出口の部屋

 


 選んだ部屋に入った夕日は、あれ、と首を傾げた。
 その部屋は、先ほどまでいた、あの広いオフィス風の部屋とはまるっきり違っていて、とても小さな、ただの四角の箱の中のようだった。
 ドアから出てすぐ目の前に、真っ白な壁が広がっている。左右の壁も同じように間近にまで迫っていて、ひどく狭苦しく、息が詰まるような閉塞感をいだかせた。
「……なんだか、変なところだなぁ? 出口に通じるドアなんてどこにもないけど、間違っちゃったのかなぁ……?」
 不思議に思いながら後ろを振り返った夕日は、思わず一瞬息を飲んだ。
 後ろには、今くぐったはずのドアが存在していなかったのである。
 そこにあったのは真っ白な壁だった。他の三面と同じ、なんにもない、ただの壁だけ。窓のひとつも、小さな隙間すら見あたらない。
「え……? そんな……嘘、なんで?」
 夕日は焦って後ろの壁を手探りで探った。しかしやはりそれはただの真っ白な壁で、ひび割れひとつ見つけることはできなかった。出口は……どこにもなかった。
「や、やだ……。どうして? どこからでればいいんだよ、いったい? どうなってるんだ、ここ?」
 急激に湧き上がってくる恐怖と不安に、胸が壊れそうなほどドクドクと高鳴った。唇が乾き、額に冷たい汗が浮かんでくる。見えないドアを求めて四方の壁を必死になって探る手が、ぶるぶると震えていた。
 出口のない部屋。
 いったい、どうやってここから出れば良いのだろう? 大声を出して助けを求めたなら、誰か気づいてくれるのだろうか? 遊園地の係員か誰か、いや、同じ建物内にいるはずの篤志は、わかってくれるだろうか?
 だが夕日はそんな期待を否定した。多分……どんなに大声でさけんだところで、きっと誰も気づいてはくれまい。それどころか、この迷路で迷子になったこと自体を忘れ去られてしまう、自分という存在がいなくなってしまう……、そんな恐ろしい結末を漠然と感じて震えあがった。
 思わず目頭が熱くなって、涙が溢れてきた。
 どうしたらいいんだろう? 一生ここに閉じ込められたままなのか? 
 夕日はプルプルと首を振った。そんなのいやだ。絶対にいや。このまま戻ることができないなんて、篤志に逢えないなんて、そんなことこれっぽっちだって考えたくない。
 夕日はきゅっと強く唇を噛み締め、再び周りを探り始めた。どこかに必ず出口がある、きっとこの部屋から出る方法はある……そんな希望を失いたくはなかった。
 すると、ふいにどこからか、霞んだような声が聞こえてきた。
 ――ここにいればいいのに……
 夕日は驚いて顔をあげ、見えない声の主に向かって叫んだ。
「誰? 誰かいるの?」
 声は再びつぶやいた。
 ――ここにいればいいんだ……
 先ほどと同じ、不思議なささやきだった。耳に聞こえるような、そうではないような、遠いのか近いのかわからぬ場所から響いてくる得体の知れぬ声。だが不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、とても哀しげな、不安に満ちた声であった。
 夕日はしばし言葉をなくし、なにもない空間を見上げていた。
 周りから、せつない感覚が伝わってくる。深い孤独に包まれた魂の苦痛が感じられる。その魂が夕日を誘っていた。ここで一緒に……傍にいてくれと……。
 夕日はゆっくりと頭を振った。
「ここには……いられない。戻らなくっちゃ」
 ――どうして?
「だって……待ってるから……彼が」
 声は少しの間沈黙し、そして哀しそうに言った。
 ――おまえには、待っている人がいる……
「きみには……いないの?」
 夕日が問い返すと、声はしばらく考え、そして答えた。
 ――わからない。誰か……待っているような気がする。でも、そうじゃない気もする。わからない……。
 声は苦しげに語った。
 ――ここから出てはいけないと、誰かが言う。この魂がここから出たら、みんなが不幸になる、みんな哀しい思いをすると、誰かが言う。だから……出ていってはいけないのだ。この魂は世界には必要のない存在。いてはいけないもの。だからここにいなくては……
 まるで泣いているような魂の震えが伝わってくる。せつない心が伝わってくる。
 夕日は思わず身を乗り出して話しかけた。
「そんなことないよ! 世界にいちゃいけない存在なんて……そんなのない……。そんな風に思っちゃだめだ」
 ――…………
「昔ね、僕もそう思ったことがあったんだ。僕の母はとても体が弱くて、だけど無理をして僕を産んで、それでやっぱりいろいろと苦労したんだ。だから……生まれてきてはいけなかったんだって、子供の時僕は思った。僕なんかいないほうが良かったって……。でも……そうじゃないって父さんが言ってくれた。おまえがいるから皆が頑張れる、おまえがいるから皆が幸せに笑っていられるんだって話してくれた。世界に必要とされない存在なんて、この世にはなんにもないんだよって……そう言ってくれたんだ。だからきみも、いらないなんて言わないで。絶対に必要としてくれる人がいるんだよ、きみのことを」
 声はしばらく無言でいたが、やがてポツリとつぶやいた。
 ――ここから出てもいい?
 夕日が力強くうなづくと、声は少しだけ希望を込めて言った。
 ――誰かが、待ってる? この魂を?
「うん……きっとね」
 ――そう……
 ふいに、先ほどまでなにもなかった壁に、ドアがひとつ浮かび上がった。そしてどこからか声が聞こえた。
 ――おまえはそこから帰るといい。おまえを待つものの世界へ
 夕日は急いでそのドアに駆け寄った。そしてノブに手をかけたところで、振り返って尋ねた。
「きみは?」
 声はなにも応えなかった。夕日は思わず何もない空間に手を差し伸べ、話しかけた。
「一緒に……行かない? きみも」
 しばしなんの反応もなかったが、やがて何もない空間に透き通ったなにかがうっすらと現れ始め、それはひとつの手の形となって夕日の差し出した手に重なった。そして更にその先に、一人の人の形がぼんやりと現れた。
 透き通った水でできたような、輪郭だけのその姿。小さな小さな、生まれたばかりの、いや……生まれる前の赤ん坊の姿が浮かび上がる。
 それは、紅葉のような小さな両手でふわりと夕日の手を握ると、うっすらと笑み浮かべた。 
 夕日は息を飲んでそのものを見つめた。無意識に唇が動いて、ひとつの言葉がこぼれた。
「……きみは……僕?」
 だがその答はなかった。やがてそれはまた徐々に霞んでいき、空間に溶けていく。夕日は思わず引き止めるように叫んだ。
「待って……!」
 だが、それはすぐに消えていった。
 夕日はしばし愕然として何もない空間を見つめていた。
 静かな部屋。小さな小さな魂の部屋。もうなにも応えない。
 やがてあきらめてドアを開け出ていこうとした夕日に、最後にその部屋はささやいた。
 とても小さな声で……ありがとうと……。
 

 

 

ドアから出る