――前編――
それは一本の電話から始まった悲劇だった。
クリスマスの夜は決戦の夜である。
いや、正確に言えば、クリスマスイブの夜である。
それはもう、ごく普通の男女の仲でも、あるいは男同士でも女同士でも、愛しいと思う相手がいるのなら誰でも同じ。本来の意味あいとはまるっきり違う方向に向かっていたって、その日だけは特別で重要でスペシャルな日であることは相違ない。愛し合う者たちにとって、ここ一番のとっておきの夜なのだ。
ましてや、夏から付き合い始めて初めてのクリスマスを迎えるラブラブなカップルにとっては、その重要度が増すのは当然のことと言えるだろう。
保はその日、朝からワクワクドキドキした気持ちを抑えられなかった。
まるでうぶな女の子のようだと自分でも呆れながらも、早く仕事が終って夜にならないものかと幾度となく腕時計を覗き見たりしていた。あまりそわそわしていたもので、客先で逆に気を遣われてしまったぐらいである。
もっとも、クリスマス決戦は熱いカップルのものだけとは限らないわけで、それはデパートのような業界にとっても一大決戦のイベントだ。SAKAKYUデパートでも全店をあげて朝からその対応に追われていた。ギリギリ最後の駆け込みでプレゼントを求めてやってくる客たちを相手に、店員らは休憩時間をも削って接客にいそしむ。別にお客に義理がある訳でもなんでもないけれど、そこはそれ、プロ意識と言うやつで、出来うる限り喜んでもらえるように心を配って応対していた。
それでも閉店時間が近づくにつれ客足は普段よりも幾分早めに減って行き、店員たちのほうも自分達のアフターがそろそろ気になりだすものである。恋人のいる者もいない者も、家庭持ちも独身者も、やっぱりクリスマスぐらいはのんびりゆっくりと迎えたいのだ。
そんなわけで、開店中は目の回るような多忙を極めた1日ではあったが、この日ばかりはたいていの売り場では残業なしで、さっさと後片付けを済ませては皆それぞれの行くべき場所へと散っていくのである。
保は個人相手の外商ニ課に属しているので、やはり1日客先への注文商品のお届けやら、来店したお得意様への対応やらでおおわらわで駆けまわっていたが、それでも夕方くらいからは落ちついて、あとはもう閉店時間を待つばかりという感じだった。
外商部の自分の席に腰掛けては、もう朝から何度見たかわからない腕時計に視線を落として、まだかまだかと期待を込めていらついていた。
今年のクリスマスは川原と一緒だ。それまで恋のひとつもしたことがなかった保にとって、特別な意味を持つ誰かと過ごすクリスマスなんて初めてのことだった。
普通のカップルなら、こんな時は洒落たシティホテルの部屋でもとって、ディナーを楽しんだ後に記念の夜……というのが一般的なフルコースなのだろうが、さすがにゲイカップルの保と川原の場合、それをそのままなぞるのは世間の目がはばかられるというものだ。
で、今夜の二人は、保の仕事が終了後待ち合わせて、川原が事前に買っている筈のちょっぴりリッチなテイクアウト料理と、保が買って眠らせてあった特上のシャンパンで、保のマンションで一晩しっぽり過ごすというのが予定されたメニューであった。
はっきり言って内容自体はそれほど特別なものではないのだが、まあ、それを川原と今夜に行うということに大切な意味があるわけで、保は二人で向かい合う光景を思い浮かべては、ニマニマとだらしなく顔を緩ませていた。
そんな時であった。
遠くのデスクの上の電話が鳴って、誰かがそれを取り、保への電話だと回してくれた。保は一抹の不安を感じつつも、受けとってそれに出た。
「はい、外商部の香坂ですが」
『あ、香坂くん? あー、私だ……』
その後に続いた言葉は、スペシャルクラスのお得意さまである、とある客の名前であった。
「ああ、いつもお世話になってます。先日は奥様のほうにも随分とご注文を頂いて」
