痕(あと)
なにかが、
じっと息をひそめて、
どこかで誰かを待っている。
闇の狭間で、 異次元の小部屋で、
まどろむように眠るように、
静かに誰かを待っている。
小部屋の扉を開けるのは誰?
扉の鍵を持っているのは……誰?
1 鍵 |
その扉は、 堅く鍵が掛けられていた。
いかにも古そうな木製の扉は、 長年使用されてきたせいで、
四隅がすっかり削れて丸くなっていた。
何度も人の手に触れたであろう取っ手付近は、
元々は薄いブルーであったと思われる回りの色合いなど影も残さず、
薄汚れて黒ずんでいる。 ガラス1枚はめ込んでいない、
素っ気無い作りの扉は、
新校舎の洗練されたデザインとは違って、
どこか重く暗い雰囲気を宿していた。
藤城朔哉(ふじしろ さくや)は握っていた鍵を、
扉の歪んだ金具の穴に刺しこんだ。
少し抵抗するような感触があって、 きしんだ音を立てて、
鍵はその口を開いた。
引き手に手を添え、
すっかり立て付けの悪くなった扉を開けると、
それまで閉じ込められていた室内の空気が、
開放されて一挙にむっと押し寄せてきた。
「 うわ、 埃っぽーい。 たまんねー 」
横にいた俊(しゅん)が眉をしかめて、 文句を言った。
あからさまにげっそりといった表情を浮かべている。
朔哉はちらりと視線を投げかけ、
だが無言のまま部屋の中へと入った。
宮の森高校旧校舎の一番北に位置する旧美術室。
それがこの部屋だった。
今では使われなくなって久しい。 十年ほど前、
現在の校舎に広く明るい美術室が設けられてからは、
ここはもっぱら古い画材やら壊れかけた像など、
とっくに捨てても惜しくはないような物の眠る場所となっていた。
美術に関するものだけではない。
昔の教卓だの見た事もない体育用具だの、
訳のわからぬものまで押しこまれていて、 すっかり物置状態だ。
しかも、
納められてからただの一度も日の目を見る事などなかったのか、
どれもたっぷりと埃に埋もれていた。
あまり歩く場所のない教室だった。
もともとそう広くはない上に、
山のようなガラクタが詰め込まれている。
二人が置かれた物を避けるように隙間を縫って歩くと、
長い間掃除ひとつされた形跡のない部屋は、
久方ぶりに訪れた侵入者の動きに合わせて、
積もった埃を空中に躍らせた。
俊は飛び散る粉塵をはらうように、
顔の前で手をヒラヒラさせながら、 小さくむせていた。
なんでこんな貧乏くじを引いてしまったのかと、
不満げに文句をつぶやいている。 朔哉はそんな彼を尻目に、
教室の奥へと進んで、 一番奥まった角まで行って声をかけた。
「 おい、 俊、 こっちだ。 ぼやいてないで早く来い 」
俊は所狭しと置かれたたくさんの物の間を縫って朔哉の元まで歩いていくと、
目の前に現れた古くみすぼらしい扉を見て、
感心したように言った。
「 へええ、 こんな所にこんな隠し部屋があったんだ。
知らなかったな 」
朔哉は呆れたように肩をすくめた。
「 ゲームじゃないんだぜ。
隠し部屋なんてしゃれたもんじゃないさ。
ただの昔の美術準備室だよ、 ここは 」
答えながら、 朔哉は半分壊れかかっているような扉を開け、
中へと入った。
足を踏み入れた瞬間、
むっと古ぼけた黴臭い匂いが鼻についた。
窓のないその部屋はしっとりと湿気を含んでいて、
しばらく外界と遮断されていた空気は重く淀んでいる感じがした。
それは普通の教室の三分の一にも満たないような、
小さな部屋だった。
教室側の壁一面に大きな作り付けの棚があり、
なにやら古い美術誌やら黄ばんだ紙の詰まった段ボール箱やらでびっしりと埋まっていた。
その反対側の壁には絵画が何枚かかけられており、
やはりどれも色褪せて埃に埋もれていた。
狭い室内にいっぱい物が置かれていて、
しかも大半はすでにがらくたと呼べるほどの物ばかりだった。
この部屋の存在を、
ほとんどの生徒達が知らなかったのも無理はない。
足を踏み入れる必要のない場所なのだ。 朔哉と俊だって、
