番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

汎神族2 約束の刻にあらがう者達 番外編

インスフェロウに会う日

written by 志麻圭一
 14歳の誕生日。
 少女は灰色の怪人と出会った。
 けっして偶然ではない。
 多くの人間の商談と契約の必然だった。
 「禁じられた言葉」を越えた少女は、彼女の力で無敵の従属生物を得た。


 少女の名はカーベル。
 キリエル国王ラトルウ・アイガの13番目の子として生まれた。
 少女にはいくつもの外国の血が流れていた。
 良い血を家系に入れることに熱心な王族の伝統だった。
 端正な面立ちと長く伸びた四肢は、いずれ美しい女性に成長することを語っていた。
 西とも東ともつかぬ目鼻だち。人種を感じさせない濃い赤茶色に輝く髪。
 深い緑色の瞳は、少女らしからぬ強い光を宿していた。
 カーベルは、幼い頃から並外れた法呪の才能を見せていた。
 キリエル国は小国である。
 活発な商業と金融の国であり、王族は結婚相手として家柄よりも美しさや聡明さを重視した。
 そのため野望豊かな結婚相手の親族に侵されて、国が滅びかけたことも一度や二度ではなかった。
 しかし国民の優れたバランス感覚と参政権により、公僕としての王族が、極めて有効に機能していた。
 

 王位継承権58位の少女は、天変地異でも起きなければ、王室の中央に進むことはできなかった。
 周囲は早い時期から、彼女の法呪の才能を開花させることに熱心だった。
 少女もまたそれによく応えた。
 彼女の法呪は、攻撃に優れていた。


 今日はカーベルの14歳の誕生日だった。
 多くの子供を持つ王宮だったが、子供たちは14歳まで分け隔てなく祝いの席の主役となった。
 カーベルは、今月誕生日を迎える兄弟、従兄弟たちと、王宮の広間で祝福を受けた。
 純白の正装に身を包んだ男一人女二人のパーティの主役たちは、楽しげに客に挨拶をして回った。
 子供たちが主役のため、昼の早い時間から始まったパーティーは、盛大なものだった。
 大手の企業や近隣の国の代表がせわしなく挨拶を交わしていた。


 三人の内で、カーベル以外は法呪の専門訓練は受けていない。
 なにかの分野に突出した才能を持たない王族の女性は、婚姻の自由を持たなかった。
 公僕としての王族の一員は、国民のような恋愛と就労の自由を与えられない。
 政府の決定した結婚を受け入れることが仕事なのだ。
 もちろん彼らのも人権はある。
 好きな仕事の道を選ぶことは可能だ。
 王族を離れることを宣言すれば良いのだ。
 多くの兄弟の中には、己の道を選ぶ者もいた。
 だからこそ王の最大の義務は、多くの子供を成すことだった。


 カーベルの元に法呪庁執政官アンスマイルが進み出て、うやうやしく頭を下げた。
「カーベル様。ご機嫌うるわしゅう。14歳のお誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。先生」
 彼女の父と同じほどの歳のアンスマイルは、優しく微笑んだ。
 彼はカーベルの法呪の教師だった。
「カーベル様。今日は特別な日です」
「はい」
 少し緊張しながら、彼女はうなずいた。
 14歳の誕生日である今日。彼女は従属生物を与えられるのだ。
 それもとびきり強力な者であるはずだった。
 カーベルは、半年後に宝島エルアレイに派遣されることが決まっていた。
 そこで彼女は戦士としての任務を帯びるはずだ。
 それはキリエル国とエルアレイの間で四年前に契約されたことだった。
 キリエル国は見返りとして、エルアレイが消費する膨大な日販品貿易において非関税特権を得ることになっていた。
 彼女がエルアレイでどのような人生を送るかは、ひとえに彼女自身の責任にかかっていた。
 しかし彼女の両親は、幼いカーベルを小麦の袋のように考えていたわけではなかった。
 父であるラトルウ・アイガ王は、エルアレイに要請した。
「カーベルのために、最も強力な守護をつけてほしい」
 彼の望みは、契約条件として実現した。


