こわれた天使が眠るのは |
--act 4 |
背後で、バタンと重たい音とともにドアが閉まった。 一葉は鞄を床に放り投げ、自分も倒れ込むようにソファに身を投げ出した。 体中がだるかった。下がらない熱は全身をさいなみ、頭もぼうっとして重くけだるい。少し動いただけで息が荒くなった。 時計を見ると、昼を少し過ぎたところだった。無理して学校に行ってはみたものの、どうにもだるくて、しかたなく早退してきた。しかし家に帰ったところで、看病してくれる誰かがいるわけでもない。横になれるだけ体にはらくかもしれないが、精神的には良好とは言えなかった。独りでいると、苦痛に押しつぶされそうな気がした。 一葉は重い体をなんとか立たせて、棚に薬を取りに行った。だが熱さましも風邪薬も、もう空だった。週末から漁るように飲んでいたから、当然かもしれない。効き目はまるでなかったのだが。 小さく舌うちし、しかたなくまたソファに身を預けた。 それでも、一葉はこんな状態には慣れていた。子供の頃からいつもこうだったから。熱が出ても、腹が痛くても、自分で薬を飲み、じっと我慢してひたすら自然治癒を待ったのだ。医者に連れて行ってくれる者など、誰もいなかったから。 それでも、そんな時はことさら寂しくてせつなかった。誰もそばにいないのが当たり前で、孤独を友として生きてきても、その辛さは病の体に、いつにも増して重くのしかかってきた。 たまに、あまりにも状態がひどい時、気づいた兄や姉が家政婦に知らせて、病院にかつぎ込まれたことが何度かあった。だがそんな時にも父の姿はなかった。逆に帰宅してから叱られたり嫌みを言われたりするので、一葉は病院が嫌いだった。誰にも気づいて欲しくなかった。 ふうっと深い吐息が漏れた。柔らかなクッションに顔をうずめ、四肢を投げ出して少しでも楽な姿勢を無意識に探り出す。一葉はうとうとと眠りかけた。 その時、ガチャリと金属音がし、そしてドアが開閉する音がした。 一葉が驚いて半身を起こすと、居間の入り口に見知った男が立っているのが目に入った。 一葉は電気にうたれたようにとびあがり、ソファから起きて硬直して立ち尽くした。 「……お父さん」 しばらくぶりに見る父であった。 ここに引っ越して来る直前、半年程前に会ったきりの、父との対面。しかしそれは微塵も甘いものではなかった。 父はいつもの厳しい表情をことさら厳しく、怒りに燃えた瞳で一葉をにらんでいた。一葉はその目にすくみあがった。父が怒っている。なにかに。心当たりなどない。だがそんな理由など関係ないのだ。自分の存在そのものが父を苛立たせるのだということを、一葉はいやという程知らされてきたから。 父はまっすぐ歩み寄ってくると、有無を言わさず一葉の頬を殴った。一葉はよろめいて、床に尻もちをついた。熱にうかされた頭がくらくらと揺らめいた。 父は憎々しげににらみつけると、低い声でうめくように言った。 「……おまえには、いい加減愛想が尽きたぞ」 呆然としている一葉に、たたみかけるように言う。 「おまえにはまともな感覚というものはないのか? ことごとく私を裏切りおって。血を分けた子供だからと思えばこそ、今まで我慢もしてきたが、もう許せん。二度とその顔を見たくない」 一葉は一言も言い返すことなく、ただ黙って聞き入っていた。口答えなど返せるはずもない。そんな権利は一葉にはないのだ。だが無表情に見返す彼になおさら腹を立てたのか、父はいっそうきつくにらんだ。 「満花は今日処分させてきたぞ」 一葉はほとんど無意識に問い返した。 「処分……?」 「子供だ。おまえたちの。満花が白状した。…… まったく、おまえらは、一度ならず二度までも……。畜生にも劣る奴めらが……。汚らわしい……」 父は溢れる怒りに言葉もとぎらせて、憤然と鼻を膨らませた。 一葉は訳がわからず、ぼんやりと聞いていた。父はそれを知らぬふりをしていると見たのか、寄ってきて襟首をつかむと、もう一度殴った。 「しらばっくれるな! 