明快な目的さえなければ、
特に入りたいとは思わなかったことだろう。
朔哉は中へと進むと、
汚れて白く曇ったガラス越しに壁ぎわの棚を覗きながら、
奥へと進んだ。 やがて棚の一角を見てつぶやいた。
「 あったぞ。 こいつだ 」
俊はその声に誘われ、
あまりの埃っぽさにためらっていた足を進めて、
彼の側へと歩み寄った。 そして朔哉が立っている前の棚を、
うさんくさそうに覗き込んだ。
「 なに、 これが部長の言ってたやつ? なんか、
すげえ古くさくない? 」
俊が訝しげに眉をしかめ、 文句をつけた。
そこには小さな石膏像が入っていた。 よく見かける、
ギリシアの女神を象った裸婦の胸像だ。
だが白い石膏の表面は見る影もなく灰色に汚れていて、
優美な美しさを台無しにしていた。
朔哉は冷やかに応えた。
「 しかたないだろ。 十年以上前のものなんだから。
新しいのを買うまでは、 これで我慢だよ 」
「 ふん、
新しいヤツなんて本当に買うのか? 結局ずっと使うんじゃねえの、
これ? 」
俊は嘲笑するように言い放った。
先日ある生徒が不注意で石膏像を壊してしまったため、
急きょそれに代わるものが必要になり、
その結果白羽の矢がたったのが、
この旧美術室に眠る過去の遺物だった。 美術部部長で、
朔哉の昔からの友人である杉宮が、
古参の教師からここに古い胸像がしまってあるという情報を仕入れてきたのだ。
そして彼に命じられて、 朔哉と俊が探しに来たのであった。
ガラス戸を開き、 中の像を手前に引き出そうと手を伸べると、
一瞬煙立つように埃が舞い散った。
ここは置かれている物すべてが、 なにもかも埃だらけだった。
俊がげっそりしたように顔を歪めた。
「
マジでこんな薄汚ねーの持ってくのかよ? こんなの無理して使うより、
別の物デッサンすりゃーいいのにサ。 部長も頭固いよな 」
「 じゃあおまえ、 ヌードモデルでもやるか? 」
朔哉がからかうように言うと、 俊はふふんと鼻で笑って、
得意げに顎を上げた。
「 俺に頼むと高いぜ。 大負けに負けて一時間一万円 」
朔哉は眉を上げ、 形良い唇を歪めて冷笑した。
「 なるほど、 そんな金払う余裕があったら、
わざわざこんなの持っていきはしないな。 もっとも、
おまえに頼むくらいなら今すぐ新品を買ったほうがマシだけど 」
「 あ、 ひでえ。 マジのその値段で頼まれた事あるんだぜ、 俺 」
「 いいからくだらないこといってないで、 そっち持てよ。
こいつ結構重いんだ 」
朔哉は嘲るように鼻で笑って、
胸像の端をつかんで俊に催促した。
俊はぶつぶつとつぶやきながら手を伸ばしかけたが、
すぐに引っ込めて、
にやりと妖しく微笑んで上目づかいに見上げた。
そして朔哉の元へと近づいてくると、
身を刷り寄せて甘ったるくささやいた。
「 なあ、 その前にさ、 せっかく二人なんだから、
ちょっとぐらいいいだろ? 」
媚びるように目を細め、 朔哉の背に手を回してくる。
朔哉は呆れて溜め息をついたが、 それでも、
請われるがままに像を持つ手を離して、 俊の体を抱き寄せた。
もう片方の手を彼の茶色に染めた髪の中にもぐらせ、
軽く引っ張って上向かせた。 官能的に開きかけた赤い唇が、
目の前で誘惑するように甘い吐息を漏らす。
妖しい食虫花に自ら飛び込む蟲のごとく、
朔哉は危険な香りと知りつつ、
その濡れた花びらに自分の唇を重ねた。
それは、 熱く情熱がたぎっていた。
すぐに俊が応えて、 背に回した手にぎゅっと力を込めてきた。
積極的に自分から舌を伸ばし強引に押し入ってくると、
待ちきれないように絡めてくる。 まるで、
生暖かい滑った生き物だった。
朔哉のすべてを奪い尽くそうとする、 貪欲な飢えた蛇だった。
俊の甘く熱い唾液が口の中に広がった。 甘美な酒に、
朔哉は一瞬の酔いを感じる。
冷たく凪いでいた自分の中のなにかが、
俊という美酒で束の間にさざめき立つ。
朔哉は俊を抱く手にいっそう力を込めた。
