『名探偵コナン』のパロディその3。これが最後の作品でございます。 |
サマー・ナイト・ドリーム |
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辻 桐葉 |
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その夜、大坂の街は狂喜に満ちていた。 通りには人が溢れ、その者たちが皆、歓喜に沸き立っている。各々の手に白と黒の 縞模様のフラッグを持ち、またそれと同じ模様の応援バットを振りかざして、口々に 一つのチームの名を叫んでいた。 騒ぎの原因は、大坂の者たちが熱狂的に指示している野球チーム「阪神タイガー ス」の,近年稀に見る強さにあった。 オールスター戦を前にして、破竹の十一連勝。まさにその名の如く無敵の虎となっ て、リーグトップに躍り出た。 それだけでも十分すぎるほど大事件なのに、今夜の試 合は伝統の対巨人戦であり、しかも巨人相手にさんたて(注;同一チームとの三連戦 で、三戦とも勝利すること)を食らわしたのだ。阪神ファンたちが喜ばないわけがな かった。 おまけに、その日は完全な打撃戦で,死球を巡って三度も乱闘騒ぎがあったりした ことから、試合の興奮そのままに、街は異様な雰囲気に包まれていた。 平次は、一向に進まぬ人の波と、あまりの混雑さに閉口していた。観戦に来ていた わけではなく、偶然甲子園球場の近くに用事があって通りかかっただけなのだが、群 衆の波に飲まれて思うように歩けず、げっそりしていた。 彼とて生まれも育ちも大坂の人間であるから阪神ファンではあるのだが、こんな風 に我を忘れて狂乱するような性格ではない。それに、周りが騒げば騒ぐほど、逆に頭 が冷めてくるものだ。 その冷静な判断力から考えてみても,すんなりとこの騒動が収まるとは思えなく、 平次は呆れつつもなかば諦めの境地で,群衆の中で溜め息をついていた。 (まあええわ。そのうちどこか横道に抜けられるやろ。それまでじっと我慢や) 仕方なくのろのろ歩きの人の波にしたがって歩いていると、ふと喧騒のなかから耳 慣れた声が聞こえた気がした。 不思議に思って辺りを見回すと、少し離れたところで,数人の者たちがなにやら揉 めているのが目に入った。喧嘩にまではまだ至ってなさそうだが、言い争いをしてい るのか、物騒な脅し文句が響いてくる。しかもよく聞くと,一人の者に対して数人が いちゃもんをつけているといった雰囲気であり、あまり質のいい喧嘩とはいえなかっ た。 平次は眉をひそめ、周りの者たちを強引に押し退けて,そちらに向かっていった。 なんとか傍にたどり着いたときには、口喧嘩をこえて一寸した乱闘になっていた。 やられているのはまだ若い、多分平次と同じくらいの年頃の少年で、相手は三人ほ どのあまり柄のよろしくない若者たちだった。少年のほうは恐怖で手がでないのか、 それとも賢明にじっとこらえているのか、いっさい手出しはしていない。ただ一方的 に若者たちがどついている。平次はキュッと唇を結び、その中に割って入った。 少年に向けて振り降ろそうとしている腕を、ぐいとつかんで引き止めた。突然掴ま れた若者は、驚いて平次に目を向けた。 「なんや、おまえ。なにすんのや?」 平次はにっこりと笑ってみせた。 「おにーさん、暴力はあきまへんわ。 しかもお子さん相手に」 「なんやと? いちゃもんつける気か、われ?」 若者はぎろりとにらんで、凄味をつけるようにどすのきいた声で言った。だが平次 は冷やかな眼差しを注ぎ、平然と言い返した。 「いちゃもんつけとりまんのは、あんさんたちでんがな。あんまり、恰好よろしこと おまへんわ。そのぐらいにしといたらどうですか?」 あまりにも泰然と構えたその態度に、若者は一瞬たじろいで押し黙った。だが見れ ば,どついている相手とそう変わらない年頃の少年である。すぐにその表情は憤りに 変わって、怒りのためか真っ赤に染まった。 