満花と会ったんだろうが。満花とまた寝たんだろうが、おまえは!」 乱暴に床に放り出す。一葉はものも言えずに床に転がった。 確かに、父の言うとおり、満花と会った。彼女と寝た。だがそれはほんの数日前のことだ。子供ができたなどと、わかるわけがない。 一葉は回らぬ頭で思った。満花が妊娠したのは事実なのだろう。だがそれは一葉の子ではない。彼女は誰か他の男の子を身ごもり、そしてそれを父にばれて、また一葉を巻き込んだのだ。彼の子供だと嘘をついたのだ。 一葉は呆然として床を見つめていた。それがわかったところで、なんになるというのだろう。それを口に出して、父が信じるはずもないのだ。それに、満花もまた父を恐れ、その権威に押しつぶされそうになって必死に男に逃げているのだということが、一葉にはわかっていた。 沈黙する一葉に憎々しげに舌うちすると、父は冷たく言い放った。 「おまえなど、やはり産ませるべきではなかった。冴子の奴、私が堕ろせと言うのもきかずに勝手に産みやがって、おまけに当てつけがましく、赤ん坊を残してさっさと自殺だ。おまえはあいつが私に置いていった復讐の道具だ。私を苦しめるためだけに産んだんだ。おまえのような奴を、無用の長物と言うんだ! いや、無用どころか、厄介者だ!」 言葉は鋭いナイフのように、容赦なく一葉の胸に突き刺さった。幼い頃から何度となく聞かされてきた責め言葉。だがそれはいつでも少しも錆びることなく、鋭利な切っ先で彼の心を切り刻む。ずたずたに、血だらけに。 父は言いきると、己の興奮を恥じるように、ぴくぴくと小鼻を震わせて口をつぐんだ。そしてしばらくのち、吐き捨てるように言った。 「もうおまえなど、そばに置いておきたくもない。いいか、一葉、S市にある全寮制の開楠という高校に、転校の手続きをしておいた。広陵の方にもさっき電話で知らせた。週末には引っ越しだ。だからさっさと荷物をまとめておけ」 「え……?」 一葉はその時、はじめて心からの声を発した。 「転校? 引っ越すって……ここを、出るんですか?」 「そうだ。何度も言わせるな」 一葉は愕然とした。震える声で独り言のようにつぶやいた。 「ここを……出ていく? この部屋を……」 「土曜に業者がくる。それまで用意しておくんだ」 父はそれだけ言うと、振り返りもせずに部屋を出て行った。 残された一葉は、ぼそぼそとつぶやき続けた。 「ここを出る……? この部屋を? ここを……」 言葉は無意識に唇から漏れた。 「ここを出たら、和巳はこれない。もう和巳はこない。もう……会えない」 一葉は震える体で床を這いずってテーブルまでいくと、置いてあったタバコを取って、震える指先で火をつけた。くわえる唇もまた、小刻みに震えていた。 (和巳……、和巳……) 何も考えることができなかった。一葉はただ呆然として、タバコを吸った。一本吸い終わると、またもう一本。それがなくなると、またひとつ……。 一葉はタバコを吸い続けた。封を切ったばかりの箱が空になるまで、ずっと吸っていた。そして最後の一本が消え、彼はそのままぼんやりと無表情に、身動きひとつできずに座っていた。 まわりで、時間だけがすぎていった。いったいどれだけの時が流れたのか。 突然、電話の音が響いた。一葉はふと顔をあげ、ゆっくりとそちらを見た。だが出ようという意志も力もなかった。ただ何も受けとめられないかのように、じっと受話器を見つめているだけだった。 やがて音が消える。部屋に静寂が戻った。一葉はそれでもしばらく電話を見つめていたが、やがて、ぽつりとつぶやいた。 「……和巳」 一葉はのろのろと電話のそばまで行くと、受話器を取った。そして横に置いてあるアドレス帳を開いた。 そこには、たったひとつだけしか番号は載っていない。そしてそのひとつとは、和巳の家の電話番号だった。 以前、和巳が何も書いてないアドレス帳を笑って、自分で勝手に書きくわえていったものだ。