Dangerous night!   ー出張編ー

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ー 前編                        
 
 啓太は車から降りると、蒼く澄みきった空に向かって、うーんと大きな伸びをした。
 平日とあって、高速のパーキングエリアはさほど混雑はしていなかったが、それでも広い駐車場には多くの車が止まっていて、皆が運転の疲れをそれぞれに癒していた。
 運転で緊張した筋肉をほぐすように啓太(けいた)が簡単な柔軟体操をしていると、乗っていた車の助手席から一人の男が降りてきて、淡々とした口調で話しかけた。
「風倉(かぜくら)さん、コーヒーでも飲みませんか?」
 啓太は体操を続けながら、軽い口調で応えた。
「あ、俺トイレ行ってくるからさ。俺の分、買っておいてくれる?」
「わかりました」
 啓太は歩きかけた男に向かって、声を張り上げた。
「な、砂糖とミルク、二人分もらっておいてくれよな、皆川」
 男は振り返って、かすかに馬鹿にしたような眼差しを向け、薄く笑った。それでももう一度わかりましたと返して、そのままショッピングコーナーのほうへと歩いて行った。
 啓太はその後ろ姿を見ながら、小さく舌打ちした。
「ちぇ、まったくやな野郎だよな、あいつ。なんであいつと出張なんかする羽目になったんだか……」
 啓太と皆川は、同じ会社の同じ部署だった。とはいえ、これまでは違う班で別々の仕事をしていたのだが、今回に限って新しいシステムの販売に合同で取り組むことになり、この出張も彼がサポートとして同行することになったのだ。
 もちろん啓太は皆川のことを知ってはいたが、一緒に仕事をするのも親しく話をするのも、これが初めてだった。
 皆川森太郎(みながわ しんたろう)。このどこか古風な名を持つ男は、今年入社してきたばかりのペーペーだったが、すでに会社の有名人だった。というのも、とにかくありとあらゆる面で目立つ男だったから。
 学歴もさることながら、彼は他のおどおどした新入りとはまるで違って、入って来た時から堂々としていて、仕事もバリバリこなした。一度説明されたことは完璧に理解し、任された仕事はミスひとつなく成し遂げ、入社半年にしてすでに一人前以上の活躍をしていた。
 判断力も行動力も優れていて、ただひとつ欠点があるといえば、それはクールで無愛想と言うことだったが、それも取引先に対してはそつなく営業スマイルを欠かさなかったし、受けも良かった。なにより、こいつなら任せても安心と思わせるほどの風格みたいなものが、客に信頼を抱かせるのだろう。今ではわざわざ担当に彼を指名してくるような会社も、少なくはなかった。
 それほどの男なのだから目立って当然とも言えるのだが、それ以上に彼が目立つのにはもうひとつの理由があった。いや、ふたつというべきだろうか。
「天はニ物を与えずなんて言うけど、嘘ばっかりだよなぁ。あいつなんて、何もかもゲットって感じじゃないかよ。ずりいよなー、一人で頭も顔も手に入れやがって」
 啓太はトイレに向かって歩きながら、プツプツとつぶやいた。
 そう、森太郎はハンサムだった。それもかなり、だ。男の啓太の目から見てもカッコイイと思えたし、思わず見とれてしまうことだってあるぐらいだ。キリッと知的に整った容姿は見る者を惹きつけたし、特に縁のない眼鏡の奥にひそむ瞳は、まっすぐに見つめられるとドキドキするような不思議な魅力を秘めていた。
 加えて背も高く、細身のわりにはがっしりとした骨格に、スラリと長く伸びた足と低くて甘い声がついてくれば、それはもういるだけで女の子達の憧れの的になるわけで、当然の如く彼は女子社員からは愛の眼差しを、そして男子社員からは羨望と嫉妬の視線を浴びていた。