保は慣れた様子で挨拶した。この客とは夫婦共々に贔屓にしてもらっている。その分ワガママを言われることも多いが、支払いもスムーズで小うるさい注文もなく、良い客の部類と言えるので、大切な取引先のひとつであった。
が、その挨拶の後に言われたことは、今は一番聞きたくない一言であった。
『すまんが、ちょっとプレゼントになりそうな物を見繕って持って来て欲しいんだが』
「は、今からですか?」
思わず外商マンとしては言ってはいけない言葉を口にして問い返し――しかも、かなり露骨に嫌そうな口調でだ――、保は慌てて口をつぐんだ。向かいの席の若いチーフが、じろりと厳しい目つきでにらむ。それから隠れるようにして保は客との会話を続けたが、電話が終ったころにはそのチーフからも気の毒そうな目で見られるほど、がっくりと肩を落としていた。
その落胆の様子は、のろのろと力ない足取りで向かった二階のレディスショップの者たちにもはっきりと見て取れた。
春久が驚いたように尋ねてきた。
「おいおい、なんて面してんだ? どうかしたのか?」
「春久……、忙しいところ悪いけど、若い女の子向けの洒落た小物をなにか、用意してくれないかな? お客からの注文で届けなきゃならないんだ」
「今からぁ? もうすぐ閉店だぜ?」
事前に保からさんざんノロケと共に聞かされて事情を知ってるだけに、春久は怪訝そうに眉をしかめた。保はふうと大きくため息をついた。
「なんかね……奥さんと子供がハワイに行っててさ、残ったお客がこれ幸いとばかりに馴染みのホステスを誘ってパーティするんだと。それで、ホステスにあげるプレゼントを用意してなかったから、持ってこいって」
「あーらら、そりゃまた、不幸な話で」
春久は同情を込めて相槌をうち、それでも慰めるように言った。
「まあ、品物届けるぐらいなら、そうは遅くならないじゃん。大丈夫、夜は長いんだからさ」
「届け先……T県なんだ……」
「え、まじ?」
「うん。別荘にいるんだって、今」
そう答えて、保はまたまた深く嘆息した。確かに、T県まで行って帰ってとなれば多少の時間ではとても済まないわけで、今夜のとっておきのデートがお流れになるのは目に見えて明らかだった。
これ以上はないというほど落ち込んでいる保を春久は気の毒そうに見ながら、それでも適当に商品を選んでは用意してくれた。
奇麗にラッピングされた伝票つきの化粧箱を持って保がバックルームからエレベータへと向かって歩いていると、後ろから春久が追って来て声をかけた。
「おい、香坂。なあ、それ俺が運んでやろうか?」
思いもがけぬ申し出に、保はビックリして目を丸くした。
「え? い、いいよ、そんな。悪いよ」
「いいっていいって。どうせ俺、今夜はフリーだからさ。こんな日は一人で飲んでても虚しいだけだし。代わってやるよ」
「でも……、春久、女との約束とか、ないのか?」
保が申し訳なさそうに聞くと、春久はからからと笑って答えた。
「ないない。だいたいクリスマスに下手に女なんて誘ったらさ、次の日から恋人気取りで追っかけ回されるのが落ちだって。下手すりゃ春先には責任とってご結婚〜なんてことにもなりかねないぜ? そんな恐ろしいことになるくらいなら、一人でさっさと寝たほうがましだよ」
「そんなもん?」
「そ。だから俺に任しとけって。詳しい道順と客先にだけ連絡いれておいてくれれば、誰が持ってったって同じ……」
そう言いかけていたところに、春久のズボンのポケットで、携帯が賑やかな音を立てた。春久は明るい口調でそれに出た。
「はいはい……あ、なんだ、キクちゃん? どしたの、急に」
どうやらDQ仲間からの電話らしかった。
「え? うん、別になにも……ええっ、ほんと? カオルが帰ってきてんの? マジぃ? それで急遽パーティ? キクちゃんところでなの? あ……えーと……どっしよっかな……」