寂しい夜にはいつでもとんできてやるぜと、まるで女の子をくどく時のような台詞を言って、ウィンクしながら笑っていた。もちろん、これまで一度だってかけたことなどなかったが。 一葉はゆっくりとその番号を押した。二度ほど呼び出し音が鳴り、そしてつながる。だが聞こえてきたのは和巳の声ではなかった。それはとても優しくなめらかな、だが限りなく事務的な、留守番電話のテープの声だった。 一葉はぼんやりとそれを聞いていた。ピーッと録音のサイン音が聞こえたが、何も言わず、そして静かに受話器を置いた。頭の中は真っ白で、考える力も、感じる力もなかった。 ふっと顔をあげると、氷のように冷たい感情のこもらぬ声で、ぼそりと言った。 「……タバコ、買ってこなきゃ」 彼はゆらりと立ち上がると、ふらつく足どりで階下へと向かった。一階の玄関ロビーに自販機がある。そこにいけば、タバコはいくらでも手にはいる。 欲しいものはそれだけだ。ただそれだけ。他には何もない。手に入らぬものなど、求めてはいけないのだ。なにも望んではいけないのだ。 その希望が壊れた時、自分もまた壊れてしまうから……。 バシャバシャとアスファルトの道にたまる雨を蹴散らし、和巳は鞄を頭の上にかざして、慌ててマンションの玄関ロビーに駆け込んだ。 「うひょー、びしょ濡れだ。まいったな、確かに学校に置き傘してあったはずなのに。誰だよな、持ってったの」 和巳は濡れた頭をぷるんと振って、悔しそうに独りごちた。 朝はぱらつく程度だったのに、昼前から本格的に降りだした雨は午後になってもいっこうに収まる気配を見せず、逆に夜にかけていっそうその雨足を強めていた。 和巳はすっかり濡れねずみになった体で、ぶつぶつ文句をつぶやきながら部屋へと戻った。 部屋には誰もいなかった。和巳はちらりと時計を見た。夜の八時をとうに回っている。共稼ぎをしている両親は、まだ帰っていないようだ。その状況には幼い頃から慣れっこになっているので別段なにも感じないし、高校生にもなるとかえって独りのほうが気楽でよかった。今のように、学校帰りに遅くまで遊び歩いていても文句も説教も言われない。 電話のテープに、留守録の受信ランプがついていた。再生してみると、無言のままである。和巳は裸の体で濡れた髪を拭きながら、呆れたようにつぶやいた。 「なんだ、イタ電かよ。暇な野郎だな。いや、女の子かな。誰だろ? 今恨みかってるような子いたっけか?」 のんきに独り言を言いながら、自室に行って着替えをしていると、また電話がかかってきた。和巳は走ってきて受話器を取ると、少しふざけた口調で応えた。 「はーい、紫堂でーす。和巳くんなら、いませんよー」 少し間があって、戸惑うような声が聞こえた。 「……あの、和巳……さん、お留守なんですか……?」 おずおずと遠慮がちだったが、妙に切迫した声だった。イタズラの主とは思えない。和巳は慌てて応対した。 「いや、います、います。俺だけど」 電話の声は若い女の声で、あまり耳慣れないものだった。その相手は、不安そうに尋ねた。 「あの……あなた、この間一葉の家にいた……人?」 和巳はびっくりしたが、すぐに思い当たって、問い返した。 「もしかして、一葉のねーちゃん? 満花さん……だったっけ?」 「え、ええ……。そうよ」 和巳は不安になり、身を乗り出して尋ねた。 「なに? 一葉がどうかしたのか? なにかあったの?」 満花は泣き出しそうに震えた声で、か細く答えた。 「一葉、いないの。あなたと……一緒かと思って、私……」 満花の声が途切れる。和巳は蒼白になって聞いた。 「……満花さん、今どこにいんの?」 「一葉の、マンションよ。あの子の部屋にきたら誰もいなくて、電話のアドレスが開いてて、そこにこの番号があったから……」 和巳はこくんと唾を飲んで、心を静めるように低く言った。 「待ってて。俺、すぐそっち行くから」 「行くって……?」 「言っただろ? 俺んち三階なんだよ、ここの。いい? 待っててよ」 和巳は返事も聞かずに受話器を置くと、部屋を飛び出して一目散に一葉の部屋へと向かった。