「てめぇ、バカにしとんのか? てめぇから先にのしたろか」 そう言うなり、掴まれていた腕を振り払って、それを拳に代えて殴りかかってき た。 だがそれは見事に空を切った。平次はさらりと身をかわすと、くるっと回り込んで 若者のもう一方の腕を掴み、きりりと背中にねじ上げた。若者は情けなく悲鳴をあげ た。 「いてててっ!」 あっと言う間の出来事に、若者の仲間たちはぎょっとしたように目を剥いた。一瞬 パニックに陥り、反撃する事も忘れて立ち尽くしている。平次は茫然としている彼ら に若者の体を投げつけると、すぐさま被害にあっていた少年の腕を取って、人波のな かに引っ張った。 「こっちや。はよ来い」 有無を言わさずに強引に手を引いて、群衆のなかに紛れ込んだ。暫しののち、後ろ から若者たちの怒声が聞こえてくる。それを背中に聞き流して,苦労して人の流れを 逆走すると、大通りに面して林立しているビルとビルの間の,細い隙間に入り込ん だ。そこは袋小路になっていて通り抜けることは出来なかったが、追ってきているで あろう若者たちの目から逃れるには,十分の場所であった。 平次は少年を奥に追いやり、自分は建物の陰に身をひそめて若者たちが来ないのを 確認すると、小さく安堵の息をつき、少年の居る場へと向かった。 少年は壁にもたれ掛かり、深くうつむいていた。暴行で乱れた髪が、ぐしゃぐしゃ になって額に覆いかぶさっている。この場所はかなり暗くて,あまりよく姿形を見る ことは出来なかったが、それほど酷い傷を受けている様子はなかった。 それでも平次は心配そうに声を掛けた。 「 おい、大丈夫か? どっか怪我しとらんか?」 少しして、少年の応えが帰ってきた。 「ああ、平気だよ。ありがとう,助かった」 ふと平次はまた妙な戸惑いをおぼえた。どこか懐かしい、しかも胸が痛くなるよう な感覚だ。 何故だかわからないが、切ない気持ちになってしまう。自分自身の感情に いぶかしみながら、平次は話しかけた。 「この騒ぎが収まるまで、しばらくここに居たほうがええわ。またからまれたらやっ かいや」 少年はふうと大きな吐息をついて、つぶやいた。 「まったく、ひどい災難だな。野球なんて見に来るんじゃなかったぜ。何もしてない のにからまれて」 平次は苦笑して答えた。 「そりゃ、そんなもん持ってあの中を歩いとったら、からまれもするやろ。ええ度胸 やで、まったく」 そう言って少年の手の中の物に目を向ける。その視線につられるように少年も己の 手を見、不思議そうに言った。 「……これの、ことか?」 そこには小さなぬいぐるみがあった。白いユニホームを着てにこやかに笑っている オレンジ色のウサギ。そう,言わずと知れた巨人軍のマスコットキャラクター,ジャ ビットくん人形であった。 平次はおかしそうに笑った。 「なんや、正体も知らんで持っとったんかいな。無謀なやっちゃな。そいつは阪神 ファンにとっては天敵みたいなもんやで」 「一緒に来てた友達にもらったんだ。捨てるのもなんだと思って」 「そりゃおまえ、押しつけられたんやで。その友達、頭ええわ。それ持って歩くこと の危険性をよう知っとる」 「悪かったな、俺はバカで」 少年は怒ったような口調で、ぷいと顔を背けた。その仕種に、平次は何故だか心臓 が高鳴った。胸が掻きむしられるように痛む。 ( なんや、なんでこんな気持ちになるんや。どうしてさっきからこんなに、胸が痛み よる……) 自分の感情にに不審をいだきながら、少年を見つめた。と、ふくれっ面で背けた顔 の唇の端に、流れた一筋の血を見つけた。平次は眉をひそめて歩み寄った。 傍に近寄って,手を伸ばして少年の顎をそっと持ち上げた。 「なんや、やっぱり怪我しとるんやない……」 そこまでつぶやいて、平次は絶句した。初めて目にした少年の顔が、思いもがけな いものだったからだ。 それは……新一そっくりだった。 暗闇だから,それほどはっきりと顔形がわかるわけではない。だがその輪郭も、 真っ直ぐに見つめ返してくる目元も、不思議そうに薄く開いた唇も、なにもかもがと てもよく似てみえたのだ。 