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死神

競作小説企画「Villain」 

 

 

 ものすごい雨の中だった。バケツをひっくり返したような雨が、昼から断続的に降っていた。

 仕事帰りのユウタは、下半身がぐずぐずに濡れる不快感にうんざりしていた。傘なんて気休めにしかならない。

 もう夜の十時も近いというのに、雨はいっこうにやむ気配を見せず、ニュースではあちらこちらで道路が冠水したと言っていた。

 彼は電車を降りて、ゆるやかなアップダウンが続く、アパートへの道に入った。もうすぐスーツを脱げると思うと、子供のように駆け出したい気分だった。

 そんな彼を追い越すように、白いスポーツカーが坂を走ってきた。かなりのスピードだ。

 ユウタは驚いて赤いテールランプを見た。

 白いヘッドランプが照らす先。

「人がいる……!」

 女性らしい黒いシルエットが浮かび上がった。なにか細く大きな竿のようなものを手にしていた。

 スポーツカーは急ブレーキをかけた。

 坂の下は、黒々と深い水溜りになっていた。

 バシャッ、とものすごい水しぶきがあがった。白い車は、派手な水しぶきを上げながらスリップした。

 左側のタイヤが完全に制御を失い、車体がダンスを踊るように上下左右に跳ね回った。

 鋭いヘッドライトの光りは、ありえない角度で周囲を照らした。

 次の瞬間。真横に走った美しい車体は、道路わきの電柱に、左ドアから激突した。

「やった……事故った」

 ユウタは、生まれて初めて見た事故に言葉を失った。

 傘とバッグを放り出して走り寄った彼は、車の脇に人が立っていることに気づいた。

 真っ白なスーツに、肩までの少し茶色い髪。

 20歳前後に見える小柄な女性だ。

 不思議なことに彼女は傘を持っていなかった。いったいどこから現れたんだ?

「危ないじゃないか。きみ!」

 ユウタは彼女が、ヘッドライトに浮かんだ女性かと思った。

 しかしあらぬ方角を見つめる彼女の視線を追うと。そこに先ほどの女性が立っていた。

 黒ずくめのロングドレスを着た長い髪の美しい女性だ。

 彼女が手にしていたものは尋常ではなかった。2mはありそうな柄を持つ大鎌だ。

 その先には、やせ細った犬が串刺しになっていた。

「ミスったわね。ベッキー」

 白い服の女性が言った。

「……彼女の目には映らなかったけれど、彼に見せられたようね」

 黒服の女性は、意味不明なことをつぶやいた。

「ここからは私の仕事ね」

 白服の彼女が言った。

 そしてスポーツカーの右ドアに手をかけると、すごい力で引き始めた。ドアノブが見るみる変形した。

 しかし車体がよじれてしまったのか、なかなか開かない。

 ドアをあきらめた彼女は、あたりを見回して古いバス停に目をとめた。小走りで駆け寄ると、コンクリートブロックが下に付いたバス停を引きずりだした。

 そしてポールを握ると、信じられない力でバス停を振りかぶり、ドアのガラスを叩き割った。

 派手に砕け散ったガラスを頭から浴びながら、彼女は少しも躊躇することなく、窓枠のガラスを肘で砕き、車内に体を滑り込ませた。

「青年!」

 車内から彼女の声がした。ひどい雨の音でよく聞き取れない。

「あんたよあんた! 少しは手伝うとかケツなめるとかしなさいよ!」

 ユウタは、自分に話しかけられていることに、やっと気がついた。

 あまりに異常な事態に、一刻も早く逃げ出したかったが、人助けをしようとしている女性の前から逃げ出すことなどできなかった。

 彼女は、車内からドライバーを押し出そうとしていた。

「はやく。この人を引っ張って。ガソリンが漏れてるわ」

「は、はい」

 ドライバーは、ガラスと血にまみれた若い女性だった。

 白スーツの彼女は、すごい力でドライバーの上半身を窓から外に押し出した。若い女性だ。意識を失って、ぐったりしている。

 ユウタは女性を抱きしめるように抱えて、外に引き出した。

「いいぞ。青年。車から離れて。いそいで」

 彼女は自分も脱出しようとして、車内で身体の向きを変えようとしていた。しかし小柄な彼女ですら身動きがままならないほどに車は潰れていた。

「はやく離れなさい! おっぱいくらい揉んでもいいから」

 こんな時に不謹慎だが、ユウタは血まみれの彼女の身体の柔らかさにドキドキしていた。

 彼は意識を失っている彼女を道路の反対側まで引っ張っていった。

 ユウタは振り返った。白スーツの彼女が身体半分だけ車から出ていた。

「あなたも早く逃げて」ユウタが言った。

 