彼、 長尾俊(ながお しゅん)との関係は、
彼が入学してきた当初から続いていた。
朔哉がいる美術部に彼が新入部員として入ってきて、
同じ水彩画を描く者として三年の朔哉がいろいろと面倒を見させられているうちに、
いつのまにか深い関係になっていた。
もっとも、 第一印象から惹かれたという訳ではない。
どちらかというと、 俊は朔哉にとって敬遠するタイプだった。
俊はいろいろな意味で朔哉とは全く正反対の生徒で、
行動も派手だし、 性格も明るくおおらかだった。
おおらか過ぎるいったほうがいいかもしれない。
少し親しく話すようになると、
すぐに自分はゲイなのだとカミングアウトしてきて、
おまけに急な告白に当惑する朔哉に、
大胆にも迫って来たのである。
最初のうちは閉口していた朔哉だったが、
やがてその明るさに飲み込まれるように惹きつけられ、
人に気を許さない彼が俊の笑顔にだけは心を開くようになり、
いつしか彼を特別な存在として扱うようになっていった。
朔哉はもともとセックスに性の束縛を感じない性質で、
男であろうと女であろうと、
互いの欲望が一致したならかまわず関係してきた。 だから、
俊が男であるという事に対しては、 抵抗はまるでなかった。
むしろ、
一度抱いただけでおおっぴらに恋人だと公言してベタベタしてくる女との付き合いよりは、
逢瀬を重ねつつも誰にも知られぬよう密やかに続くその関係は、
スリリングで淫靡なものと言えただろう。
しかも俊は自分のだらしない性格を肯定するように、
一人の相手とステディな関係を保つ事に否定的で、
自由奔放に気に入った相手を見つけては自分からベッドに誘った。
束縛を、 するのもされるのもいやがった。
それは朔哉にとっても、
うっとうしさのない心地良い関係であった。
もともと他人に興味の持てない性格だ。 いや、
他人だけではない。 自分自身にも興味も執着もない。
たったひとつ長く続いている趣味が絵を描くことと言えるかもしれないが、
それですら生きる指針にはなりはしないのだから。
長いくちづけのあと、 しばらくして唇を離すと、
俊がうっとりと潤んだ瞳に不満の色を浮かべて、
鼻をならしてねだった。
「 ん……ん、 やめんなよぉ、 朔哉ぁ。 もっと……。 」
朔哉は冷やかに答えた。
「 こんな所で、 これ以上何をするっていうんだ 」
「 いいだろ? 誰もこないぜ、 ここなら 」
「 埃にまみれてなんてごめんだね。 さあ、 行くぜ、 ほら 」
朔哉が素っ気無く返して俊の身を離すと、
俊は形のよい唇をつんと尖らせて怒った。
「 なんだよ、 冷てぇの。 最近全然かまってくれてないんだから、
ちょっとぐらいいいじゃないか。 浮気してやるぞ 」
「 そんなの、 今更宣言するようなことかよ。
いいだけやりまくってるくせに 」
朔哉が冷ややかに言い返すと、 俊は小鼻を膨らませて、
憤然と反論してきた。
「 何言ってんだよ。
朔哉がかまってくれないから別の男でおぎなってんだろ? 俺が遊んでんのは、
ぜーんぶおまえの責任なんだからな。 みんな朔哉が悪いんだ 」
朔哉は呆れて肩をすくめた。
いつもながら、
俊の言うことは自分勝手で筋のとおらないわがままでいっぱいだ。
おまけに気分次第でころころと移り変わる。 つい先ほどまで、
目の前で平気な顔をして他の男の事を話してたかと思えば、
一瞬後には朔哉だけが本気の相手だとでもいうように、
ベタベタと甘えてすがってくる。 まったく、
呆れるほどいい性格をしていた。
だがまた、 そこが可愛い所でもあるのだ。 奔放で、
自分勝手に振り回してくれる彼は、
一緒に居ると平坦な人生になにかしら波風をたててくれる。
冷めたコーヒーみたいな日々の時間を、
一瞬だけでも熱く煮立たせてくれる。 そんな刺激が欲しくて、
わがままに手を焼きつつも、
ずっと付き合い続けているのかもしれなかった。
朔哉は口許に小さく笑みを浮かべ、