平次は暫くのあいだ,茫然として少年の顔を凝視していた。 まさかそんな事があるわけがない。いや、仮に何かのきっかけで新一が十七歳の彼 に戻っていたのだとしても、どうしてこんな所にいるのだ。それに、まったく平次の ことに気づいた様子もない。 平次は震える声でつぶやいた。 「……誰や、おまえ?」 すると少年は一瞬怪訝そうに眉をしかめたが、すぐに冷たい瞳を向けて、冷やかに 答えた。 「いくらきみに助けられた恩があるとしても、そんな失礼な質問に答える義務はない な」 そして蔑むように小さく鼻で笑う。平次は我に返って、申し訳なさそうに謝罪し た。 「……ああ、そう、……そうやな。悪い、ちょっと……知り合いに似てたから」 平次は顔をそらしてうつむいた。その様子を不思議に思ったのか、少年は探るよう に尋ねた。 「知り合い? 友達?」 平次が返答しないと、彼は何か悟ったように意味ありげに微笑んでみせた。 「その彼が、俺と似てるわけ? 間違えそうなくらいに?」 平次はしばし無言でいたが、やがて顔をあげ、苛立たしげに答えた。 「間違えたりなんか、せえへんわ。ただ……こないな所におるわけないと不思議に 思っただけや」 「大阪の人間じゃないわけ? 俺も違うけど」 「そんなんわかっとる。それに……あいつは……どこにもおらん」 平次は苦しそうにそうつぶやいた。少年は小首を傾げ、少し遠慮がちに言った。 「もしかして、亡くなったとか?」 平次は怒ったように返した。 「アホ、勝手に殺すなや。ちゃんと生きとるがな。ただ……会えんちゅうだけや。あ いつには……」 平次は寂しげな表情を隠すように顔を背けた。少年はそんな彼に、同情を込めてつ ぶやいた。 「遠いところに、いるのか?」 「……そうやな。遠いわ。近くて遠い。次に会えるのは、いつのことやろな」 切なげな瞳で遠くを見つめる平次に、少年は暫しかける言葉をなくしていたよう だったが、それでも元気づけるように優しく笑った。 「なんか、のろけ話を聞かされてる気分だぜ。そこまで色っぽい声で話して聞かされ ちゃ」 平次は思わず頬を赤らめ、照れたように口を尖らせた。 「なにゆうてんのや、アホ。男に色っぽいだなんて言わても、ちいとも嬉しゅうない わ」 少年はおかしそうに明るく笑った。暗闇の中で、まるでそこだけ光が生まれたよう に、まぶしく華やぐ。その笑みに、平次は目を引きつけられた。 やはり似ている。少しづつ闇に馴れてきた瞳に、一層それは強く感じられた。 胸が騒ぐ。かきむしられる。まるで残酷な夢を見ているようだ。手に届かぬ宝が、 そっくり同じ姿をして目の前にあるなんて。 平次が物も言わずにじっと見つめているのを知って、少年は敏感に彼の心情を察し たらしく、柔らかな笑みを口許に浮かべつつ、困惑した口調でつぶやいた。 「困るな。そんな目を向けられると。俺がどれほどそいつに似てるのかしらないけ ど、俺としては、あまり穏やかな気分じゃないぜ。誰かの代理だなんて、全然俺の趣 味じゃない」 小馬鹿にするように顎をつきだし、迷惑そうに冷たく言ってのける。だが言葉とは 裏腹に、それほど不快に感じている様子はなかった。それどころか、どこか楽しんで いるような節さえ見受けられる。 クールなふりをしているのに、ちっともそうは見えなくて、逆に子供のように目を きらきらさせている。そんなところまで新一によく似ていた。 彼が話すのを聞いて、平次はふと気づいた。 (そうか、こいつ、声も似てるんや、新一に。だからさっきから、妙に胸が騒ぎよっ たんや……) 顔の骨格が似ていると声も似てくる。その顔同様、声も新一と同じだったので、あ の時あの喧騒のなかでも、はっきりとこの少年の声が響いてきたのだ。 (新一……) 平次は一層感慨深く彼を見つめた。目の前の少年が新一でないことはよくわかって いた。だが、それでも目が離せなかった。まるで何かの魔法のように、目も心も引き つけられる。そして、いっそう胸が痛くなる。平次は苦しげに目を細めた。 