない。 だた、禅をを引き合いに出しているが、川端の作品を禅的な見方で読む人は殆どいないのではないかと思う。 2023・1・28 |
1969年講談社刊 サイデンステッカー訳付き Japan, the Beautiful and Myself 「本来の面目」は Innate Reality |
|||||||||||||