 

 その瞬間。白と赤の閃光が周囲を照らした。

 爆風と熱が、はじけた風船のようにユウタと女性を吹き飛ばした。

 歩道にしたたか胸を打ちつけた彼は、しばらく息もできなかった。

 ……車が爆発したんだ……

 やっと意識がつながり上半身を起こした。

 白いスポーツカーは、オレンジの炎を吹き上げて、街路樹と一緒に燃えていた。

 彼女の姿は見えなかった。

 やっと集まってきた野次馬たちとサイレンの音を聞きながら、ユウタは意識を失った。

 

 

 翌日、彼は勇気ある青年として、新聞やTVに大きく取り上げられた。

 彼がドライバーの女性を救ったことになっていたのだ。

 なにしろ彼が説明した白いスーツの女性の痕跡が、なにも残っていなかったのだ。

「どうもありがとうございました。あなたは命の恩人です」

 ユウタはドライバーの彼女とご両親から、涙ながらに感謝された。

 彼女の名前は石川京子。

 21歳の大学生だった。ご両親は会社を経営していてお金持ちらしい。一人娘の京子を、それはそれは可愛がり甘やかしていた。

 燃えてしまったイタリアのスポーツカーは、彼女の誕生日プレゼントとのことだ。

 お父さんは、目が大きくダンディだけれど、めちゃくちゃ濃いぃ顔立ちだった。剃り上げるぎりぎりの長さで、きれいに手入れされた髪とひげ。

 きっと維持するために、週二回は理容室に行っていることだろう。

「車なんてまた買ってあげるからね。そうだ。お前が無事だったお祝いをしなきゃいけないね。プレゼントはなにがいいね?」

 お母さんも美人だ。ハリウッドのパーティーから駆けつけたようなゴージャスヘアーに、グーパンチされたくない指輪の数々。肩を露出する胸までの黒ドレスが世界一似合いそうな美しい人だ。

 きっと京子を産む前は、スーパーモデル並みのプロポーションだったに違いない。

「あなたがそうやって甘やかすから、京子は無茶をするんですよ。もう年頃なんだから、素敵な男性とお付き合いすることもおぼえきゃ」

 そして二人の視線は、ユウタに向けられた。

「はっ」

 ユウタは、どう反応してよいかわからずに、鍛えた営業スマイルを浮かべてみた。

 京子が杖をついて、ベッドから立ち上がった。

「ユウタさん。なにか飲み物を買いに行きましょう」

「ああっ。可愛そうな京子。パパが買ってきてあげるよ」

「いいのよ。パパ。歩いてリハビリしなくちゃ。ユウタさんに付き添っていただくわ。いいでしょう? ユウタさん」

「あっ、うん。はい」

 ゆっくりと部屋を出て行く二人の後姿を、ディープな両親は、涙を流さんばかりの勢いで見送った。

 実際のところ。彼女の身体に大きなケガはなかった。シートベルトによる胸の内出血と、エアバックに顔を打ち付けたときの額の擦り傷。そして脱出の時にできた、ガラス片による細かな傷。

 怪我の程度で言えば、彼女を抱いたまま歩道に倒れこんだユウタの打撲の方がひどいくらいだった。

「ごめんなさい。ユウタさん。パパとママったら過保護で」

「自分の子供があんな事故を起こしたら、だれだって心配するさ」

「私。ユウタさんに助けてもらえなかったら、死んじゃってたのね」

「もしもなんてないよ。君は助かる運命だったのさ」

「昨日ね。車の写真を新聞社の方から見せてもらったの……すごかった。くの字に潰れて真っ黒に焼け焦げて。あの中に閉じ込められていたらと思うと……」

 彼女の細い肩が震えた。

「だいじょうぶ。大きな怪我がなくてよかった」

「でも……」

「僕はうれしいよ」

「えっ?」

「君が元気で。しかも僕は君と知り合えたんだ。車は残念だったけど、事故の神様に感謝したいくらいさ」

「事故の神様? おかしなことを言うのね。ユウタさん」

 不謹慎ギリギリなジョークに、京子はつきあって笑ってくれた。

「またお見舞いに来てもいいかな」

「うれしい。ありがとう。ユウタさん」

 

