100題 - No72 注:この小説は100題「繰り返し」の続きです。 |
|
好きなんだよ―――。 唐突に趙雲は俺にそう告げた。 その時はただ驚いたというのが俺の正直な感想だった。 自分が趙雲から特別に想われていると感じたことなど一度もなかったからだ。 女との噂を聞くこともなかったが、だからと言って彼の恋愛の対象が同性であると思ったこともない。 後日、趙雲自身もそれは否定していた。 苦笑いを浮かべながら。 「私が独り身でいるのは、もちろんそういった理由ではないよ。 廻り合わせが悪かったというのか、縁がなかったというか……決して女人が嫌いな訳ではない。 だから私自身も貴殿への想いに気付いた時、戸惑ったし、随分と悩みもした」 と。 いつもながらの柔らかな雰囲気を纏わせた趙雲からは、とても悩んだようには見えなかったのだが…。 その後、俺達の関係が劇的に変化したかと言えば、答えは否だ。 趙雲が俺に答えを求めることはなかったし、俺もまたそれについて何も言わなかった。 想いを告げられても、やはり嫌悪感はなかった。 だが深く考えることを俺は出来ずにいたから―――どんな答えを返すこともできないままだった。 だから趙雲とは今まで通りの友人のような関係が続いていたのだ。 そんな趙雲と一線を越えたのは、戦場でだった。 盗賊の討伐に向かった時、小さな村がその賊徒達に襲われ、既に壊滅していた。 そこは凄惨を極める状態であった。 家屋は焼き払われ、多くの屍が地を覆っていた。 男は当然のことながら無残に殺され、女もまた陵辱された後、命を奪われていた。 幼子も老人もその例外ではなく……。 たった数人の生き残った者達が、家族らしい屍に縋りつき慟哭していた。 周囲に漂う濃い血の匂いに、俺は眉根を寄せる。 珍しい光景などではない。 今まで幾度と知れず目にしてきたものだ。 にも係らず、あまりの気分の悪さに嘔吐感が込み上げてくる。 それは恐らく昨夜見た夢のせいだ。 俺を呪縛する過去の夢―――大切な者達を守りきれず死なせてしまった俺の罪の具現。 眼前の朱色が過去のそれと重なる。 何故こうも人は簡単に死んでしまうのだろうか。 ほんの少し前までは、慎ましいながらも幸せに暮らしていた筈なのに。 そして残された者は、自分と同じ苦しみを背負ってこれから生きていかねばならぬのだ。 賊達の討伐はその後、殲滅に成功した。 自陣ではささやかな祝杯が挙げられていたが、それに参加する気持ちにはとてもなれず、俺は一人陣幕の中で休んでいた。 人払いをしてあったので、しんと幕の中は静寂に満ちていた。 簡易に作られた寝台に身を横たえ、目を閉じる。 深い深い暗闇。 だがその中で血に濡れた幾人もの身体が横たわっているのだけが、はっきりと見て取れる。 苦悶に満ちた表情で、彼らは繰り返す。 ―――苦しい。 ―――助けてくれ。 ―――お前が殺したのだ。 と、呪いの言葉を。 「……殿、馬超殿!」 その声に、俺ははっと目を開く。 間近には心配そうに俺を覗き込む顔があった。 「趙雲……」 「大丈夫か? 貴殿の陣幕の傍を通り掛かったら、苦しそうな声が耳に届いたのでな。 失礼かと思ったが、勝手に入らせてもらったよ」 趙雲は言いながら、懐から布を取り出す。 それで額に浮かんだ俺の汗をふき取ってくれる。 「宴にも姿を見せなかっただろう? どこか具合でも悪いのか?」 俺は静かに首を振りながら、寝台から身を起こした。 どうやら知らぬ間に眠っていたようだ。 そうして夢に魘されていた所に趙雲がやって来たらしい。 「少し夢見が悪かっただけだ。 大したことではない」 俯き、俺がそう告げると、趙雲は全てを察したのだろう―――軽く溜息を吐く。 「馬超殿……知った風な口をきくなと言われるかもしれないが、あのことは貴殿の責ではないだろうに。 あまり自分を責めるな」 優しく宥めるように趙雲は、俺の肩に手を置いた。 「……」 余計なお世話だとは思わなかった。 