堕ちないで、BOY!

目次に戻る

--act  4                      

 
 貴彦がグイと強く押しあげた。
 肉体を貫かれてしまいそうな強烈な圧迫感に、夏哉は思わず体をずり上がらせてうめいた。
「くぅっ……」
 無意識に逃げよう逃げようとする夏哉の肩を、貴彦がしっかりと押さえ込んで離さない。行き場を失って戸惑う体の奥に、どんどん容赦なくそれは進入してきては、ゆっくりとではあったが突いたり引いたりを繰り返した。
「つ、くっ……んくっ!」
 激しい痛みにこらえようもなく涙が溢れ、それでも必死に声だけは立てまいと、夏哉は固く歯を噛み締めた。
 苦痛を耐えようとすればするほど、全身に力が入って、その部分を強く締め上げる。それは逆に辛さを倍増させてしまうのだが、当然ながら初心者の夏哉にそんなことなど判るはずもなく、また気をまわす余裕すらなくて、ただもうひたすら体を硬直させるばかりだった。
 ふと貴彦が話しかけてきた。
「カースケ」
「んふ?」
「おい、口を開けてみろ」
 それと同時に、貴彦の手が顎に伸びてきて柔らかく撫でさする。夏哉が朦朧としながらもほんの少し唇を開くと、彼の指がそれをほぐすように優しく愛撫し、さらに歯列を割って口の中へと入り込んできた。
「……ん、んん」
 貴彦の指が舌の上を荒っぽく這いまわり、頬の裏側や舌の付け根の方にまで伸びてきては、激しく、時に優しく柔らかに愛撫した。口の中をそんな風に弄り回されるなんて初めてで、夏哉は戸惑い、うっすらと瞳を開いて彼を見た。貴彦はじっと鋭い目で見つめながら、低く甘い声でつぶやいた。
「カースケ、舐めろ」
「…………?」
 言葉の意味がすぐにとれなくてぼんやりしていたら、すぐさまもう一度命じられた。
「舐めてみろ、俺の指を。しゃぶるんだ、カースケ」
 夏哉は何も考えられない頭で、言われるがまま素直にそれに従った。
 舌の上に遊ぶ彼のごつごつとした指を、滑らかな舌でゆっくりと舐めあげた。そして丁寧に絡めては、まるで子供がそうするように無心にしゃぶる。その間も貴彦の指はあちこちへと蠢き、濡れた粘膜を刺激してきた。夏哉はそれを追いかけるようにすがりついては、一心に貪った。
 それは、なんだか倒錯した快感だった。
 ただ彼の指を舐めているだけなのに、不思議な感覚が身の内からわきあがってくる。訳もわからず興奮させられ、いつのまにか息が荒くなって、心臓が激しく脈打っていた。
 何が気持ちいいのかわからない。でも確かにそれは快感で、燃え上がっていく自分がいて、もっと違う深い快感を望んでいる自分がいて、くらくらするほど妖しく刺激的だった。
 貴彦はそんな夏哉を見下ろしながら、言い聞かせるようにつぶやいた。
「そのまましゃぶってるんだ、カースケ。良い子だからな」
 その言葉と同時に、貴彦がまた深く突いてきた。
「んふぁっ!」
 夏哉は思わず声をあげた。だがそれは、先ほどまでの引き裂かれそうな痛みにうめく声とは少し違っていた。
 指が口の中に入っているので、さっきのように歯をきつく噛み締めて耐えることはできなかった。しかしそのせいで体から力が抜け、逆に貴彦の動きがスムーズになって、痛みも明らかに薄らいだ。しゃぶるのを忘れて少し力を入れかけると、すぐさま貴彦の指が舌技を促して、休むことを許さない。
 口の中のものを舐めしゃぶっていると、そちらに気持ちが分散されて、余計な緊張を生み出さずにすんだ。それに彼の指を噛んではいけないと思うせいか、痛みの中でも意識的に全身の筋肉を緩めようとする。
 そのうち、優しく繰り返されるスライドが、それほど苦痛を伴わなくなっていることに夏哉は気づいた。
(あ、あれ……? なんか……あんまり、痛くない……。少し、慣れた、かな……?)