 兄弟、従兄弟たちは次々とプレゼントを受け取った。
 今日もらうプレゼントが、キリエル政府から彼らに支給される人生最大のプレゼントだ。
 男の兄弟は小さな金の鍵を受け取った。それは巨大な図書館の専用室の鍵だった。彼は法律に身を捧げることになる。
 女の従兄弟の前に、三十歳近い男性がうやうやしく進み出た。そして金の小箱に入った銀の指輪をさし出した。
 可愛らしい少女は、誇らしさと悲しさの入り交じった瞳で、精一杯の微笑みを返した。
 彼女は十六歳の誕生日を迎えると、遠い異国の貴族であるその男の元に嫁ぐことが決まっていた。
 いよいよカーベルの番だ。
 彼女の前に、伝令の兵士が進み出た。
「カーベル様。エルアレイより従属生物が到着しました」
 カッと、踵を鳴らして兵士は下がった。
 パーティ会場である舞踏室の扉が開けられて、巨大な人影が姿を現した。
 華やかな会場にざわめきが起きた。
「ごっ……」
 重く深い声が流れた。
 扉の向こうに姿を表したのは、ひどく身体の歪んだ巨人だった。
 全身を灰色のフードで覆い、眼深く頭巾をかぶった顔はまったく見えない。
 灰色の巨人は、ねじれた身体で舞踏室に足を踏み入れた。
 左肩が大きく膨らみ、小さな右肩からは、肘がよじれた腕が伸びていた。
 脊椎が右方向に曲がっているため、右半身が前に突きぶるように下がっていた。
 しかし怪人は、胸を張って歩こうとしていた。
 顎が奇妙に上を向くのは、そのためだろう。
 濁った黄色い眼は、フードの闇の中で折り紙を切って張ったように頼りなかった。
「…………」
 カーベルは、あまりの異形に言葉を失った。
 全身の血の気が引いた。
 彼女の前に立った灰色の巨人は、あまりに巨大で彼女の視界すべてを覆い尽くした。
 驚いたラトルウ・アイガ王がカーベルの前に進み出て聞いた。
「この醜い巨人は何者か」
 エルアレイから派遣された法呪僧兵が答えた。
「この者は、エルアレイで造られた従属生物でございます」
「未完成ではないのか?」
「完成していると聞いております。極めて強い戦闘力を持ちます」
「奇機(きき)か?」
「知性なき戦闘従属生物ではありません。高い理性を持つといいます」
「名はなんという」
「この者の名はインスフェロウと記録されています」
「インスフェロウ? 初めて聞く響きだ」
「言葉を持つ者という意味です」
「どのような言葉を待つというのか」
「さあ……記録されておりませぬ。おそらくは。この者が従属する主の言葉ではないかと」
 王はいぶかしげに聞いた。
「おまえはなぜ他人事のように言うのか?」
「キリエル国王のご要望に沿うべく、もっとも強力な従属生物をご用意いたしました」
「記録されていないとはどういう意味か? なぜ強力であると言えるのだ」
「インスフェロウはエルアレイで発見された、神のいくさ兵器です」
「なんと……エルアレイに産出する神の遺産か」
 ラトルウ・アイガ王は、まじまじと巨人を見上げた。
 カーベルの手に負えるのか、と考えて。
「未だに主属印を持たぬのか」
「かたくなに主を認めませぬ」
「幼いカーベルに、そのような大任を負わせるか」
 エルアレイの法呪僧兵は、顔を上げて言った。
「キリエル国王。我々は契約を締結したはずです」
「しかしエルアレイの者たちが主属印を持つこともできないような者を、カーベルにどうしろというのか」
「王。我々はそれを……」
 法呪僧兵は、厳しい視線をカーベルに向けた。
「カーベル様に期待するものです」
「しかし……」
「だいじょうぶ。お父さま」
 カーベルは一歩前に進み出た。
 法呪僧兵の眼が気に入らなかったのだ。なめられた、と思った瞬間、恐怖は闘志に変わっていた。
 カーベルは、ドレスのスカートを両手でつまみ上げて、法呪僧兵に淑女なお辞儀をした。
「この者を私にくださるのですね? ありがとうございます。エルアレイの御方」
「あなたならきっとできましょう」
 法呪僧兵は、不思議な確信を込めて言った。
「この者を従属させうれば、カーベル様は強い力を得るでしょう」
「失敗すればどうなりますか?」
「カーベル様のお命は危うくなるでしょう」
 法呪僧兵は、恐ろしいことをこともなげに言った。
「そう……あなたなら、この者を従属させることができるのですか?」
 カーベルは皮肉を込めて言った。
「私には無理です」
「優秀なあなた達の誰にもできないことを、私にやれというのですね」
「カーベル様。皮肉はおやめなさい」
「……ごめんなさい」
 カーベルは羞恥に目を伏せた。
 そうだ。これは彼女の試練だ。誰かが代われるものではない。
 法呪僧兵は、フッと視線を和らげて言った。
「一つだけアドバイスをさせていただきましょう」
「お願いします」
「記録にあります。彼を従属させるためには、彼を必要とすることが肝要です」
「必要とする……」
「同情でもいたわりでもなく。彼を心から望むことです」
「それはどういうことですか。従属生物として欲することとは違うのですか?」
「力が欲しいと願う時、胸の奥が輝くものです」
「……はい」
 カーベルには法呪僧兵の言葉の意味がわからなかった。
 第一、エルアレイの者ちはインスフェロウを従属させることに失敗したのではないのか。
 そのような者の言葉が、アドバイスになるとは思えなかった。
 彼女のふくれた顔を見て、法呪僧兵は正直に言った。
「彼を必要とする言葉。それが何かを私は知りません」
「それが……一番知りたいことです」
 法呪僧兵は人指し指を唇に当てて、自分の言葉をよく聞くようにうながした。
「かつてこの者を従属させようとした者は、皆同じ失敗をしています」
 王とカーベルは顔を見合わせた。
「この者を従えようとする時に、口にしてはならない言葉がございます」
 法呪僧兵は、ゆっくりと言った。
「この言葉を言ってはなりません」
 カーベルは彼の唇の動きまでを記憶にとどめようと目を凝らした。
「我に従属せよ」
「我に……従属せよ……」
 彼女はゆっくりと繰り返した。それは教本に出ている従属の基礎の言葉だ。
「命ずるとどうなると言うのか」王が聞いた。
「この者に打ち殺されるでしょう」
 カーベルは、鋼鉄の小山のような従属生物を見上げた。
 法呪僧兵は念を押すように言った。
「それが禁じられた言葉です」