やはり不思議とこの男の言葉には反発心を覚えない。 触れられた肩先から、温かさが溢れ込んでくるように思えるのも何故なのか。 顔を上げれば、いつものように優しい漆黒の瞳がそこにある。 俺の何もかもを包み込んでくれるかのような―――。 引き込まれるように俺は顔を寄せた。 趙雲は拒むこともなく、瞳を閉じる。 俺もまた唇に趙雲のそれが触れたのを感じ、瞼を落す―――そして趙雲を抱いた。 あの賊討伐の時以来、趙雲とは時折身体を重ねるようになった。 そして今に至るのだ。 だがそれ以外の部分で俺達の関係が変わったということは、やはりなかった。 趙雲のことを本当はどう思っているのか、自身に問いかけぬままに。 そんな俺を趙雲は相変らず穏やかな笑顔でもって、見守ってくれているのだった。 そして、再び出陣の命が降ったのは真冬のことであった。 対するは一族の仇である曹魏。 趙雲は成都の守護を任され、此度の戦には立たない。 「決して無理はするなよ、馬超殿」 出立前、城門まで見送りに来た趙雲が心配そうにそう告げた。 相手があの曹魏であることがそうさせるのだろう。 俺が自分を見失って、無謀な行動に出るのではないかと考えているのか。 「分かっている」 この時の俺は至極落ち着いていた。 相手が曹魏だと知っても別段気持ちが昂ぶるでもなく、不思議と平静だった。 それは曹操自らが出てくることはないだろうと考えていたから。 「武運を」 趙雲のその言葉を契機に、俺は出立した。 土煙を上げ、敵兵が押し寄せてくる。 こちらも負けじとそれを迎え撃つ。 情勢は均衡していた。 俺はその中でただ一心に槍を振るう。 だが、煙る視界の先にその男の姿を俺は捕えた。 憎憎しい程に余裕を漂わせた笑みを口元に刻んだ男。 その瞬間、俺の頭の中は真っ白になる。 全身の血がぶわっと沸き立つ。 それまでの冷静さなど何処かに消し飛んでいた。 「曹操!」 憎きその男の名を叫び、俺は馬腹を蹴り、単騎で突撃する。 それに気付いた岱が制止の声を上げる。 だがそんなものに構ってはいられなかった。 正確には耳に届いてはいなかったのだ。 その時俺の目に映っていたのは、あの男の姿のみ。 と―――。 ひらひらと天から降ってくるものがあった。 それは白い雪。 直ぐにそれを染めてやろうと思った。 あの男の血で。 曹操を守るように、次々と将兵が俺へ向かってくる。 いくら倒しても倒しても、一向に曹操へ近付くことが出来ない。 徐々に、だが確実に体力が奪われていく。 槍が酷く重く感じ、呼吸が酷く乱れていた。 「退いて下さい、兄上! それ以上は無茶です!」 遠くから今度ははっきり聞こえた岱の声。 しかし、俺はそれに従う気など更々なかった。 俺の命などどうなってしまっても良い。 曹操に一太刀なりとも浴びせることが出来るのなら構わない。 あの男を倒す為だけに、今の俺は生きているのだから。 既に腕に力が入らなかった。 だが気力で槍を薙ぐ。 「!?」 と、脇腹に感じる熱さ。 反射的に手をやれば、ぬめる感触と痛みがあった。 見ずともそれがなんであるかは分かる。 それでも俺は槍を揮い続けた。 だが、 「兄上!」 岱の声が今度は間近で聞こえたと感じた時には、俺の身体は傾いていた。 自分の意志では最早どうすることも出来ず、馬上から滑り落ちる。 意識が遠のき、辺りの喧騒が嘘のように消え去った。 死ぬのだな……。 俺は霞む意識の中でぼんやりとそう思った。 その時、ふいに脳裏に鮮やかに浮かんだ映像があった。 「馬超殿」 柔らかな笑顔と優しい声。 暖かく包んでくれた腕―――。 それが酷く懐かしい。 「 」 その名を呟いてみるが、上手く音にならない。 死ぬことなど恐れてはいなかった筈なのに、どうしてだろう―――それが怖い。 会いたい。 自然とそんな想いが胸を占める。 本心に背を向け続けていたが、今になって考えずともそれは溢れてくる。 俺もまた好きだったのだと。 