部屋に着くと、満花が玄関の外に立ち、涙で目をいっぱいにうるませて、唇を噛みしめてこらえていた。 「満花さん……」 和巳が声をかけると、涙声でしゃくりながら、途切れ途切れに説明した。 「昼間なんで一葉いないと思ったから、管理人さんに話して入れてもらったの。玄関で待ってようと思ったら鍵が開いてて、それで入ってみたら……鞄があるのに、部屋にいなくて……。学校に電話したら、あの子、熱があって早退したって。でもいくら待ってても戻らなくって、それに……様子が変なの。山のようにタバコの吸いがらがあって、鞄も上着も床に投げ捨ててあって……。お父さんがまたなにかしたのかもって、私、不安になって……」 「お父さん……って、なんだよ、それ?」 和巳が厳しく尋ねると、満花は泣きながら答えた。 「……私が悪いの。私が嘘ついたから、お父さん怒って……、一葉を遠くへやるって……二度と私たちが会えないように、遠くの学校に転校させるって……」 「一葉が、転校? ほんとに?」 「そう言ってたもの。あいつには愛想が尽きた。もう二度と顔も見たくないって。でも、ほんとは一葉が悪いんじゃない。私が、私のせいで一葉が……」 顔を覆って泣き崩れる満花を、和巳は宥めるように背をさすり、緊迫した声で言った。 「詳しい話はあとで聞くよ。でも今は一葉を探しに行くのが先だ」 「心当たり、あるの?」 満花は涙に濡れた顔をあげて和巳を見た。 「あるよ。でも……」 和巳は窓の外に顔を向け、苦しそうに眉をひそめた。外は雨。昼から続く激しい雨が、途切れることなく続いている。それを見、唇を噛んで、誰に語るともなくつぶやいた。 「でも、駄目だよ、一葉。こんな雨なんだぜ。こんな中にあいつ……、あいつあそこに、独りで……。ばか、何考えてんだよ、一葉。頼むから、いてくれるなよ」 和巳は漏れ出しそうになる叫びを噛み殺し、非常口へと向かった。満花が不安そうに、訝しげな表情を浮かべてついてきた。 扉を開けると、ザアッと激しい雨の音が押し寄せてきた。和巳は一度深く息を吸い、そして意を決すると、外に出て階段を上がった。上は見なかった。確認するのが死ぬほど恐ろしかった。 だがすぐにそれは、悲壮な光景として目の前に広がった。 後ろからおそるおそるついてきた満花が、きゃっと小さく悲鳴をあげた。和巳は……声をあげることすらできなかった。その姿を見て。 その踊り場に、一葉はいた。 細い金属の手すりにぐったりと背中を預けてもたれかかり、冷たい踊り場の床に足を投げだして座っていた。 足元にはたくさんのタバコが、むき出しのものや箱のままや、それが驚くほどの数が転がっており、そしてそばには空になったワインの瓶が一本倒れていた。 その中に埋もれるように彼はいた。 びっしょりと濡れて光る黒い髪は、額にしだれ落ちて雨を伝わせていた。肌は血の気を失って蝋のように青白く、白いシャツが透き通って胸に張り付き、青い肌の色を浮かび上がらせていた。全身ぐっしょりと濡れぼそり、まるで壊れた人形のように座っていた。 その顔は、降りしきる雨を何も感じていないかのように無表情で、ぼんやりと開いた瞳はなにも映してはいなかった。何もかもがそこから抜け出していって、ここにあるのは一葉の器だけのように見えた。 和巳は必死の思いで声を振り絞った。 「一……葉」 だが彼はなんの反応も見せなかった。表情も変えず、なにも語らない。和巳は震えながら近づくと、そばに膝をつき、そっとその手に触れてみた。 手は氷のように冷たかった。 「一葉……?」 祈るような気持ちでささやきかける。しかし答えはない。和巳は胸に沸き上がる感情に全身を震わせながら、一葉の手を握った。 「一葉、一葉、返事しろよ。俺だよ、和巳だよ、一葉……」 虚しく言葉が空回りする。その声は彼の耳には届かず、心にも届かず、冷たい滴に溶けて消えた。 和巳はぴくりともしない一葉の体を抱きしめ、絶叫した。 「一葉あぁぁっ!」 