 それからカーベルとインスフェロウの奇妙な生活が始まった。
 インスフェロウには、彼女の隣の部屋が用意された。
 食事と風呂は、どうやら一人で済ませるのが主義らしい。
 全身を覆ったローブをけっして脱ごうとはしない。それどころかマスクを下げることもしない。
 深くかぶったローブの奥に漆黒の闇があり、ぼんやりと黄色に光る三角の眼があった。
 彼がどのような顔をしているのかは、エルアレイの者ですら知らなかった。
 カーベルは、静かに座る巨人に向かって毎日言葉をかけた。
 しかし巨人は老いた人のように首を揺らすだけで、会話は成り立たなかった。
「あなたの力はなあに?」
 カーベルが聞いた。
「あなたは大きいわ。剣で戦うの? 法呪で戦うの?」
 彼女は部屋を丸く歩き回りながら、辛抱強く語りかけた。
「どうしたら私を主人と認めてくれるのかしら? 教本では従属生物の主属印を持つために、汎神族の力を借りるのがてっとり早いって書いてあったわ。でもキリエル国に住まわる御柱たちは、人間の頼みなんて聞いてくれないの」
 カーベルは、テーブルの籠からオレンジを取った。
「人間の力で主属印を得るには、法呪文の強制力で心的従属をさせるのよね」
 話しながら、彼女はオレンジをインスフェロウに投げつけた。
 オレンジは、ポンと彼の頭にぶつかって床に落ちた。
 曲がった背中にねじれた脚。
 インスフェロウは、オレンジがぶつかったことすら気がつかない様子で肩を揺らしていた。
「…………」
 カーベルは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……かわいそう……」
 彼女は彼の灰色のマントに手をおいた。
 インスフェロウは、不気味に身体を揺らしながら、ゆっくりとカーベルに顔をむけた。
 甘酸っぱい体臭が香のように揺らいだ。
「…………」
 そのとき廊下の彼方から人の叫びあう声が聞こえた。
「……衛士隊……に、集合……!」
 ただならぬ雰囲気が漂っていた。
 カーベルは窓に駆け寄って身を乗り出した。五階の部屋からの見晴らしは良い。
 城の正門に兵士たちが戦闘装備で集まっていた。


