Dangerous night!   ー出張編ー

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ー 後編                        
 
 ピシュッと甲高い音が響いた。
 誰もいなくなった風呂場の脱衣場で、啓太は自動販売機で買った缶ビールを一息に飲み干すと、ハーッと大きく息をついた。
 心臓が今だドクドクと鳴っていた。体が燃えるように熱いのは、今飲んだビールのせいと、長く浸かりすぎた湯のせいだ。そして……森太郎の思いもかけないあの言葉と……。
「まいった……どうしよう」
 思わず泣き言が口からこぼれた。自分が言い出したこととはいえ、まさかこんな展開になるとは思ってもいなくて、なにをどうすればよいのかわからなかった。
『今夜果たしてもらおうかな? 風倉さん?』
『応えて差し上げてもいいんですよ、俺は』
 森太郎の言葉が頭の中でリピートする。
(それってつまり……そういうことだよな。つまり、あいつと……寝るってことで……)
 自分で言葉にして啓太は耳まで赤面した。そんなの考えたこともないことだった。
 だいたい男に対してそういう感情を抱いたこともないし、もちろん欲情したことだってない。いたってノーマルで、極めてストレートに生きてきた啓太だ。類は友を呼ぶで、まわりの友人にだって、そんなタイプは全然いなかった。だから男同士のなんとかなんて、まるっきり無知の世界なのだ。
『知ってるんでしょ? 俺がゲイだって噂』
(ほんとに、そうなのか? あいつ……)
 今までただのやっかみ半分の中傷にすぎないと思っていた噂。それがこんな形で彼自身に肯定され、啓太にとって少なからずショックだったのは確かだった。だが不思議と、だから嫌悪するとか、彼が気持ち悪いとか、そういった感情は少しも湧いてはこなかった。
 今感じている困惑だって、森太郎が嫌で困っているわけではないようなのだ。ただただ思いもかけない事実に当惑し、戸惑っている、そんな感じだ。そんな自分自身の感情に尚更当惑し、啓太は頭をかかえ嘆息した。
 ちらりと時計を見ると、もう夜の十時を少しすぎていた。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。まさか一晩中彼を避けて部屋に戻らない、なんてことはできない所業だ。明日も仕事はあるのだ。ちゃんと休んでおかなければ、帰りの運転だっておぼつかない。
(あ、帰りはあいつが運転代わるって言ってたっけ……)
 ふとそう考え、啓太はハッとした。今こうして逃げていたって、ずっと逃げ続けている訳にはいかないのだ。明日も一緒に営業で回らなきゃならないのだし、帰りの車だって一緒だ。その先だって、同じ会社、同じ部署でずっとずっと……。逃げていたって始まらない。彼とはこの先もずっと顔をあわせていくのだから。
(それにあいつ……今日は俺を助けてくれたんだよな……)
 啓太は一番大事なことを思い出した。
 走行中、ずっとキーボードをにらみ続けて見積もりを作っていた彼。信じられない早さで仕上げて、もう少しでとんでもない失敗をやらかすところだったMK物産との取引を、なんとかサポートしてくれた彼。そして、何一つ自慢も文句も責める言葉さえも口にしなかった森太郎。
(皆川……)
 啓太は掌の中で弄んでいた殻の缶ビールをぼんやりと見つめた。
(そうだよな、これって俺が言い出したことなんだよな。だいたいが俺のミスから始まったことなんだ。あいつはただ俺を助けてくれて、それで……俺の押し付けがましい恩返しに応えてるだけ。なのに、俺が逃げてどうするんだよ。何でもするって言ったのは俺なのに……)
 啓太はしばし考えて、そしてきゅっと口を結んで決心したように立ちあがった。
 ドギトキと高鳴り続ける胸を抑えながら、彼は部屋へと戻った。持っていたカードキーでドアを開ける。部屋には、森太郎が独り、並んで敷かれた布団の上に座って、テレビを見ていた。