 

 明日は京子の退院の日だ。

 三日間だけの入院だったが、ユウタは仕事の後、毎日お見舞いに来ていた。

 夜のロビーは照明が落とされていて、若い男女には妙にムード満点だった。

 ユウタと京子は、たわいのない話しを楽しんでいた。

 ベンチ前のエレベーターが、チンとドアを開けた。中から小柄な女性が降りてきた。

 くりんとした目に薄い化粧。きれいな卵型の小さな顔にやわらかそうな肩までの髪。

 国籍不明な愛嬌たっぷりの顔だちをしていた。

 彼女はまっすぐに二人の前に来た。

「どうも。ユウタ。元気そうね」

 名前を呼ばれて顔を上げたユウタは驚いた。そこにはあの時の白スーツの女性が立っていたのだ。

「あなたは……無事だったんですね」

「お嬢さんもたいした怪我じゃなくてなによりね」

 彼女は、にっこりと微笑みながら満足そうに二人を見た。

「あなたこそ……大丈夫なんですか。ほんとうに?」

「私は平気よ。ほおら、このとおり玉の肌」

 ツイーーッと、手入れされた腕を指先でなぞって見せた。

「ユウタさん。ご紹介してくださいます?」

 京子は、ちょっとだけ焼もち気分で会話に割り込んだ。

「京子さん。この人が事故のときに、君を助けてくれた人だよ」

「わたしを?」

 京子は驚いて、ユウタと彼女の間で視線を往復させた。

「会えてよかった。警察も新聞記者も、誰も信じてくれなかったから、君には黙っていたんだけど、あの時、最初に君を助けようとしたのはこの人なんだよ」

「はじめまして。京子さん。私の名前はひかり。どうぞよろしく」

「はじめまして。あの……ありがとうございます」

 京子は、そんなこと知らなかった。しかしひどく安心したように見えるユウタの様子は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 ユウタは興奮した顔で、ひかりと話した。

「驚いたな。どうやってあそこから逃げたんですか」

「車の下にマンホールがあったのよ。そこから、ターーッて忍者みたいに」

「ウソでしょ?」

「気にしないで」

「今日はどうしてここへ?」

 ユウタが聞いた。ひかりはいたずらっぽく笑うと言った。

「友達を紹介しようと思って」

「お友達ですか。それは大歓迎です」

 スッと黒い人影がユウタの横から現れた。

「わっ」

 ぜんぜん人の気配を感じなかった。

 ひかりと並んで二人を見た女性。全身黒ずくめの怖いほどきれいな女性だった。

 ユウタにはすぐにわかった。彼女は、あの事故のときに犬を殺していた黒服の女だ。

 京子を引っぱって逃げ出そうかと思った。しかし目の前の二人の女性から、ぜったいに逃げられないと、本能が叫んでいた。

 黒ずくめの彼女が二人を見つめる瞳は、宝石のようにきらめき、なぜか焦点を結んでいないように見えた。ひさしぶりに身体を動かしたと言わんばかりに、ゆっくりと首を回した。左手を開いて握りなおし、真新しいグローブをなじませるようなしぐさをした。