「止まれ!」
 衛士隊が剣を抜き放ち叫んだ。
 彼らの眼前には、狂気の気配をまき散らす戦士が迫っていた。
 緑に輝く甲冑をまとった神の従属生物だ。
人間を素体にしていた。
 主の神の趣味であろう。若く長身の男は、ひどく美しかった。
 兜はすでに失われて、どす黒い血で固まった髪の毛はつぶれた左目を覆っていた。
 わずかにさらされた頬の肉は、乙女の肌のように白くなめらかだ。しかし不自然に光を反射する薔薇の頬は鰐の鱗よりも堅いに違いない。
 全身から蒼い陰気を発していた。陽炎のように立ちのぼる陰気の圧迫感は、触れるもの全てをねじ曲げ、押しつぶすかに見えた。
「我が名はリーインライダー。汎神族たる薫香様に従属する戦士なり」
 美丈夫は、唄うような声で言った。
 衛士隊長が聞いた。
「リーインライダー。汝、なにゆえに戦装束で聖なる門をくぐるか」
「強き法呪の気配に引かれたゆえ」
「なんと?」
 リーインライダーと名乗る戦士は、傷ついた手で、刀を吊るしたベルトをはずした。
 鉄柱が床を転げるような音とともに、武器の塊が床の大理石を割った。 
「我は冒されたり……我に食いつくイサカヤ・クンフどもが、我が理性を……食い荒らす」
 残されたリーインライダーの右目が、あやしく光を灯した。
「我を殺せ……我が理性のある内に……強き法呪の力を持って、我を疾く滅ぼせ……」
「強弓隊。前へ! 撃て!」
 衛士隊長の号令で、鉄柵と見まごう鉄矢が数十本も放たれた。
 しかし岩にも突き立つはずの矢は、祭の射的のようにリーインライダーの甲冑に弾かれた。
「……人間の戦士たちよ。我を打つは法呪の熱き炎のみ……」
 
 
「遅くなりました!」
 カーベルはワンピースの上に赤金色の法呪戦甲冑をまとって駆けつけた。
 左右非対称の奇妙な鎧だ。
 薄い金属と無数の皮ベルトで作られた、身体にタイトな造りは動きを著しく制限した。
 しかし法呪戦に伴う激しい反呪から術者を護るために発達した、極めて合目的な構造だった。
 法呪戦に剣の打ち合いは必要ない。
 インスフェロウが、ゆっくりと彼女の後から姿を現した。
「カーベル様。法呪兵隊の到着をお待ちください」
 衛士隊長が言った。
「時間が必要です。私が行きます」
 少女にとって実戦は初めてではない。厳しい修行は戦いの中にこそあった。
 だからこそカーベルにはわかった。
 リーインライダーは、彼女の手に負えないと。
「ぎゃあああああっ!」
 リーインライダーは突然に、耳をつんざく雄叫びをあげた。
「……ちが……う……我を滅ぼす者は……さらに強き者……」
 彼は美しい顔を歪めて理性をかき集めていた。
 実をよじり、身体を内側から蝕むイサカヤ・クンフの毒気に耐えた。
「時……すでに……遅し……」
 バスッ。
 リーインライダーの全身から紫の陰気が溢れだした。
 人と神の従属生物の戦いが始まった。