すねてそっ歩を向いてる俊を後ろから軽く抱きしめ、
耳元にささやきかけた。
「 わかったよ。 続きは今夜してやるから。 こんな所じゃなく、
うちでな 」
俊はくるりと身を翻し、
瞳をキラキラと輝かせてにじり寄った。
「 え、 いいの? おまえんち行っても? 」
朔哉がうなずくと、 俊は飛び上がって喜んだ。
「 やった! ひっさしぶりに朔哉とHだ。 すっげぇ 」
「 最近ろくに掃除してないから、 部屋汚いぜ。 まあ、
ここほどじゃないけど 」
「 どうでもいいよ、 そんなの。 ベッドさえあけときゃ。 あ、
なんなら他の所でもいいぜ。 この間ソファでやったらさ、
すっげえ良かったんだ。 下からぐいぐい突き上げられてさ、
俺イキまくっちゃった。 それやってみようよ、 朔哉。
それに風呂場とか玄関でやるのも刺激的なんだぜ、 新鮮で 」
先ほどまでの脹れっ面など嘘のように、
俊は満面に笑みを浮かべて嬉しそうに喋った。
だが態度のわりには、
内容は誠意のかけらもない言葉ばかりである。
わざと挑発しているのか、
それとも悪意のない告白なのか見当もつかない。
それでも、
その笑顔を見ていると到底責める気にはなれなかった。
朔哉はフッと小さく笑うと、
浮かれている俊の頭を軽く小突いた。
「 夜の話はもういいから、 早く手伝え。
杉宮が待ちくたびれて怒りまくってるぜ、 きっと 」
「 あ、 うん。 へへへ、 楽しみだな。 ほんと久しぶりだもん。
へへ 」
俊はウキウキしながら、 昨夜の持つ像の反対側を持った。
見た目のわりには重さのある像を二人で抱え、
その小さな部屋から出ようとした時、
ふいに朔哉は誰かに名前を呼ばれた気がした。
――サクヤ……
「 え? 」
思わず返事をし、 足を止めて振りかえった。
狭い部屋の中を無意識に見回す。 もちろん、
そこには誰もいるわけはなかった。
朔哉は眉をひそめ、 いぶかしげに部屋を見つめた。
切れかけた古い蛍光灯が一本だけの薄暗いその空間は、
どこか陰鬱で不気味な感じがした。
部屋のあちこちに存在する暗い物影に、
闇という魔性がひっそりと身を潜めている。 閉ざされた空間で、
静かに何かを待っている。
獲物の訪れを待つ獣のように息をこらして。
朔哉は体の芯がぞくりと震えるのを感じた。
何かがいる気がした。
もともとその手のものには敏感なほうだし、
実際見えるはずのない物を見ることもしょっちゅうだった。
だが、 それをどうこうする能力は一切持ってないし、
また興味もなかった。 だから、
いつもは無視していなしてしまうのだが。
(幽霊……?)
朔哉は目を細めて部屋を見つめた。
別に何も見えはしなかった。 白い影も、
ゆらめく陽炎も何もない。 だが、 なにか存在を感じる。
ひっそりと息づいて、 じっと見つめている。 こちらを……。
「 どうしたんだ、 朔哉? 」
俊が不思議そうに声をかけてきた。 朔哉は我に返ると、
俊という現実に視線を戻し、 自嘲しながら首を振った。
「 いや。 別に…… 」
「 突っ立ってないで、 早く行こうぜ。 これ重いよ、 マジで 」
「 ああ、 すまん 」
朔哉は闇に背を向けて歩き出した。
だがそこを出る瞬間、 なにかがすっとうごめいて、 風が動き、
朔哉の頬を撫でさすった。 まるで引きとめるかのように、
肌にしっとりと絡みつく。
――サクヤ……
耳元に、 風がこすれるような乾いた音がした。
朔哉は背筋に冷たいものを感じたが、
無視して部屋を後にした。 しかし、
耳元を過ぎていったあの声なき声はいつまでも消える事はなく、
何度も繰り返しささやいては朔哉を包み込んだ。
冷たい闇の中へと誘うように……。
朔哉と俊が重い石膏象を抱えてようやく美術室につくと、
教室前の廊下に、 部長の杉宮(すぎみや)が案の定待ちくたびれた顔をして、
不機嫌そうに立っていた。
杉宮は二人の顔を見るなり、 文句を言った。
「 遅いぞ。 像ひとつ探してくるのに、 どれだけかかってるんだ?