 彼は啓太が入ってきても、振り返りもしなかった。ただじっとあぐらを掻いて座ったまま、背中を向けている。あまりにも待たせたので怒っているのか、それとも情けない奴と呆れかえっているのかと、啓太はちょっと不安になった。
 おずおずと中に入り、部屋の隅に立ったまま森太郎を見た。備え付けの浴衣をちょっと窮屈そうに着て、ニュース番組を見入っている彼。その背中はがっしりと広い。さきほど露天風呂で彼の胸に抱きとめられたことを思い出し、啓太は耳まで赤くした。
 やはりものすごくためらいがあった。逃げている訳にはいかないと決心してやってきたものの、森太郎を前にすると途端に頭がパニックになって、いてもたってもいられなくなる。逃げ出したい気分をなんとか抑えて、啓太は一度ごくんと唾を飲むと、ゆっくりと彼に近づいた。
 すぐ後ろまで行って、布団の上に腰を下ろした。緊張のせいで思わずお行儀良く正座してしまう。握り締めた両手を膝の上にそろえて、彼は上ずった声で話しかけた。
「み、み、皆川、ままま待たせてわるかった。お、俺、覚悟を決めたから、すす、好きにしてくれ」
 一大決心で言った言葉だったが、森太郎は返事ひとつしなかった。無言のまま眼前のテレビを見続けている。啓太は遅れてきた事をよほど怒っているのかと、焦って言い訳した。
「お、遅くなってすまん。で、でも、俺もそ、それなりに心構えってもんがさ、必要だったんだよ。俺、その……おと、男とって、全然、経験した事ないし、おまえがこんなこと言ってくるとも、思ってなくてさ、だから……」
 啓太は、口にしながらどんどん緊張と不安が高まってくるのを感じた。漠然とした困惑が、彼を前にしてにわかに現実味を帯びてくる。いったいこの後どうなるのか想像もつかなくて、膝の上の手がぶるぶると震えた。
 すがるように森太郎を見たが、彼は相変わらずうんともすんとも返してこない。啓太は震える声で話し続けた。
「俺、その、初めてでさ、全然わかんなくて……正直、すっげえ怖いんだ。でも、おまえと約束した事だし、俺おまえには本当に感謝してるし、だから……俺、なんでもするから、言ってくれよ、皆川。俺どうしたらいいんだ? なあ?」
 と、その時、初めて森太郎がつぶやいた。
「……グー」
「……は?」
 啓太は思わず聞き返した。
「グ、グーって……なに? なんか特別な意味があるのか?」
「……」
「お、おい、皆川、なんなんだよ? グーってなんだよ? おい?」
 だが森太郎はそれ以上何も言わない。啓太は悩んで、思わず自分の拳を見つめた。
(グーって、じゃんけんのグーか? なんでじゃんけんなんか……)
 と、ふとその手を見て、昔見た外国のポルノ雑誌を思い出した。それはもちろん男と女のまっとうな関係だったが、やってること事態は余りまっとうとは言えず、かなり悪趣味でグロかった。なんせ、女性のバックに握りこぶしを突っ込んでいたのだから。
(え、え、まさか……。グーってこのグーのことなのか? それ、それ……まさか……)
 スーッと顔から血の気が引いていく。啓太は思わずじりじりとあとずさった。
「ちょ、ちょっと待て、皆川。それだけは勘弁してくれ。お、お、俺は初心者なんだ。そんなもん絶対入んねー。ぶっ壊れる……。そ、それだけはイヤだ、やめてくれ、頼むから……」
 すると、今度は別の一言を彼はささやいた。
「スー」
「スー?」
 啓太は再び問い返した。なんのことだか見当もつかない。どうも先程からわけのわからない要求ばかりで、啓太はだんだんと苛立ちを感じてきた。せっかく一大決心をしてやって来たというのに、当の森太郎はまるで遊んでいるみたいに真剣味がない。いや、もしかしたら、本当に遊んでいるのかもしれない。啓太の動揺する姿を見て面白がってるのかも。
「……皆川、からかってんのか?」
 啓太は訝しげに問いかけた。だが森太郎はやはり無言のままだった。背中を向けたまま、ただの一度もこちらを見ようとしない。向こうをむいた顔にあの馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている気がして、ムッとして言い返した。