降りしきる雨が、その声を無情にかき消した。 和巳は、堅い椅子の上で独りじっと待っていた。 一睡もしない夜が開ける。だが緊張した脳には、眠気は微塵も訪れてこなかった。 刻々と時間が過ぎていく。和巳はこれまで、時というものがこれほど長くも、また短くも感じたことはなかった。待つということがこんなに苦しいと思ったこともなかった。 顔をあげ、ガラスの向こうを見た。ICUと書かれた文字がひどく不安で、心細さを助長する。奥にたくさんのベッドがあり、そのひとつに一葉がいる。たくさんの医者や看護婦に囲まれているのが彼だ。 その緊迫した様子はガラス越しにも伝わってきて、和巳はいっそう胸が苦しくなって目を背けた。 あれから救急車を呼んで、和巳は金森のいる総合病院に一葉を運んだ。運良く金森が夜勤で在院しており、和巳や満花に事情を聞くと、ICUの担当ではないのだが一緒に診てくれていた。 和巳は待っている間、満花にいろいろなことを聞いた。 一葉の母親は、三人目の子供などいらぬと言う夫の言葉を振り切り、無理矢理彼を産んで、そして産むとすぐに自殺をした。父親は異常なほど彼を嫌い、疎んでいて、幼い頃から信じられぬほど残酷に扱ってきた。一葉には満花ともうひとり兄がいるのだが、二人とも父が恐ろしくて、幼い頃は一葉に声をかけることすらできなかったのだとも。 それに満花との関係も聞かされた。許されぬ行為、満花の望むままに繰り返されたセックス、堕ろした子供。彼が独りであのマンションに暮らすことになった理由を、なにもかも知らされた。そして、今回の事件の発端となったいきさつも。 満花は泣きながら語った。語りながら、繰り返し、繰り返し謝罪した。ごめんなさいと、つぶやいた。 和巳はその言葉を聞きながら思った。いまさら、誰に何を謝ると言うのか。一葉はずっと傷ついてきたのだ。誰にも救われることなく、たった独りで、傷ついて生きてきたのだ。そんな彼に、何を言えるというのだ。謝るくらいなら、どうして傷つけたりしたのだ。 和巳は自分自身すらをも呪った。彼を助けてやれなかった。彼の伸ばした手を、受けとめてやれなかった。彼が壊れそうなことを気づいていたのに。あんなに危うい彼を、知っていたはずなのに。 病室から看護婦が出てきた。和巳は悪い知らせかとハッとして顔をあげたが、看護婦は忙しそうな顔で行ってしまった。 少しほっとして、安堵の息を漏らした。時計を見ると、もうすぐ五時になろうかとしていた。 三時頃、一度金森が出てきて状態を知らせてくれた。ひどい肺炎をおこしていて、加えて長い間冷たい雨にさらされていたので低温障害をおこしかけていて、予断を許さない状況にあること、一度意識が戻ったが、また昏睡してしまったことなどを、簡単に説明してくれた。 彼ははっきりと口に出しはしなかったが、今夜が峠であるとその雰囲気から和巳は察した。 暗い気分で聞いていたちょうどその時、一葉の父親という男がやってきた。出張先から来たという彼は、だが心配してとんできたという感じでは、まるでなかった。体裁のためしかたなくという雰囲気がありありと現れていて、和巳は殴りとばしたいほど怒りを感じた。 だがさすがに病院の中であり、また騒動を起こすような状況ではないこともわかっていたから、必死に自分を宥めて、堅く口を結び、にらみつけるだけにとどめた。 金森は彼と満花を別の部屋へと連れていった。そして一時間ほどして一人で戻ってきて、またICUへと入っていった。 和巳は独り待ち続けながら、一葉の抱いてきた孤独を思って、胸を痛めた。今こうやって独りでいることさえ自分には辛いのに、誰かにそばにいて欲しいと感じるのに、一葉はずっとその孤独に耐えてきたのだと思うと、胸が締め付けられる思いだった。 ふと気づくと、目の前に満花が立っていた。満花は先ほどよりは少し落ちついた様子で、静かに和巳の横に腰をおろした。 「一葉、なにか進展はあった?」 「……ないよ、なにも」 「そう……」 満花はほっとため息をつくと、少し沈黙し、そしてぽつぽつと話し始めた。 