少年は暫し沈黙していたが、やがて寂しそうに微笑んだ。 「……そいつ、幸せな奴だな。そんなにきみに愛されてて」 彼はゆっくりと歩み寄ってくると、ビルの非常階段の手すりにもたれかかっていた 平次の前に立ち、じっと見つめた。そして長い間沈黙していたが、やがて探るように 言った 「そいつも、きみと同じぐらいきみのこと愛してるのかい?」 突然なげかけられた妙な質問に、平次はちょっと目を丸くして、自嘲気味に笑っ た。 「どうやろな。一方通行ではあらへんやろけど、俺が想うとるほど想われとるゆう自 信はないな。俺はいっつもあいつ、泣かしよるし」 少年はまたしばらく口をつぐむと、今度は真剣な眼差しを向けて尋ねてきた。 「……そいつ、きみのこと、愛してるって言う?」 平次は訝しげに眉をひそめた。質問の真意がわからなかった。黙って見つめ返して いると、少年はポケットに手を突っ込み、汚れたアスファルトをにらみながら、少し 何かをためらっているようにたたずんでいた。 が、やがて顔をあげると、上目遣いに見やり、妖しく微笑してみせた。美しい唇が かすかに開いて、そっとささやいた。、 「俺なら、何度でも言ってやれるぜ。愛してるって」 平次はびっくりして少年を凝視した。少年はにっこりと笑って、もう一度とびきり 甘くその言葉を口にした。 「愛してるよ」 平次は訝しげに彼をにらみ付け、怒ったように言った。 「……からかってんのんか?」 少年は唇を薄く開いて、くすくすと妖しく笑った。 「違うよ。……誘惑、してるのさ」 そう言うと、平次のすぐ傍に歩み寄り、腕を伸ばして肩にからめた。誘うように、 隠微な笑みを浮かべている。平次は鋭くにらみつけた。 「やっぱりからかってるやないか」 「そう見える? けっこう、本気のつもりなんだけどな」 「アホぬかせ」 そんなやり取りさえ楽しむように、少年はくすくすと笑った。 平次は当惑して彼を見つめた。新一と同じ顔、同じ声。それが妖しく愛の言葉をさ さやく。そんな状況に戸惑いを隠せない。 だが心が揺れ動くのも事実だった。 平次はしばらく黙って少年を見返していたが、やがて手をあげて少年の頭に触れ た。そしてゆっくりと顔を近づけた。少年は逃げなかった。 唇が触れ合う。夜風にさらされていたせいで、それはしっとりと冷たい。 少年はすべてを平次に委ねるように、自分からは何かを仕掛けてこようとはしな かった。ただ黙って口づけを受けている。平次は一度唇を離すと、彼を見た。その瞳 は酔ったように妖しく潤んでいた。 それを目にしてしまったら、もう歯止めはきかなかった。平次は荒々しく髪を掴む と、もう片方の手も頭に添えて、ぐいとのけぞらせた。そして熱く口づけした。 柔らかな唇を割り、強引に舌を押し入れる。すべてを奪い取るように、激しく押し 進む。少年の熱い舌が絡み、甘い唾液が口の中にひろがった。 「……ん」 少年はかすかに甘く鼻声を漏らした。その手を平次の髪の中に埋め、すがりつくよ うにかき乱す。二人は互いに、競うようにしてむさぼりあった。 激しいキス。頭の芯がくらくらしそうなほど淫らで、身体中が燃え尽きてしまいそ うなほど情熱的だった。 引き止めるように絡みつく少年の舌を残して、平次は唇を離した。 半開きの少年の唇は紅を指したように赤く、濡れて闇の中で輝いていた。 彼は荒く激しく息をしていた。瞳がいっそう潤んで、茫然とした様子で平次を見つ めている。やがてかすかに笑みを浮かべると、平次の胸に額を押しつけてもたれかか り、独り言のようにつぶやいた。 「は、まいったな。マジで本気になりそう」 彼はしばらくそのまま息を整えていたが、そっと顔を離すと、隠微に笑って肩に抱 きついていた手を胸へと伸ばした。 驚くほど白く細い指だった。それをゆっくりとシャツの上から這わせ、胸元から下 に向けて優しくなぞった。やがてTシャツの裾にたどり着くと、そこから中にもぐり 込み、素肌に触れてきた。そして今度はゆっくりと上に這いあがってきた。 人指し指の先で平次の胸を探り当てると、優しく愛撫した。 