」
それでも、
目当てのものが実在していた事に幾分満足そうな眼差しを向けた。
「 そいつか。 まあ、 当座の間に合わせには充分だな。
多少汚れてはいるが 」
「 多少なんてもんじゃないよ、 部長。 見てよ、
制服真っ白だぜ、 もう」
俊が唇を尖らせて不満を返した。
ねぎらいの言葉ひとつよこさない杉宮の態度に腹を立てているようだ。
もっとも、 俊の態度だって、 とても三年生の先輩、
しかも部長という立場の者を相手にしているとは思えないので、
無礼さにかけてはどっちもどっちなのだが。
朔哉は二人のやり取りを横で見ながら、 しらっとして言った。
「 俊がヌードモデルを買って出るそうだぜ、 無料奉仕で 」
杉宮は一瞬目を丸くし、 俊を見た。 俊はちょっと頬を赤らめ、
憤然と朔哉にくってかかった。
「 ば、 ばか! 何急に言い出すんだよ、 朔哉 」
「 さっきそう言ってただろう? おまえ」
「 冗談に決まってんだろうが。 わかってるくせに、 畜生。
からかうなよ、 ばか! 」
俊はぷんと膨れて、 像を朔哉一人に押し付けると、
怒りながら行ってしまった。 朔哉はその姿に小さく笑った。
杉宮も呆れた顔で見守っていたが、
やがて声を幾分潜めるように、 朔哉に問いかけた。
「 おい、 藤城。 おまえ、 まだあいつとつきあってるのか? 」
朔哉はちらりと杉宮を見、 嘲るように鼻で笑った。
「
付き合うってのはどういう意味で言ってるんだ? 寝てるのかという意味なら、
イエスと答えておくぜ 」
「 おまえな……いい加減にしておけよ。
それでなくてもあいつは目立つ奴なんだ。
みんなにばれたらどうするんだよ? 」
「 別にかまわないぜ、 俺は。 なんかまずいことがあるのか? 」
「 何言ってるんだ。 もうすぐ受験なんだぜ。
ヘンな噂が広まったら、 内申書に響くだろうが 」
杉宮は眉をしかめ、 諌めるように言った。
いかにも真面目な彼らしい言葉だったが、
それでも彼なりに朔哉のことを心配して言っているのだろう。
杉宮との付き合いは長かった。 家が近いということもあり、
中学の頃からの友人だ。
親友と呼べるほどの仲ではないにしても、
あまり他人に心を開かない朔哉が気を許せる、
数少ない存在の一人だった。
ちょっとした偶然で俊とのよからぬ関係を知られてしまった時も、
彼はそれを周りに言いふらすような事はしなかった。 もっとも、
あからさまに嫌悪の表情を浮かべ、
頭ごなしに反対してきたのだが。
杉宮に手を借りて古い石膏像を教室の中に運びこむと、
それを中央の机に置き、
ぐるりと取り囲むまわりの者たちに混じって、
二人もデッサンを始めた。
朔哉は輪になった生徒達の一番後ろに席をとって、
大きなスケッチブックを開き、
皆と同じように手を動かし始めた。 とはいえ、
三年の朔哉にとって、
今更石膏像のデッサンというのもつまらない作業で、
なんとなく気が進まず辺りを見まわしていると、
斜め向かいに座っている俊の顔が目に入った。
綺麗な横顔だ。 素行や性格の悪さとは裏腹に、
虫も殺さないような可愛い顔をしている。
くるっとした大きな瞳と、 ちょっと上向き気味の細い鼻が、
人懐っこさを強調していて、
誰からも好かれる得な容姿をしていた
朔哉はしばらく何とはなしに彼の顔を見つめていたが、
やがて彼の顔をスケッチし始めた。
別に何を描いてもいいのだが、 形良く整った俊の顔は、
多少は意欲を掻き立ててくれる。
ざっと輪郭を描き、 鼻筋にスッと一本線を引いたその時、
朔哉は突然ペンを持つ指先に鋭い痛みを感じた。
思わず眉をしかめ、 手を引く。
見ると指先に小さな裂傷ができていて、
そこから真っ赤な血が溢れ出していた。
見る間に血の膨らみは大きさを増し、 張力を超えて流れだし、
ポタポタと紙の上に零れ落ちた。
真っ白な紙に真紅の模様が描かれ、 鮮やかに彩った。
朔哉は慌てて指を口に運び、 傷を含んだ。
口の中に塩辛い鉄の味が広がる。 傷ついた指をくわえながら、
朔哉は不審な思いでスケッチブックを見つめた。
別に何かに指を引っ掛けたわけではない。
もとよりデッサン用の木炭を握っていただけだ。
傷をつけるようなものは何もなかった。
なのに突然指先が裂けてしまった。 どうして?