「……一葉ね、たぶん転校しなくてすみそうよ」 和巳は顔を輝かせて問い返した。 「本当に?」 「ええ、あのマンションにもいられると思うわ。金森先生が、父を説得してくれたの。……っていうか、半分脅迫みたいだったけど」 満花は思い出して微かにくすりと笑った。 「私、さっき呼ばれた時にね、父のいない部屋で、先生に全部話したのよ。これまでのこと。それで先生、父に言ってくれたの。一葉は精神的にだいぶ追い詰められているから、今環境を変えるのは良くないって。父も家庭の事情に口を出すなって最初はつっぱねていたけど、先生が言葉による精神的な暴力で児童虐待の罪をきせられた例もある、って言ったら、さすがにまずいと思ったみたいで、先生に任せるって。今、帰ったわ、あの人」 「……そうか、引っ越ししなくてすむんだ」 和巳はほっとして、少しだけ笑みを取り戻した。満花はそんな彼をうらやましそうに見つめた。 「一葉ね、さっき少しだけ意識をとり戻したとき、先生がどこか辛いところがある? って聞いたら、あの部屋を引っ越すのが辛い、あなたと会えなくなるのが辛いって、そう言ったんですって」 「一葉が……そんなことを?」 「ええ。不思議ね。私、ずっとあの子と一緒に暮らしてきて、あの子が辛いなんて言ったの初めて聞くわ。あの子、何も言わなかった。辛いとも寂しいとも、なんにも言わなくて……、でも私の言うことはなんでもきいてくれたのよ。絶対にいやって言わなかった。黙っていつも、なんでもしてくれたのよ」 満花は両手で顔を覆った。 「馬鹿だわね、私。……私、父があの子に辛くあたるのを見るのがすごくいやだった。そんな父が大嫌いだった。でも、私も同類なんだわ。同じように一葉を傷つけてた。自分のわがままばかり押しつけて、ちっともあの子の気持ちを思いやってあげられなかった。そして、一葉を巻き込んだ……。私も父と同じ。あの子を傷つけるだけだったんだわ」 「満花さん」 「……でも、あの子優しかったのよ。とても優しい、いつも、いつも……。だからすがったの。苦しくて、息が詰まって、逃げ出したかった。でも恐かった、あの人が。だから……だから私、一葉にすがったのよ……」 満花は絶句し、顔を覆ったまま肩を震わせた。和巳はかける言葉もなく、ただ黙ってそばにいて聞くだけだった。 その時、金森が出てきた。二人は立ち上がって、青ざめた顔に緊張の面もちを浮かべ、すがるような瞳を向けた。金森は穏やかに言った。 「一葉くんの意識が戻ったよ」 二人は一瞬息を飲み、そして顔を輝かせた。 「まだ絶対安静だけど、とりあえず危険な状態は脱したから、安心していい。低温障害で危なかったんだが、酒を飲んでたことが逆に効をそうしたようだ。眠らなかったことも幸いだった。気持ちも今は落ちついている。もう大丈夫だよ」 満花が大きく息を吐き、そしてがっくりと膝をついた。張りつめていた緊張がとけたのだろう。和巳も硬直していた体からふぅっと力が抜けていくのを感じた。 金森はそんな和巳に、優しく言った。 「和巳が外にいると話したら、彼、おまえに会いたいと言ってる」 「会ってもいいの?」 「会ってやりなさい。少しだけだけどね」 和巳が金森のあとについて病室に入ろうとすると、その後ろ姿に満花が声をかけた。 「和巳くん」 和巳が振り向くと、満花は寂しい笑みを向けてつぶやいた。 「……一葉を、お願い」 和巳は無言のままうなづき、そして彼女を残して中へと入った。 白い白衣に帽子とマスクをつけさせられ、和巳は金森とともに一葉のベッドに歩み寄った。 ゆっくりと近づいてそばに立つと、一葉が青白い顔に微かに笑みを浮かべて、小さくささやいた。 「よぉ」 その顔を見、その声を聞いた途端、張りつめていたものがきれて、和巳の目に涙が溢れだした。ベッドのそばに膝まづき、こらえきれずシーツに額をつけてすすり泣いた。 一葉が少し呆れたように、力のない声で言った。 