 まったく無感覚というのではないが、先ほどまでの筆舌に尽くしがたい痛みはほとんどなくなっていて、変わりにジンジンする疼きが感じられた。苦痛が軽減するといっそう緊張が解けて、強張っていた体から力が抜けていく。夏哉はもうすっかり身を投げ出して、貴彦の下で成されるがままに体を預けていた。
 貴彦がそっと顔を寄せてささやいた。
「少し楽になったか?」
 こっくりと素直にうなずく夏哉に貴彦は妖しく微笑を返し、いっそう低い声で言った。
「そうだ、上手いぞ、カースケ。そんな風に力を抜いてるんだ。そのまま俺に任せろ。何も怖くないから」
 貴彦はゆっくりと口から指を引き抜くと、夏哉の唾液にまみれたそれを自分の舌で舐めあげた。にやりと笑う顔が、震えあがるほど美しい。夏哉は朦朧としながらその笑みを見つめていた。
 貴彦が一旦止めていた動きを、また静かに再開した。決して乱暴にはせず、じわりじわりと慣らすように緩やかに、だが確実に肉体の内側を攻め続ける。夏哉は自分の内部をかき乱す異質なるものの存在を、不思議な気持ちで受け止めた。
( あ……なんだろ。もう痛くないや。ちょっときつくて苦しいけど、でも……変な、気分。何かな、この感じ? そんなに、いやじゃないかも……)
 そんな風に思ってしまう自分に驚きながらも、夏哉は貴彦に攻められて、決して嫌悪感を抱いてない己の心と体に気づいていた。
 今夜彼と出会うまでは、ずっとずっと男に犯される自分を想像しては、目の前がくらくらするほど嫌でたまらなかった。きっとその最中は泣きたくなるほど屈辱的で、気持ち悪くて最悪な気分だろうと思っていた。最後まで堪えられるかどうかさえ自信がなかった。
 だが今現実に彼を受け入れて、意外なほどすんなりと納得している。己の中で蠢く他人の性器を、素直に感じ取っている。それどころか、不思議な安堵感まで覚えて、彼に全てを預けたくなってしまってる。
 夏哉はまるっきり無意識のままつぶやいた。
「貴彦さん……」
 まるで酔っ払ったみたいに頭がふらふらしていた。先ほどからずうっと体の芯から奇妙な疼きがわきあがってきていた。少し切ないような、泣きたいような、だけど悔しくてそう思うんじゃなくて、もっと全然別の、初めて出会う感情がそうさせているのだ。
 息が荒く短くなっていた。額に浮かんだ汗に、ウェーブのかかった長めの髪が絡んで、ぺったりと張り付いて鬱陶しい。貴彦がゆっくりとスライドを続けながら、指を伸ばしてそれを優しくかきあげてくれた。
 彼は脇に抱えていた足を離して、更にぐっと深く折り曲げるようにして押し付け、体を寄せてきた。押し入られる深さが増し、少しだけ苦痛を感じて夏哉は眉をひそめた。
(つっ……いて……)
 思わず顎がのけぞった。だが痛いと思ったのはその一瞬だけで、その後に急に信じられないような感覚が襲ってきた。
(うあっ、な、なに? あっ……やだ! やだそこ! ああっ……)
 ぐんと体が反り返った。中に蠢く貴彦のそれが、ある一点に触れてわけのわからない快感を生み出している。それは男性自身を刺激されて感じる快感とは全然違う、まるっきり別の感覚であった。
 急激にボルテージが跳ね上がり、しかも性器を愛撫されるのとは違ってコントロールがてんで利かない。自分の意志や感情に関係なく、どんどんどんどん燃えあがっていく。
(やだっ、感じる! なんだよ、これ。なんで、なんでこんなに、ああっ! いやだっ! だめだってばぁ!)
「あっ、ふああっ、あん!」
 その気はないのに、声が勝手に喉の奥から飛び出した。それも後から後から、止めようもなく溢れ出す。余りにも恥ずかしくて、夏哉は自分の指を噛んで必死に押しとどめようと努力した。
(やだぁ、声止まんねぇ……。どうして、こんな……。あっ、はぁ、すご……。いい、感じる……。ああ、なんでだよぉ……? あああ……)
「ん……ふっ、ふぅ……んん!」
 口を塞いでも、甘ったるい鼻声は止められなかった。自分の嬌声になおいっそう羞恥が増し、それがまた倒錯した快感を生み出させる。夏哉はもう自分を抑えられなかった。
 貴彦が夏哉の手をそっと握った。
「指を傷つけるぞ。離せ、カースケ」
 夏哉はうっすらと瞳を開けて、泣き出しそうな顔で返した。
「だって、声……声出ちまう……。止まんないんだもん……」
「気持ちいいか?」
「……うん」
 夏哉はありのままに答えた。こんなに熱く反応している体を見られて、今更隠すのも愚かしい。それに、この男の鋭い瞳に見つめられたら、きっと何もかもがお見通しだ。何もかも白状するしかしょうがない。
 貴彦は夏哉の手を取って、口から外した。