春久の顔がパッと輝き、直後にマズイとばかりに口を歪めて窺うように保を見た。保は身振りと眼差しで自分のことは気にするなと言うふうに告げて、力なく笑った。春久は電話が終ると、ひたすら平謝りで頭を下げた。
「悪い! ごめん! 外国行ってた知り合いが帰国して、急にパーティやるんだって。なんか調子良いこと言っといて、ほんとゴメン!」
保は穏やかに笑って返した。
「いいよ、別におまえが謝る必要なんて全然ないんだから。もともと俺の仕事なんだし。こっちこそ変な気を使わせちまってごめんな。じゃキクチャンによろしく」
そう言うと、保はすまなそうな春久の肩をポンと叩いて、彼を残してまた歩き出した。通路の角を曲がって彼の視界から消えた途端、しおれた花みたいにがっくりとうなだれた。結局は、どうあっても今夜のデートは諦めるしかないようだ。だが一度希望の灯が見えかけただけに、脱力感は倍増だった。
「はああぁ……」
口をついて出るのはため息ばかり。どうしようもないこととはいえ、自分の運の悪さに腹立たしくすらなってくる。
やがて全館に閉店を知らせる耳慣れた音楽が流れ始めた。保は待ちわびていた筈のその音楽を聞きながら、重い足取りで客先へと向かったのであった。
『ただいまT高速K方面に20キロの渋滞中です。また雪により一部スピード規制が……』
――ブツッ!
保は交通情報を流している車のラジオを乱暴に切った。
それでなくてもさっぱり進まない目の前の車の列にイライラしているのに、今更何キロ渋滞してるだの、規制がどうのとは聞きたくもないというものだ。もっとも、この後に予定が控えているわけではないので、急ぐ必要などない言えばないのだが。
「ちっくしょー。なんでよりにもよって雪なんか降りやがるんだ! いっそ大雪にでもなって電車も車も全部止まっちまえばいいんだよな。そうなりゃクリスマスに浮かれて喜んでる奴らだって慌てふためくだろうにさぁ」
保はやつあたりの言葉を吐きながら、フンと荒々しく鼻息をついた。
お得意様の別荘に注文の品を届け、T県を出た辺りからにわかに空模様が怪しくなって雨が降り始め、それはあっという間に真っ白な雪に変わって世界を包み始めた。大粒の雪は地面につくなり跡形もなく溶けていく。だからさすがに降り積もるようなことはなかったが、それでも急な天候の変化ということで、高速道路は先ほどから渋滞してノロノロ運転を余儀なくされていた。
まったく、最悪のクリスマスイブ。
本当なら、今頃は川原と二人でグラスなどを傾けながら、楽しく会話に花を咲かせていたことだろう。いや、もしかしたらシャンパンの酔いに誘われて、互いの熱を互いの肌で感じあっているところだったかもしれない。
そして闇の中から落ちてくる白い綿毛を、二人一緒に窓越しにうっとりと見つめていたに違いない。愛し合うカップルにとって、それはきっと天の恵みのホワイトクリスマスだろうから。
だが現状はこれだ。
イブの夜に、独り寂しく会社名が土手っ腹についた社用車に乗っている自分。道は渋滞、いつになったら家に帰りつけることだか見当もつかない。おまけに先ほどから腹はぐうぐうと鳴ってばかりだ。行きにコンビニで買って食べたたった一個のオニギリは、もうとうに消化されて腹の足しにもなっていなかった。
(俺、なにやってんの? いったい……)
なんだか急に切なくなって、目頭がじわりと熱くなった。空腹は物寂しさを助長する。保は今更のように大きなため息をついて、さっきからひっきりなしに動いているワイパーをぼんやりと見つめていた。
『ごめん、今夜ダメになった』
そう電話で告げた時、携帯の向こうで不満に満ちた声があがった。
『ええ、なんで? 俺、もう料理買っちゃったのに』
『ちょっと急な仕事が入ったんだ。今からT県まで行ってくる。悪いけどそれ一人で食べてて』
『そんなぁ……。なんでこんな日にわざわざT県までなんて。断れないんですか? イブですよ?』