「なんで泣くんだ?」 和巳は涙に濡れた顔をあげ、震える声で言い返した。 「……ばか、死ぬほど心配させといて、よぉなんて言うな。俺がどんな気持ちでいたと思ってんだよ。ほんとに、おまえって奴は……」 一葉は嬉しそうに微笑んで聞いていたが、やがて点滴だらけの手を動かして、和巳に触れようとしてきた。和巳はその手をとって、てのひらで優しくくるんでやった。 一葉は穏やかな瞳でじっと和巳を見つめ、ささやいた。 「俺、おまえに、電話したんだ。でも、おまえ、いなかった」 けだるそうに、ゆっくりと話す。和巳は優しく笑いかけて、答えた。 「そっか……。ごめんな、いなくて。でも今度は絶対いるから。すぐにとんでくからな」 一葉はにっこりと笑って、そしてまた喋りかけた。 「俺、あそこで……」 「おい、あんまりしゃべるなよ。疲れるだろ」 和巳は心配して制したが、一葉は不服そうに唇をとがらせた。 「しゃべらせろよ。そんな、気分なんだから」 和巳は困って、後ろに立つ金森に問いかけるように眼差しを向けた。金森はかまわないと言うように、黙って小さくうなづいてみせた。 和巳はなるべく負担をかけさせまいと、一葉の口元に自分の顔をできるだけ近づけた。 「あそこで、どうしたって?」 一葉はゆっくりと語った。 「あそこで、タバコ吸おうと思ったんだ。でも、濡れて火がつかなくって、何度つけても、すぐ消えて、ちっとも吸えなかった。だから、タバコ吸いたい」 和巳はちょっと苦笑して答えた。 「駄目だよ。ここ病室だから禁煙だし、それにおまえ肺炎起こしてるんだぜ。しばらくはお預けだよ。そのかわり、退院したら全快祝いにワンカートン贈ってやるよ。だから今は我慢しろ」 「わかった」 一葉は素直にうなづいた。そしてまた口を開く。 「それとな」 「うん、なに?」 「あそこにいる時な、一度すごく眠かったんだ。でも……どうせ寝るなら、またおまえの膝で寝たいなって思って、それで寝るのやめたんだ」 和巳はその言葉を聞き、胸がせつなくなった。きゅっと締め付けられる。泣きたい気持ちになるのを必死にこらえて、無理矢理笑った。 「そうだぜ。俺の膝枕のほうがいいに決まってるんだから。どうして最初から俺のところに来ないんだよ」 「だから、いなかったんだ、おまえ」 「あ、そうか。……ごめん」 しゅんとしてうつむく和巳に、一葉は満足そうに微笑んだ。 「いいよ。また会えたし。もう一度だけでも、会いたいと、思ってたから」 「もう一度だけなんて言うなよ。またこれからも会えるんだからさ、俺たち」 「でも……」 一葉は顔を曇らせ、悲しそうに目を背けた。和巳は握っていた手に力を込め、説明した。 「一葉、おまえね、引っ越ししなくてよくなったんだぜ。転校もしなくていい。ずっとあの部屋にいられるんだぜ」 一葉は不安そうに、だが少しだけ期待に満ちた瞳で見返してきた。 「……ほんとに?」 「うん。だからさ、また俺、金曜の夜には行くからな。ううん、おまえが望むなら、毎日だって顔見に行くよ。だから、早く良くなって帰ろう。な?」 一葉はぼんやりとつぶやいた。 「俺が……望むなら……?」 目を閉じ、ゆっくりとその言葉を心の中で反すうした。それは、どれだけ一葉が夢見ていた言葉だったろうか。誰かになにかを望む、そんな当たり前のことを許されずに生きてきた。何を望み、何を欲しているのか、誰にも尋ねられずに生きてきた。その閉じ込められた一葉の心が、今和巳の一言で解放される。 一葉は目を開け、和巳を見た。そして静かに言った。 「和巳」 「なんだ?」 「俺……帰りたい、あの部屋に」 「一葉……」 「そしておまえと、二人で寝るんだ。ずっと思ってた。おまえと一緒に眠れたら、すごく幸せな気分だろうなって」 和巳は涙に滲む瞳で、微笑んでうなづいた。 「いいよ、一緒に寝ようぜ。抱きあってさ」 「朝までだぜ? ずっとだぜ?」 「いいよ。ずっといる」 「俺の望み、きいてくれるのか?」 「うん。なんでも言えよ。なんでも叶えてやるから。