「ほら、離すんだ」
「んん……や、声が……」
「好きなだけわめけ。どうせここには俺とおまえしかいないんだ。恥ずかしがることなんかない」
「でも……煩いよ?」
 貴彦はぴくりと片眉を上げ、くすりと鼻で笑うと、顔を寄せてそっと頬にくちづけた。
「ばか、そういう声ならいくら煩くてもいいんだよ」
 同時にぐっと深く押し付ける。夏哉は大きく身を震わせた。
「ああっ」
 耳元で甘くささやかれる声……。
「可愛いぜ、カースケ」
 それは魔法の呪文だった。その一言で、たがが外れるように自分を縛り付けていたものがほどけていく。夏哉はすがるように、しっかりと貴彦の二の腕にしがみついた。
「あっ、あっ、やだっ。貴彦さんっ! 俺、俺もう……、あああん。いきそ……はああ」
 生まれて初めての刺激の中で、これっぽっちも抑制できないまま、高みへと押し上げられていった。それはまるで、隠し続けていた眠る自分を無理やり揺さぶり起こされるような、己の中の核をえぐりとられるような、凄まじい感覚だった。
 貴彦が夏哉の反応から絶頂が近いのを察して、激しさを増してきた。強く早く繰り返されるスライドに鋭い痛みは感じるが、それ以上に中から生み出される快感のほうが強烈で、夏哉はもう何もかもなく感じるがままに乱れ悶えた。
「ああっ、いいっ、はああん、あっ、た、たか……」
 貴彦の熱く逞しいものが、全てを知り尽くすように一点を攻め続ける。夏哉は大きくのけぞって叫んだ。
「だめ、いく……! あああっ!」
 内側からマグマが噴き出すように快感が溢れ出し、それは爆発した。
 一瞬呼吸を忘れた体は固く硬直し、頭の中でパアッと真っ白い光がスパークする。しがみついていた貴彦の腕を思いっきり握り締めた。
「あ……」
 ふわりと気が遠くなった。
 こんな絶頂は初めてだった。自分が自分でなくなってしまうような一瞬。何にも考えられなくなって、快感だけに埋め尽くされる一瞬。
 何もかも、貴彦に支配されてしまった一瞬……。
 夏哉はふわふわと浮遊する意識の中で、朦朧としながら思った。
(はあああ、すげぇ……、もう死ぬ……。これ、癖になりそ……。やばいってばぁ……)
 それは最高の快楽という名の、もっとも危険でもっと妖しい地獄の罠だった。そしてまるっきりあっけなく捕らえられてしまった。
 夏哉は自分を見下ろす貴彦の瞳の中で、何処までも果てしなく堕ちていくのを感じていた。


 浴室から水を流す音が聞こえていた。
 先ほどまで横にいた男が、今はそこできれいさっぱり情事の跡を洗い落としているのだろう。
 夏哉はそれをぼんやりと聞きながら、いまだ茫然自失のまま、ぐったりとベッドの上に転がっていた。
 体が鉛みたいに重くて、腰がじわりと痺れていて、そして後ろの蕾がジンジンとせつなく疼いていた。男に犯られてしまったんだと可笑しそうに嘲笑っている。
 だけどショックなのはそんなことじゃない。そんなのは、初めっからある程度の覚悟はしていたことだ。
 何よりも何よりも夏哉を打ちのめしていたのは、先ほどまで貴彦に抱かれていた時に自分が見せた反応、あられもなく乱れ狂った、誰でもない己自身だった。
(俺……、俺、どうしてたの? 俺、メチャクチャ感じてた? 嘘……。ああ、信じらんねぇ……。誰か嘘だって言ってくれぇぇ……)
 どうにもいたたまれなくて、肩に掛かった柔らかな毛布をぐっと頭の上まで引っ張りあげた。
(なんでぇ? なんでだよぉ? 俺、男なんて好きじゃないのに、俺、全然ホモじゃないのにーっ! だあああっ、なのにどーしてあんなに感じちまったんだよぉ? あんなに、あんなに……恥かしげもなくよがり倒して、しかも続けて二回も……うひぃぃ!)
 夏哉が貴彦に攻められてあっさりと一人観念した後、まだイってなかった彼にそのまま続けられ、結局はまたまた燃えあがって達してしまった。合計三回。しかもあとの二回はほとんど続けざまだった。
 クールダウンすらする暇なく昇らせれた体は、もう全身がSEXの塊になったみたいで、恥かしいとか驚いたりする感情はまるっきり消えうせていた。咽が枯れるほど叫んで、馬鹿みたいに彼の名を呼んで、貪欲に彼を欲した。もっと、と何回ねだったことだろう。
 初めて男性を受けいれ、痛みと嫌悪で最悪のひとときを体験するはずの夜だったのに、現実の自分はとんでもなく思いっきり喜んでしまった。最後のほうなんて自分から腰まで振って迎えていたではないか。
(え? ちょっと待て。……俺、腰振ってたのか? 嘘……。でもなんか、振ってたような気がする……。すげぇ気持ち良くって、たまんなくって……。うわあああん、どうしよーっ!)