「何だよ、皆川。こっち向けよ。てめえ、俺を馬鹿にして遊んでんのかよ?」
 しかしそれでも返事はなかった。啓太はいっそう腹が立って、思わず逃げていた事も忘れ、森太郎ににじり寄り、前にまわって顔を覗きこんだ。
「おい! 皆川! 返事しろ!」
 と、彼の顔を見た瞬間、思わず言葉をなくして固まった。
「は……?」
 森太郎はーー眠っていた。
 それも、いかにも気持ち良さそうに、スースーと寝息を立てて。
 啓太はあっけに取られて彼を見つめた。最初は寝たふりをしているのかとも疑ったが、そうではないようだ。寝たふりをしている人間には、こんなに無防備な表情はできやしない。それでも啓太は一応声をかけてみた。
「皆……川? なあ、聞こえてるの?」
「スー……」
 返ってきたのはなんとも心地良さそうな寝息だった。
 正座ではないにしても、胡座をかいて座る背筋はピンと伸び、まっすぐ前を見つめて舟一つ漕ぐわけでもない。まるで座禅でも組んでいるかのようなお行儀の良さだ。なのに、完璧に寝ているのだ、この男は。器用なことこの上ない。啓太はしばし唖然としてその様子を凝視し、やがて大きな息をついた。
「はぁぁー」
 体から力が抜けて、がっくりと布団の上に座り込んだ。
 どうやらこの様子では、部屋に入って来た時からすでに眠っていたに違いない。あんなに緊張して戻ってきて、必死の思いで宣言して、挙句の果てには彼の寝息を勝手に解釈してアタフタしていたのは、なにもかも啓太の勝手な独り相撲だったのだ。
 啓太は気が抜けて、ボソリとつぷやいた。
「なんだよ、人がさんざん悩みまくって、清水の舞台から飛び降りる気持ちで決心したってのによー。こいつ独りでさっさと眠っちまいやがって……。俺をどうにかしたいんじゃなかったのか?」
 決してがっかりしたわけではないが、思いきり肩透かしを食わされたのも事実だった。啓太は森太郎の安らかな寝顔を見ているうちに、ムカムカと腹が立ってきた。
 人を誘っておきながら放っておいて寝てしまうなんて、失礼きわまりない奴だ。これでは独りドキドキして緊張した自分がまるっきり馬鹿みたいじゃないか。おまけに余計な心配までさせられて。
(くっそー、人をおちょくるのもいい加減にしやがれってんだ! バカヤロー!)
 啓太は森太郎の浴衣の襟首を掴むと、ぐいと引き寄せて叫んだ。
「てめえ! 起きやがれ! 目を開けろってんだ、皆川―!」
 すると、その声に従うように、森太郎は突然パチリと目を開けた。
 触れるほど間近に森太郎の顔。しかも大きく開いた瞳が、まっすぐに啓太を見つめている。啓太は思わずたじろいた。
「な……、なんだよ、起きたのか?」
 森太郎はニッコリと破顔した。最上級の笑顔だ。こんな風に笑う彼の顔など見たことがない。啓太はかあっと顔が熱くなって、慌ててそれを押し隠すように文句を言った。
「お、お、おまえなー、馬鹿にしやがると、いくら俺だって……」
 だがその声は最後まで続かなかった。
 森太郎の腕が伸びてきて、背中に回ったかと思うとそのまま彼は身を寄せ、のしかかってきた。彼よりは一回り小柄な啓太は、あっさりと布団の上に押し倒された。
「わ……」
 森太郎が全体重をかけて体の上にのしかかっていた。がっしりと広い胸に押さえつけられ、身動きできない。そして、はだけて露わになった素肌の胸に触れている柔らかな感触は、多分森太郎の唇……。
 啓太は一瞬硬直した後、大声で叫んだ。
「わーっ、わーっ、わーっ! て、てめー、不意打ちとは卑怯だぞー! みみ皆、皆川―!」
 必死に彼の体を押しのけようとしたが、全身でのしかかっている彼の体は、そう簡単には離れなかった。それでも懸命に抵抗してもがいているうちに、ふと啓太はあることに気づいた。
 森太郎は、なにもしていない。
 ただのしかかっているだけ。しかも特別力を込めるでもなく。
 啓太は暴れるのをやめて、恐る恐る話しかけた。
「……皆川?」
 やっぱり返事はなかった。胸の上から、静かな寝息が聞こえてくる。規則正しい、穏やかな呼吸の音。眠る天使のアリア。
(寝てる……のか? じゃこいつ、寝ぼけてた……?)