 カーベルの攻撃法呪はリーインライダーに命中していた。しかし妖怪じみたタフネスさで、まったくダメージを受けない。
「内臓をシェイクしてやる」
 甲冑に下がる板符を二枚千切り口にくわえて、リーインライダーの腹めがけて法呪文を飛ばした。
「肺の血、腺の血、心の血、胃の血の巡るを流れを止めよ!」
 地味だが必殺の法呪がリーインライダーを襲った。
 リーインライダーの動きが一瞬止まった。
 心臓が止められたのだ。
「むうう!」
 リーインライダーは、ハンマーのような右腕を振り上げると、自分の左胸に振り下ろした。
 二回、三回。またたく内に止まった心臓は動きだした。
 カーベルは、あまりに非常識な怪物に驚怖した。
「つて……あり……あっ、ええと」
 頭が真っ白になって、法呪文が満足に唱えられない。
 どんなに強力な生き物でも内臓を鍛えることはできないのだ。
 ましてや心臓に直接働きかける必殺の法呪を、ものともしない化け物にどんな攻撃をかければ良いのか、教本には書かれていなかった。
 カーベルの一瞬の隙をのがさずに、リーインライダーは間合いを詰めた。
「きゃっ!」
 ステップを踏み、身をかわそうとする彼女の首めがけて、怪物の腕が蛇のように伸びた。
 リーインライダーの巨大な左手がカーベルの首を捕らえた。
「……ぐっ……!」
 まるでぬいぐるみを持ち上げるように、彼女の身体が持ち上げられた。
 カーベルは、甲冑のつま先で彼の顔を蹴りつけた。
 しかしリーインライダーは、まばたきすらしなかった。
「……小娘」
 彼は戦いの中よりも、法廷の裁判官にふさわしい声で言った。
「首を抜くか、胸ごと心臓をつぶそうか」
 メキメキと音を立てて、リーインライダーの右手のグローブが変形を始めた。
 グローブ全体が、薄い剃刀の刃のようにささくれ立った。
「顔の皮を一枚ずつ剥いでやろうか」
 汎神族に似た美しい顔が、犬歯をむいて笑った。


 城の兵士たちが剣を抜いて一斉に襲いかかった。
「止まれ!」
 リーインライダーは、凶悪な血の色の陰気を吹き出した。
 吐き気をもよおすヘドロの臭いに、人間達は目をやられて悲鳴をあげた。
 天井近くまで持ち上げられたカーベルは、かすれる意識の中で灰色の巨人を見た。
 曲がった背中を震わせながら、首をかしげて彼女を見ていた。
 その左手は、なにかを訴えるように自分を指さしていた。
 マスクに覆われた顎が、言葉を形作っていた。
 その目は濁った黄色ではなかった。


 ……私を呼べ……


 光る瞳が彼女を呼んだ。
 禁じられた言葉は「我に従属せよ」。
 カーベルは懸命に考えた。
 いままで彼女は常に優等生だった。
 困難な訓練に耐え、難関の筆記試験を突破し、教師が望む答えをいち早く見つけた。
 またできるに違いないと思っていた。簡単に答えにたどりつけると。
 正解はなにかを。灰色の巨人を自分の従属生物として駆使するための言葉を。
 左肩に激痛が走った。
 あまりの痛みに目を向けると、薄い刃に覆われたリーインライダーの右手が、軽く肩に触れているだけだった。
 しかし肉を千切りにされたような痛みが全身を駆けめぐった。
 血が指先まで垂れていくのがわかった。
 ーー本当に私を殺そうとしているーー
 あらためて知る恐怖に全身が硬直した。
「いやーーっ!」
 カーベルは悲鳴をあげて泣き叫んだ。
 城の兵士たちは彼女を救おうとして果敢に剣を振るったが、じゃれる仔猫が爪をたてるほどのあしらいで次々と叩き伏せられた。
 リーインライダーは、邪悪な笑みを張りつかせたまま、刃物まみれの凶悪な右グローブを彼女の顔の前でひらつかせた。
 チリチリと、薄く堅い刃物が擦れ合う音がした。
「この手でおまえの顔を握りしめてやろう」
 カーベルは首をそらして、懸命に逃げようとした。
 ーーどうして私が! ーー
 あまりに理不尽な暴力に涙が溢れた。
 なぜ自分がこんなめにあわなければならないのだ。
 恐怖と悔しさは、絶望にむかって落ちていった。しかし気を失うことすらできない。
 ゆっくりと近づいてきたグローブの先が頬に触れた。
 冷たく硬い刃が、皮膚の上で止まらずに食い込んでくる感触がした。
 肉の内側から感じる鋼の冷たさ。
「たすけて……」
 カーベルが言った。
「助けて。インスフェロウ!」
 