 だが、当の本人は、そういった仕事以外の自分に対する評価にはまるで関心がなさそうだった。女の子たちの露骨で積極的なアタックにも、さらりと受け流し、平然としていた。それがまた、同年代の男たちにはどこかカチンとくるところでもあったのだった。
 啓太も、そういう意味で言えば、なかば嫉妬からくる八つ当たりのような感情を森太郎に抱いていた。
 啓太自身だって一応人並みには仕事もできると思っていたし、顔だって多少歳のわりには童顔かも知れないが、いわゆるジャニーズ顔でまあまあイケテルと思っていたのだ。だが森太郎に比べるとどうしたってかなうレベルではないように感じて、劣等感を抱いてしまう事しきりなのである。
「そういやぁ、経理のみどりちゃんもあいつにメロメロだって話だよなぁ。ちぇー、我社のマドンナがよ、腹立つなー」
 啓太はアスファルトの上に転がっていた空き缶をコンと蹴飛ばした。
 どうも森太郎に対しては、冷静に受け入れることが出来なかった。三つも年下でありながら、やけに堂々としていて、面と向かって相対すると、こちらの方が臆してしまいそうにさえなる。そんなところがまた悔しい。ライバル意識というわけではないのだが、何故か彼の一挙手一投足が気になってしょうがないのであった。
 もっとも、気にせざる得ないような原因がないわけでもないのだ。
 森太郎は、何故だか時々啓太をじっと見ていることがあった。とはいえ、そのほとんどは先程見せたような冷たく馬鹿にしたような眼差しなのだが、それでも時々ドキリとするような瞳を向けてくることもあって、啓太はひどく困惑してしまうのだ。
 ふと昨日会社の同僚にからかわれた言葉を思い出した。
『風倉―、貞操に気をつけろよぉ。背中向けて寝るなよな』
 その時は思いっきりそいつの頭をどついてすましたのだが、今になって何故かまざまざと脳裏に思い浮かんでくる。
 森太郎が注目を引くもうひとつの理由はそれだった。
 つまり、彼はゲイであるという噂が、どこからともなく、まことしやかに流れていたのである。
 もちろん、当の本人に真偽を尋ねた者がいるわけではない。しかしこれだけもてながらも、ただの一度も女性の誘いを受けたことがなく、恋人やGFの匂いを感じさせることもなかったので、やっかみ半分にそんな疑いを掛けられているのだった。
 啓太は今夜のことを考えると、何故だかカアッと顔が熱くなった。会社で用意している宿泊先はツインだろう。当たり前といえば当たり前で、それまでだって同僚たちと同じ部屋に泊まることはしょっちゅうだったが、相手が森太郎となると、少なからず戸惑いを隠せない。彼の噂を信じている訳ではなかったが、一緒にいるだけでなんとなく落ちつかないのも事実だった。
 フウと大きくため息をついて、啓太は用を済ませてから駐車場へと向かった。トイレは結構混んでいて、随分時間がかかってしまった。きっと森太郎が待ちわびていることだろう。車まで戻ってみると彼はすでに助手席に座っていて、なにやら真面目な顔つきで何かを見ていた。それは今日の営業で取引先に渡す商品説明の資料と見積もりだった。
「悪い悪い、遅くなっちまった。あ、これ俺のコーヒー?」
 啓太がダッシュボードに置かれた紙コップに手を伸ばしかけた時、森太郎が低い声でぽつりと言った。
「風倉さん、俺の記憶違いなら悪いですけど、今日、MK物産の方にも寄る予定ってありませんでしたっけ?」
 啓太はくるんと目を見開いて、小首を傾げた。
「え? そうだけど、なんで?」
「これ……MK物産に出す見積もり、抜けてますよ」
 啓太は一瞬ぽかんと口を開け、直後に大声で叫んだ。
「あああーっ!」
