07 //somewhere far away

戦いは日々熾烈を極めていた。
それに伴い軍主であるエルフィードの肩に圧し掛かる重圧と責任もまた、大きなものになっていく。
それでも彼が周囲に疲れた顔を見せることも、辛いのだと弱音を吐くようなことも決してなかった。
常に変わらぬ笑顔がそこにあった。

だからカイルも油断していた。
エルフィードの成長を眩しい眼差しで見つめていた。
仲間が増える度、それはエルフィードが軍主として成長し、人望を集めているからだと誇らしく思えた。

それはもちろん誤りではなかった。
けれど、エルフィードとて人間だ……しかもまだ年若い。
エルフィード自身も気付かぬうちに、彼の心身の疲労と緊張は溜まっていく一方であった。

それをカイルが気付いたのは、とある戦いの後。
戦闘を終え、周囲の人間が武器を収める中、エルフィードだけはその場にじっと立ち尽くしていた。
「王子……?どうされました?」
背後から聞こえる怪訝そうなリオンの声に、カイルは振り返る。
そうしてエルフィードの顔を正面から捉えたカイルは、思わず息を呑む。

エルフィードの顔色は白に近いといっても差し支えはない程に、色を失っていた。
ひつも眩しく輝いている蒼い瞳は、ぼんやりと虚ろだった。
意識をどこかに置き忘れたかのように、反応を示さない。
「王子!」
リオンもまたエルフィードの只ならぬ様子に気付き、慌てて彼の元へと駆け寄る。

するとリオンのその声にエルフィードははっと目を見開く。
ようやくゆっくりとした動作で、周囲を見渡す。
状況を把握しようとするように。
戦闘に参加していた者達の心配そうな視線を受けて、エルフィードは安心させるように微笑んで見せた。
「ご……めん、ちょっとぼんやりとしちゃってて」
言って、緩慢な動作で、三烈棍を仕舞う。
「王子?どこか具合がお悪いのでは?」
そんなエルフィードの様子に、リオンが険しい表情で問うのに、
「いや、本当になんでもないよ、心配かけてごめんね、リオン」
そうエルフィードは首を振る。

行こうかと周りを促し、エルフィードは歩き出す。
しかし、実際進めたのは数歩といったところだった。
突如ぐらりとエルフィードの身体が傾き、そのまま地面へと吸い寄せられるようにして、倒れ伏したのだ―――。

「王子!」
リオンを始め、誰もがエルフィードの元へと駆け付ける。
ただ一人、カイルを除いては……。

エルフィードのことが心配でなかった訳ではない。
誰よりも早く、エルフィードの傍に行きたかったのに、身体が動かなかったのだ。
呪縛にかけれらたかのように。
驚き、目を見開いたまま、カイルは周囲の喧騒を余所に、エルフィードを見つめることしか出来ずにいた。

エルフィードが倒れる瞬間、カイルは彼と目が合ったような気がした。
辛そうに細められた瞳は、カイルに何を語りかけていたのだろうか。
まるでスローモーションのように、エルフィードが倒れていくのが映った。

なのに―――。
身体は動かなかった。
エルフィードの元までたった十数歩程だったのに。
倒れゆくエルフィードの身体を抱きとめることは、何ら難しい距離ではなかった筈なのに……。
エルフィードの状態がおかしい事に気付いていながら、そしてその身体がぐらりと傾くのを目の当たりにしながら―――自分が助けることができなかった為に、こんな乾いて固い土の上に、みすみす打ち付けられるような結果になってしまった。

カイルはぐっと唇を噛む。
リオンが必死に、エルフィードに呼びかけるが、固く目を閉ざした彼から返る声はない。
まるで屍のように、微動だにしない。
「お……うじ…」
心臓が激しく脈打っているのを感じながら、ようやくカイルは口を開く。
喉がカラカラで、上手く喋れない。
しかし、それで呪縛から解き放たれたのか、カイルはゆるりと一歩を踏み出す。
目と鼻の距離ほどが、酷く遠く感じられる。

「王子……」
ようやくカイルはエルフィードを取り囲む円の中に加わった。
「とにかく、一度城へ戻って、シルヴァ先生に看て頂かないと」
リオンが慌てた様子で言い、同意を求めるように周囲を見渡す。
ガレオンは真っ先に頷くと、輪の中から一歩進み出て、エルフィードを抱かかえようとした。

それにカイルの声が割って入った。
「待ってください!
……俺が王子を連れて行きます」
普段のカイルに似つかない真剣な面持ちで、余裕のない口調であった。
返事も待たずに、カイルはエルフィードを抱き上げる。
「……っ」
そのエルフィードのあまりの軽さに、カイルは辛そうに眉根を寄せた。

どうして気付かなかったのだろう。
こんなにこの人が痩せてしまうまで―――。
思い返せば、ここ最近、この人がまともに食事を摂っている姿を見たことがあっただろうか?
そして自室の明かりはいつも夜遅くまで灯っていたではないか。
殆ど休んでいないことは明白だったのに―――。
こうして倒れるまで、それに気付くことができなかった。

カイルは自分の不甲斐なさに、己を殴りつけたい気分だった。
ずっと昔から一緒に居た自分が、いの一番にエルフィードの不調を察し、適切な対応を取るべきだったのにと。

「あまり、自分を責めるな、カイル殿。
わが輩とて、同罪だ」
後ろからガレオンの声が、カイルを追う。
その言葉から、ガレオンも自分と同じ責任を感じているのだと分かった。
だが、カイルにはなんの慰めにも励ましにもならなかった。
まだガレオンは軍に加わって短かいのだから。
やはり自分が気付くべきことだったのだ。