 夏哉が自己嫌悪で押しつぶされそうになって悶えていると、シャワーを浴び終わって戻ってきた貴彦が、とすんと横に腰を下ろして話しかけてきた。
「おい、坊主。起きてるか? 動けるようなら、おまえもシャワー浴びてこい」
 だが何の反応もないのを見て訝しげに眉をひそめ、無理矢理毛布を剥ぎ取った。
「カースケ。返事をしろ」
 夏哉は枕に顔を突っ伏したまま、消え入りそうな声で応えた。
「……俺、立ち直れない……」
「まだ立てないのか?」
「違う……。立てないんじゃなくて、立ち直れないの……。いや……腰もくだけてんだけどさ……」
「最初からあんなに張り切って腰振るからだぞ」
「俺っ! やっぱ腰振ってたっ?」
 夏哉はがばっと上半身を起こすと、すがるような目をして彼に迫った。貴彦はつらっとして応えた。
「なかなかいいリズム感だったぜ」
「う……」
 夏哉はぐったりと脱力すると、はああと大きなため息をつき、再びベッドに突っ伏した。そのまま、力なく独り言のように話し始めた。
「俺……自分で自分が信じられねぇよ。俺、自分はまともだと思ってたのに、男になんてまるっきりその気にならないって思ってたのに、本当は違ってた。あんなによがって、乱れまくって……本当はすんげぇ変態で、全然まともじゃなかった……。俺ってホモな男だったんだ……。もう、死にてぇ……」 
 すっかり落ち込んで半べそをかいている夏哉に、貴彦はしばらく黙って座っていたが、やがて手を伸ばして夏哉の髪をくしゃくしゃと手荒く愛撫した。そして淡々とした口調で言った。
「なあ、カースケ。おまえ、明日電車で横に座った男を見て、自分が欲情すると思うか?」
 唐突にわけのわからない質問をされ、夏哉はちらりと顔を横向けて彼を見た。クールな横顔を見つめながら、ぼそりと元気なく答える。
「まさか……。んなわけないよ」
 貴彦はサイドテーブルに置いてあった煙草を取って火をつけると、ふうとひとつ白い息を吐いて、冷ややかではあるが柔らかな眼差しを向けて言った。
「あのな、男の体ってのは、前立腺を刺激されりゃいやでも感じるようになってんだよ。そりゃまあ多少の個人差はあるが、そういう生理なんだから仕方がないんだ。おまえが俺に掘られてよがり狂おうが腰を振ろうが、別にホモだからってわけじゃあない。そういうもんなんだ。おまえは男を見ただけでそれを欲しいとは思わない。だろ? なら、おまえはまともだよ。ホモなんかじゃあないさ。安心しろ」
 言葉は素っ気無かったが、それは思いのこもった慰めだった。口先だけではない彼の優しさが伝わってくる。夏哉はしばらくの間無言でいたが、やがて体を起こすと、ちょこんと彼の横に正座してつぶやいた。
「ごめんなさい……。俺、なんかアンタに失礼なこと言っちゃったかもしれない。変態だとか、まともじゃないとか……」
 うなだれて話す夏哉にちらりと視線を向けると、貴彦は平然として言い返した。
「自分がまともじゃないことは百も承知してるさ。それより、早くシャワー浴びて来い。帰るぞ」
「うん」
 夏哉はコクンとうなずくと、まだ力が入らなくてよろける体で浴室へと向かった。
 帰り道、車の中でしばらく二人は無言の時をすごしていたが、やがてふと貴彦が声をかけてきた。
「カースケ」
「ん?」
「あのな……、別におまえの事情なんて俺には全然関係のないことだから、黙ってようと思ったんだがな」
 貴彦は珍しく勿体ぶった前置きをつけて話しだした。
「おまえ、その女に騙されてるぞ」
「え? な、なんのこと?」
 いきなり切り出されて、夏哉は焦って問い返した。貴彦はちらりと視線を投げかけ、話しを続けた。
「だからその女だよ。妊娠したって言う」
「え、え? でも、なんで騙されてるなんて?」
「つまりな、まあ、おまえみたいなガキがわからないのは無理もないが、女ってのはやって一ヶ月やそこらでガキができたかどうかなんてわかりゃしないんだ。せいぜいニ、三ヶ月たってなきゃはっきりしない。だが、おまえがそいつと寝てから、まだ一ヶ月もたってないんだろ? そりゃあ金欲しさのただのフカシだ。でなけりゃ、別の男のガキの責任でもおっつけられてるんだな」
 夏哉は唖然として貴彦を見つめた。
 それはまるっきり考えてもいなかった推測だった。