平次はしばらくなすがままにさせておいたが、きつく目を細めると、少年の手首を 掴んでそれを止めた。 少年は妖しく微笑して、己の手を握る平次の手に顔を寄せ、甲に唇を押し当てた。 赤い舌をつきだし、子猫のように舐める。そして低くささやいた。 「こんな所、誰もこないぜ」 もう一方の手で優しく平次の手を離させると、それを自分の白いシャツの胸元に差 しいれた。 少年は明らかに誘っていた。口づけの、その続きを。 平次は暫しの間、何かを探るように少年を鋭い瞳で見つめた。彼は少しも臆するこ となく、相変わらず淫らで優美な笑みを浮かべてじっと待っていた。 静寂があった。先程まで通りのほうから聞こえてきた喧騒も、今は遠いものだっ た。そこは驚くほど静かだった。 二人の呼吸の音だけが聞こえてくる。そして、包み込む闇の音と。 平次は長い間身動き一つしなかったが、やがて胸元に押しつけられた手をいったん 退き、それからゆっくりと少年のシャツのボタンを外していった。 暗闇の中に、彼の白い胸が浮かび上がった。 平次はそこに顔を寄せると、首の付け根にキスをした。唇で柔らかく噛み、舌の先 でそっと舐めると、少年の体がぴくりと蠢いた。 そのままゆっくりと舌を這わせて、肩をかすめ、もう一度首に戻って念入りに愛撫 し、そして胸へと移して乳首をとらえた。 少年が深く息をする。そこが敏感なのだろう。平次の肩に沿えた手に力が入り、 ぎゅっとしがみついた。 平次は舌の先でそっとその小さな蕾を転がした。ぴくんぴくんと少年が反応する。 軽く歯をあて甘噛みすると、たまらず声を漏らした。 「あ……」 その声に、平次はぞくぞくするような旋律を覚えた。 それはまるで新一の声だった。初めて抱いた夜に闇の中に響いた、あの甘く愛しい 声。静寂の中に広がった快楽のため息。せつなそうに囁いた、愛する相手の名前。 (新一……) 胸が何かに握りつぶされるように痛んだ。 どんなに望んでも、手に入れられない夢。愛しても愛しても、届かない、望んでは いけない夢、見果てぬ想いのはずだった。 それがどうして今、ここにあるのだ? 今自分がこの手に抱いているのは、口に含 んでいるのは誰だ? これは……新一ではないのか? これは、なんという残酷な悪夢なのか……。 平次はぎゅっと眉をひそめた。一度深く深呼吸すると、苦痛に顔を歪め、少年の胸 から離れた。 少年は突然見放された行為に、不思議そうにささやきかけた。 「どう……したんだ?」 平次は苦渋に満ちた声で答えた。 「すまん。やっぱりあかんわ。俺には抱けん」 少年の怪訝そうな表情を見つめながら、辛そうに語った。 「おまえは、あいつやない。よう似とるけど、なにもかもそっくりやけど、あいつや ないんや。俺は、あいつしか抱けへん。あかんのや、おまえじゃ……」 その言葉を聞いて、少年は愕然としたように顔をこわばらせた。 平次が身を離して顔を背けるのを、信じられないといった表情で見つめていた。 が、やがて自嘲するような笑みを口許に浮かべ、震える声でつぶやいた。 「驚いた。ふられるなんて、初めてだ。この俺が……。はは、まいったな」 彼はまるでなにかを抑えるように、自分で自分を体を抱きしめ、固く目を閉じた。 そのまま長い間じっと黙っていた。そして、ぽつりと言った。 「そいつ……本当に幸せな奴だな。そんなにもきみに愛されて……」 そうつぶやいた少年の声があまりにも苦しげで、平次は思わず少年に視線を返し、 手を差し延べた。 「おい、おまえ……」 だが彼に言葉を語らせる前に、少年はひらりと身を踊らせた。 その姿が一瞬平次の視界から消えた。平次が驚いて辺りを見渡すと、いつのまに 移ったのか、少年は平次の後ろ、大通りに向かう通路に立っていた。 にっこりと微笑み、手にしているものにそっと口づけする。それは平次の帽子だっ た。 「ああ、あれ? おまえ、いつの間に」 あまりにも素早い身のこなしに、少年がどうやってそこに行ったのか、いつ帽子を 捕られたのかも気づかなかった。 