「失礼」

 再び彼らに視線を戻した瞳は、柔らかい光りになじんだ様子だった。

「へいき?」とひかり。

「もう大丈夫よ」

 二人は奇妙な会話の後、ユウタたちを見た。

 ひかりが言った。

「京子さん。ユウタさんと話しをさせていただけるかしら。大事な話しなの」

「はい……」

 京子は一人で病棟に戻った。

「あとから顔を出すね」

 ユウタが声をかけた。

「さて。やっかいな青年」

 ひかりはしげしげとユウタを見ながら言った。

「ほんとうにやっかいね。なんでそうむやみやたらと私たちが見えちゃうわけ。しかも近くにいる人にまで見せちゃうタチの悪さ」

「はっ?」

「自覚してるわけないわよね」

「あの、こちらの黒い服の方。あの事故の日に、変なことしていた人ですよね」

 彼女たちは顔を見合わせて、彼に聞こえない言葉をつぶやいた。

 ひかりは「覚悟して聞け」と言う目つきでユウタを見た。

「私たちの秘密をバラすわよ。私の名前はひかり。天寿まっとう官よ」

「て、天寿まっとう?」

「なにかの理由で、寿命よりも早く死にそうな人を助けるのが仕事よ」

「寿命……早死に?」

「この前の京子みたいに、そそっかしい人を死なせないのが仕事」

「…………」

 リアクションのしようがなかった。しかし京子を助けた彼女が、ふつうでないことは疑いようもなかった。

「そして彼女はベッキー」

「こんにちは。ユウタ」

 ベッキーは、目元だけで微笑んだ。ユウタは、なぜか自分の名前を口にして欲しくないと思った。

「黒がイカスでしょ。彼女は死神よ」

「はい?」

「パカねえ。死神くらい知らないの?」

 ユウタはゲゲゲの鬼太郎で見た、灰色で下あごの出た貧相な死神を思い浮かべて、ベッキーと重ね合わせた。

 お母さん似?

 いや。そういう問題じゃなくって。

「し、死神って、死にそうな人をお迎えにくる……まさかこの前は、犬のお迎えに来てた?」

 ユウタはそこまで言って気づいた。

 この二人の仕事はペアなんだ。運命の計画を守り実現するための、人の姿をしたなにか。

 本当は人間が見ちゃいけないモノなのだ。

「はい」

 黒いスーツをきめた彼女は、優しく微笑んだ。

 不必要なまで美しい。そんな印象を受けた。それとも自分の目にだけ、そう見えているのだろうか。

「ああ。ええと……そう……ですか」

「あなたにはなぜか私たちが見えるのね。きっとこれからも私たちは会うことになるでしょう」

「いえ。たぶんももう二度とお会いしたく、いえ、することはないと」

「会いたくなければ見ないことね。私たちはどこにでもいるから」

「…………」

 なんだか理解したくないことを言われてユウタは視線を宙にさまよわせた。

「あの……」

 そしてもう一度、前を向いたとき。

 二人の姿は消えていた。

 暗いロビーに、人の気配はなかった。まるではじめから、彼一人きりだったかのように。

 

 

 京子は無事に退院した。

 ユウタは異常な体験を忘れるように心がけて生活した。

 こんなときには色恋沙汰が一番。人生なにがもっとも建設的かって、煩悩モード全開の時が最高だ。

 「子孫繁栄」という、DNAの最高命令に身をゆだねるんだから無敵だ。

 ユウタは京子と連絡を取り、デートにこぎつけた。

 高校生のように、たわいもない会話と軽い食事。

 そして二回目、三回目のデート。映画なんか見て、美術館にも出かけておいしいランチをした。

 京子の趣味のビーズの店につきあったユウタは、彼女そっちのけでベネチアンガラスのグラスに見惚れたりした。

 彼らは、ゆっくりと時間をかけて、お互いのことを知り合っていった。

 手を握ることも、キスすることも、なんだかもったいないと思えるほどの時間だった。

「京子」

「ユウタさん」

 名前を呼び合って見つめあうだけで、とても満ち足りた気持ちになれた。

 数ヶ月が、あっという間に過ぎた。

 大学生の京子の試験も終わり、長い冬休みが近づいていた。しかし会社員のユウタは、年末に向けて、色々と忙しい時期に突入していた。京子の誘いを何回か断ったユウタは、やっと時間を作って、久しぶりデートにこぎつけた。

 ボーナスも出たし、ここはイッパツ気合いの入ったプレゼントとデートで、大人の男をアピールしようと計画したりした。学生の小僧達とは違う、一杯ウン千円なカクテルなんぞ決めたりして。

「あっ。彼女んちお金持ちだっけ」

 現役遊び人みたいな父親の顔を思い出して、一気に盛り下がってしまった。

 なにやら妄想炸炸裂なユウタだった。

 

 