 一週間前突然電話が掛かってきてから、夏哉は頭から女の話を信じて、それに向けて突っ走ってきた。あちこち金策に回って、頭を下げて、売れる物は全て売って、挙句の果てに男に体まで売って、その果てに「それは嘘だ」なんて聞かされても、すぐに受けいれることはできない。夏哉は呆然としたまま言い返した。
「あ、でも……、も、もしかしたら、ほ、本当にできてるかもしれないし……、ほら、せ、生理が遅れてるとかなんとかさ……、もしかして、わかったのかも……。それに、後ろにヤクザがいるって」
「そいつもフカシだと思うがな。そんなすぐにばれるような嘘をつく小娘が、ヤクザなんてそうそう鼻で扱えるわけがない。だいたい、後ろにその手のものが絡んでるにしては、ひどくやり口が幼稚だぜ。まあ、やけに手馴れてるところを見ると、きっと誰かと寝るたびに、ダメモト承知で男という男片っ端からあたってるんじゃないのか? で、たまに、おまえみたいなとぼけた野郎がカモになると。しけた詐欺だぜ、まったく」
 貴彦は冷ややかな口調でそう言った。
 夏哉は返す言葉もなくして、黙ってうつむいていた。頭の中で今聞いた貴彦の言葉と、電話口から聞こえてきた女の声がぐちゃぐちゃに絡まっていた。どっちが嘘で、何が本当で、どれを疑って何を信じていいのか、まるっきり判断できなくなっていた。
 いったいこの先どうすればいいのか、ちゃんと考えられない。夏哉は混乱したままボソボソとつぶやいた。
「嘘……かもしれないけど、でも、もし本当だったら……。ほんとに妊娠してて、ほんとにヤクザが出て来たりしたら、俺……。あ、でも……やっぱ嘘かも……。俺、いったいどーしたら……」
 すっかりパニックになってる夏哉に、貴彦は冷たい一瞥を投げかけ、突き放すように言った。
「ま、どうするかはおまえの勝手だ。安心料だと思って金を出すか、思いきって突っぱねるか、決めるのはおまえだ。好きにすればいい」
 そのまま、また寡黙になって運転を続ける。夏哉は彼の綺麗な横顔を見ながら、自分の成すべきことを決めかねて思い悩んでいた。
 しばらくの後、ふと頭に浮かんだ疑問を恐る恐る口にした。
「貴彦さん、ゲイなのに随分詳しいんだね? 女の人の……体の事」
 窺うようなその問いに、貴彦はしばし迷っていたようだったが、そのうち低い声でつまらなそうにつぶやいた。
「これでも一応妻子がいる身なんでな」
「え……?」
 夏哉はくるんと目を見開き、そのまま二の句が告げずに口を結んだ。彼の言葉が何故だか心に深く鋭く突き刺さる。
(妻子……。結婚、してたんだ、貴彦さん)
 どうしてだかわからないが、それは妙にショックな真実だった。さきほど騙されてる話を聞いた時より、胸がドキドキと苦しく締めつけられる。
 夏哉は黙って、ずっと彼を見つめていた。
 車は夜の高速をスムーズに走り、やがて二人をもといた街に連れて戻った。電車も地下鉄もとうに最終が過ぎた時間だったので、夏哉はアパートから一番近い駅の前まで送ってもらってそこで別れることにした。
 微かな抵抗とともに車が止まり、貴彦が、さあ、ついたぞとでも言うように冷ややかな視線を向ける。夏哉はぐったりと気だるい体でのろのろと車から降りた。
 歩道側に回り、運転席の窓越しにぺこりと小さく頭を下げた。
「あの……どうもありがとう。お金、すごく助かったから。それで……あの、あの……俺、えっと……」
 声が届いているのかいないのか、車内から向けられる冷たい眼差しは、今すぐにでも自分を放り出して走り去って行ってしまいそうに感じられた。夏哉は何故だかそれを目にするのが怖くて、つなぐ言葉すら思い浮かばぬまま、あやふやなつぶやきを繰り返した。
 車のサイドウィンドウが開いて、貴彦がいぶかしげな顔を出した。
「なんだ? まだ何かあるのか?」
 はっきりしない夏哉の態度に、いらついたような彼の声。夏哉はしどろもどろに応えた。
「え……? うん……いや、その……。あのさ……や、やっぱ、騙されてんのかな? 俺、明日どうしたら……。ちゃんと問いただすべきなんだろうか……? い、言い返されたりしたらどうしよう……」
「そんなことは自分でどうにかしろ。たとえ女の言うことが嘘だろうが、つけいるきっかけと隙を作ったのはおまえなんだ。自分のことは自分で始末をつけろ」
「そ、そうだよね……」