不思議と安らぎを感じられたのは、特別な存在だったからだ。 今になって気付くとは、愚かなことこの上ない。 いくら気持ちに蓋をしても、偽れはしなかったのに。 そこで俺の意識は途切れた―――。 最初に目に入ったのは心配そうに俺を覗き込む顔。 「岱……」 俺の呟く声に、岱の目から大粒の涙が零れ落ちる。 ゆっくりと首を巡らせれば、そこは見慣れた自室であった。 「俺は……」 「先の戦いで大怪我を負われて、兄上はずっと生死の境を彷徨っていらしたのですよ! あのような無茶をなされて……。 兄上まで失うことになったら私は……っ!」 その先は言葉にならず、岱は憚らずただ涙を流す。 どうやら寸でのところで助かったらしい。 おそらく岱が救ってくれたのだろう。 「悪かった」 俺がそう詫びると、岱は大きく首を振る。 「もう……良いのです…兄上さえ無事であれば……」 扉を叩く音に、岱は慌てて涙を拭き、そちらへと向かう。 家人から何か知らせを受け取ったらしい岱が「こちらに」と言うのが、聞こえた。 再び俺の方へと戻ってきた岱が、俺へと来訪者の存在を告げる。 「兄上を心配して、毎日訪ねて下さっていたのですよ」 そう付け加えて。 脇腹が酷く痛んだが、俺は岱の助けを借りて、半身を起す。 やがて静かに扉が開き、来客が部屋へと入ってくる。 そうして俺の姿を見た瞬間、その人物―――趙雲は大きく目を見開いた。 岱がその傍まで歩み寄り、深く頭を下げる。 一言二言、声を掛けると、岱は部屋を出て行った。 趙雲はゆっくりとした足取りでもって俺の方へ向かってくる。 だが今度は俺が驚く番だった。 趙雲の表情は俺が今まで見たこともないものだったのだ。 いつものように柔和な笑みを湛えていることもなく、優しい眼差しを向けてくれるでもない。 ぞっとする程に冷たい面持ちであった。 どんな時でも笑顔を絶やさなかった彼が。 趙雲は俺の傍らに立つと、凍てつくような瞳で俺を見下ろす。 次の瞬間、乾いた音が室内に響いた。 と同時に頬に感じる痛み。 頬を打たれたのだと気付くまでに、しばしの時間を要した。 「命を粗末にすることは許さない。 それが例え貴殿自身の命であったとしてもだ。 貴殿の命は一人のものではない。 もういい加減過去の為に生きるのではなく、未来の為に生きろ。 恐れていては何も始まらない」 趙雲はそれだけ言い残すと、さっさと部屋を出て行った。 怒っているのだ、彼は。 周囲を省みず、捨て鉢な気持ちで突撃した俺のことを。 だが同時に泣いていた。 涙も嗚咽もなかったけれど、俺にはそれがはっきりと見て取れた。 大切な存在を持って、また失ってしまうのが怖かった。 あんな気持ちを味わうくらいなら、一人で良いと思っていた。 しかしそれよりも余程怖いと思う気持ちが今はある。 それは趙雲と離れてしまうこと。 物理的な距離ではなく、心が。 過去に縛られるのではなく、己の心が求めるままに、正直に生きていきたいと切に感じる。 俺は脇腹を押さえ、痛む身体を叱咤して、寝台から降り立った。 「馬超殿!」 門扉が開き、邸の中から趙雲が慌てた様子でこちらに駆けてくる。 「如何された? まだ動けるような状態ではないだろうに!」 突然訪ねてきた俺に、趙雲は困惑を隠し切れないようだった。 俺の邸からここまでそれ程たいした距離でもないのに、俺の息は大きく乱れていた。 「とにかく中へ……」 趙雲は門柱に身体を預けた俺の身体を支えようとする。 先程見せた怒りとそして悲しみを滲ませた表情は今はない。 いつも通り俺を気遣ってくれる趙雲がそこにはいた。 俺はほっと息を吐く。 まだ糸は切れていない。 今度こそ間違わない。 俺は間近にある趙雲の身体を抱きしめる。 言いたいことは沢山あった。 けれど俺の口をついて出てきた言葉は、 「一人にしないでくれ。 ずっと俺の傍にいてくれ……子龍」 と、ただそれだけだった。 written by y.tatibana 2005.11.26 |
|
back |