 森太郎の手からひったくるように資料を取ると、目を皿のようにして見なおした。だがそこに目当てのものがないことは、誰あろう彼が一番良く知っていた。何故なら、昨日一部手直しをしようと思って家に持ち帰ったのは啓太自身だったからだ。
「……あ、あ、どうしよう……。俺、家の机に置き忘れてきたんだ。やべぇ、どうしよう……」
 啓太は真っ青になってうわ言のようにつぶやいた。今更取りに戻る事は不可能だし、場所が場所だから届けてもらうわけにもいかない。置き忘れた場所が会社ならば、ファックスでコンビニかどこかに送ってもらうことも出来たかもしれないが、自宅とあってはどうしようもなかった。
 啓太が愕然としていると、森太郎は冷静な声で言った。
「風倉さん、MK物産のほうに電話して、訪問を明日に伸ばしてもらえないでしょうか?」
 啓太はおろおろしながら、問い返した。
「え? なんで?」
「急いで誰かに風倉さんの家に行ってもらって、宅急便でホテルに送ってもらったら?」
「あ、そっか……」
 啓太は建設的で冷静な森太郎の提案に少し落ち着きを取り戻したが、しかしすぐに首を振った。
「でも……だめだ。俺一人暮しで、俺のアパート管理人とかいないから、部屋開けられない……。それに、MK物産の担当部長ってすげー気が短くてうるさいんだ。日時変更しろなんて言ったら、絶対へそ曲げられる……」
「でも見積もり無しじゃ、売りこみだってどうにもならないでしょう?」
「うん……」
 啓太は情けなくうなだれ、がっくりと肩をおとした。
 まったく、とんでもない失態だった。MK物産は今はまだそれほど大きい取引きは無いが、今回の新システム導入が決まれば、それに付随して今後どんどん売上を拡大できる相手だった。恰好の取引先で、今回の仕事は絶好のチャンスでもあったのだ。だからこそ、少しでも良い数字を出せるようにと、昨夜家まで持ち帰って遅くまで手を入れていたのだ。
「どうしたらいいんだ……。よりにもよってMKをミスるなんて、俺、大バカ野郎だ。どうしよう……」
 啓太がすっかり落ちこんで頭を抱えていると、森太郎はしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて落ちついた声で尋ねてきた。
「風倉さん、MK物産の訪問予定って、午後の3時でしたよね?」
「ああ、そうだけど……」
 啓太が泣き出しそうな顔を上げて力なく答えると、森太郎はしっかりとした瞳で見返し、驚くほど冷静に言った。
「持ってきてるノートパソコンに、あそこのデータ入ってましたよね? 確か」
 啓太は訳がわからず、ただ黙ってうなづいた。すると森太郎は後ろ座席に積んであったパソコンを取ると、すぐさま動かし始めた。
「何する気なんだ?」
 森太郎は膝の上の画面を見つめながら、淡々と答えた。
「作るんですよ、見積もり。データがあればどうにかなる」
 啓太はびっくりして反論した。
「作るって! そんなの無理だよ。俺、あれ作るのに三日もかかったんだぜ。それを今からなんて」
 とても間に合わない……そう啓太は思った。時間にすれば、あと4時間あるやなしやだ。いくら森太郎の仕事が早いとはいえ、それはあまりにも少なすぎて可能の範囲を越えている。
 だが森太郎はいつもと変わらないような顔をして、口元に冷ややかな笑みを浮かべ、言った。
「大丈夫ですよ。それより、京王と中丸商事の説明は、風倉さん一人で行ってもらえますか? 俺、その間に作成してますんで」
 彼は憎らしいほど平然とそう言いきった。だがそれは啓太の心をたいそう落ちつかせた。
 大丈夫……彼がそう言ったなら、本当に大丈夫かもしれない。森太郎ならどうにかしてくれる、そんな根拠のない期待を抱かせるような力強さが彼の言葉にはあった。