 容赦のない言葉に、夏哉はしゅんとうなだれて口を結んだ。甘えの許されない関係。いや、もとより、そんなものの入り込む隙間なんかない一晩限りの金と体だけのつきあいなのだ。これ以上この男に何を望むべくもない。すがるなんて決して許されない……。
 夏哉はきゅっと唇を噛むと、もう一度頭を下げた。
「わかった。俺、自分でどうにかする。どう……なるかわかんないけど。でも……うん、いろいろとありがとう」
 貴彦はしばし無言で見つめていたが、そのまま何も言うこともなくウィンドウを閉じた。夏哉は走り出そうとする車をじっと見守っていたが、急に思いついたようにコンコンとガラスを叩いた。
 眉をひそめて再度ウィンドウを開けた貴彦に、手に持っていた黄色い縫いぐるみを差し出した。
「あ、あの、これ、おみやげ。持ってって」
「俺が? なんでこんな……」
「あの、子供にさ。いるんでしょ? 貴彦さん」
 夏哉はちょっと寂しげににっこりと笑って言った。
「遅くまでつきあわせちゃったお詫び。子供にあげてよ。喜ぶかどうかわかんないけど。……じゃ、今夜はほんとにどうも。さよなら」
 そして夏哉は三度目の礼をすると、くるりと踵を返して歩き出した。
 いつまでもそこにいたって、意味のない思いが膨らむばかり。情けない言葉を口にしたくなるばかり。冷たく走り去って行く車を見送るぐらいなら、背中でその音を聞いていたほうがずっとましだ。自分から歩いて別れてしまった方がきっと何倍も樂……。
 だがニ・三メートルも歩いたところで、夏哉は背後から呼び止められた。
「おい、カースケ」
 戸惑いながら恐る恐る振り向くと、貴彦が窓から不機嫌そうな顔をだして、怒ったような眼差しで見つめていた。形の良い唇をヘの字に歪め、しばらく無言でにらんでいた後、ハアと大きなため息をついた。
 困ったもんだと言わんばかりに、カリカリと頭を掻く。
「まったく……手の掛かるガキだよ、おまえは。えらい買い物をしちまったぜ」
「貴彦さん?」
 夏哉は意味のわからない彼のつぶやきを、じっと不安な気持ちで聞きいっていた。




 クラブの中は騒々しい音楽で満ち溢れていた。
 そこここに楽しげに笑い騒ぐ若者達がいて、意味のない踊りを繋がりの薄い仲間たちと競うように見せつけあっている。無駄な流れに乗ることだけが、大切なのだと錯覚して。
 そんな中で、夏哉は一人その群れの中に入ることなく、目当ての人物を探していた。
 どれも似たような服と化粧で飾り立てた少女達の集団からは、一度会って寝たぐらいの相手の顔などなかなか見つけられなくて、結構探すのに苦労させられた。結局は向こうから声をかけられて、ようやく会うことができた。
 目元を銀色にキラキラさせたその娘は、発育した胸を見せびらかすように揺らしつつ、にこやかに近寄ってきた。
「ハーイ、久しぶりっ。えーと……名前、なんだっけ? かー、かー、かずやだっけ? 違ったぁ?」
 女は名前一つ覚えちゃいなかった。しかし夏哉だって忘れていたのだから、その辺はおあいこである。
 彼女は陽気に笑いながらも、そうそうに話を切り出してきた。
「ところでさー、ちゃんと持ってきたぁ、お金? 今更払えないなんて言わないよねー? 女の子に傷つくっちやったわけだしー。こういう時さー、損するのはいっつも女なんだよねぇ。堕ろすのってすっごく大変なことなんだからさぁ」
 たいへんと言う割には、口調はあっけらかんとお気楽で軽い。しかし男に罪悪感をいだかせるツボだけは心得ていて、哀れな被害者ぶりを巧みに匂わせた。
「ねえねえ、こっち」
 女は夏哉の腕を掴むと、ひとけのないトイレ横の非常口の辺りに引っ張っていき、そこで顔を寄せるようにして言った。
「ほら、早くちょうだい、お金。それだけで今回のことはチャラにしてあげるから。大丈夫、知り合いに腕の良い医者がいるんだぁ。そこにいって内緒でどうにかしてもらうって。後腐れなく終わるんだから、二十万なんて安いもんだよねぇ?」
 言葉柔らかながらも、まるで脅し取るような雰囲気だ。夏哉は内心すっかり気後れしながらも、震える声で答えた。
「あの……、金、持ってこなかったんだ」
「ええっ、なんでよぉ? バックレるつもりぃ? 何考えてんの。アンタが作った子供なんだよぉ?」
「で、でも……、本当に出来てるかどうかわかんないし、お、俺の子かどうかもはっきりしないし……」
「本人の私ができてるって言ったらそうなんだよ! なによっ、男のくせに逃げる気かよ? この腰抜け野郎! ぐちゃぐちゃ言ってないで、出せよ、金! ほらぁ!」