それは保のほうが先ほどからずうっと叫びたい台詞であった。しかし、自分がそう思っていてどうしようもなく諦めたものを、別の誰かに口にされると妙に腹が立つものである。
保はついつい露骨に苛立った口調で返した。
『しかたないだろ? 仕事なんだから。お気楽なバイトとはわけが違うんだからさ』
それは現在ピザ屋でデリバリのバイトをしている川原に対して言ったイヤミのようなもの。本当なら彼だってイブの夜は忙しくて休みなど貰えないのだが、この日のために無理を言ってバイト仲間から奪い取った休日だった。
そんな事情もあって、川原が殊更悔しがるのは保にもよくわかった。だが誰よりも残念なのは自分なんだと言う思いが強すぎて、素直に感情を口に出せない。つい気持ちとは反対方向へと向かってしまう。
川原はそんな保のイヤミを感じたのだろうが、それでも抑えた声で言った。
『……これ、俺一人じゃ食べきれませんよ。勿体無いです。余ったら』
『金なら後で払うよ、俺が』
『そういうことじゃなくて……。金額の問題じゃないです、俺が言ってるのは。まったく、あなたときたら……』
はあと呆れたようなため息ひとつ。保はいっそうカッとして、声を荒げて言い返した。
『一人で食べきれなきゃ、誰かのところへ持っていって食べろよ! そんな相手一杯いるだろ? 俺とは違ってさ。勝手に好きなところへ行って楽しんでくれば? クリスマスなんだから!』
そのまま乱暴に通話を切って、ついでに電源まで切ってしまった。怒りに任せて放り出した携帯が、助手席のシートの上にぽつんと転がったままである。保はちらりとそれを窺い見て、悩みあぐねるように口を曲げた。
楽しみにしていた夜がメチャクチャになって、悔しさに任せて喧嘩した。いや、喧嘩にすらなっていなかったかもしれない。悪いのは自分だ。もっと素直に残念だって言えば、逢いたかったんだって告げていたなら、彼だってあんな言い方はしなかっただろう。優しく慰めて、愛しているからって甘くささやいてくれたかもしれないのに。
(……今頃、なにしてるのかな?)
保はしばらく考え、ようやく心を決めて携帯に手を伸ばした。相変わらずろくに走らない車の列。話すくらいならいくらだってできる。謝るだけなら、簡単にできる……。
微かな電子音が響いて、その後に相手を呼び出す音が耳に届く。携帯を握る手がほんのちょっぴり震えていた。
かなり長い間待たされて、ようやく電話に彼が出た。
『……ふぁい?』
なんだかふざけたような、酔っ払ったような声。いつもの彼じゃない……。保は怪訝に思いながらも、恐る恐るつぶやいた。
「あ、あの……俺」
『はあ? 誰ぇ?』
やけに大きな声で問い返される。保は思わず携帯を耳から話して、思いっきり眉をひそめた。なんだと言うのだ? いつもなら声だけでちゃんと聞き分けて、優しく、保さん、と応えてくれるのに。
だが、もう一度話しかけようと寄せた保の耳に、思わぬ言葉が聞こえてきた。
『おーい、誰からだぁ?』
『わかんねー』
『いいからほっとけってー』
それと一緒に、大人数がワイワイ騒ぐ賑やかな音。馬鹿笑いやら楽しそうな喋り声やらが、後ろの方から盛大に聞こえてくる。それは明らかに、パーティの真っ最中のざわめきだった。
「…………!」
保はムカッとして通話をぶち切ると、再度携帯を投げ捨てて叫んだ。
「バッカヤロー! 本当にパーティすることないだろうが! 何考えてんだよ、ジーンったら!」
大声で悪態をついて、それでも収まりきらずにハンドル叩いたり、横の窓ガラスを叩いたり、ありとあらゆる所へやつあたりする。
そんな激情がおさまった時には、いっそう切なさと哀しさが胸の底からこみあげてきた。
「……ジーンのバカ……」
噛み締めた唇の上に塩辛い滴が伝って落ちた。苦い苦いクリスマスの夜の味だった。
≪続く≫ |