平次は思わず自分の頭を手で探ろうとして、再度ぎょっとした。いつの間にやらそ の手に、あのオレンジ色のぬいぐるみを持っていたからだ。 「な……!」 絶句してその人形を見つめた。 平次は鈍感なほうではない。というより、むしろ人に比べてもずっと機敏で、感覚 も優れている。なのに、今少年にされた行為は、なにひとつ見極められなかった。ま るで成されるがままに気づかなかった。信じられないことだ。 平次が茫然として少年を見やると、彼は美しい顔にとびきりの笑みを浮かべ、手の 中の帽子を弄びながら、楽しそうに言った。 「きみの心は盗めなかったから、代わりにこれをいただいていくよ。お返しに、それ はきみにプレゼントする」 そして小首を傾げ、闇の中で妖しくささやいた。 「きみの想いに敬意を表して、今日は諦める。でも、またいつかどこかで、きみに会 えたら、その時は必ず奪ってみせるよ。……きみを、ね」 そう言い残すと、少年は呆気にとられて立ち尽くしている平次の前から、風のよう に走り去っていった。 平次は長い間、ただ黙って少年の消えた方を見つめていた。 一瞬にして駆け抜けていった真夏の夢に、頭が働かなくて、情けなくも何も考えら れなかった。 彼はもういない少年の影を目で追って、ぼんやりとつぶやいた。 「なんやったんや、あいつ……」 平次は一人闇の中に立ち尽くした。 まだまだ熱を含んだ生暖かい夜風が、さらけ出された平次の髪をからかうように撫 でていく。 平次は呆然として、手の中のオレンジ色の人形に視線を向けた。それは何も答えず に、ただ無機質な笑みを浮かべているだけだった。 その日新一は学校をおえて帰ってくると、毛利探偵事務所のオフィスの前に見知っ た男が立っているのを見つけ、びっくりして叫んだ。 「服部! おまえ、なにやってんだよ、こんな所で?」 平次はつまらなさそうに言い返した。 「なんや、会う早々、ご挨拶やな。せっかく会いに来てやったのに」 「会いにったって……今日は平日だぜ。それにおまえ、その恰好」 新一は平次の姿をしげしげと眺めた。紺のブレザーに、チェックのパンツ、手には 校章入りの薄っぺらなカバンまで持っている。どう見ても高校の制服姿だ。新一は呆 れて冷たい視線を投げかけた。 「おまえ、サボってきただろ、学校。わっるい奴」 平次は瓢々として答えた。 「別に一日ぐらいかまへんわ。常日頃から真面目に通うとるさかいな。ノープロブレ ムや」 「なにがノープロブレムだよ。ーーそれより、こんな所に突っ立ってないで入れよ。 毛利のおっさん、いないのか?」 「なんや留守みたいやで。鍵かかっとる」 そういえば、今日は遠方で仕事があると、朝、毛利氏が話していた。名探偵にはふ さわしくないつまらない仕事だと、朝っぱらからぐちぐちこぼしていたのを、げっそ りして聞いていたのだ。 「おまえ、いつからそこに立ってたの?」 新一が呆れたように尋ねると、平次は黙って小さく肩をすくめた。 新一は背負っていたランドセルから鍵を取り出すと、開けて中へと入った。平次が 無言のままゆっくりと後に続き、手にした鞄を肩にひっかけ、椅子にも腰掛けずに立 ち尽くしていた。新一はそんな様子をちらりと伺い見て、訝しげに眉をしかめた。 いつもなら満面に笑みを讃えて、にぎやかにしゃべりまくる彼が、今日は妙におと なしい。というより、明らかに不機嫌そうである。むっとしたように唇を結び、下ば かり見つめていた。 なにより、今日はその顔に、まだ一度も笑顔を見せてはくれなかった。あの心をと ろけさせるような、極上の笑顔を。 新一は冷蔵庫からコーラを出して持っていくと、それを差し出して尋ねた。 「で、どうしたんだよ? なんの用件なんだ?」 平次はちろりと視線を投げかけ、面白く無さそうに答えた。 「別になんもあらへんわ」 「なんもって……じゃあ、どうして来たんだよ?」 新一が不思議そうに聞き返すと、平次はいっそう不機嫌な口調で言った。 「なんや、用件があらへんと来たらあかんのかいな。俺はただ、おまえに会いとう なったから来ただけや。