さほどの傷ではないにしろ、
チクチクと刺すような痛みがあった。
不可思議な出来事に怪訝な思いで手元を見つめていた朔哉は、
その時、 いっそう不可思議なものを目にして、 一瞬息を飲んだ。
それは不思議な映像だった。
真っ白な紙に落ちた赤い血が、 まるで生きているように、
するすると紙の上を這いずり回り始めたのだ。
ほんの二・三滴だったそれは、
細く小さな蛇のように長く伸びて、
滑らかに妖しく身をうごめかした。
濡れてきらめく鮮やかな真紅の体が、
身悶えするように紙の上で踊る。
美しく、 また身の凍るような鮮烈な光景。
事の異様さも忘れ、
縫いとめられたようにそこから目が離せなかった。
何本にも分かれた赤い姿態が、
ゆらゆらと白い紙面の上を這い回る。 ゆっくりと、 艶かしく、
どこか淫靡な匂いを放ちながら……。
やがてそれは、 だんだんとひとつの形を作り上げていった。
白い紙の上に、 ひとつの言葉が現れ始める。
『サ、 ク、 ヤ』
血の蛇は、 そうささやいていた。
――サクヤ……
乾いた声が耳元に蘇った。
朔哉は瞬きも忘れて、 その文字を見やった。
赤い文字が、 彼を呼んでいた。 何度も何度も、
そうささやきかけていた。
まるでどこかに誘うように、
妖しくその身を揺らめかしながら、 艶かしく手招きする。
おいで、 おいで、 おいで、 ここにおいで、 と……。
朔哉は茫然としてその様を見守っていた。
ふいに肩を掴まれ、 耳元ではっきりとした声がした。
「 朔哉、 大丈夫か?」
気がつくと、 俊がビックリした顔で覗きこんでいた。
ハッとして紙に目をやると、 そこにはもう血の蛇の姿はなく、
ただ描きかけの絵の上に赤い斑点があるだけだった。
「 どうしたんだよ、 ぼうっとして? 指怪我したのか? 」
心配そうに俊が見つめている。 朔哉はしばし呆然とし、
力なく答えた。
「 いや…… 」
周りの者も、
俊の声に皆振りかえって不思議そうな目を向けていた。
杉宮が訝しげな様子で声をかけてきた。
「 どうしたんだ、 藤城? 」
朔哉は震える声で応え返した。
「 ああ、 ちょっと紙で手を切っただけだ。 たいしたことない。
平気だ 」
杉宮はあっさりと納得し、
周りの者たちに作業の続きを促した。
生徒達は素直にまたデッサンを始め出した。
ただ俊だけがまだ心配そうな顔をしていた。
「 だいぶ切ったのか? 痛む? 」
朔哉はかすかに微笑んでみせた。
「 いや、 大丈夫だ。 もう 」
俊は疑わしそうに唇を曲げ、
それからスケッチブックを見てつぶやいた。
「 血、 ついちゃったね 」
朔哉は赤い斑点のついた白い紙に目をやった。
それはもうただの赤い汚れにすぎなかったが、
見つめていると再びゆらゆらとうごめき出しそうな気がした。
朔哉は手荒くその紙を破り取ると、
ぐしゃぐしゃと手の中で丸めた。
もう二度と何も蘇ってくることがないように。
二度と何もささやかぬように。
その日の活動を終え、 美術部の生徒達は一人、
また一人と帰っていった。
俊も意味深に目配せをして、 さっさと帰っていき、
あとには部長の杉宮と朔哉だけが残った。
後片付けを終え、
そろって部屋を出て杉宮が施錠をしたところで、
彼はふと思い出したように朔哉に尋ねた。
「 おい、 旧美の鍵はどうした? 」
朔哉はズボンのポケットに入れっぱなしだった鍵を取り出し、
杉宮に差し出した。 杉宮は受け取りながら、
確かめるように聞いた。
「 ちゃんと鍵閉めてきたんだろうな? 」
朔哉はしばし間を置き、 さらりと答えた。