 沁みいる言葉は禁じられた言の葉。
 灰色の巨人の胸の奥深くで、小さな金色にくすぶっていた光が、少女の声に小さく刺された。
 かすかにはじけた拘束の糸は、連鎖反応を始めた火薬のように周囲を巻き込んで解けた。
「……む……」
 インスフェロウの口から深く重い声が漏れた。
 それが彼の本物の声であるのか。
 大太鼓を打ち鳴らしたような、身体で感じる重低音が、居合わせた者の腹わたを揺すぶった。
 インスフェロウの全身から、骨と腱のはじける音がいくつも飛び出した。
「な、なにごとだ」
 城の兵士たちは、あわてて彼から離れた。
 まるで巨人の身体が爆発するかに見えた。
 灰色のマントが、中に猫でも仕込んだように波うちはぜた。
 リーインライダーは、本能的に脅威を感じた。
 すさまじく強力な力が現れようとしていた。
「ガオオオン!」
 天地を揺るがす咆哮が轟いた。
 その声に、遠く山に巣くう鳥たちが一斉に飛び立った。
 城の壁に潜むネズミ達が、奇声を上げて廊下を走り抜けた。
 野性にして知性高い、人も獣も大地にひざまずかせる力を持って周囲を圧倒した。
 灰色の巨人の全身が、ねじれるように回転した。
 マントが広がり油を宙に蒔くように、重くゆっくりと空気をかいた。
 たくましい脚が床を蹴って人の背よりも高く飛び上がった。
 巨人の全身が、激しく変形した。
「おのれ。奇怪な!」
 リーインライダーが吠えた。
 あざ笑うかのように巨人の眼が金色に輝いた。
 曲がった腰が音を立てて伸び上がり、長い手足が舞踏手のように打ち振られた。
 両肩が異様な盛り上がりを見せた。
 昆虫の足のような、無数の印肢がマントをはねのけるように伸びだした。
 それは法呪を高速で駆使する驚異の器官だ。
 