 それに気づいた途端、全身にどっと脱力感が襲ってきた。先程目を開けたのも、ニッコリ笑って押し倒してきたのも、なにもかも寝ぼけたうえでの行為、まるっきり意識なくやっていたことなのだ。それをまともに受けとって、ドキドキジタバタいいだけ踊らされ、まったくいい面の皮だ。自分自身が情けなくなってくる。
 啓太はハアと吐息をつき、呆れかえって天井を見つめた。
 静かな部屋。テレビの音だけが、小さく聞こえてくる。それと心地良さそうな森太郎の寝息。触れ合う胸を通して伝わってくる彼の鼓動。
 啓太はボソリとつぶやいた。
「おまえね、大物だよ。こんだけ騒いでもグースカ眠りやがって。俺のことなんかまるっきり手玉に取りやがって。まったくもう……」
 手を伸ばし、そっと彼の髪に触れる。細く黒い髪は、驚くほど柔らかかった。
(そっか、疲れてんだよな。昼間あれだけ頑張ったんだから。俺の三日分の仕事を数時間でこなしやがってよ、ほんとにやな奴だよ、おまえって)
 啓太は髪を優しくなでながら、眠っている森太郎にそっとささやいた。
「おい、皆川。ちゃんと布団の中で寝れよ。でなきゃ疲れ取れないぞ」
 だが返ってくるのは、穏やかな寝息だけだった。啓太はふうとひとつため息をついて、長い間ずっと彼を上に乗せたまま天井を見つめていた。
 つけっぱなしのテレビが、
11時の時を告げていた。


 ビルから出てくると、外は嬉しくなるほど晴れていて、蒼く澄みきった空が広がっていた。
 出張二日目の日程も全てこなし、あとは車を走らせて帰るばかりだった。
「ハアーッ、終わった終わった。とりあえずやるべきことは全部やったぜ」
 啓太は青空に向けて大きく伸びをしながら、叫んだ。すると、横にいた森太郎が穏やかに応えて返した。
「ご苦労様でした、風倉さん」
 いつものクールな無表情に微かに口元に笑みを添え、ちょっと小馬鹿にしたような瞳を向けて見つめている。啓太は頬を染め、ぷいと顔を背けた。
 まったくペーペーのくせに妙に落ち着き払っていて、なんとも憎らしかった。だいたい今回苦労をしたのは森太郎のほうなのに、そんなことなど微塵も見せないで飄々としているあたり、感心もするけれど、またちょっと癪にもさわる。
 啓太が無言のまま運転席に乗り込もうとすると、森太郎に止められた。
「あ、帰りは俺が運転しますから」
 骨ばった大きな手が、啓太の肩に添えられる。思わずポッと赤く火照った顔を背けて、啓太はその手を振り払い、ぶっきらぼうに言った。
「い、いねむりすんなよな」
 森太郎はクスリと笑った。
「大丈夫ですよ、俺昨日はたっぷり寝ましたし」
 その言葉に昨晩の事を思い出して、啓太は全身が熱くなった。慌てて気づかれないように助手席側に回って、さっさと乗り込む。森太郎が悠然と後に続き、慣れた手つきで車を発進させた。
 しばらくそのまま無言で走っていたが、やがて森太郎が口を開いた。
「実は俺、昨日の夜いつ寝たか全然記憶にないんですよね。ニュースが始まった所までは覚えてるんですけど」
 不思議そうな口調でそう語る。啓太は内心ドキンとしたが、返事もしないで黙って聞いていた。すると森太郎は屈託ない様子で尋ねてきた。
「風倉さんが戻ってきた時って、俺もう寝てましたよね? ちゃんと布団に入ってましたか、俺? 迷惑かけませんでした?」
 あの独特のまっすぐな瞳で見つめてくる。啓太はいっそうドキドキしながら、答えた。