「 そう言えば忘れた 」
杉宮は途端に眉をしかめ、
不機嫌な顔でもう一度鍵を差し出した。
「 なんだ、 おまえらしくもないな。 ほら、 閉めてこい 」
「 俺が? 」
「 当たり前だ。 自分の不始末は自分でつけろ」
「 今?」
「 そうだ。 さっさと行け 」
朔哉はしぶしぶ受け取ると、
仕方なく旧校舎に向かって歩き出した。
その後ろ姿に杉宮の容赦ない声が響いた。
「 俺は先に帰るからな。 明日忘れずにその鍵、 持って来いよ 」
朔哉は背を向けたまま、 後ろ手に手を振って応えた。
やがて校舎の中は静寂で満たされた。
先ほどまで窓の向こうから聞こえていた運動部の生徒達の声も、
今ではすっかり静まり返っていた。
誰もいない学校を、 朔哉は一人で歩いていた。
旧校舎は、 現在の校舎の一番北側の廊下とつながっており、
古いそこに足を踏み入れると、
それまでの明るく開放的な様子と一転して、 どこか暗く、
狭苦しい感じがした。 汚れた木の廊下が、
歩く度に奇妙な歌声をあげた。
別段そこに通ずる道は封鎖されているわけではないのだが、
旧校舎に立ち入る生徒はほとんどいなかった。
人目を逃れて良からぬ事でも企む者がいそうなものだが、
何故かそういった者も入りこんではこない。
暗く荒んだ雰囲気がいろいろと推測させるようで、
古い学校につきものな非現実的な噂も幾つかあった。
そのせいもあって、
旧校舎はいつでもひっそりと静まり返っていた。
時々壁や天井の一部がギシッときしんだ音を立てた。
ただの家鳴りののようでもあり、
またそうではないもののようにも聞こえる。 確かに、
この妙に冷たく暗い雰囲気は、
その手のものを怖がる者達にはたまらない場所だろう。 だが、
朔哉は別に無気味だとも恐ろしいとも思わなかった。
あまり気持ちの良い場所でないのも確かだったが。
やがて、 先ほど訪れた旧美術室の前まで来た。
別に1日やそこら鍵などかけなくとも、
こんな所に入ってくる者もいないだろうし、
取られるような物だってありはしない。
クソ真面目な杉宮にいささか呆れながら、
朔哉は握っていた鍵を出して、 鍵穴に近づけた。
だが、 ふとそこで手が止まった。
朔哉はしばらくの間、 じっと扉を見つめていたが、
やがてゆっくりとそれを開くと、
美術室の中へと足を踏み入れた。
部屋は静かだった。 静かすぎるほどに。
まるで獲物を前にした獣が、 じっと息をつくのも忘れて、
ひたすら見守っているように。
手の片方取れた男性像は虚ろな眼差しを向けてにらみ、
隅にころがされた小さなブロンズ像が、
艶かしく微笑みかけている。
先ほど俊と来た時には気づかなかったものが、 目に入った。
朔哉はそれらの物の間を縫って、
奥の準備室に通ずるドアの前に立った。
一瞬ためらいを感じたが、
それでも誘われるようにその中へと入っていった。
部屋は、 ひっそりとしていた。
淀んだ空気が震えるようにさざめいて、 朔哉を迎え入れた。
朔哉は入り口付近で一度足を止め、 ぐるりと中を見渡した。
特に変わったものは見当たらなかった。 ガラクタばかりだ。
棚の中は先ほど一通り覗いたので、
ゴミしかないのがわかっている。
朔哉はゆっくりと歩を進めると、
壁にかけられた古い絵を一枚づつ眺めていった。
あまり価値のありそうな物はなかった。 良い作品なら、
新しい美術室ができた時に、 そちらに運び困れているだろう。
だからきっと、 ここにあるのはどうでもいいような物ばかり。
歴代の美術部員達が書き残していったものかもしれない。