 年が明けて、やっと世間は生活のリズムを取り戻した一月のデート。

 そのころになると、ユウタよりも京子の方が恋に夢中だった。

「ユウタさん。あのね。明日から一週間、パパとママが旅行なの」

「いいね。ご夫婦で旅行かあ」

 ……それだけ? せっかくの勇気なセリフなのに……

 少しムッとしながらも、京子は可愛い女の子をしてみた。

 なにしろ両親の旅行の誘いを「サークルがあるから」と、嘘をついてまで断ったのだ。

「それで……ちょっとくらい遅くなっても大丈夫かなあっって」

「ほんとう? 少し。すこぉしね」

「うん。すこし」

 京子は大胆な自分にドキドキしながらも、両親からの愛とは違う新鮮な愛情に心が浮き立つのを抑えられなかった。

 まっすぐに前を見るユウタの端正な横顔を、チラッと見上げるのが、とても、とてもうれしかった。

 いや。じっさいのところ。ユウタの方が平静を装うのに必死だった。にやけたケダモノみたいな顔にならないように、下半身に理性をかき集めて、グッとこらえた。

 ほんとうは「トムとジェりー」のブルおじさんみたいに、眉毛を10センチも上下させながら「ムフフフフッ」と鼻息荒げたいユウタだった。

 今の京子なら、そんな彼の表情もうれしかったのだが。

 まあ、そこはそれ、男ってかわいい生き物だ。

 

 

 飛行機は急速に高度を下げていた。

「メーデー。メーデー。こちら512便。機体トラブル発生」

 機長の通信が日本の空を駆け巡った。

 巨大なエアバスの幾重にも用意された安全機構は、次々と悲鳴を上げてダウンした。

 平静を呼びかける機長のアナウンスも、乗客の叫び声とエンジン音にかき消された。

 なによりアテンダント達のひきつった顔が、この飛行機のただならない状況を、如実に物語っていた。

 テロか事故かはわからない。

 はっきりしていることは、機内ですさまじい火災が発生しているということだ。

 ハワイから日本に向かう旅客機は、日本を目の前にしてコントロールを失いつつあった。

 機長はぐんぐん迫ってくる大地にむかって、なんとか機体を立て直そうとしていた。

 激しく揺れる機内は、火事から逃げようとする客が、天井や壁に打ち付けられていた。

 近くの席では赤ちゃんが火のついたように泣いていた。

「あなた!」

「おまえ。しっかりしろ。最後まであきらめるんじゃない」

 京子の両親は、逃げ場のない機内でシートベルトを掛けなおした。

 万が一に助かるとしたら、それは機長が不時着に成功すること意外なかった。

 火事に焼かれるのが先か、地面に激突するのが先か。

 いずれにしろ、彼らの運命は彼らの手を離れたところで決定されようとしていた。

 

 