 途端に柄の悪くなった言葉で怒鳴り付けると、女は凄い形相で迫ってきた。少しは可愛げだった顔が、見苦しく歪んでいる。小鼻が膨らんでみっともない……などと馬鹿げた思いをいだきながら、夏哉はおずおずと言い返した。。
「あ、あの、じゃあ、びょ、病院にさ、とりあえず一緒に行ってみて……」
「んなこと関係ねーよ。医者はいるって言ってんだろ? 余計なお世話なんだよ、んなことはぁ」
 と、突然背後から女の肩に大きな手がずしりと置かれた。
「その医者の名前、教えてもらえるかな?」
 女はビックリして振り向いた。そこには冷ややかな顔をした大人の男が一人立っていた。
「な、なんだよぉ、アンタ?」
「俺か? 俺は弁護士の山田という者だ。そこの彼の知り合いなんだが、厄介事に巻き込まれたってんで相談を受けてね。なんだか不始末を起こしたそうだが?」
 貴彦はちらりと夏哉を見て、穏やかな口調で言った。あくまでも態度は柔らかく、しかし眼光だけは射るように鋭い。彼の威圧的な雰囲気と、弁護士という権威的単語に脅され、女はいささか気後れしたようだったが、それでも負けじと向かってきた。
「そ、そうだよ。そいつが子供つくっちゃってさー、処分するからカンパしてって頼んでたんだって。と、当然のことだろ、そんなの? 弁護士さんならシカトしろなんて言わないよねぇ?」
「そりゃまあ、自分のしでかしたことの責任は自分でつけるべきだな」
 意外にも素直に賛同されて、女はそれみたことかと得意げに顎をつきだした。だが、その後に夏哉の口から飛び出した言葉に、仰天して目を剥いた。
「じゃ、責任とって俺父親になるよ。だから産んでくれる?」
 女は一瞬呆気に取られてポカンと大口をあけ、すぐさま焦って言い返した。
「な、何とぼけたこと言ってんだよ? 誰が父親になれとか言ったよ? ただ金出してくれりゃあいいんだってば」
「ああ、残念だが、こいつ宗教上の都合で、堕胎は大罪なんだ。作っちまったからには産んで育てるってのが教団の絶対の決まりでな。なあ?」
 真面目な顔をして相槌を求めてくる貴彦に、夏哉も真剣にうなずいてみせた。
「うん、堕ろしたりしたら、俺、天国に行けなくなっちまうからさ。だから産んでよ? あ、これから一緒に教祖さまのところに行ってさ、きみも一緒に洗礼受けて、産まれるまでの間コミュニティで一緒に暮らそう。でないと赤ちゃんがこの世の汚い悪に染められちゃうよ? きみ、地獄に落ちるよ?」
「は、はあぁぁ?」
 女はあまりの急展開にすっかりパニックになって、目を白黒させて二人を見た。貴彦が追いうちをかけるように、もっともらしく言い沿える。
「そうだな、その方がいい。教団には良い医者も一杯いるし、こんなところにいちゃあだめだ。純粋なる魂が穢れてしまう。ナンマイダ」
 正面から女の肩をがしりと掴んで、ぐぐいと顔を寄せて低い声で言った。
「よし、今すぐ行こう。大丈夫、きみのご両親には俺から連絡しておく。きみの掛かっていた医者にも相談して、転院をお願いしよう。さあ、そこの病院の名前を教えてくれないか?」
 女は唖然として貴彦を見つめ、それから夏哉に視線を移し、おろおろしてそれを繰り返すと、慌てて貴彦の手を振り払って叫んだ。
「な、なんだよ、アンタらアブナイ奴らかよぉ。冗談じゃないってば。もういいよぉ」
 そう言うとそそくさと背中を向けて、逃げるように早足で歩き出した。その手をとって、貴彦が鋭い瞳でにらみつけた。
「子供はどうなったんだ? 堕ろしたいんじゃなかったのか?」
「う、嘘だよぉ。んなもんできてないってばー。だから勘弁してよ、もぉ。離してってばー。うわああん」
 女はとうとう半べそをかいて、すがるようにグシャグシャになった顔を向けた。貴彦はちらりと夏哉の顔を見、彼がもういいと言うようにうなずくと、ようやくその手を離した。女はあっと言うまに二人の前からいなくなった。
 残された二人はしばらく黙ってそれを見送っていたが、そのうち貴彦がつまらなそうにつぶやいた。
「ふん、あっさりしたもんだ。なんだかんだ言ってもガキだな、所詮」
 そして夏哉の方に向き直ると、何事もなかったかのような顔をして言った。
「良かったな、金払わずにすんで」
「う、うん……」