「過労だね。
命に関わるようなことじゃないが、しばらくはゆっくりさせてやれ。
さっき目も覚ましたし、安心すると良い」
医務室の扉を開け、姿をみせたシルヴァが、入り口に集まった者達にそう知らせる。
ほっと周囲の空気が緩む。
そんな中シルヴァはカイルに目を留めると、室内を指差した。
「王子が話をしたいそうだ」
「……いいんですか?」
「少しだけならな、あまり無理はさせてくれるなよ」
カイルは頷き、医務室の中へと足を踏み入れる。

気を利かせたのか、シルヴァは入ってすぐの診療室へと姿を消した。
カイルは窓辺のベッドに横たわっているエルフィードの元へ、ゆっくりと近付いていく。
もし本当はエルフィードが目を閉じたまま、鼓動が止まっていたらどうしようと、理由のない不安がカイルを苛む。
それがことさらに、カイルの歩調を鈍らせるのだった。

だがそれは杞憂に終わった。
ベッドの上のエルフィードはちゃんと目を開け、ベッドの脇へとやってきたカイルに微笑んでみせた。
顔色も倒れたときに比べれば、幾分良くなっているようだ。

「カイル、大丈夫?」
エルフィードの第一声はそれだった。
「えっ?」
カイルはその意味が分からずに、目を瞬いた。
それは自分がエルフィードに対して掛けるべき言葉だろうにと。
それを可笑しそうにエルフィードが見つめている。
「僕が倒れる瞬間、カイルが今にも泣きそうな顔をしているのが見えた気がしたから」
エルフィードの言葉にカイルは瞠目する。
どうしてあんな時までこの人は他人のことを気遣って、こうして心配してくれるのだろう。
本来なら自分のことで精一杯だろうに。

「気の……せいですよー。
俺のことより、王子はお加減如何なんですか?」
切なくて泣きたくなるような気持ちを抑えて、カイルは問う。
「僕は大丈夫だよ。
でも情けないよね、みんなの前で倒れちゃうなんて……みんなにも心配ないって言っておいてくれる?
明日からはまたいつも通り動けるよ」
「駄目です!」
いつものようにふわりと笑うエルフィードを、カイルは思わず怒鳴りつけていた。
驚いた様子で、エルフィードはきょとんとなる。

「カイル……?」
「王子は無理しすぎなんですよー。
もっと御自分のことを第一に考えてください。
でないと、俺は……」
何かに耐えるように、ぐっとカイルは拳を握り締めた。
代われるものなら代わってやりたい。
その細い肩に圧し掛かる責務や重圧から解放してやりたい。
そんな想いが次々と心に押し寄せてくる。

そして―――。
「王子、このままどこかに逃げましょうか?
野に降っても、王子一人を養っていくくらい、俺にだって甲斐性はありますよ」
衝動に押し出されるままに、思わず口を突いて出た言葉。
エルフィードは吃驚したようにカイルを見つめ、しばし沈黙した後、くすくすと笑い始めた。
けれどそれはカイルを馬鹿にするような笑みでは決してなかった。

エルフィードはベッドから手を伸ばし、カイルの握り締めた拳の上にそれを重ね合わせた。
「突然カイルが父上と同じことを言い出すから、びっくりしたよ」
「フェリド様と?」
今度はカイルが驚く番だった。
「うん、こっそりと母上が教えてくれた。
あの謀反が起こる少し前だったかな……父上には内緒ですよって母上が嬉しそうに。
母上、あの頃は色々と悩み苦しんでいたから、それを見かねた父上がそう言ったんだと思う。
あの時はあまり実感が湧かなかったけど、今なら良く分かるよ。
凄く嬉しいものなんだね……今ある生活を捨ててでも、自分をそこまで想ってくれる人がいるっていうのは」
その時のアルシュタートの姿を思い浮かべているのだろうか。
エルフィードは少し遠い目になる。
が、すぐにしっかりとカイルを見据える。

「ありがとう、カイル。
だけど、僕はまだ行けない―――ファレナが大好きだから……守りたいんだ。
返事は保留してもいいかな?この戦いを終えるその時まで」
大きく溜息を落とした後、カイルの唇にようやくふっと笑みが浮かぶ。
「そう仰ると思っていましたよー。
王子がこの戦いを中途半端に放り出されるくらいの方なら、俺は貴方に従うことはなかったと思います。
返事は全てが終わる後まで、お待ちしてます。
但し……その利子として、これからは必ず食事と充分な睡眠を取って下さいねー。
もし今度、今日と同じようなことになったら、有無を言わさず俺が連れ去っちゃいますよー」
カイルにいつもらしさが戻ってきたようだった。

エルフィードはそれに安堵しつつ、大きく頷いた。
もうカイルにあんな哀しい顔は決してさせたくなかった。
「約束するよ」
エルフィードはカイルの手を引き、身を屈めてくれるように頼む。
カイルがそれに従い、膝を折り、エルフィードの枕元に顔を近づける。
するとエルフィードはカイルの頬に軽く唇を寄せた。
それは約束の指きりの代わりだった―――。



2006.07.10 up