 ユウタと京子は、ハワイから帰る両親を迎えに空港に向かっていた。

 もっとも出迎えはおまけのようなものだった。二人は朝からずっと一緒だった。

 今日はユウタの車でドライブと食事を楽しんでいた。

 ラジオからは軽快な音楽が流れ、パーソナリティの毒の効いたコメントが炸裂していた。

 ひとしきり笑い転げていた京子は、にじんだ涙をぬぐいながら言った。

「ユウタさんといると、わたしったらおかしいくらいなごんじゃってる。誰かの前でこんな笑ったことなんてないわ」

「そうなの? 俺はそんな京子さんしか知らないよ」

「ううん。家族以外で、こんなのってはじめて」

「それは、うぬぼれちゃうぞ」

「うふふ」

 京子は甘えてユウタの腕に抱きついた。

「あら。あれなにかしら?」

 京子は低い視線からフロントガラスの外を指差した。ユウタは前を気にしながら、身を乗り出して空を見た。

 それは飛行機の翼端ランプのようだった。しかし奇妙な角度に見えた。しかも異常に低高度で明滅していた。

 彼らが走っているのは、郊外のドライブから高速道路にむかう山道だ。

 こんなところを飛行機が窓も見える高度で飛ぶわけがない。

 ギイィーーーーン、という明らかな異音を立てながら、エンジンからオレンジの炎が見えた。

「落ちる。落ちるぞ。あの飛行機」

「ユウタさん!」

 彼らの前方の山陰に、飛行機はゆっくりと姿を消した。

 一瞬の静寂のあと、とてつもなく重いものが、力まかせに引きずられるような音が響いた。

「……おちた……」

 二人は身をこわばらせたまま車を進めた。

 いくつめかのカーブを曲がったとき、空が少しずつ赤く染まっていくのが見えた。それは巨大な炎の色に違いなかった。

 最後のブラインドカーブを曲がると、道がなくなっていた。

 ゆっくりと車を停めたユウタと京子は、無言で外に出た。

 不安げに立つ京子の手を握りながら、ユウタは前に進もうとした。

「いや。あぶないわ。いっちゃだめ」

 しり込みする京子には見えていないようだった。

 暗闇のすぐそこに、巨大な飛行機が止まっていた。

 ビルほどもある尾翼が、空を覆ってそそり立っていた。

 パイロットの懸命の操縦の結果、飛行機は原型を留めて不時着していた。しかしいたるところから火の手が上がり始めていた。

 たしかに危険だ。いつ爆発するともかぎらない。

「臨時ニュースを申し上げます。本日未明。リリアン航空旅客機が消息を絶ちました」

 車のラジオがニュースを伝えていた。

「ハワイからの512便が、日本上空で事故に見舞われた模様です……」

 アナウンサーの声に、京子の表情は見るみるこわばった。

「512便って、パパとママが乗った飛行機よ……!」

「なんだって」

 

 

 ふたりは、えぐられた大地を、手をつなぎながら降りていった。

 なぎ倒された木々や、黒々とえぐられた大地の傷跡に、彼らは目を見張った。

 周囲は木と化学物質の焼ける白い煙が充満していた。

 それらにまじって、肉が焼けるいやな匂いが漂っていた。

「ユウタさん……どうしよう」

 京子はユウタの腕につかまり身を縮めた。

 飛行機は予想外に原型を保っていた。生存者がいそうなくらいに。京子の両親が助かっている可能性もあると思えた。

 探しに行きたい。しかしきっとあるだろう死体や、悲惨な状況を目にするのはおそろしかった。

「……警察が来るまで近づかないほうがいいかな……」

 躊躇する彼らを、黒い影が追いこしていった。

「ベッキー……」

 その姿は、見間違うこともなく死神の彼女だった。

 ユウタの声が聞こえないかのように、彼女は険しい坂を登って行った。右腕が、すうっと伸ばされた。そのこぶしに、身長よりも長い鎌が現れた。

「ハイ。おふたりさん」

 京子の横に、いつのまにかひかりが立っていた。

「早くご両親のところに行った方がいいわ。ベッキーは、とても仕事熱心よ」

「ひかり……さん」

 ユウタはさっそうと斜面を登っていく白い服を見つめた。

「タ、ユウタさん。あれ……」

 京子が目をこすりながら、飛行機の中を指差した。

 窓から見える機内で、たくさんの人影が動いていた。

 それはたくさんのベッキー。

 淡い光りを自ら発しながら、窓という窓に映る彼らの姿は、神々しくも禍々しかった。

 生きるべき人を助け、死ぬべき人を送り出す。

 生き物にとって、至極当然の営みであるはずなのに。

 

 