 変身。
 インスフェロウは、地響きと共に着地した。
 足元の土埃が一メンツルも跳ね上がった。
 土煙を押さえるように、重いマントが地面に広がった。
「ギギッ」
 化け物じみた声をあげて、リーインライダーが襲いかかろうとした。
 しかしゆっくりと立ち上がった灰色の巨人の威容に脚を止めた。
 まっすぐにそそり立った姿は、あまりに圧倒的だった。
 身の丈二メンツル以上。ひるがえるマントの中で力を蓄える四肢は、神々の彫刻のように美しい黄金比を描いていた。
「……何者だ」
 リーインライダーが聞いた。
「我が名はインスフェロウ」
「奇機ではないのか!?」
「カーベルに従属する者だ」
「なに……?」
 リーインライダーは、床に転がり涙でくしゃくしゃの少女を見た。
「この無様な小娘の従属生物というか?」
「おしいな。少し違う。その小さな麗しいレディに従属する者だ」
「なぜだ? なぜ今ごろ正体を現した」
「たったいまだ」
「なに?」
「私はたったいま、カーベルに従属した」
 インスフェロウは優しく微笑むと、眉間に左の薬指を当てた。
 ポッとピンクの光が灯った。
 光は彼の左指すべてを柔らかく包んだ。
 投げキスをするように指が振られた。
 ピンクの光は、蝶のようにゆっくりと空中を流れると、カーベルの眉間に当たり青に色を変えた。
 驚いたカーベルが光に手を当てると、再びピンクに色を変えて、吸い込まれるように消えていった。
 インスフェロウがおごそかに言った。
「カーベル。私の主属印をたしかに預けた」
「う、うん……はい」
 カーベルは、ほんのりと暖かい眉間に触れながら応えた。
 ……インスフェロウ……
 彼の名前が、初めて聞く法呪文のように心を満たした。
 優しくたくましい彼女の従属生物。
 今はまだかすかな一体感だが、いつか全身に満ちる時がくることがわかった。
「インスフェロウ」
 声にだして名前を呼んだ。
「おう。カーベル」
 無敵の力を秘めた巨人が彼女のために応えた。
 彼を得た確かな実感が、新婚の幸福のように身体を熱くした。
 リーインライダーが怒り狂って叫んだ。
「貴様! 人間の娘に従属するとはたわけたことだ」
 インスフェロウは、ふくろうのように笑った。
「ああっ。そうか、おまえは知らないな?」
「なに?」
「女の尻に頬を敷かれるのも男の甲斐性だ」
「顔が腐るわ!」
「白雲を天つ下らせ着きぬれば」
 カーベルの法呪文が飛んだ。
 蝶の羽根を千切って投げつけたような、白い半固体蒸気がリーインライダーの顔面を襲った。
「……ぐっ……」
 彼は怒りに我を忘れた自分に驚いた。
「人間の小娘ごときが!」
 カーベルはテーブルの上にあった大桃に銀の板符を刺した。
 リーインライダーの顔面に投げつけて法呪文を唱えた。
「二メンツル四方立方の重きをあつめよ」
 グン、と大桃の重さが増した。8立方メンツルに大桃が詰まったと等しい重量が一つの桃に集まった。
「ぐわ!」
 リーインライダーは、大桃に押し倒されるようにして、頭から床に激突した。
 はじけた大桃が四散した。
「おのれ。娘!」
 跳ね起きたリーインライダーは、重力異常を頭の中に残したまま、もう一度尻餅をついた。
「桃尻の味はどうだ。リーインライダー」
 インスフェロウは、膝を打って笑った。
「我を愚弄するが喜びか!」
 この場での戦いは不利と悟ったリーインライダーは、身を翻して窓から飛び出した。
 インスフェロウは、わずか二歩でカーベルの元に近づいた。
「まだ戦えるか?」
 カーベルは初めて彼の眼を見た気がした。
 黄金に光り輝く三角の瞳。
「も、もちろんよ。インスフェロウ」
 彼はカーベルをひょいと持ち上げた。
 甲冑の下のスカートが空気をはらんで、ぷっくりと膨らんだ。
「あっ」
 カーベルはあわててスカートを押さえた。
「いくぞ」
 灰色の巨人は彼女を小脇に抱えて、バンジー兎のように窓から飛んだ。
 空から引き上げられるような加速で、カーベルの身体は宙に浮いた。
 スカートの中の空気が、吸い出されるように抜けて、裏地が太股に吸いついた。
 今まで彼女たちのいた場所に、腕ほどもの太さの槍がし4本も突き立った。
 光る金属質のものが、空中の彼女の周囲を飛んだ。
「ぬう!」
 インスフェロウの気合いと共に、彼の右腕が目にもとまらぬ動きを見せた。
 鉄棒で岩を殴りつけたような音が交差した。
 大地に着地すると同時に、短刀とも手裏剣ともつかぬ巨大な刃物が数本落ちた。
「効かぬかよ!」
 窓下の石畳で待ち構えていたリーインライダーが吠えた。
 インスフェロウは、恫喝など聞こえぬふうだった。
 カーベルをベッドに下ろすように優しく立たせると言った。
「カーベル。見ていろ。おまえの戦士はとても強いぞ」
 リーインライダーは怒りに身を震わせて、全身の甲冑を刃物の塊に変形させた。
「触れれば裂けるぞ!」
 漆黒の怪物は、野獣のような雄叫びをあげて飛びかかってきた。
 インスフェロウは、短い法呪文を飛ばした。
「波浪をとどめて甘涼菓子のごとく」
 リーインライダーの身体が、砂糖菓子のように固まり動きを止めた。
 インスフェロウの鉄球のような拳がうなり、リーインライダーの顎をとらえた。
 怪物の巨体が、麒麟獣に蹴られたようにもんどりうって倒れた。
 ローブをはねのけて、インスフェロウの両肩の印肢が展開した。印肢は昆虫の羽のような音をたてて振動した。
「あれしより名のみ形見と身を過ぐるイサカヤ・クンフままのしるしを跡も残さむ」
 人の耳に届いた法呪文はわずかだった。
 見たこともない複雑な手順がこなされていった。
 空中にひらめく文字とも光ともつかぬ輝きが、天から地から涌きだしてリーインライダーの回りに集まった。
「おおおおっ!」
 すさまじい絶叫が人間たちをなぎ倒した。
 リーインライダーの全身がけいれんして、首の静脈が青々と浮きだした。
 カーベルが板符を鋭く丸めて彼の首に突きたてた。
「インスフェロウ。いまよ!」
「おう」
 見えない法呪がほとばしり、リーインライダーの首を光でかき切った。
 虹色の光が吹き出した。
 それはイサカヤ・クンフの大群だった。
 大木に群がった蝶がいっせいに飛び立つように、リーインライダーに取りついていたクンフどもが空に帰っていった。
 後には人間の姿を取り戻した異国の若い戦士リーインライダーが残された。
 カーベルはナイフのように尖らせた板符を首から引き抜いた。わずかに血が流れたが命にかかわることはなかった。
 たちまち医師たちが集まり、彼を病院にさらっていった。
 戦いは終わった。
「…………」
 カーベルは、傷ついた肩を押さえながら灰色の巨人を見た。
「……あ……あの」
「なんだ? カーベル」
 そこには間違いなく、あのインスフェロウがいた。
 ねじれた身体の喋ることもかなわない異形の者ではない、美しくたくましい巨人だった。
「私、あの、ほんとうにあなたの主属印を?」
 少女の顔に戻ったカーベルは、おどおどと聞いた。
 インスフェロウは、言葉で答えることなく、ゆっくりと左手の薬指を差し出した。
「……ん……」
 カーベルの眉間が内側から暖かく呼応した。
 光が集まり、二人の間を柔らかく行き来するのを感じた。
「それが主属印だ」
 カーベルは眼を開けて、もう一度巨人を見上げた。
「ありがとう……インスフェロウ」