 そう答えた途端、夏哉はへなへなとその場にへたり込んだ。貴彦がちょっと焦った様子で近寄ってきた。
「おいこら、なにやってんだ」
「ちょっと、気が抜けた……」
「はあ?」
「なんか、心臓バクバクして……気持ち悪い。吐きそ……」
「おい、冗談だろ?」
 貴彦は初めて慌てた顔をして、夏哉の腕をとって抱え起こすと、大急ぎでクラブから彼を連れ出した。
 ビルの外に出て冷たい空気に触れると、なんとか少し気分も良くなり、夏哉はほっと息をついた。何処で買ってきたのか、貴彦が冷たい飲み物を目の前に差し出した。
「ほら、飲め」
「あ、ども」
 素直に受けとってコクコクとそれを飲んだ。貴彦は黙って見守っていたが、やがて夏哉が大きくため息をつくと、ようやく安心したように煙草を出して吸い始めた。
 雑居ビルに挟まれた汚れた空間。ネオンから少し隠れた薄暗闇の中で一服している姿は、なんだか少しうらぶれていてかっこよかった。夏哉がじっと見つめていると、その視線に気づいて呆れたような顔をして話しかけてきた。
「本当に手の掛かるガキだな、おまえは。こっちの方が金払ってもらいたいもんだぜ、まったく」
 夏哉は慌てて叫んだ。
「あ、お金! もういらなくなったから返すよ、五万」
 焦って財布に手を伸ばす夏哉に、貴彦は冷ややかに言った。
「あれはおまえのものだ。おまえが正当に払っただろ? ベッドで」
「え? ああ、まあ……」
「とにかくことが済んで良かったな。じゃあな」
 貴彦はそう言い残すと、さっさと一人行ってしまいそうになった。夏哉は焦って彼を呼び止めた。
「あ、貴彦さん!」
 まだ何かあるのかというように彼が振り向く。その冷淡な瞳を見返しながら、夏哉は言葉をとぎらせつつ言った。
「あの……あのさ」
「なんだ?」
「あの……お礼……。今日、助けてくれたお礼……アンタに」
「礼? そんなもの……」
 貴彦は言いかけて口をつぐんだ。じっと見つめてくる夏哉の目の奥に、言葉にできぬ欲望を感じとって。
 しばし無言でいたが、やがて冷ややかな笑みを口元に浮かべて応えた。
「ふん、残念だが、今夜はこの後ちょっと用事があるんでな、おまえにつきあう訳にはいかないんだ。すまんな」
 夏哉はその言葉を聞いて耳の先まで赤くなった。自分でも半分意識していなかった欲望をすっかり見ぬかれて、恥かしくて恥かしくてたまらなかった。そんな感情を抱いたなんて知られてしまって、穴があったら入りたい気持ちである。
 だが、それは本当のことだった。彼に逢って、昨日の余韻に身体が疼いた。もう一度あのめくるめくような快楽の世界に浸りたいと、中心から渇くような欲求が湧き出してくる。それはあっさりと拒否されてしまったが。
 夏哉が恥じ入って身を縮こませていると、ふと貴彦が歩み寄ってきた。顎の先を掴んで伏せていた顔を上向かせ、そのまま親指の腹でゆっくりと唇を撫でさすった。夏哉の半開きにした下唇の上を、指がゆるゆると這いまわる。
 貴彦は薄く笑いながら、低い声でささやいた。
「なあ、カースケ。ひとつ忠告しておいてやる。もしおまえがこの先、まともな人生を普通に生きたいと望むなら、もう二度と男とは寝ないことだな。おまえ、感度良過ぎるぜ、カースケ。男と相性が良過ぎるんだよ、おまえの身体。言っとくがな、癖になったら二度と抜けられないぜ、この世界は。くれぐれも忘れるなよ?」
 呆然としている夏哉の口に、彼の唇が重なってきた。
 熱い舌が夏哉の中をかき乱す。口の中も、そして心も……何もかもを混乱させる。
 長く濃厚なくちづけの後に、貴彦はニヤリと笑うと、冷たく言った。
「じゃあな、カースケ。堕ちるなよ、青少年」
 そのまま貴彦は背を向けて行ってしまった。夏哉を一人残したままに。
 夏哉は長い間壁に貼りつき、身動きひとつできずにその場に立ち尽くしていた。胸がいまだドクドクと高鳴っていた。たった今まで彼が触れていた唇が、燃えるように熱い。せつない。苦しい。心が騒いで止められない。
 夏哉はそっと唇に触れながら、ぼそりと小さくつぶやいた。
「堕ちるなって? バカ……、堕としたのはアンタだろーが? くそぉ」
 もう誰もそのつぶやきを聞く者はいなかった。
 街のネオンが、妖しい光りをまたたかせていた。

     
                                           ≪終≫

前の章へ
目次に戻る
感想のページ