 ベッキーが、大きな機体破片の傍らに立ち、ユウタたちを見つめていた。

 呼ばれた気がして、二人はそこに行った。

 ひかりはすさまじい力で破片を持ち上げた。そこに姿を現したのは、まぎれもなく京子の両親だった。

「パパ。ママ!」

 京子が駆け寄ろうとするのを、ひかりがさえぎった。

 ユウタは京子の手を握って言った。

「ひかりさんが見つけてくれたんだ。二人は助かるんだよ」

「えっ? そ、そうなの」

 ひかりは傷ついた二人の間に身をかがめると、なにかを抱き上げた。

「……ぎゃ……ほぎゃ」

 彼女の腕にはピンクのタオルにくるまった赤ん坊が抱かれていた。

「おお、よしよし。怖かったねえ。もうだいじょうぶですよぉ」

 ひかりは天使の微笑みを浮かべて、泣きじゃくる赤ん坊をあやした。

 そして機体の残骸から降りた。

 かわってベッキーが歩を進めた。

 漆黒の気配が、結露した窓のしずくのように、彼女の全身からしたたった。

「ま、まって。いや……やめて」

 京子は恐ろしい予感に、手足が冷たく冷えるのを感じた。

 ひかりが助けたのは赤ん坊だけだった。

 そしてベッキーは、 背中に手を回して鎌を掴んだ。大きな冷たい光りが円を描いた。

「やめて。パパとママを殺さないで!」

 京子はユウタの手を振り切って、血にまみれた二人に覆いかぶさった。

「パパ、ママ! 私を置いていかないで!」

「京子! あぶない」ユウタが叫んだ。

 死神の両腕が左右いっぱいに広げられた。

 逆光の中、シルエットは十字架に貼り付けられたかのようだった。

 手にした鎌は、宝石のように悲しい美しさで輝いた。

 京子の耳には、女とも子供ともつかない、悲鳴の輪唱が響き渡った。

 途切れることのない絶望的なたくさんの悲鳴は、いままでに死神の手にかかった人たちの断末魔の声に思えた。

「ああ……」

 京子の唇から悲鳴が漏れた。いつまでも続く悲鳴は、どんどん思考力を奪っていった。視線が泳ぎ、自分がどこにいて、何を見ているのかすらわからなくなりそうだ。

 圧倒的な闇を引きずりながら、死神は身の丈よりも大きな銀色の鎌を振りかぶった。

 濡れた光りのしずくが、残像のように宙を舞った。

 京子は二人の頭を固く胸に抱きしめた。

「パパ、ママ!」

 ザン! と鋭い刃物の突き立つ音がした。

 自分は死んだ。と思った。

 鎌が京子の身体を貫き、地面に突き立った音だと思った。

「…………」

 両親の姿を一目見ようと開いた瞳に映った光景。

「きっ、きゃあああっ」

 彼女の周りには、たくさんのベッキーがいた。

 彫像のように冷たく硬い表情のベッキーが無数の鎌を振り下ろしたまま立っていた。

 京子は視線を下ろした。

 そこには、何本もの鎌に串刺しになった両親の姿があった。

「マ、ママ……パパ!」

 

 

「き、京子。平気か」

 ユウタが言った。その声に振り向いた京子は、今後こそ自分の心臓が止まってくれたら、と願った。

 彼女に一本の鎌も刺さらなかったわけ。

 それはユウタが彼女の盾になっていたのだった。

 肩から腰までを鋭い鎌で貫かれたユウタが、鎌の柄を掴んで仁王立ちになっていた。

「ユウタさん。どういうつもりかしら」

 ベッキーがどんな残酷な女帝も泣き出しそうな冷たい声で言った。

「私たちの予定を狂わすことは許されないわ」

「許されないわ」

 たくさんのベッキーが声をあわせてつぶやいた。

 両親から鎌を引き抜いた数え切れないベッキーは周囲に散った。

 そしていたるところで鎌を振り下ろしだした。

 ザン、ザン。ザンッ!

 力強く無慈悲な一撃が振り下ろされるたびに、一つずつ命が消えていくのだ。

「あ、あ……あっ……」

 死の世界だ。自分以外のみんなが殺されていく。

 世界が自分一人を取り残して、すさまじい勢いで回りだした気がした。

 黒いベッキーが、美しい顔を仮面のようにこわばらせたまま、疾風のように鎌を振り回した。

 誰も死の鎌から逃れられない。

「いやーーーっ!」

 京子はユウタの腰に抱きついた。

 彼の身体をよじのぼるように立ち上がると、鎌ごと抱きしめた。

「ユウタさん! 死んじゃいや。ユウタさん。しっかりして!」

 京子はユウタの腕を両手で掴むと、懸命に鎌から引き離そうとした。ユウタは苦痛にうめき声をあげたが、京子は容赦しなかった。

「ユウタさん。あきらめちゃだめ。がんばって!」

「…………」

 彼を貫く鎌を握るベッキーが、ゆっくりと視線をあげた。クリスタルのような瞳が、京子を正面から見据えた。

「やめて……おねがい……やめて」

 ひかりは泣きじゃくりながらベッキーを見た。

「あなたはこの鎌で死ぬかもしれない。死なないかもしれない」

 後ろからベッキーの声がした。

 ジャリと土を踏む音がして、黒い影が京子の後ろに立った。

 京子は絶望に魂をわしづかみにされながら、ゆっくりと振り向いた。

 そこには、いままさに鎌を振りかぶろうとする、もう一人のベッキーがいた。

「あなたには余命があるわ。試すのはおろかなことよ」

 

 

 −−よける? よけたら私は助かる? よけてもいいの? −−

 

 

 京子の中をたくさんの想いが一瞬で駆け抜けた。

 京子は、ブンと首を振って身体ごと振りかえった。

 ユウタを背中にして、精一杯に手を伸ばした。まるで落ちてくる鎌を受け止めようとするかのように。

 京子はベッキーをにらんで言った。

「ダメ。ゆるさない」

 ベッキーは鎌を振り下ろした。

 