 それから、高速を飛ばしている間もずっと森太郎はキーボードを叩き続けていた。さすがにその横顔は真剣で緊張感が張り詰めていて、無駄口もいっさいなかった。ただ画面を見つめて、素早く手を動かし続けている。
 啓太はそんな彼を横にしながら、祈るような気持ちで運転していた。
 できることなら、失敗は自分の手で償いたい。だが今の自分の力では、それは無理だと言うことは、いやになるほどわかっていた。自分には絶対あと何時間かで見積もりを仕上げるなど不可能だ。ならば、今は彼に頼むしかないのだ。こいつならやれるかもしれないと思わせる、この森太郎に。
 啓太はきゅっと唇を噛み締め、ひたすら車を走らせるのだった。


 男のゴツイ手が、すっと前に差し出された。男は気難しそうな顔に笑みを浮かべて、満足そうに言った。
「わかりました。前向きに検討してみましょう。今すぐ返事は差し上げられないが、多分会社のほうとしては導入を決定することと思います。私の方からも、強く推してみましょう」
 啓太は顔をきらめかせて、男の手を握り返した。
「ありがとうございます。今度の商品は絶対満足行くものだと思いますので、なにとぞよろしくお願いします」
 そう言って深く頭を下げると、ちらりと横にいる森太郎を伺い見た。彼は端正な顔に良く出来た営業スマイルを浮かべて、同じように頭を下げていた。
 二人はMK物産の会社を後にすると、駐車場に止めてあった車に戻った。今日の営業はこれで終わりだ。あとはホテルに行って寝るだけである。
 啓太は車に乗りこむと、何事もなかったかのように平然としている森太郎に向かって、シートに手をつき、深深と頭を下げた。
「ありがとう!」
 森太郎はちょっと驚いたような顔をして、訝しげに尋ねた。
「なんです? 急に」
 啓太は頭を下げ続けたまま喋った。
「皆川のおかげだ。俺の失敗で大変な事になるところだったのに、おまえが頑張って見積もり仕上げてくれたから、どうにか契約できそうだ。本当に助かった。ありがとう」
 熱っぽく話す啓太に比べ、森太郎はつらっとした顔で、相変わらず憎らしくなるほど冷静に応えた。
「不測の事態に適切な対処をするのは、社員として当然の行為です。別に礼を言われるような事じゃない」
「でも、俺は本当に感謝してるんだ。だから、俺にできる事があったらなんでもする。言ってくれ」
 啓太は顔を上げ、がばっと身を乗り出して迫った。もともと直情型熱血タイプの啓太だ。こうと思ったら、なりふりかまわず突き進むところがある。特に今回の事は、それまで勝手に苦手に思っていた森太郎が自分の失敗を見事にサポートしてくれ、おまけにそれを恩着せがましく得意がることもなかったので、感謝と感激で胸が一杯だったのだ。
 だが当の本人は、啓太の熱い思いにもいささか戸惑い気味らしく、困ったように眉をひそめてつぶやいた。
「なんでもって言ったって……」
 啓太はいっそう身を乗り出して迫った。
「そ、そりゃ、俺はおまえほど仕事はできないし、こんなミスもしでかしちまうし、おまえが俺に頼むような事は何もないかもしれないけど……、でもこのままじゃ俺の気がすまないよ。頼むから礼をさせてくれ、皆川」
 くるんとした瞳をキラキラさせて、真剣な表情でじっと森太郎を見つめる。
 森太郎はしばしその迫力に圧倒され、困惑して黙り込んでいたが、やがてハアと大きくため息をつき、仕方なさそうに応えて返した。
「……わかりました、考えておきますよ」
「おう! 頼むぜ。いつでも言えよ。遠慮すんなよ、な?」
 啓太はたいそう嬉しそうに破顔した。まるで子供みたいに素直に反応する。森太郎は、ちょっと呆れたように目を丸くし、そして小さく鼻で笑った。なんとなく馬鹿にされてるような気がして、啓太は頬を赤らめ、つんと口を尖らせて尋ねた。