 別れの日が来た。
 カーベルが国を離れて、戦いの待つ宝島エルアレイに向かう朝だ。
 彼女が生まれてからずっと守ってくれた、たくさんの人たちと別れる朝。
 二度と会うことはないかもしれない。
 涙がこぼれそうになった。
 早い朝食が済んで、いつものように朝の時間が過ぎていった。
 違うのは、あわただしく動くメイド達の姿だ。
 少しでも家族と一緒にいたいカーベルの気持ちをせき立てるように、荷物が通用門に運ばれていった。
 彼女の居場所はもうすぐなくなるのだ。
 若執事のギョームが言った。
「カーベル様。ご出立のお時間です」
「あっ、待って。忘れ物をしたわ」
 カーベルはただ時間を稼ぎたい一心で言った。そして見送りに集まってきた人の波をかき分けて自分の部屋に走った。
 バンと開けたドアの向こう。
 そこは見たこともない空虚な世界だった。
 主の去った部屋。彼女が十四年間過ごした部屋。
 今朝まで寝ていたベッドはまだあった。机もソファもそのままだ。
 しかし朝だというのに、夕日が射し込むような物悲しい光りに包まれていた。
「……あ……」
 頬を涙が伝った。
 化粧が落ちてしまう。カーベルはあわてて涙をぬぐおうとした。
「レディの涙を拭くのは紳士の特権だ」
 彼女の肩ごしに、白いレースのハンカチが差し出された。
「インスフェロウ。後をつけてきたの?」
 彼女はとがめるように言った。
「少女であるおまえを記憶するために来た」
「……私は行くわ」
「行こう。カーベル」
「あなたに命令するわ。私を守りなさい」
「もちろんだ」
「ずっとよ」
「おまえがおばさんになってもか?」
「おばさんは嫌い?」
「全国二千万人の人妻ファンを裏切れないな」
「じゃあ、おばあさんになってもよ」
「おまえが曾孫に囲まれて大往生する時まで守ることを誓おう」
「インスフェロウ。私の従属生物」
 彼は金色の目で優しく微笑んだ。
「悪くない」
「私を守って」
「それは命令か?」
 カーベルは照れるように首を振った。
「ううん。お願いよ」
「喜んでおまえの尻にひかれよう」
「重いわよ」
「ああ。知っている」
 赤面したカーベルの渾身のパンチも、インスフェロウには心地よい愛撫だった。


本編情報
作品名 汎神族2 約束の刻にあらがう者達
作者名 志麻圭一
掲載サイト 時無草紙
注意事項 年齢制限なし / 性別制限なし / 表現制限なし / 完結済
紹介 人は人と同等以上の人格を持つ生物を消耗品として扱うことができるか。
未来における高い着弾の可能性において戦いを完了とできるか。

汎神族の遺産を産出する宝島「エルアレイ」。
しかしそこは超常の巨龍が襲いくる島でもあった。人はそれを自らへの脅威と考え退けようとした。
だが巨龍の目標は別にあった。エルアレイに現れる神の御印である巨大な虚像の破壊。その意味を目の当たりにした人間達は死人を出すほどに恐怖した。
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