 

 ひかりは宙に浮かぶ、この世ならぬ二人の人影に話しかけた。

「すてきな子供たちね。パパ、ママ。あなたたちには見えたかしら?」

 京子の両親は、瀕死の自分たちの身体の上で抱き合いながらひかりを見た。

「ありがとう」

「私たちは、良い仕事をしたかしら」重ねてひかりが聞いた。

 京子の母が応えて言った。

「人生の最後にあなたたちに会えたことを感謝します」

「そんな泣けるセリフはひさしぶりよ」

 二人は、もうないはずの表情で微笑んだ。父が言った。

「親のエゴにユウタ君を巻き込んでしまったことを、すまないと思う」

「でも……京子には幸せになってほしいんですよ」

 妻は夫の手を握りながら言った。ひかりはそんな二人を見上げて微笑んだ。

「あなたたちは、ちょっとだけ余命あったのに、本当にこれでよかったの?」

 父が答えた。

「私たちがわずかばかり生きるよりも、こんな命と引き換えに願いをかなえられるなら、なんの迷いがありましょう」

「人間っぽいわ。あなたたち」

 ーー京子と彼を永遠の愛の絆で結んであげてくださいーー

 それが両親の願いだった。

「その俗っぽさと身びいきが親の醍醐味ってものよ。すごくいいんじゃない?」

「あなたたちには、損な役をお願いしたようだ」

「悪役は得意よ」

「そう言ってくれると安心する」

「これで京子が早まったことを考えないで、天寿をまっとうしてくれるなら、それが私のためでもあるのよ」

 それぞれの想いと利害は違ったが、望むところは同じだった。

「ありがとう……ほんとうにありがとう」

 二人はもう限界だった。

 彼らの上に黒い影が落ちた。

 ベッキーは二人に聞いた。

「未練はありませんか?」

 彼らはすでに声が出せなかった。肉体は完全に破壊されていた。赤ん坊を救ったのは、ほんの偶然だった。それこそが本当の奇跡だったのかもしれない。

「…………」

 満足気に二人は微笑んだ。

 たくさんのベッキーの鎌が、遥かな高みから振り下ろされた。

 銀の輝きは、愛し合う二人を縫い止めるように貫いた。

 

 

 ユウタが意識を取り戻したとき、そこは病院のベッドだった。

「…………」

 なぜ自分がここで寝ているのか、しばらく理解できなかった。

 やがて静かな病院のざわめきが耳に届きだした。

 腕を上げてみた。小さな無数の切り傷や擦り傷を治療したようだ。

「怪我してないんだ……」

 痛むところはなかった。

 廊下から不思議な音がした。人が歩く音に混じって、カツン、カツンという硬い物が床を突く音だ。

 ぼうっとしながら首をめぐらすと、白やビンクのナース服に混じって、黒ビロードのミニスカナース服を着た鎌を持つ女性がいた。

 カッ。

 台尻がいい音を立てて止まった。

 ベッキーは、ユウタをチラッと見ると、おそろしく無表情なウィンクをして去っていった。

「あっ……ベッ!」

「思い出した? ユウタ」

 背後からひかりが話しかけた。

「目を覚まさないんじゃないかと思って心配したのよ」

 そう言って、ぐっと顔を近づけてきた。

「ちょっと」

 のけぞる彼の近くまで迫ったひかりの姿が、映像のように別の姿に押しのけられた。

 ひかりをすり抜けるように抱きついてきた女性。

「京子」

「ユウタさん。ユウタさん! ……よかった」

「俺は、鎌で刺されたんじゃ」

「ユウタさん!」

 京子には、そんなことはどうでもよかった。 

 二人は強く抱き合った。そして長いながいキスをした。

 唇を離した彼らは、心配と安堵と愛情と安心と、たくさんの表情を目に浮かべながらみつめあった。

 そしてベッドに倒れこみ、きつくお互いを抱きしめた。

 四人部屋だが、そんなの関係なかった。

 

 

 ひかりは部屋を出た。

 働き者のベッキーは、病院の人気者だった。今日も長い鎌を持って仕事に励んでいた。

 ひかりは一人だった。

 でも、自分がたくさんいるような世界はいかがなものか。

 ちょっと人間っぽく哲学してみるひかりだった。

 

 

 

 

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