壁には数枚の絵が掛けられていたが、
奥には更にまだ何枚もの絵が無造作に壁に立て掛けられていた。
その中で、 かなり大きなサイズのキャンバスが目に入った。
一応埃から守る為なのか、 白い布が掛けられている。
しかしかなり年数が経っているらしく、
布自体が既にセピア色に変色していた。
朔哉は近寄って、 手を伸ばしてその布を取った。
その下から現れてきたのは、
一面真っ黒に塗られた不思議な絵だった。
どうやら一度何かの絵が描かれた上に、
黒い絵の具で塗りつぶしたようだ。
朔哉はじっとその絵を見つめた。
一体その下には何が描かれていたのか、
今では知る術はなかった。
修復を専門とする者の手にかかれば不可能な事ではないが、
そうまでして調べるほどの物ではあるまい。 多分、
誰か昔の美術部員の描いた絵で、
描いた本人が気に入らなくなって短気を起こして潰してしまったのだろう。
しばらく眺めていたが、 やがて朔哉はその絵から離れ、
別のものに目をやった。
置かれた絵画は静物画やら風景画やら様々だったが、
どれも未熟な素人の作品で、 価値のある物は何一つなかった。
一通り見定めてから、
朔哉は部屋を出ようと扉に向かって足を進めた。
ドアまで戻り、
外れかけた古い真鋳の取っ手に手をかけたその時、
後ろから不意に何かが寄ってきて、
まるで手で撫でさするように朔哉の頬を挟みこんで擦り抜けていった。
体中に電気の走るような感覚が走りぬけた。
全身が総毛だつ。 だがそれは、 不快な感覚ではなかった。
もっと甘美な、 震えあがるほど妖しく危険な感触であった。
朔哉は足をとめ、 ゆっくりと振りかえった。
そこには何もいなかった。 だが、
何かが存在する気配があった。
それがじっと朔哉を見つめていた。 食い入るように、
刺すように。
朔哉はしばし無言で立ち尽くしていたが、
やがて静かに口を開いた。
「 おまえが……呼んだのか? 」
気配は何も応えなかった。 だが、 じっと朔哉を凝視し、
その声、 その反応を見守っていた。
声なき声が部屋に響いた。
――サクヤ……
声と同時に、 何かがふわりと動いた。
目に見えるものではない。 空気の流れとも違う。
ただ何かがいるという気配。 それが形なき腕を伸ばして、
朔哉の頬を両側から包み込んだ。
朔哉はピクリと体を震わせた。
えも言われぬ感覚だった。
体中の血が一瞬にして煮えたぎるような錯覚が襲う。
なのに肌は冷水を浴びたように総毛立ち、
すっと血の気が引いていった。
“何か”は、
指のように滑らかにうごめいて頬を柔らかく撫でさすると、
やがてゆっくりと下に降り、 首筋へと移行した。
そして朔哉の細い首を優しく愛撫した。
朔哉は思わず眉をひそめ、 息を飲みこんだ。
なんという感覚だろう。 こんな感触は初めて味わう。
まるで誰かの広い手に撫でられているよう……いや、 違う。
これはなにものにも例え難い感触だ。
形あるものではない何かの、 不思議な手、 熱い唇、
滑らかに濡れた舌……。
「 ……ん、ぅ…… 」
朔哉は思わず甘く鼻声を漏らした。
体が熱く燃えてくる。 血が沸騰する。
すべての細胞が快楽にさざめく。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
朔哉は恐ろしいほどの快感に抵抗する意志をなくし、その身を委ねた。
耳元では、あの乾いた声が、何度も何度も繰り返し聞こえていた。
――サクヤ……、サクヤ……
部屋は静かに朔哉を包み込んでいった。