「なんだよ、何笑ってんだ?」
 森太郎は、シニカルな笑みを口元に浮かべ、意味ありげな眼差しを向けてみせた。
「いえ、別に」
「別にじゃないだろ? はっきり言え」
 彼は綺麗な顔にいっそう妖しい微笑をたたえ、面白そうな口調で答えた。
「ほんとに……そんな約束していいのかなって思いまして。あとで後悔しても知りませんからね、風倉さん」
 啓太は内心ちょっとビビったが、ポンと胸を叩いてみせた。
「お、おう。後悔なんかするわけねーだろ? 男に二言はないぜ。なんでもドンと来いだ」
 森太郎はそれでも面白そうに啓太を見つめていた。少し意地悪そうに向けている縁なし眼鏡の奥の瞳がどこか甘くて、啓太はドキリと胸が鳴った。思わず頬が赤らんで、それを隠すように顔を背けて、そのまま車を発進させた。
 ホテルに向かう間中、何故か鼓動はドクドクと高鳴ったままだった。


 ポチャンと頭上から水滴がひとつ落ちて来た。
 啓太は上を見あげて、満天に広がる星空を目にし、感嘆した。
「うっわー、すっげえ星。きれーだー」
 ベルベットのような闇の空に、きらめく星がたくさん散らばっている。ここしばらく星などゆっくり見たことがなかった啓太は、純粋に感動し、一人声を上げた。
 会社が用意していた宿泊先は、ビジネス用と観光用の中間みたいなホテルで、小さいけれど温泉がついていた。部屋に入り、適当に食事を済ました後、啓太は温泉につかりに来た。そこには狭いながらも露天風呂までついていて、風呂好きの啓太には大満足であった。
 平日とあってさほど宿泊客もいないのか、風呂場はほとんど貸しきり状態だった。何人かが入れ替わり立ち代り出入りし、長風呂の啓太は結局一人残って、夜風に吹かれつつのんびり星空を堪能していた。
 一人なのをいい事に、体を投げ出し、どっかと足を縁の岩に乗せるという、いささかお行儀の悪い恰好でリラックスしていると、突然白い湯気の向こうから声をかけられた。
「湯、熱くないですか、風倉さん?」
 ビックリして顔を向けると、そこには森太郎が立っていた。
 啓太は慌てて居住まいを正すと、どもりながら応えた。
「お、おう、結構ぬるめだぜ、ここの湯」
 森太郎はそれでも疑わしそうにゆっくりと足を踏み入れ、少しづつ確かめるようにして入って来た。啓太はその様子を見てニヤニヤと笑った。
「なんだ、おまえ熱い湯って苦手なの? へえぇ、おまえにも苦手なものってあるんだ?」
「どう言う意味です、それ?」
 森太郎はじろりと横目でにらんだ。でもその瞳はいつものクールなそれではなく、ちょっとすねたような子供っぽさを感じて、啓太はなんとなく可笑しかった。
 二人きりの風呂で、しばらくはお互い何も語らず、静かにつかっていた。が、ふと気づくと、森太郎がじっと自分を見つめている。啓太は思わず顔を赤らめ、怒ったように尋ねた。
「なんだよ?」
 森太郎はくすっと笑って応えた。
「いえ……」
 と一応は言いつつも、口元にはいつもの馬鹿にしたような笑みをうかべ、見つめ続けている。啓太はひどく困惑し、逆に彼のほうが視線をそらした。
 ドキドキする。森太郎に見つめられると、いつもそうだ。なんだか心を惑わされて、いてもたってもいられなくなる。啓太は湯気に隠れて、ちらりと彼をうかがった。
 風呂場で見る森太郎は、会社でいつも会っている彼とはちょっと違う感じがした。多分眼鏡をかけてないせいなのだろうけど、綺麗な顔がいっそう綺麗に見える。洗い立ての髪が黒く濡れてきらめいて、容姿の美しさを倍増していた。
 ドキドキの胸が、いっそう強く高まった。
(な、なんでだよ?)