おまえの欲しいもの、全部やるから」 一葉は小さな子供のように、心からの安心の表情を浮かべた。疑いも不安もない、信頼に満ちた眼差しで穏やかに微笑んだ。そして、少し疲れたのか、ほうっと深い吐息をついた。 二人のうしろでじっと見守っていた金森は、そんな様子を見て、静かに口を挟んだ。 「もうそろそろ、面会終了の時間だよ。疲れるといけないからね」 そして和巳に向かって、穏やかに言った。 「和巳、おまえももう帰りなさい。あとはこっちにまかせて。姉さんには事情を話してあるから」 「うん、ありがと。そうするよ」 和巳はもう一度一葉に顔を向けると、明るく笑った。 「じゃ、一葉、またくるからな。それに、早くこんな所出るんだぞ。いちいち白衣着るの、面倒なんだからな」 一葉はにっこりと笑っていた。嬉しそうな笑顔が少し眠たそうだった。 和巳はそんな彼の様子に、安心して帰りかけた。だがふと思いとどまって、帰りかけた身を振り向いて、ぽつりと言った。 「一葉、俺、おまえが好きだから。本気で好きだからな」 だが返事はなく、代わりに金森が少し哀れむような瞳を返して言った。 「和巳、彼、寝てるぜ」 見ると、本当に穏やかに寝息をたてて眠っている。和巳は呆れて文句をつぶやいた。 「ちぇ、なんだよ。人がせっかく感動的な告白したってのに……。ほんとにこいつったら、もう」 拍子抜けしてため息をつく。それでも和巳は満足だった。言葉に出して言ってしまうと、それははっきりとした感情となって己の胸に帰ってきた。一葉が好きだ、本当に彼を愛していると、鮮やかなほど確かな思いとして。 和巳は眠る一葉にそっと別れを告げると、ひとり帰っていった。 残った金森が様々な機器を見て状態をチェックしていると、一葉の力のない声がした。 「和巳……は?」 見ると、ひどく眠たげな瞳を必死に開けて、彼の姿を探している。金森は静かに答えた。 「和巳はちょうど今、帰ったところだよ」 一葉は残念そうな顔をしてつぶやいた。 「なんだ、言い残したこと、あったのにな」 「なんだい?」 金森が問いかけると、一葉は照れることも臆することもなく、真摯な瞳をまっすぐに向けて、ゆっくりと語った。 「俺、あいつに言いたかった。あいつが、好きだって。生まれて初めて、人を愛せたって、そう言いたかった、あいつに……」 金森は胸に染みいるようなその言葉を、ただ黙って聞いていた。何を返す言葉などあるだろうか。それはたぶん、一葉の初めての告白。初めて語る愛の言葉。そして、その言葉に応えてやれるのは、誰でもない、和巳ただ一人なのだ。 黙って微笑んでいる金森に、一葉は言い加えた。 「それに……」 「まだなにかあるの?」 「あいつ……、最後になにか言ってけど、俺、うとうとしてて、よく聞こえなかった。あいつ、何を言ってたんです、先生?」 一葉は不思議そうな顔をして尋ねた。金森は優しく告げた。 「元気になったら自分で聞いてみるんだね。きっと、とてもいい言葉だよ。とても幸せな気持ちになれることだよ」 「でも、先生、俺……、あいつといるだけで、充分幸せなんです」 あまりにも素直な返事に、金森は思わず満面に笑みをたたえて言った。 「もっともっと、ずっと幸せになれる言葉さ」 一葉は金森の優しい笑顔を見ながら、いっそう不思議に思った。そんなに幸せなことって、なんだろう。いったい和巳はなんて言ったのだろう。彼と一緒にいられる以上の幸せなんて、全然思い浮かばないのに。 そんなことを考えながら、一葉はまた深い眠りが訪れてくるのを感じた。病院のベッドは薬の匂いがするけれど、それでもあの階段よりはずっとずっと心地よかった。ずっとずっと暖かかった。ここでなら眠ってもいいのかな、と一葉はぼんやりと思った。 そして一葉は、きっと夢を見るのだろう。和巳の膝に頭を乗せて、安心して眠る夢を。目が覚めても消えることのない、優しく暖かい現実の夢を。 一葉は眠った。次に目覚めるその時を、期待に胸を熱くして。 ≪終≫ |