「べ、別にちゃんと寝てたよ、グーグーと。だいたい、おまえが俺にどんな迷惑かけるって言うんだ? ガキじゃあるまいし」
「まあ、それもそうですけど」
 啓太が必死に平静を装って話すと、森太郎は納得しかねる様子ながらも相槌をうった。
「でも風倉さん、今朝やけに布団の端っこで寝てましたし、俺独りで布団占領してたんじゃないかと心配で。俺って一度寝ると何しても起きない人間だから」
 啓太は聞きながらどんどん体が熱くなるような気がした。
 昨夜はあれから、なんとか彼の体を自分の上から引き剥がすと、ずりずりと手荒に引っ張って布団に押し込んだのだが、彼が言うとおリ、その間森太郎は一度も目を覚ますことがなかった。それどころか、本当に寝ぼけた上での行為なのかと疑うほど、夜中に何度も啓太の方に擦り寄ってきて、その度にガシガシと乱暴に蹴り戻したのだが、どうやらそれもまったく覚えている様子はなかった。
(まったく、大物すぎるぜ、てめぇはよ。普段は欠点一つないような顔して取り澄ましているくせに)
 啓太はちらりと彼をうかがい見た。運転している横顔は相変わらずクールで、そして綺麗だった。とてもあの子供みたいに寝こけている姿は想像できない。啓太はちょっと可笑しくなって、密に口元をほころばせた。
 すると、すかさず森太郎が察して、視線を向けた。
「なんです?」
「な、なんでもねーよ!」
 啓太は慌てて顔を背けると、照れ隠しも兼ねて、窓の方を向いたままシートにもたれかかって言った。
「お、俺、昨日あんまり寝てねーんだ。眠いから寝るわ。運転頼むな」
「ええ、いいですよ。どうぞ」
 森太郎は軽く答えた。
 しばらく車内は静かだったが、ふと彼がつぶやいた。
「そういえば……昨日風倉さんが喋っていたのを聞いたような気がするんですが、何か話してましたか?」
 静まりかけていた鼓動がまたいっきに爆発する。耳の先まで赤くなるのを感じながら、啓太は黙って寝たふりを決めこんだ。何を話したかなんて言える訳がない。森太郎の冗談を真面目に受けとって、いいだけ悩んだ挙句に覚悟を決めて寝る気で戻ったなんて。
 啓太がスースーと嘘っぽく寝息を立てていると、森太郎はちらりと瞳を向けた。
「寝ちゃいました? 風倉さん?」
 啓太が黙っていると、しばし沈黙があり、やがて彼が低く甘い声でささやいた。
「そんなに可愛い顔で寝られると弱いなぁ。……襲っちゃおうかな?」
「バ……! バカ野郎! 何言って……!」
 啓太が思わずガバッと跳ね起きると、森太郎はプっと吹きだし、そしてくすくすと笑った。
 思いっきりからかわれている。
 啓太は顔を真っ赤にして荒く鼻息をつき、森太郎をにらみつけた。だが彼は相変わらず可笑しそうに笑い続けている。啓太はプイと背中を向けると、座席に顔を埋めるようにもたれて、怒鳴った。
「俺は寝る! 本当に寝るからな! 着くまで起こすなよ、皆川!」
 森太郎は楽しそうに応えた。
「はい、おやすみなさい、風倉さん」
(チクショー、チクショー、皆川のバッカ野郎!)
 背中の向こうで、森太郎が満足そうに笑っている気がした。


 窓の向こうに広がる空は、どこまでも蒼く澄み渡っていた。

                                                  ≪終≫
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