 そんな自分がわからなくて、慌ててまた顔を背けてうつむいた。
 と、森太郎が突然名を呼んだ。
「風倉さん?」
「お、お、おおう? なななんだ?」
 思わず声が裏返る。振り向いた顔が耳まで赤く染まった。
 森太郎は怪訝そうな顔をした。
「顔、赤いですよ? ゆだってんじゃないですか?」
「だ、大丈夫だよ」
「あんまり長湯してると、のぼせます」
「わかってるよ。今出ようと思ってたんだ」
 啓太は口を尖らせて言い返し、立ち上がって彼の前を通って石の段に足をかけた。
 と、のぼせ気味でふらついていたところに、水苔で滑って足を取られ、思いきりバランスを崩してよろめいた。
「うわっ!」
 予想もしていなかった事態に、啓太は身構える暇もなくひっくり返った。が、その時、危うく湯の中に突入しそうな彼の体を、後ろから力強く抱きとめた手があった。
 がっしりと受けとめ、その広い胸の中に抱きかかえる。森太郎だった。
 啓太は息もなく彼を見つめた。
 眼前に森太郎の顔があった。啓太の背中に腕を回し、軽がるとその体を支えている。思いきり跳ねた湯が顔にかかって、黒い髪がきらきらと輝き、枝垂れた前髪を伝ってぽとぽとと流れ落ちていた。
 赤い唇が、ちょっと怒ったように固く結ばれていた。いつも小馬鹿にしたように向けてくる瞳が、燃えるようにじっと見つめている。触れてしまいそうなほどの、すぐ傍で……。
 啓太は言葉もなく、彼の胸に身を預けていた。何をどうすればよいのかわからない。頭が真っ白になって、ただただじっと森太郎を見つめ返すだけだった。
 最初に口火を切ったのは、森太郎だった。
「風倉さん、俺を挑発してるんですか?」
「な……!」
 啓太は唖然として口をあけた。
「な、な、なんだよ、それ?」
 予想外の言葉に思考がついていかない。だが森太郎の方は相変わらず飄々として言った。
「だって、あまりにもお約束に誘ってくれるから」
「さ、誘うって、俺は別に」
「風倉さんも知ってるんでしょ? 俺がゲイだって噂」
「え? あ、いや……その」
 聞かれた啓太が逆にうろたえてどもると、彼は冷ややかに鼻で笑った。
「わかってて誘ってるんなら、応えて差し上げてもいいですけどね、俺は。俺別に、男でも女でも、どっちでもかまわないし」
「み、み……皆」
 啓太は耳まで真っ赤になって、一瞬後に彼の腕の中で必死の形相で暴れだした。
「はは、離せ、皆川! 離せってば!」
「いいんですか?」
「離せって言ってるだろ!」
 森太郎は表情ひとつ変えず、パッとその手を離した。と、それまで支えられていた腕に突然放り出されて、啓太の体はそのまま派手な音をたてて水の中に落っこちた。
「ぶわあぁっ!」
 湯の中で水中遊泳し、慌てて顔を出して息を吐いた。
 気がつくと、それまで同じ湯船にいた森太郎はすでにあがっていて、上から冷ややかに啓太を見下ろしていた。そしてくすっと笑うと、口元に妖しい笑みを浮かべ、甘い声で言った。
「そう言えば昼間、風倉さん俺に約束してましたよね? なんでもするって」
 森太郎は唖然としている啓太を面白そうに見つめながら、意地悪く顎をあげた。
「それ、今夜果たしてもらおうかな? ね、風倉さん」
 啓太は呆然として彼を凝視した。
 言っている言葉は、とりあえずわかった。だが意味がすぐには理解できなかった。どうにか頭が動いて意味を察しても、なにをどう反応すればよいのか、全然わからなかった。
「こ、こ、今夜って……それ、それ……」
 森太郎はくすくすと楽しそうに笑って、情けなくポカンと口を開いて立ちつくしている啓太を残し、出ていきかけた。が、途中一度振り返って、綺麗な顔でニッコリと破顔した。
「いい加減あがらないと、本当にのぼせますよ、風倉さん」
 露骨にからかうような口調でそう言うと、彼はそのままスタスタと出て行ってしまった。とり残された啓太は、熱さと彼の言葉に全身を赤くして、長い間その後ろ姿を見送っていたのだった。
 
     
                                            ≪続く≫
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