悪いんか?」 「悪くはないけど……、でも大阪からだぜ。そんな気軽に」 「新幹線乗ったら、あっと言う間や。別に遠いことあらへん。いつでも会いたい時に 会えるんや。俺とおまえは」 平次はむきになったように声を荒らげて言い返した。新一は驚き、口をつぐんだ。 こんな風に不愉快な感情をあらわにして振る舞う彼は、初めてだった。いつもなら、 何気なさの中にも、しっかりと心配りや人を気づかう優しさがかいま見えるのに。 思わず黙り込んでしまった新一に、平次はハッとしたように申し訳なさそうな表情 を浮かべた。うなだれて、力無くつぶやいた。 「……すまん」 彼はブレザーのポケットに手を突っ込むと、そこから取り出したものを新一の手に 預けた。 「ほら、土産や」 新一は訝しげにそれを見つめた。 「……なんでおまえの土産が、ジャビットなんだよ」 平次はちょっと肩をすくめ軽く受け流すと、そのままソファにどっかりと腰をおろ した。新一はしばらく当惑して見守っていたが、傍に行って自分も彼の横に座った。 少しの間沈黙がその場を支配する。そのうち、平次が向こうを向いたまま、ぽつり と尋ねてきた。 「おまえ、昨日の夜は、ここにおったよな?」 新一は怪訝そうに眉をしかめつつも、素直に答えた。 「なんのアリバイ探してんだよ? ああ、いたぜ。蘭やおっさんとテレビ見てた。そ れがどうかしたのか?」 「……いや、ええのや。なんでもあらへん」 平次はそれっきりまた黙り込んでしまった。新一はそっとそんな彼を伺った。何故 だかわからないが、今日の平次は明らかに変だった。いつもの明るさが見当たらな い。新一は心配になって、そっと呼びかけた。 「服部?」 平次が無言のまま顔を向ける。新一はじっとその顔を見つめ、優しく話しかけた。 「なあ、どうしたんだよ? おまえ、なんか変だぜ。なにかあったのか?」 平次はしばらく新一を見つめていたが、そのうち、ふいに抱きついてきた。小さな 新一の体を胸に包み込み、力を込めて抱きしめる。 新一は少し苦しかったが、抗わず、そっと彼の背に手を回して抱き返した。 「どうしたんだよ、服部? 何があったんだ? 話せよ」 平次はその問いには答えなかったが、代わりに別の言葉をつぶやいた。 「愛してる」 「え?」 思わず新一は問い返した。聞こえなかったわけではない。あまりにも唐突だったの で、ちょっと戸惑ったのだ。 平次は新一を抱きしめたまま、苦しげに言った。 「おまえも言うてくれ。俺を愛してるて、言うてくれ、新一」 「服部……」 新一は当惑して頬を赤らめた。 「だ、だって、おまえ、こんな真っ昼間から」 「いいから言え!」 一言乱暴に命令すると、今度は懇願するようにつぶやいた。 「頼む、言うてくれ。新一……」 新一は困惑して平次を見つめた。 やはり今日の彼はおかしい。平次は、言葉によりすがるような男ではない。口先だ けの愛を求め、それに満足するような薄っぺらな奴じゃない。 だがそんな男が、今はそれを欲している。形のないものを、せめて形にして見せて くれと望んでいる。新一には彼の気持ちがわからなかった。 だが、はっきりしていることがひとつだけあった。彼は、何かに苦しんでいる。苦 しんですがっているのだ。新一に。そんな彼にしてやれることなんて、たったひとつ しかないではないか。 新一は口許に柔らかな笑みを浮かべ、そっとささやいた。 「愛してるよ、服部」 平次は黙って聞いていた。そしてせつなげに言った。 「もういっぺんや。もういっぺん言うてくれ」 「愛してる」 「……なんべんもや。なんべんでも俺に聞かしてくれ。おまえの……言葉を」 新一は請われるままに、背中に回していた手を彼の髪にもぐらせると、優しく愛撫 して繰り返した。 「愛してる。愛してるよ、服部。愛してる……」 新一の柔らかなボーイソプラノが、部屋に響いた。二人だけの、他には誰もいない 部屋に、何度も何度も繰り返し響いて消えた。 平次は何も言わず、ただ瞳を潤ませて、いつまでもその言葉を聞いていた。 |